ササン朝ペルシアの台頭

アレクサンドロス大王の死後、彼の帝国は大きく分けると3つに分裂していった。プトレマイオス朝のエジプト、アンティゴノス朝のマケドニア、そしてセレウコス朝シリアであった。西ではローマが地中海世界を征服し発展していた。その当時の勢力図を山川出版社『世界史図録ヒストリア』では次のように描いている。

上段はBC270年頃でアレクサンドロスの帝国の領土を引き継いだセレウコス朝が広大な領土を有しているが、下段のBC200年頃の図ではセレウコス朝の東部にバクトリアとパルティアが勢力を拡大していることがわかる。更に、帝国書院『最新世界史図説タペストリー』の次の図ではパルティアがさらに拡大している。そして、その下の図になればササン朝ペルシアがペルティアにとって代わっている。この間の歴史の流れについては割愛するが、アケメネス朝ペルシアが滅亡したあと、再びササン朝ペルシアが台頭したのである。

西暦224年アルデシール1世がパルティア(中国名安息)を倒して首都クテシオン(現在のイラク領内)を占領し、ササン朝を建国した(226年)。ササン朝の詳しいことは次回以後に。

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