アッバース朝(750~1258年)

ウマイヤ朝については少々はしょりすぎた感がある。その分、アッバース朝は盛りだくさんの内容となるだろう。何から話そうか。先ずは系図を見ていただこう。西暦750年から1258年までの37代、アッバース朝は、ほぼ500年続いた王朝であった。

初代カリフのサッファーフは若くして急死して、754年に異母兄弟のマンスールが跡を継いだ。彼がアッバース朝の事実上の創始者である。762年にメディナ、763年にバスラにおいてシーア派の反乱が起きたが、いずれも鎮圧することができが。自分の座を危うくさせるような人物は抹殺し、強大な力を持って国づくりに励んだ。彼の功績は全土を結ぶ駅伝の制度を整えたことである。その交通網によって全国の情報をカリフに集めることができた。それにより、彼は農産物や食料の価格、各地域での役人の仕事ぶりなどの情報を収集し実態を把握することができた。しかし何と言ってもアッバース朝初期の注目すべきことは首都バグダードの建設であろう。766年に完成したバグダードは円形都市として有名である。円形都市バグダードで検索すれば様々なイラストや画像がでてくるので、各自でご覧いただきたい。バグダードはティグリス川西岸にあり、この川を利用して海からのあらゆる物産と北イラクやアルメニアなどからも豊富な食糧が入手できた。またユーフラテス川はシリアからの物産を運んでくれた。3万のモスクと1万の公衆浴場が存在した大都市であったという。8世紀末には、ティグリス川の東側にも市街地が拡大して、その人口は百万人ほどであったという。

アッバース朝の最盛期は第5代カリフのハールーン・アッラシード(在位786~809年)の治世であった。バグダードはさらに発展・拡大していた。商人たちはイスラム世界を越えて、広く世界と取引していた。バスラ港からペルシア湾 ⇒ インド洋へでて、インドや東南アジア、さらに中国へと船が行き来していた。カスピ海からは北欧へ、地中海経由で南フランスへのルートも開かれていた。このようなルートを通じてバグダードには世界の物産が溢れていた。

第7代カリフのマームーンは「知恵の館」を建設した。ここではギリシア語による哲学・自然科学の書物を収集し、それをアラビア語に翻訳したのである。ハールーン・アッラシード時代にも「知恵の宝庫」というものがあったが、「知恵の館」では翻訳活動が組織的に行われた。その結果、ギリシアの哲学や科学がイスラム世界におおいて生かされ、更に成熟していったのである。ヨーロッパ人がギリシアの諸学問を知ったのは、イスラム世界を経由してのことなのである。

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