聖地エルサレム

このブログも2か月目に入り、テーマも10世紀になってきた。この後は、イスラム世界とキリスト世界の対立である十字軍を取りあげようとするのである。十字軍とはそもそもエルサレムという聖地奪還という目的であった。それ故に、まずはエルサレムについて知ってもらうことが重要であろう。

読者の皆さんは既にエルサレムについての知識を実は有している。このブログのオリエント時代の処を思い出してほしい。ユダヤ人たちはカナンの地から、エジプトに行き、そこでの苦難ののちに再びカナンの土地に戻ってきたのだった。そこに短い期間ではあったが王国を造ったのだった。ソロモンやダビデという名君がでて、エルサレムに神殿を建設したのだったね。エルサレムとはそういうところなのだ。その国も滅び、ユダヤ人たちがバビロン捕囚となったあと、アケメネス朝のキュロス大王によって解放されたというような歴史はオリエントのカテゴリーで述べたとおりである。エルサレムはユダヤ教の聖地であると同時に、キリスト教の聖地でもある。はたまたイスラム教の聖地でもある。それぞれの聖地たる所以を述べていこう。

上の地図は日本聖書協会発行の『聖書』の巻末の聖書地図を拝借したものである。タイトルは「新約時代のパレスチナ」とある。エルサレムがあり、南にはベツレヘムがある。イエスが生まれたところである。

ユダヤ教の聖地:上述したようにユダヤ人とエルサレムとの関係は密接である。エルサレムはユダヤ教の神殿があった場所であるから聖地なのである。世界中にちりじりばらばらに離散していたユダヤ人たちがシオンの丘に帰ろうと願い続けたシオンの丘とは神殿があった高台である。神殿跡には外壁だけが残っている。それが「嘆きの壁」である。エルサレムを訪れるユダヤ人たちが古代の神殿を偲んで祈る最大の聖なる場所である。エルサレムがユダヤ教の聖地であることは、非常に明快である。

キリスト教の聖地:キリスト教はユダヤ教徒であったイエスがユダヤ教から派生させたものであるから、エルサレム周辺はイエスの人生(?)の足跡が残っているわけである。現在、エルサレムの中でキリスト教の聖地となっているのは「聖墳墓教会」である。近くにはイエスが磔になった丘(ゴルゴダの丘)がある。イエスが磔台を担いで歩かされた道ヴィア・ドロローサ(苦難の道の意)もある。そして聖墳墓教会にはイエスの墓がある。そこはイエスが復活した場所でもある。これだけでエルサレムは聖地として十分な資格があるであろう。でも、その場所、特に聖墳墓教会のある場所がイエスが葬られ、その後復活した場所であると、誰がどのようにして特定することができたのであろうか。キリスト教がローマ帝国によって公認されたのは313年のことである(ミラノ勅令:コンスタンチヌス1世 がリキニウス帝とミラノで会見した際に発した勅令。キリスト教を初めて公認し,長かったキリスト教迫害に終止符を打った画期的なもの)。320年頃にコンスタンチヌス帝の母であるヘレナがエルサレムを巡礼した。そして、イエスが葬られた場所を特定して聖墳墓教会が建てられたと言われているのである。

イスラムの聖地:ではイスラムにとってエルサレムはどのような曰くつきの場所であるのだろうか。イスラムの第一の聖地はメッカである。次いでメディナ。エルサレムは第三の聖地であろう。エルサレムはムハンマドが天に昇ったという伝説がある場所なのである。ムハンマドはある日の夜愛馬にまたがってメッカからエルサレム迄を一夜にして飛んで行ったという。エルサレムの岩の上から天上に昇ることができて、天上で神と会話したとかという伝説である。その時に今行われている礼拝の数を5回にするなどということも決められたとか。それ以前はもっと多かったとか。うろ覚えではあるが、そのようなことを昔読んだことがある。とにかくその伝説の岩の上にモスクが建てられたのである。その場所はユダヤ教の神殿があった丘でもある。岩は建物の内部に保護されたことになる。建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが688年に着工したという。この岩また旧約聖書でもアブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている。

三者三様の聖地としての曰くがあるわけである。いずれも一神教、そしてアブラハムを尊ぶ宗教でもある。聖墳墓教会、岩のドーム、嘆きの壁などというキーワードが並んだが、それらの映像・画像はユーチューブやインターネットで山ほどでているので、ここでは割愛する。どうかそちらでご覧いただきたい。

さて、これも有名な話であるが旧エルサレム市街の中での住み分けである。下の図が示すようにイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちの居住区が区分けされているのだ(実際にはもう一区画アルエニア人地区もあるが)。金曜日になるとイスラム教徒が岩のドームへ礼拝に向かう。金曜の夜から土曜へと今度はユダヤ教徒が嘆きの壁に集まっていく。そして日曜日はキリスト教徒たちが聖墳墓教会へ向かう。三者が曜日をずらせて行動する。長い間三者が争うことなくスムースな日常生活があったのである。パレスチナ問題として争うアラブとイスラエル、イスラムとユダヤ間の熾烈な争いごとは第一大戦後のオスマン帝国の領土分割、第二次大戦後のイスラエル独立宣言から始まった、きわめて新しい紛争である。(もちろん、十字軍というキリスト対イスラムという争いもあったが、それについては次回以後で詳しく取りあげよう)

上の図の出所は帝国書院『タペストリー』

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