十字軍の遠征(2)

サラディンはイエメンに軍隊を派遣し、紅海を通ってインド洋、さらには東南アジア、中国に至る海の交易路を確保した。第3回十字軍のあとも遠征は第7回(1270年)まで繰り返し行われた。が、第3回以来、十字軍側は劣勢であった。ここまで書いてきたことを読むと、十字軍とイスラムがエルサレムを支配下に置こうと、何度か戦いを繰り返したという簡単な言葉で言い表してしまいそうであるが、実際にはそうではない。ヴェネツィアの商人たちが商圏拡大の利を求めて遠征したこともあった。少年・少女たちが奴隷商人に売り飛ばされた事件もあった。その歴史はもっと複雑である。

第1回十字軍で勝利したキリスト側はエルサレム王国を造ったと述べたが、それ以外にも、エデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国など、またエルサレム王国の属国として、ガリラヤ公国、ジャッファとアスカロン伯国、トランスヨルダン領、シドン領なども挙げることができる。このような細々としたことはあったということだけを知っておけばいいだろう。そして、十字軍が築いた要塞も数多くあった。前回紹介した『十字軍物語から』図を4枚拝借して、ここに紹介しておこう。

これほど立派な要塞が築かれていたのである。遠征して、ちょちょいのちょいと築けるようなものではなかったろう。彼らの本気度を感じることができるのではないだろうか。

十字軍の戦いについて述べてきた。イスラム教徒対とキリスト教徒の争いであるが、戦いの勝者が敗者に対してとった扱いをみるとイスラム側の方が寛容であったように思うのであるが、それも決めつけることはできない。たとえ数少ない蛮行のうちの1つであっても、被害者にとっては許されざる行為である。それでは、キリスト教徒とイスラム教徒が共存した明快な歴史はないのだろうか?いや、それがあるのである。シチリヤでのことである。

http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a06_jujigun/fede.html このサイトは「世界史の窓」というウェブであり、世界史のことを知るうえで非常に役に立つサイトである。ここにはシチリヤの歴史のなかで以下のようにイスラムとキリスト教徒の共存について記されている。

877年にシラクサが陥落して全島をイスラムが支配した。首都はパレルモ。イスラムの支配は宗教に関して寛容で、税金さえ払えば今までどおりキリスト教を信仰できた。シチリアには高いイスラム文化が持ち込まれ、島は発展した。

 イスラムの支配は200年続いた。シチリアをイスラム教徒から奪回したのがノルマン人のロベルト・ギスカルドである。彼は、フランスのノルマンディに生まれ、南イタリアに単身渡ってきて傭兵になった。そして、徐々に力をつけてノルマン人のリーダになり、瞬く間に南イタリアを支配下に治めた。1071年、弟のルッジェーロ1世をシチリアに派遣し征服した。

 風雲児ロベルトはローマ教皇と対立して何度も破門された。しかし、カノッサの屈辱で有名な教皇グレゴリウスを、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の攻撃から助けている。1085年、東ローマ帝国征服を目指しギリシアに遠征するが、熱病にかかり亡くなった。

シチリア王国
アラブの面影が残るモンレアーレ大聖堂
 1130年、教皇はルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世に王位を与え、シチリア王国(ノルマン朝)が誕生した。ノルマン人は支配者となったがその数は非常に少なく、自然とギリシャ人やアラブ人を多く官僚として登用した。従来のイスラム支配体制が踏襲され、イスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く暮らす国ができた。ヨーロッパが十字軍の熱狂の中にあった時代に、これは驚異のできごとだった。