モンゴルの襲来

まずはモンゴルが台頭した地域の様子を要約してみよう。

  • 10世紀のはじめ頃、中国の北部に遼(916~1125年)という国があった。遼は金(1115~1234年)という国に滅ぼされるが、遼の残党が中央アジアに逃げて西遼(1132~1211)を建てた。西方からはカラ・キタイとも呼ばれた。東の金、西のセルジューク朝と覇を競った
  • 中央アジアのアラル海(現在は環境破壊によって消滅しつつある湖として有名になってしまった)に流れ込むアム川沿いの豊かな草原地帯の農耕地帯はホラムズと呼ばれた。セルジューク朝はここに総督をおいていたが、権力を保有するようになった結果、ホラムズ朝(1077~1231)を建てた。
  • 同じ時期に草原地帯の東でもチンギス・ハンが統率する新興勢力が成長していた。そして1206年にモンゴルという国が生まれた。
  • 1220年、モンゴルがホラズム朝との戦いに勝利し、ホラズム朝は1231年に消滅した。
  • 1227年、チンギス・ハン没

1256年、モンゴルの大軍が現在のイランの地に押し寄せた。指揮したのはシンギス・ハンの孫のフラグだった。

フラグの軍はイラン全土を制圧し、バグダードへ。バグダードはまだアッバース朝のカリフ本拠地ではあったが、すでに弱体化しており、簡単に陥落した。カリフも殺された。アッバース朝は1258年に滅亡した。そしてチンギス・ハンの子孫たちが上図で示したような国を建てていったのである。

  • チャガタイ・ハン国(1227~1370)
  • オゴタイ・ハン国(1224~1310)
  • キプチャク・ハン国(1243~1502)
  • イル・ハン国(1258~1411)

いつものように、山川出版のヒストリカによって、これらの国を地図でみると次のようになる。

モンゴル軍の攻撃・虐殺が行われた後に、広大な領域がモンゴルの支配下に入ったのである。これまで述べてきたイスラム世界の中心部(イラン・イラク辺り)はイル・ハン国となった。首都はタブリーズであった。現在はイランに所属する地方都市であるが、イランの首都テヘランの西北西の方角、トルコに近い地域である。1973年頃の冬に1人でこの辺りを旅したことがある。雪はなかったが非常に寒かったことを覚えている。その時写した写真は白黒であるためか、なおさら寒さを感じさせている。

イスラム世界はモンゴルに征服されてしまったが、そこでもイスラム商人は活躍した。当時の世界にとってイスラム商人は重要な役割を果していた。彼らなくして商業・経済は成り立たなかったということでもあろう。複数のハン国はイスラム化していったことが非常に興味深く思うのは私だけではあるまい。