サファヴィー朝(1)

さて、サファヴィー朝の歴史であるが、実はこの王朝が存続したのは上の系図が示すように1502年から1736年、11人の王の200年少々にしか過ぎないのである。イスマイル1世がトルコ民族の支配下から脱出・独立してタブリーズを都としてペルシア全土の統一に成功し、シーア派を国教としたのであった。前回、イスファハーンがサファヴィー朝の都であったと述べたが、イスファハーンが都となったのは1598年からのことである。

サファヴィー朝というのは元々はサファヴィー教団という神秘主義教団に源があります。15世紀の中ごろに騎馬遊牧民の戦士を組織して、戦う教団となったときに、シーア派十二イマーム派であることを表明した。戦士たちは赤い印をつけたターバンを巻いていたのでキジルバシ(赤い頭)と呼ばれていたのである。新たな王朝を建設したものの、西にはオスマン帝国という大国が控えていた。1514年にはオスマンとの戦いで大敗を喫し、その後もオスマンの圧力を受ける苦しい時代が続くなかで、十二イマーム派の教義が整えられてきたのである。現在のイランがシーア派十二イマーム派であることは、この時の歴史の流れから発しているのである。

サファヴィー朝を代表する王といえば、アッバース1世である。通称アッバース大王(Abbas the Great)である。系図で見る通り、彼は第5代の王である。ではあるが、彼は幼いころに祖父からホラサーン地方の総督に任命されており、現地のキジルバシに守られて成長した。その後、第3代の叔父、第4代の父が王に就くが、ごたごたがありサファヴィー朝は衰退しつつあった。ごたごたのことは省略しておいて、17歳で王位について、第5代となったのである。シャー・アッバースである。シャーというのはペルシア語で王という意味である。オスマン帝国のスルタンに対してサファヴィー朝ではシャーが、それぞれ王に等しい権力者である。1979年のイラン革命で失脚してパーラヴィー国王はシャーハンシャーと名乗っていたが、それは王の中の王というペルシア伝統的な呼び方である。

アッバース大王は都をガズヴィンからイスファハーンに遷した。タブリーズから一度ガズヴィンに都がおかれたことがあり、そこからの遷都である。ガズヴィンとはテヘランの西方の比較的近い所である。余談ではあるが、イランで「あいつはガズヴィニー(ガズヴィンの人)だ」というと、深い意味がある。これは冗談であるが、日本なら「京都の着倒れ」「大阪の食い倒れ」とかいうように、土地ごとに揶揄される言葉があるのである。イスファハニー(イスファハーン人)は〇〇だとか。そんなことも知るようになると会話も弾むようになるのである。

シャー・アッバースはイスファハーンを首都にするにあたり、様々な工夫をした。旧市街と新都市との間に現存する「王の広場(現イマーム広場)」を作り、周りに「王のモスク(現イマームモスク)」等モスクや宮殿など公共施設、バザールなどの商業施設などを造り、周辺の発展を期した。イスファハーンが急速に発展した理由は他にもあった。それについては、次回にしよう。今回もイスファハーンの写真をどうぞ。