シバの女王のイエメンとは

先月、サウジアラビアの石油基地が何者かにドローンによって攻撃された事件が起きた。サウジと米国はイランの仕業であると主張し、その後イギリスやフランスもイランによる犯行であると断定した。一方でイエメンのアンサール・アッラーは事件後に犯行声明を発してもいるのである。アラブの春が吹き荒れた約10年前の時にチュニジア、リビア、エジプトなどの独裁政権が次々と崩壊し、シリアやイエメンにも波及したのであるが、シリアはご存知の通りアサド政権が依然として存在している。イエメンの場合,反政府運動では何とか持ち堪えたのであったが、その後にサレハ大統領が退陣したのであった。その後も内政は安定せず、現在もそうである。そこにサウジの介入などがあり、今回のサウジの石油基地攻撃に繋がっている。今回はこのイエメンという国について整理してみる。

上の図は左が草思社発行『地図で読む世界情勢』から、右はウィキペディアから拝借したものである。現在のイエメン共和国は通称北イエメンと南イエメンが1990年に統合されて成立した国である。

北の正式名はイエメン・アラブ共和国(1967年にイギリスから独立した国)
南の正式名はイエメン人民民主共和国(1967年から1990年に存在)
南イエメンはイエメン社会党の一党独裁体制によるアラブ世界初の社会主義国で、中東やインド洋におけるソビエト連邦の足場だったが、冷戦終結で経済的に行き詰まり、1990年5月22日に北イエメンと統合して現在のイエメン共和国となった。1994年に南イエメンの再分離独立を求めるイエメン内戦が起きたが鎮圧された。

自由国民社発行の『国際情勢ベイシックシリーズ・中東』57頁のイスラムの諸派の図(上)によるとシーア派の中にザイド派というのがある。ザイド派のイマームが897年にイエメンを拠点としたことに始まり、その子孫のラシード家からでたイマームがこの地域を統治してきた。一応、オスマン帝国領ではあったが、トルコから遠く離れていたので、自治が与えられている状態であった。
19世紀、スエズ運河の建設が始まると、イギリスはマンデブ海峡の安全確保のために、港町アデンを占領、さらに南イエメンを保護領化した。北イエメンはオスマン領として残り、ここにイエメンの南北分断の歴史が始まった。1839年であった。

北イエメン 南イエメン
191810月30日、当時のイマーム(アル・ムワッタキル・ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン)がオスマン帝国からの独立を宣してイエメン・ムタワッキリ王国(北イエメン)を成立させた。 南イエメン民族解放戦線が反英独立闘争を指揮。

その結果「イエメン人民民主共和国」を建国し、独立(1967年)。マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家を掲げた。

1958年、エジプトのナセルが汎アラブ主義を掲げてアラブ連合共和国を結成。北イエメンも参加。南から英を追い出そうとする。  
1961年、シリアの独立によりアラブ連合共和国が崩壊したため連合から脱退。  
1962年、エジプトの支援を受けた一派がクーデターを起こして王制打破。イエメン・アラブ共和国が成立。  
国王と王政の支持者たちはサウジに亡命。新エジプト派が握る実権を取り戻すべく戦いを始める。 1986年、実権争いから内戦状態に陥り、一万人の餓死者と6万人の亡命者をだす。財政が破綻。
1970年、第三次中東戦争が勃発し、エジプトはイエメンのことに手が回らないために、イエメンから手を引いた。  
1990年、南北イエメン統合。

北の方が人口、経済共に大きい。財政破綻したのは南である。そもそもの本家は北であるため、北が南を併合する形で統合がなされた。その後も、北の政治主導に反発する南の分離独立を唱えたりする者も・・・・

このようにイエメンという国は南北分断の時代を経て統一されたのである。しかしながら統一後も北が主導権をもつ体制に不満を抱く南の人々がおり、統一後も安定した国家運営にはならなかった。そしてアラブの春の運動が中東全域に広がったとき、イエメンではサーリフによる長期独裁政権が続いていた。結果的に新大統領としてハーディ大統領の政権が生まれたのであったが、サーリフ元大統領の勢力が温存されており、アンサール・アッラーが結びついてハーディー政権を脅かした。サーリフ元大統領は2017年末に殺害されているが、イエメンではアンサール・アッラーと政府が戦っている状態である。

アンサール・アッラーは通称フーシー派と呼ばれており、アンサール・アッラーとは神の支援者というような意味である。シーア派ザイド派であるという。そういう観点からシーア派であるイランとの関係が取りざたされることになる。実際にイランとの関係があるのかもしれない。イランは今ドローン技術での先進国でもある。サウジの石油基地攻撃がイランでなくてフーシー派の仕業であったとしたときにイランの関与があったかもしれない。しかしながら、私が強調したいのは、イランが関与する理由がシーア派同士であるという短絡的な理由付けは間違っているということである。ザイド派はシーア派から分離していった派である。イランの12イマーム派とは後継者問題で分かれていき、シーア派同士と言っても考え方は異なっている。

一方、サウジアラビアとイエメンの関係はどうであろうか。私たちが子供の頃のアラビア半島の地図はイエメンとサウジの国境は定まっていなかった。サウジとしては紅海からインド洋にでる出口にあるイエメンを自分の影響下に置きたいというのは当然の理屈であろう。ペルシア湾側の出口ホルムズ海峡をイランに、紅海側をイエメンに抑えられることはサウジの安全保障面にとっては喜ばしいことではない。サウジがイエメンにサウジ寄りの政権を置くことが重要となる。サウジとイランの派遣争いである。ただそれをイランがシーア派同士なのでイエメンに関与するというのは正しくない。

タイトルに「シバの女王」を入れていたことを忘れていた。シバの女王がその昔、莫大な財宝をもってソロモン王に会いに行った有名な話がある。その女王はイエメン辺りにいた女王だったという伝説があるのである。つまりイエメンはその昔、非常に豊かな地域であったということである。シバの女王が持参した財宝とはおそらく乳香などであったのであろう。イエメンでは今でも近くの島で乳香が採れるという。またモカコーヒーという品種のモカはイエメンで採れたコーヒーであった。えっ、コーヒーの栽培ができるの?という疑問は愚問である。イエメンには標高の高いところもあり、樹々もある。その昔、世界で最初に造られたダムがイエメンである。マーリブダムといって、灌漑に使われたそうである。イエメンの豊かさをもって、この周辺は「幸福のアラビア」と呼ばれたそうである。うろ覚えに昔聞いた話を綴ったので若干の間違いがあるかもしれません。その場合はお許し下さい。

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