クルド人の国家ができようとしていた(イラクの歴史3)

第一次大戦後のオスマン帝国の領土を英仏が中心となり分割した結果、今のトルコの領土が確定され、イラクという国ができたのであった。そのついでとは言ってはなんであるが、今回はクルド人の国が第一次大戦後に造られかけたことを取りあげてみよう。

1918年にドイツ側について戦ったオスマン帝国が降伏した。大戦中にクルド人はトルコ軍の兵士として勇敢に戦った。約40万人のクルド人が死亡したといわれている。終戦処理をめぐるパリ講和会議にはシャリーフ・パシャを代表とするクルド代表団も参加した。そして、1920年8月10日にフランスのセーブルにおいて連合軍とオスマン帝国の間で講和条約が結ばれた。この条約でオスマン帝国の領土分割が決定された。その中の一つとしてオスマン領内のクルド人には一年後の独立を前提に自治を与えることが盛り込まれていた。つまりクルド人国家の誕生が約束されたのであった。

ところが、このセーブル条約によって連合国側の言いなりになるオスマン政府にたいして立ち上がり、反乱を起こしたのが後にトルコの父と呼ばれたケマル・アタテュルクである。彼はスルタン制やカリフ制を廃して、新政府を樹立したのである。そして、先述のセーブル条約に代わって、ローザンヌ条約を締結した。その内容にはクルドの独立はなかった。セーブル条約で実現しかけたクルド人の国家建設は幻となったのであった。

クルドについてもう少し述べよう。上の図がクルディスタンとよばれるクルド人の居住区である。スタンは土地・場所といういみであるから、クルディスタンとはクルドの土地という意味である。アフガン人の土地ならアフガニスタン、美しいという意味のパークにスタンを付けると美しい土地・美しい国で、パキスタンの国名になっている。カザフ人の国がカザフスタン、ウズベク人の国がウズベキスタンという風である。図で見てお分かりのようにクルディスタンの中にトルコ、イラン、イラク、シリヤなどの国境線が引かれているのである。この国境線によってクルド人の居住区であるクルディスタンは分断されてしまったということである。数多くある書籍の中で時には「クルド人とはトルコ、イラン、イラク、シリヤにまたがって居住している民族・・・」と書かれているものもあるが、決して彼らが国境をまたいで居住しているのではなく、国境が彼らの居住区を分断したのである。これは大きな違いである。

時代をすこし進めて、第二次大戦後のイランに目を向けてみよう。イランはカージャール朝からパーラヴィー朝に移っていた。イランは中立を宣言していたが初代国王レザー・シャーがドイツに傾倒したために、1941年8月にイギリスとソ連がイランに進駐し、彼に退位を迫った。翌月の9月に彼は退位して、モーリシャス島に流された。レザー・シャーの息子モハンマド・レザー・シャーが二代目の国王に据えられた。そしてイランの南部をイギリスが。北部をソ連が占領した。残りの地域が国王の支配下であったが、そこの地域にクルド地域があった。クルドは内部での主導権争いが激しくて一致団結という状況ではなかったが、イスラムの聖職者であったモハンマド・カズィーはイランに英ソ両雄が割って入った状態を好機ととらえた。彼は「クルディスタン民主党」を結成し、ソ連に接近し支持を得るようになる。その後、1946年1月には帝国主義からのイラン解放とイラン国内のクルド人の自治を掲げて、ソ連軍進駐下で「クルド人民共和国(マハーバード共和国)」の樹立が宣言された。イラン北部には同様にソ連軍の駐留下で「イラン・アゼルバイジャン自治共和国」が樹立されていた(1945年12月~)。両国は相互防衛条約を結びテヘラン政府の圧力に抵抗した。

3国に分断された国の一つイランにおいて史上初のクルド人国家が誕生したのであった。カーズィーは大統領に就任し、クルド語による新聞や雑誌の発行を開始した。しかし、この共和国の内部は一致団結とはいかず内部抗争が絶えなかった。アメリカはこの自治政権をソ連の傀儡とみなし、ソ連のイランへの干渉として非難し、イラン政府はソ連の干渉として国連に提訴した。イランは北部地方の石油利権をソ連に与えると約束して、ソ連軍の撤退を促した。石油利権に食指を動かしたソ連が撤退すると、手薄になったアゼルバイジャンとクルドの両国をイラン軍が攻撃して両国は崩壊したのであった。カーズィーは公開で絞首刑にさらされた。クルド語の印刷機は破壊され、クルド語の教育も禁止された。人々はクルド語で書かれた書物を焼き捨てた。クルド人の初めての国は1946年11月までの短命であった。

イラクのクルド人はどうだったのだろうか。1958年7月、イラクではアブドゥル・カリーム・カセムが反王政クーデターを起こした(7月革命)。クルド・ゲリラの指導者バルザーニはカセムから恩赦をうけ、彼とその部族がバグダードに戻ってきた。10月、バルザーニが空港に到着すると、クルド人は民族衣装をまとい、民族の歌と踊りで彼を迎えた。カセムはバルザーニをクルド民主党(KDP)の書記長につけることにより、クルド人を管理しようと試みた。カセムとバルザーニはお互いに腹の探り合いをしながら攻略的に動いた。この時期には共産主義者が勢力をのばして共産党員2名が内閣改造に伴い入閣した。そして、共産党では多くのクルド人が幹部職をしめていた。1961年バルザーニたちはクルド地域の自治を要求した。

また、7月革命後に改正されたイラク憲法にはクルド人はイラク領内におけるパートナーであると規定されており、クルド人にはイラク国内において民族的権利を認めることを明示していた。というものの、クルドの要求はカセムに受け入れられたわけではなかった。両者の溝は深まり1961年、バルザーニとKDPがイラク政府に対して蜂起した。以後、北部でKDPの解放闘争が続けられていったのである。1963年2月8日、バース党がクーデターを起こして、カセムから政権を奪った。カセムは処刑された。クーデター以前にバース党はKDPと協定を結んでおり、その中でバース党はクルド人の自治に理解を示すと表明していた。しかしながら、クーデター後に正式な交渉が始まると、両者間には大きな隔たりがあった。バース党政権の関心事はナセル主義、アラブ民族主義であった。・・・・イラクの政治はバース党主導で変化していき、その先でサダム・フセインが登場してくるのである。今回はこれまでとして、これ以後はまた「イラクの歴史4」として後日述べることにしよう。

コメントを残す