中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。