新シリーズ「オスマン帝国」:⑥ オスマン一世からメフメト2世まで

14世紀、アナトリアで勢力を拡大してきていたオスマン侯国の軍勢はビザンツ帝国の目の前に姿を現した。そして、サカリヤ川流域からビザンツ領に侵入し、略奪を始め、ブルサの町を包囲した。軍勢を率いていたオスマンはここで没したという。後を継いだ息子のオルハンが1326年にブルサを陥落させた。そして、その後、1329年のペレカノンの戦いでオスマン軍が勝利すると、1331年にニカイヤを、1337年にニコメディアを征服した。

オスマン帝国500年の平和から引用

こうして、オスマン侯国はバルカン半島に進出を始めた。そして、14世紀末までにバルカン半島の大半を征服した。1453年にはコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしたのであった。ここまでの経緯を時系列で改めて列記すると以下の通りである。

1299年:オスマン一世、オスマン帝国建設
1326年:オルハンがビザンツ帝国領ブルサを征服し、都とする
1329年:ペレカノンの戦いで勝利
1331年:ニカイヤを征服
1337年:ニコメディア(イズミト)を征服
1361年:アドリアノープルを攻略
1362年:オルハン没
1366年:マケドニア、ブルガリア征服
1389年:コソヴォの戦でバルカン同盟軍を撃破(コソヴォの戦とは、ムラト1世のオスマン帝国軍が、セルビアのコソヴォで、セルビア・ボスニア・ブルガリア・ハンガリーなどのキリスト教連合軍を破った戦い。バルカン半島は長いオスマン帝国による支配下におかれることとなった)

ムラト1世の次にバヤジット1世(雷電王)在位1389~1402の時代となり、
1396年:ニコポリスの戦でハンガリー王ジギスムントを破る
1402年:アンカラ(アンゴラ)の戦でティムールに敗れ、オスマン帝国混乱続く(~1413)
1413年:メフメト1世(在位1413~21)が即位し、国の混乱を収め再統一。その後、ムラト2世の治世を経て、
1444年:メフメト2世(征服者)(在位1444年~46、1451~81年)が即位して、1453年のコンスタンティノープル攻略に至るのである。丁度区切りの良いところになったので、」今回はここまでとしよう。

 

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