タラス河畔の戦い (751年)

昨日のテーマが「アンカラの戦い」だったので、今回も「戦い」を扱おうと思って考えた。そこで、時代は遡るが751年の「タラス河畔の戦い」にした。世界史を学んだ時、この戦いは唐とアッバース朝の戦いであり、この戦いが契機となって蔡倫の製紙法が西域に伝わった、と教わったように思う。ただ、紙の製法は蔡倫が発明したものではないというのが現在の説だそうだ。それにしても、製紙法が伝わったことは間違いないのである。

出所:帝国書院『最新世界史図説・タペストリー』

アッバース朝が成立したのが750年であるから、この戦いは成立直後のことである。イスラムの発展は、ムハンマドの時代(~632) ⇒ (632~)正統カリフ時代 ⇒ (661~)ウマイヤ朝 ⇒ (750~)アッバース朝と辿ったのだったね。アッバース朝はその後バグダードに都を建設し9世紀には人口が150万人を超える大都市になった。一方の唐は最盛期であった玄宗 のころ(8世紀前半)で,人口は100万に達し,渤海 ・新羅 ・日本・ペルシア・アラビア・インド・トルキスタンから人が集まる国際的な文化都市であったという。いずれにせよ、東西の大国同士の戦いであったわけだ。その戦いの経緯、原因は何であったろうか。いつものように「世界史の窓」を見ると、次のように説明している。

この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの王を捕虜として虐待し、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請し、それに応えたイスラーム教徒軍が唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵でタラス城を守り、5日間持ちこたえたが、一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。なおこの戦いの時、唐軍の捕虜によって製紙法がアラビア人に伝えられたことは、文化の東西交流の一つとして興味深い。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラーム化が始まった。中国から製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。

東西の大国が戦ったこの戦いは8世紀のことである。日本は奈良時代になる。752年が東大寺大仏開眼供養、754年鑑真来日などの時代であった。遠い外国での出来事の時代を日本の時代に照らし合わせることも興味深いものである。

 

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