世界史学習:パルティアとササン朝ペルシア

1.パルティア

 

作業1: A=ローマ帝国 B=パルティア王国 C=クシャーナ朝
作業2: 絹の道(シルクロード)

2.ササン朝ペルシア

問題の答: トラヤヌス帝⇒a パルティア王国 ホスロー一世⇒b 東ローマ帝国

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イラン民族が築いたペルシア帝国といえば、アケメネス朝、ササン朝、サファヴィー朝の3つが帝国という名称をもって有名であるが、今回取り上げたパルティア王国もイラン民族の築いた王国であった。「世界史の窓」ではパルティア王国を以下のように説明している。

遊牧イラン人の建国
紀元前3世紀の中頃から紀元後3世紀初めまでの約5百年にわたり、イラン高原を支配した、イラン系民族の国家。アルサケス朝とも言い、パルティア帝国ともいう場合もある。パルティアはイラン西北部ホラーサーン地方の一部で、カスピ海南岸の地方。前3世紀にバクトリア王国に追われた中央アジアの遊牧イラン人パルニ族がこの地に定住、ヘレニズム国家の一つセレウコス朝シリアの支配を受けていた。
前247年ごろ、パルティアはセレウコス朝から独立をはたし、さらに前238年、族長アルサケスが即位してアルサケス朝を開いた。都はいくつかを移動した後、イラン北部のヘカトンピュロスとされた。セレウコス朝滅亡後、イラン高原からメソポタミアに進出し、クテシフォンに遷都。紀元後1~2世紀には、西のローマ帝国、北のバクトリア、東のクシャーナ朝と争いながら、東西交易路を抑え、繁栄した。しかし、特にローマとの抗争は国力を消耗させ、226年に農耕イラン人のササン朝ペルシアに滅ぼされる。

パルティアを滅ぼしたササン朝もイラン民族であるが、ササン朝は農耕民族であり、パルティアは遊牧民であった。それにしても、パルティアは500年程も続いた割には、注目度が低いように思われる。中国では「安息」という名で呼ばれた。

 

 

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