オスマン帝国(3)ミマール・シナンを知ってますか?

多くの日本人がトルコ旅行をしているでしょう。そして、イスタンブールでモスク見学、バザールで買い物、少し遠出してカッパドキアやトロイの遺跡、コンヤで旋回舞踊を見たりとか。親日的な人々、美味しいトルコ料理(世界三大料理だとか)も人気のある理由でしょうか。オスマン軍楽隊が演奏するジェッディン・デデン(Ceddin Deden)は東洋的な響きもあり、私たちの心を鼓舞してくれるメロディーではないでしょうか。このように盛りだくさんの観光を楽しんできた方は沢山いることでしょう。そこで質問です。「皆さんはミマール・シナンのことを知っていますか?」

シナン(?~1588年)は土木工事のようなことを生業とする父親のもと、キリスト教徒の家庭に生まれた男です。オスマン帝国の仕組みの紹介の中に、デヴシルメという制度を紹介しましたが、シナンは正にそのデヴシルメで徴用されたのでした。そして、これまた紹介済みの図にあったように、イェニチェリ(スルタンの近衛兵)になるのです。とんとんと出世して軍団の長にまで昇格します。軍人として勤めあげたわけですが、この間にバルカン半島や様々な土地を訪れ、建築物や構造物に触れることから、そのようなものに対する興味・関心が強くなり、自らも勉強したわけです。軍の現場でも実際に土木・建築的な仕事をこなすようになったそうです。こまごまとしたことは、この程度にしておきましょう。

1539年にシナンは宰相から住宅を建設する役所の長官に任命されたのです。そして、・・・・で、晩年にはモスクの建築を手がけたのです。そう、今回皆さんに伝えたいのは、トルコを観光すると素晴らしいモスクを沢山見ることができます。シナンが造り上げたモスクも見ているのです。

オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしましたね。そして、ビザンツ帝国はキリスト教の立派な教会や建築物を造っていました。そこで、ビザンツ帝国がオスマン帝国に敗れた際に、彼らは「オスマンが俺たちに勝ったといっても、お前たちはこのような壮大なモスクや建築物はいつになっても造ることはできないだろう」と言い放ったとか。たしかに、キリスト教の大聖堂として建てられたアヤソフィアは立派です。あの大きなドームの屋根をイスラム教徒には造れはしないさ!といいうのが、敗れた側のセリフだったわけです。

シナンはオスマン帝国の建築家として見事にモスクを造り上げた人なのです。シェフザーデ・ジャーミイ、スレイマニエ・ジャーミイ、セリミーエ・ジャーミイなどが彼が建てた有名なモスクです。でも、もっともっと沢山あるのですよ。インターネットで調べると沢山でてくるので、自分で調べてみてください。

それはそれで、いいのですが、私は冒頭に紹介した夢枕獏さんが書いたこの文庫本を是非とも読んでもらいたいのです。アヤソフィアを見ながら、自分で作るモスクへの夢を実現するために努力する男の姿に引き付けられました。これは事実に基づいた小説なのですが、キリスト教徒の家に生まれた男が、いつかオスマン帝国というイスラム国家のために尽くしたという過程のなかに、葛藤がなかったのかとか、いろいろ考えてしまうのです。

キーワード:トルコ、オスマン帝国、ミマール・シナン、モスク、ビザンツ、アヤソフィア、

オスマン帝国(2)スルタンとは

前回、「オスマン帝国のしくみ」という図を示したが、その支配構造の頂点には突然「スルタン」が現れていた。イスラム世界ではムハンマド亡き後の後継者がカリフと呼ばれていた。正統カリフ4人もカリフであった。その後のウマイヤ朝もアッバース朝も最大権力者はカリフであったではないか。ただ、アッバース朝の衰退とともにイスラム世界の分裂も進んでいたことは既に述べた。アッバース朝にはカリフがいる状況で、後ウマイヤ朝の指導者もカリフを名乗った。イスラム世界の頂点にたって共同体を牽引してきたのがカリフであった筈である。イスラムという宗教の指導者=精神的な指導者、同時にイスラムは政教一致的な共同体であるので政治的な、あるいは軍事的な面でも指導者の役割をもっていた。イスラム世界に1人というのが本来の姿である。

アッバース朝時代には、先ほど述べた後ウマイヤ朝とエジプトのファーティマ朝君主がカリフを名乗ったので、同時期にイスラム世界に3人のカリフが存在したことがある。モンゴルの侵入により、1258年にアッバース朝が滅び、カリフ制度は途切れる形になった。その後、マムルーク朝でスルタンを名乗るバイバルス1世がアッバース朝のカリフの末裔をカリフとして擁立した。スルタンの権威にお墨付きを与えようとする実権のない形式的な擁立である。1299年にオスマン帝国が興て、1517年にマムルーク朝を滅ぼすと、カリフはオスマン帝国へ連れていかれた。オスマン帝国には実権を有するスルタンとバックに形式的なカリフがいたわけである。

カリフやスルタンという位置づけをこまごまと述べてきてしまった。私の勝手な解釈も含んでいるが、分かりやすく言うと、江戸時代の日本でいうとカリフは天皇でスルタンが将軍であろう。さらにイスラム世界ではアミールなどという語句もでてくる。これは地方を統括する総督のような者が、権力を蓄えてきたときに、ある程度の自治を与えられたときに、称号として与えられたものか。大名に相当かもしれない。

オスマン帝国では、スルタンを中心にした国家運営が行われたが、一つは宰相を頭に政治・軍事が行われ、一方でイスラム法学者の最高位であるシェイヒュル・イスラム職の下でウラマー(イスラムの学者・宗教指導層)がイスラム教徒の生活になくてはならない存在であった。

オスマン帝国(1)

いよいよオスマン帝国(1299~1922年)の登場である。前回、オスマン軍がビザンツ帝国を滅ぼしたと述べた。その強大化したオスマン帝国の歴史を一枚の図に表すと次の通りである(笑)。

オスマン帝国とはトルコ民族によって、1299年にアナトリアに建てられたイスラム国家である。第一次大戦後の1922年に滅亡するまで600年にわたり、西アジア(但し、イランを除く)、北アフリカ、バルカン、黒海北岸、カフカースの大部分を支配した。

  • 1326年にブルサを首都とする。
  • 1354年にバルカン半島に進出
  • 1361年頃にアドリアノープル(エルディネ)に遷都
  • 1453年、コンスタンチノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡させる
  • 15世紀末までに、バルカンとアナトリア全土を支配
  • 1517年、エジプトのマムルーク朝を滅ぼして、メッカとメディナの保護権を獲得=このことはスンナ派イスラム世界の盟主を意味する。そして、アッバース朝の衰退とともに失われていたスンナ派の統一の回復でもあった。そして、シーア派政権のサファヴィー朝が大国化し、相争う構図が成立していくのであった。

トルコ人は支配下にあった非トルコ人を同化させようとはしなかった。支配者として役人や兵士を派遣することはあったが、一定期限を越えて常駐することはなかった。トルコ人の居住地域に帰るか、また別のアラブ人たちの居住区に転勤するような形であった。トルコ人たちが戦ったのはアラブ人ではなく、アラブ人たちを支配していたマムルーク朝という体制であった。そして、支配下に置いたアラブ地域では彼らに自治権を与えていた。トルコ人の多くはアラビア語を習得する必要はなかったが、トルコ語の中にはアラビア語の語彙が入っていった。また、アラビア語の知識がなくては法の基盤であるイスラム法(シャリーア)を理解して維持することができなかった。いつものように帝国書院のタペストリーを見ると、「オスマン帝国のしくみ」は次のように図示されている。

  • ティマール制とは建国から16世紀にいたる国家と社会を規定した軍事封土制。江戸時代の将軍と大名のような制度。
  • デヴシルメ制とは、バルカン半島方面のキリスト教徒農民の少年を対象に、所定の手続きを経て必要な人数の徴用を行った制度。スルタン直属の近衛師団の補充などに充てた。

オスマン帝国の領土の図である。スルタンの時代別に色分けがされている。遠くはウィーンにまで遠征をおこなったのである(1529年と1683年)。

お知らせとお願いなど

★購読登録のお願い(2020年5月20日)
いつも閲覧ありがとうございます。皆さまお気づきでしょうか。ブログ画面の右側(サイドバー)に下のような表記があります。ブログが更新された時に自動的にメールでお知らせするというものです。もしよろしければ、メールアドレスをご登録いただければ、嬉しく思います。当方にとって大きな励みとなること間違いありません。また、毎回の記事の末尾には小さな「いいねボタン」がついています。いい記事の場合には押して頂くとこれまた、大きな励みになりますので、よろしくお願いいたします。

★印刷ボタンの設置(2019年8月19日)
いつも購読ありがとうございます。読者の皆さんから「印刷して勉強していますよ」という声を頂き嬉しく思っております。これまでの画面を印刷すると広告など余計なものも印刷されたのではないでしょうか。そこで、記事面だけを印刷できるように改良いたしました。記事の冒頭に PrintFriendly という文字を入れています。そこをクリックすれば印刷に適した画面になりますので、印刷する場合にはご利用下さい。ブログ作成初心者のため、いろいろ修正しながらやっております。お気づきの点やご意見をお送り下さい。

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の最後の戦い

前回はモンゴルが来襲してイル・ハン国を初めとした複数のハン国ができたと述べた。以前掲載した歴史図のこの部分を切り取ったのが上図である。東のインドにはデリー・スルタン朝が、西のエジプトにはマムルーク朝の名がある。マムルークとは奴隷という意味で、アイユーブ朝を滅ぼしてマムルークが建てた王朝である。マムルーク朝については採りあげたい気もするが、ここではスルーしておこう。後日採りあげることがあるかもしれない。ここで見てもらいたいのは、イル・ハン国とマムルーク朝の間である。1299年という数字があり、オスマン帝国の領域が細い縦の帯で始まっている点である。そして1517年にマムルーク朝を滅ぼすというところで領域の幅が広くなっている。しかしながら、この歴史図は前にも述べたが、ビザンツ帝国は描かれていない。今回はビザンツ帝国(395~1453)が都コンスタンチノーブルをオスマン軍によって陥落させられた、そして滅亡していった当時の歴史を振返ることにしよう。

  • セルジューク朝末期においてイスラム化したトルコ系民族が中央アジアからアナトリア(小アジア)に移動し、オスマン朝(1299)を建国した。
  • バルカン半島にはビザンツ帝国、イランの地域はイル・カン国からティムールへ。インドはデリー・スルタン朝。
  • 1299 オスマン帝国建国:オスマン1世(1299-1326)
    1354 ヨーロッパ侵入始まる
    1362 アドリアノープルを占領
    1366 アドリアノープルへ遷都
    アドリアノープルとは古代都市ハドリアノポリスの後身。現在のトルコ最西端のエディルネ州の州都エディルネのこと。2000年の人口12万人。ギリシア国境まで5キロの地点。
  • 1389 コソヴォの戦い
    オスマン帝国のムラト1世がセルビア・ボスニアなどのバルカン半島のスラヴ勢力をコソヴォで破った戦い。この結果、ドナウ川以南のバルカン半島は19世紀にいたるまでイスラムのオスマン帝国の支配下におかれつづけた。セルビア人はコソヴォの戦いに敗れた6月15日を国辱記念日としている。
  • 1389 バヤジット1世即位(1389-1402)
    1394 スルタンの称号を受ける
    1402 アンカラの戦い
    ティムールとの戦い。バヤジット1世は捕虜となった後、病死。以後11年間空位時代となり滅亡の危機に陥る
  • 1413 メフメト1世即位(1413-1421)
    1444 ヴァルナの戦いでハンガリー、ポーランドを撃破
    メフメト2世即位(1444-46、51-81)
  • 1453 コンスタンティノープル攻略(=ビザンツ帝国滅亡)

長々と書いてきたが、今回伝えたいのはオスマン軍がビザンツ軍の最後の砦コンスタンチノープルを陥落させた戦いの奇想天外な戦法だけである。例のように山川出版のヒストリカの図を借りて説明する。

オスマン軍は敵の心臓部である金角湾に艦隊を入れようとするが入れない。ビザンツ軍が金角湾の入り口に鉄の鎖を配備したからである。攻めあぐねたメフメト2世は艦隊を山越えさせるという歴史に残る奇想天外な戦法を考えたのである。図の金角湾の入り口の右側、ボスフォラス海峡側から矢印のルートの山を切り開き木道をつくり、艦隊を引きずりあげて山越えさせたのである。舟が山に登ったのである。「船頭多くして舟山に上る」という諺は「リーダーがたくさんいると、意見が対立して、本来登るべきは川なのに、迷走して山へ進んでしまう」ということであるが、この話は実際に舟が山を越えて敵陣に乗り込んだという、私の大好きな話なのだ。

画像の出所:山川出版社の歴史図説ヒストリカ

キーワード:オスマン、ヴィザンツ、メフメト2世、金角湾、イスタンブール、コンスタンチノープル

モンゴルの襲来

まずはモンゴルが台頭した地域の様子を要約してみよう。

  • 10世紀のはじめ頃、中国の北部に遼(916~1125年)という国があった。遼は金(1115~1234年)という国に滅ぼされるが、遼の残党が中央アジアに逃げて西遼(1132~1211)を建てた。西方からはカラ・キタイとも呼ばれた。東の金、西のセルジューク朝と覇を競った
  • 中央アジアのアラル海(現在は環境破壊によって消滅しつつある湖として有名になってしまった)に流れ込むアム川沿いの豊かな草原地帯の農耕地帯はホラムズと呼ばれた。セルジューク朝はここに総督をおいていたが、権力を保有するようになった結果、ホラムズ朝(1077~1231)を建てた。
  • 同じ時期に草原地帯の東でもチンギス・ハンが統率する新興勢力が成長していた。そして1206年にモンゴルという国が生まれた。
  • 1220年、モンゴルがホラズム朝との戦いに勝利し、ホラズム朝は1231年に消滅した。
  • 1227年、チンギス・ハン没

1256年、モンゴルの大軍が現在のイランの地に押し寄せた。指揮したのはシンギス・ハンの孫のフラグだった。

フラグの軍はイラン全土を制圧し、バグダードへ。バグダードはまだアッバース朝のカリフ本拠地ではあったが、すでに弱体化しており、簡単に陥落した。カリフも殺された。アッバース朝は1258年に滅亡した。そしてチンギス・ハンの子孫たちが上図で示したような国を建てていったのである。

  • チャガタイ・ハン国(1227~1370)
  • オゴタイ・ハン国(1224~1310)
  • キプチャク・ハン国(1243~1502)
  • イル・ハン国(1258~1411)

いつものように、山川出版のヒストリカによって、これらの国を地図でみると次のようになる。

モンゴル軍の攻撃・虐殺が行われた後に、広大な領域がモンゴルの支配下に入ったのである。これまで述べてきたイスラム世界の中心部(イラン・イラク辺り)はイル・ハン国となった。首都はタブリーズであった。現在はイランに所属する地方都市であるが、イランの首都テヘランの西北西の方角、トルコに近い地域である。1973年頃の冬に1人でこの辺りを旅したことがある。雪はなかったが非常に寒かったことを覚えている。その時写した写真は白黒であるためか、なおさら寒さを感じさせている。

イスラム世界はモンゴルに征服されてしまったが、そこでもイスラム商人は活躍した。当時の世界にとってイスラム商人は重要な役割を果していた。彼らなくして商業・経済は成り立たなかったということでもあろう。複数のハン国はイスラム化していったことが非常に興味深く思うのは私だけではあるまい。

 

十字軍の遠征(2)

サラディンはイエメンに軍隊を派遣し、紅海を通ってインド洋、さらには東南アジア、中国に至る海の交易路を確保した。第3回十字軍のあとも遠征は第7回(1270年)まで繰り返し行われた。が、第3回以来、十字軍側は劣勢であった。ここまで書いてきたことを読むと、十字軍とイスラムがエルサレムを支配下に置こうと、何度か戦いを繰り返したという簡単な言葉で言い表してしまいそうであるが、実際にはそうではない。ヴェネツィアの商人たちが商圏拡大の利を求めて遠征したこともあった。少年・少女たちが奴隷商人に売り飛ばされた事件もあった。その歴史はもっと複雑である。

第1回十字軍で勝利したキリスト側はエルサレム王国を造ったと述べたが、それ以外にも、エデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国など、またエルサレム王国の属国として、ガリラヤ公国、ジャッファとアスカロン伯国、トランスヨルダン領、シドン領なども挙げることができる。このような細々としたことはあったということだけを知っておけばいいだろう。そして、十字軍が築いた要塞も数多くあった。前回紹介した『十字軍物語から』図を4枚拝借して、ここに紹介しておこう。

これほど立派な要塞が築かれていたのである。遠征して、ちょちょいのちょいと築けるようなものではなかったろう。彼らの本気度を感じることができるのではないだろうか。

十字軍の戦いについて述べてきた。イスラム教徒対とキリスト教徒の争いであるが、戦いの勝者が敗者に対してとった扱いをみるとイスラム側の方が寛容であったように思うのであるが、それも決めつけることはできない。たとえ数少ない蛮行のうちの1つであっても、被害者にとっては許されざる行為である。それでは、キリスト教徒とイスラム教徒が共存した明快な歴史はないのだろうか?いや、それがあるのである。シチリヤでのことである。

http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a06_jujigun/fede.html このサイトは「世界史の窓」というウェブであり、世界史のことを知るうえで非常に役に立つサイトである。ここにはシチリヤの歴史のなかで以下のようにイスラムとキリスト教徒の共存について記されている。

877年にシラクサが陥落して全島をイスラムが支配した。首都はパレルモ。イスラムの支配は宗教に関して寛容で、税金さえ払えば今までどおりキリスト教を信仰できた。シチリアには高いイスラム文化が持ち込まれ、島は発展した。

 イスラムの支配は200年続いた。シチリアをイスラム教徒から奪回したのがノルマン人のロベルト・ギスカルドである。彼は、フランスのノルマンディに生まれ、南イタリアに単身渡ってきて傭兵になった。そして、徐々に力をつけてノルマン人のリーダになり、瞬く間に南イタリアを支配下に治めた。1071年、弟のルッジェーロ1世をシチリアに派遣し征服した。

 風雲児ロベルトはローマ教皇と対立して何度も破門された。しかし、カノッサの屈辱で有名な教皇グレゴリウスを、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の攻撃から助けている。1085年、東ローマ帝国征服を目指しギリシアに遠征するが、熱病にかかり亡くなった。

シチリア王国
アラブの面影が残るモンレアーレ大聖堂
 1130年、教皇はルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世に王位を与え、シチリア王国(ノルマン朝)が誕生した。ノルマン人は支配者となったがその数は非常に少なく、自然とギリシャ人やアラブ人を多く官僚として登用した。従来のイスラム支配体制が踏襲され、イスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く暮らす国ができた。ヨーロッパが十字軍の熱狂の中にあった時代に、これは驚異のできごとだった。

十字軍の遠征(1)

上は塩野七生さんの『十字軍物語』の表紙である。塩野さんは『ローマ人の物語』のあと、これを著したのであるが、読んでいて非常に面白かった。私がここに書いている文章は単に歴史の流れを記述しているにすぎないが、彼女の著作は読んでいると、ドラマを見ているような気がしてくる。ドラマの中の風景が映像が見えてくるのだ。

第1回十字軍は1096年に始まった。そこで当時の中東地域に乱立していた国々を先ずピックアップすることにしよう。

  • ファーティマ朝(909~1171)
  • ブワイフ朝(932~1062)
  • ガズナ朝(962~1186)
  • カラ・ハン朝(10世紀中ごろ?~12世紀?)
  • セルジューク朝(1038~1194)

ブワイフ朝はペルシア人、ガズナ朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝はトルコ人によるイスラム国家である。アッバース朝は衰退しており、バグダードはブワイフ朝が支配下に治めていた。が、アッバース朝のカリフを打倒するのではなく保護するという形をとっていた。一方、ファーティマ朝はアッバース朝のカリフに真っ向から否定して自らのカリフ政権を樹立したのである。非常に複雑な様相を呈していたのである。

前回と重複する部分も多いが、エルサレムとは紀元10世紀ごろにユダヤの王ダビデが神殿を建設したところであり、ダビデの子ソロモンは神殿を立派なものにした。時がたち、神殿は破壊され、その後再び第二神殿が再建された。その頃にイエスが十字架の刑に処せられ、いったん埋葬される。彼の復活を信じ、彼を救世主とみなすキリスト教が成立した。その後、135年にローマ帝国がエルサレムの町を破壊し、神殿も破壊した。イスラムがエルサレムを征服したのは638年のことである。イスラム側の勢力の興亡もあり、970年にはファーティマ朝がエルサレムを支配していた。ファーティマ朝が11世紀後半に弱体化すると、セルジューク朝がエルサレムを占領するようになった。この占領を率いた軍人アトスズは略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止して、エルサレムの平安は維持されていたという。1098年には再びファーティマ朝がエルサレムを奪還した。少々ややこしいのであるが、イスラム世界でも勢力争いが盛んになっていた時代であった。

さて、そこでいよいよ十字軍の登場である。11世紀頃からキリスト教徒の間では聖地エルサレムへの巡礼熱が高まっていた。1095年、クレルモンの宗教会議においてウルバヌス2世がエルサレム奪還のために十字軍の遠征を提唱。1096年から第1回十字軍の遠征が始まった。

第1回(1096~99年):4万人を超える規模の十字軍は食料を用意して出たわけではなく、進軍する地域の住民から食料を奪い、レイプ、虐殺などを行いながらエルサレムに向かったのである。沿道の住民は十字軍に対抗する術もなく、震えあがっていた。エルサレムにおいてもイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺を行った。その結果、十字軍はエルサレムを奪還して、エルサレム王国を建設した。

第2回(1147~49年):十字軍はセルジューク軍の反撃を受けて、シリア付近で敗退。

第3回(1189~92年):この遠征は、十字軍の遠征の中でも特に注目されるものではないだろうか。エルサレムが再びイスラムの支配下になった有名な戦いなのだ。トップに紹介した『十字軍物語2』の帯に「イスラムにサラディンあり!」とあるように、この戦いでサラディンという英雄が出現したのである。彼はファーティマ朝で宰相にまで出世したあと、ファーティマ朝のカリフが死ぬと、「アッバース朝のカリフがイスラム世界の唯一のカリフであると宣言し、自分はスルタンであると称してエジプトに君臨し、アイユーブ朝を創始したのである。ファーティマ朝はシーア派であったが、彼のアイユーブ朝はスンナ派であった。当時セルジューク朝の中から勢力を拡大していたザンギー朝のヌール・ウッディーンが死すと、彼の領土の大部分を併合して、十字軍との戦いに備えて作戦を練った。1187年、ヨルダン川の水源である湖に近いヒッティーンの丘でサラディンは十字軍勢を撃破した。さらにエルサレムを攻撃して陥落させた。彼はキリスト教徒もユダヤ教徒もエルサレムに住むことができるようにした。3つの教徒が共存できる聖地としたのである。が、ローマ教会はここで第3回の十字軍派遣を決めたのである。この戦いは2年にわたり、激戦をくりかえしたのであるがサラディンの勝利となる。エルサレム王国はエルサレムを失うが、シリアの海岸部に拠点を確保することができてエルサレム王国の名は残すことができた。サラディンはヨーロッパからの巡礼者を迎えて保護することを約束したのである。

サラディンは武勇に秀でた強い英雄というだけでなく、寛容な精神でもって敵を受け入れた大人物であった。キリスト教側からもサラディンは高く評価された歴史に残る人物であった。余談かもしれないが、イラクのフセイン大統領のことを思い出してもらいたい。彼はイラクのクルド地区に近い所の出身であった(彼自身はクルド人ではない)。それ故、フセインは俺はサラディンの生まれ代わりだとか言っていたことがある。そう、サラディンのルーツはクルドであると思われるのである。サラディン(正式名称はサラーフ=アッディーンであるが、ヨーロッパにはサラディンと伝わった)

聖地エルサレム

このブログも2か月目に入り、テーマも10世紀になってきた。この後は、イスラム世界とキリスト世界の対立である十字軍を取りあげようとするのである。十字軍とはそもそもエルサレムという聖地奪還という目的であった。それ故に、まずはエルサレムについて知ってもらうことが重要であろう。

読者の皆さんは既にエルサレムについての知識を実は有している。このブログのオリエント時代の処を思い出してほしい。ユダヤ人たちはカナンの地から、エジプトに行き、そこでの苦難ののちに再びカナンの土地に戻ってきたのだった。そこに短い期間ではあったが王国を造ったのだった。ソロモンやダビデという名君がでて、エルサレムに神殿を建設したのだったね。エルサレムとはそういうところなのだ。その国も滅び、ユダヤ人たちがバビロン捕囚となったあと、アケメネス朝のキュロス大王によって解放されたというような歴史はオリエントのカテゴリーで述べたとおりである。エルサレムはユダヤ教の聖地であると同時に、キリスト教の聖地でもある。はたまたイスラム教の聖地でもある。それぞれの聖地たる所以を述べていこう。

上の地図は日本聖書協会発行の『聖書』の巻末の聖書地図を拝借したものである。タイトルは「新約時代のパレスチナ」とある。エルサレムがあり、南にはベツレヘムがある。イエスが生まれたところである。

ユダヤ教の聖地:上述したようにユダヤ人とエルサレムとの関係は密接である。エルサレムはユダヤ教の神殿があった場所であるから聖地なのである。世界中にちりじりばらばらに離散していたユダヤ人たちがシオンの丘に帰ろうと願い続けたシオンの丘とは神殿があった高台である。神殿跡には外壁だけが残っている。それが「嘆きの壁」である。エルサレムを訪れるユダヤ人たちが古代の神殿を偲んで祈る最大の聖なる場所である。エルサレムがユダヤ教の聖地であることは、非常に明快である。

キリスト教の聖地:キリスト教はユダヤ教徒であったイエスがユダヤ教から派生させたものであるから、エルサレム周辺はイエスの人生(?)の足跡が残っているわけである。現在、エルサレムの中でキリスト教の聖地となっているのは「聖墳墓教会」である。近くにはイエスが磔になった丘(ゴルゴダの丘)がある。イエスが磔台を担いで歩かされた道ヴィア・ドロローサ(苦難の道の意)もある。そして聖墳墓教会にはイエスの墓がある。そこはイエスが復活した場所でもある。これだけでエルサレムは聖地として十分な資格があるであろう。でも、その場所、特に聖墳墓教会のある場所がイエスが葬られ、その後復活した場所であると、誰がどのようにして特定することができたのであろうか。キリスト教がローマ帝国によって公認されたのは313年のことである(ミラノ勅令:コンスタンチヌス1世 がリキニウス帝とミラノで会見した際に発した勅令。キリスト教を初めて公認し,長かったキリスト教迫害に終止符を打った画期的なもの)。320年頃にコンスタンチヌス帝の母であるヘレナがエルサレムを巡礼した。そして、イエスが葬られた場所を特定して聖墳墓教会が建てられたと言われているのである。

イスラムの聖地:ではイスラムにとってエルサレムはどのような曰くつきの場所であるのだろうか。イスラムの第一の聖地はメッカである。次いでメディナ。エルサレムは第三の聖地であろう。エルサレムはムハンマドが天に昇ったという伝説がある場所なのである。ムハンマドはある日の夜愛馬にまたがってメッカからエルサレム迄を一夜にして飛んで行ったという。エルサレムの岩の上から天上に昇ることができて、天上で神と会話したとかという伝説である。その時に今行われている礼拝の数を5回にするなどということも決められたとか。それ以前はもっと多かったとか。うろ覚えではあるが、そのようなことを昔読んだことがある。とにかくその伝説の岩の上にモスクが建てられたのである。その場所はユダヤ教の神殿があった丘でもある。岩は建物の内部に保護されたことになる。建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが688年に着工したという。この岩また旧約聖書でもアブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている。

三者三様の聖地としての曰くがあるわけである。いずれも一神教、そしてアブラハムを尊ぶ宗教でもある。聖墳墓教会、岩のドーム、嘆きの壁などというキーワードが並んだが、それらの映像・画像はユーチューブやインターネットで山ほどでているので、ここでは割愛する。どうかそちらでご覧いただきたい。

さて、これも有名な話であるが旧エルサレム市街の中での住み分けである。下の図が示すようにイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちの居住区が区分けされているのだ(実際にはもう一区画アルエニア人地区もあるが)。金曜日になるとイスラム教徒が岩のドームへ礼拝に向かう。金曜の夜から土曜へと今度はユダヤ教徒が嘆きの壁に集まっていく。そして日曜日はキリスト教徒たちが聖墳墓教会へ向かう。三者が曜日をずらせて行動する。長い間三者が争うことなくスムースな日常生活があったのである。パレスチナ問題として争うアラブとイスラエル、イスラムとユダヤ間の熾烈な争いごとは第一大戦後のオスマン帝国の領土分割、第二次大戦後のイスラエル独立宣言から始まった、きわめて新しい紛争である。(もちろん、十字軍というキリスト対イスラムという争いもあったが、それについては次回以後で詳しく取りあげよう)

上の図の出所は帝国書院『タペストリー』

イスラム世界の分裂

前々回に示したイスラム世界の歴史図は非常によくわかるように描かれていると称賛したのであるが、それでも実際の地図上ではどうなっていたのだろうか。それも知ってみたいと思うのではないだろうか。歴史図の場合は時代の縦の流れも見えたが、地図に表すとしたら、ある時代で平面的に表すことになる。そこで探してみた。講談社・後藤明著『イスラーム歴史物語』の121頁がそれである。

これは8世紀初めのイスラム世界である。この時代ではアッバース朝と後ウマイヤ朝の間の今のモロッコの辺りにイドリース、ルスタム、アグラブの3国が並んでいる。ここにあるルスタムについては歴史図にはなかったものであるが、実際にはあったハワーリジュ派の王朝である。それぞれの年代をあげると、ルスタム朝(777~909)、イドリース朝(789~926)アグラブ朝(800~909)ということである。ここではアッバース朝の東部では異変はおこっていない。そこで10世紀後半のイスラム世界が次図である。

アッバース朝の全盛期を築いたハールーン・アッラシードの死後、息子たちがカリフの地位を争った。そのような争いに乗じてホラサーンのターヒルが独立を宣言した(812)。9世紀後半になると東の地域でぞくぞくと独立政権が増えていることは歴史図の通りである。そして10世紀の後半が上の図であるが、カラ・ハン朝、サーマーン朝、ブワイフ朝などが生まれている。そして、アッバース朝の西側は先述したモロッコ辺りの3カ国は既に消滅し、ファーティマ朝が登場しているのである。目まぐるしく国が入れ替わる、まさに興亡の歴史が展開された時代である。

というものの当時のイスラム世界の中心はバグダードであり、アッバース朝であった。ユダヤ教やキリスト教の聖地であるエルサレムはイスラム支配化にあった。時代の流れとともに、つまり上述したような興亡の歴史の中で、エルサレムはその後、ファーティマ朝の支配下に置かれた、その後はセルジューク朝の支配下になるのであった。そして十字軍の遠征と続くのである。   (次回はエルサレムの予定です)