ペルシャ語講座25:有用表現 عیب ندارد

今回はよく使われる表現、覚えておくと便利な表現を一つ紹介しましょう。それはタイトルに記した عیب ندارد です。
عیب ’eib  エイブ とは欠点、欠陥、不名誉、恥というような意味が辞書にはでてきます。
ندارد  の原形は داشتن 「持つ」という意味の三単現です。
عیب ندارد エイブ ナダラッド ですが、エイブ ナドレ と発音するのが一般的です。
意味は「問題ないよ」「大したことじゃないよ」ですが、私の感覚では、例えば待ち合わせの時間より少し遅れた場合などに、誤ったとすると「エイブ ナドレ」と返ってきます。「何も問題ないよ」その後ろに「気にするな」というような意味合いを感じます。

一方で、相手が約束を守らなかったので責めたりすると「エイブ ナドレ」とちょっと開き直った感じで「大したことじゃないよ、何が悪いんだ?」というように感じたこともありました。

とにかく会話ではしょっちゅう出てくる言葉です。上の意味以外にももっと多くのニュアンスで使われていると思います。便利な言葉なのでぜひ使ってみて下さい。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:④ルーム・セルジューク朝

 

さて、セルジューク朝の次はルーム・セルジューク朝である。大セルジューク朝には数多くの地方政権のようなものがあったとこれまでに述べてきた。ルーム・セルジュークもその一つであった。この王朝の始祖であったスライマーン・ブン・クタルムシュの父クルムタシュはセルジューク朝の創始者トゥグリル・ベクのいとこである。スライマーンは1071年のマンジケルトの戦の後、ニカエアを占領してルームの地に国家を建設したのである。・・・・13世紀に全盛期を迎えたが、カイホスロウ二世の時代にモンゴル軍の侵攻を受ける。1243年にキョセ・ダグの戦に敗れて、1277年以後イルカン国に従属することとなり、以後衰退し14世紀になって滅亡した。

十字軍とセルジューク朝
キリスト教徒の十字軍の遠征の目的はエルサレムの奪還であった。この時のエルサレムを占領したのがセルジューク朝である。キリスト教徒側はエルサレムを占領したセルジューク朝によって巡礼者が迫害されているという理由で十字軍の遠征を始めたのである。

1097年に第一次十字軍がビザンツ軍とともにニカイヤを奪い返すと、ルーム・セルジュークはコンヤまで後退した。その結果、12世紀のアナトリアはルーム・セルジューク朝とトルコ系のダニシュメンド朝、そしてアナトリアの西部でビザンツ帝国の三者に分割された状態であった(冒頭の図は講談社『興亡の世界史「オスマン帝国500年の平和』から引用させていただいた)。その後、ダニシュメンド朝はルーム・セルジューク朝に滅ぼされる。一方でヴェネチアに先導された第四次十字軍がコンスタンティノープルを征服してラテン王国を建てる(1204)事件があり、ビザンツ帝国はニカイヤに亡命国家を作るなど、アナトリアは混沌とした状態となったのである。ルーム・セルジューク朝もその後モンゴルによって滅亡するわけである。

この辺の歴史を今更に読み返してみると複雑極まりない。セルジュークとビザンツの関係も対立一辺倒だったわけではないようである。これらは本題ではないので深入りはしないでおくが、このような状況の中からオスマンが台頭してくることになるのであろう。

新シリーズ「オスマン帝国」:②トルコ民族の台頭

前回、宮田律先生の『中東イスラーム民族史』の名前を挙げて終わったのであった。その中公新書の126頁の一部を引用させて頂こう。
トルコ語を話す人々が最初に確認されたのは六世紀のことだった。その活動の地理的範囲は内陸アジアと東ヨーロッパで、内陸アジアでは六世紀半ばに、トルコ語を話す、つまりトルコ系の遊牧部族が台頭する。
この遊牧部族の支配層は、テュルク(突厥・とっけつ)と名乗っていた。540年ごろ、中国の北端に、柔然(じゅうぜん)という遊牧国家が存在し、モンゴリアとその周辺部分を支配していた。テュルクは柔然を滅ぼし、やはりトルコ系の鉄勒(てつろく)諸部族を服従させてモンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯までも支配する大帝国を築いた。

ということで、6世紀頃からトルコ語を話す人々の存在が歴史に現れてきているようだ。そして、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと支配を拡げていったのである。いつもお世話になっている山川出版の『世界史図録ヒストリカ』から次の図を引用させていただいた。

 

この図によれば、トルコ系民族は8世紀頃にウィグルのクチャやカシュガルにいたが、その後、西進しカラハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝を築いていった。ガズナ朝はその後インドのイスラム化につながっていった。トルコ系民族の王朝を平凡社『新イスラム事典』で見てみることにしよう。

カラハン朝 (840-1212):
中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝。王朝の起源についてはまだ定説がない。ブリツァクの説によると、840年にウイグル王国が崩壊すると、その支配下にあったカルルク部族連合体が独立、チュー河畔のベラサグンを本拠に新王朝を開いたとされる。サトゥク・ボグラ・ハーン(955没)の時代に初めてイスラムを受容し、続くムーサーの時代にあたる960年には20万帳に上る遊牧トルコ人がイスラム化したという。以後の諸ハーンは東トルキスタンのホータン、クチャなどの仏教圏に聖戦を敢行するかたわら、999年にはブハラを占領してサーマン朝を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルのトルコ化を促進した。しかし内部抗争のため、1041/42年にはシル・ダリヤおよびホーカンドを境に東西に分裂した。西カラハン朝は1089年セルジューク朝、1141年カラキタイ朝の宗主権下に入り、1212年ホラズム・シャー朝によって滅ぼされた。一方、東カラハン朝の首都カシュガルでは、最古のトルコ・イスラム文学作品『クタドグ・ビリク』が著される(1069/70)など、新たなトルコ・イスラム文化の萌芽がみられたが、1089年にはセルジューク朝、1132年にはカラキタイ朝の支配下に入り、1211年ナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。

ガズナ朝 (977-1186):
アフガニスタンに興ったトルコ系イスラム王朝。サーマン朝のトルコ人マムルーク、アルプティギーンは逃亡してアフガニスタンのガズナの実質的な支配者とない、以後マムルークたちが次々に権力を握った。サブクティギーン以降は世襲となり、インドへの侵入を開始、その子マフムードは遠くソムナートまで遠征してヒンドゥー教寺院を破壊し、イスラムの擁護者としての名声を得るとともに、多数の略奪品を得た。彼の時代が最盛期で、その版図は、イラン中央部からホラズム、パンジャーブにまで達した。軍隊の中核はトルコ人などのマムルークによって占められ、官僚にはイラン人が用いられた。公用語は主としてペルシャ語で、多数のペルシャ詩人が宮廷に出入りしたが、インド遠征に同行して記録を残したビールーニーのように、アラビア語で著作を行う学者もあった。第五代のマスウード時代には、セルジューク朝によってホラズム、ホラーサーンを失い、12世紀にはセルジューク朝のサンジャルに服属して貢納を行うようになった。同世紀の中ごろにはゴール朝にガズナを奪われ、最後はラホールで滅亡した。

セルジューク朝(1038-1194):
トルコ系の王朝。トゥルクマーンの族長セルジュークは、カスピ海、アラル海の北方方面より10世紀末にシル・ダリヤ河口のジャンドへ移住してムスリムとなり、ガージーを集めて勢力をなした。その子イスラーイールは、サーマン朝、次いでカラハン朝、ガズナ朝と同盟して力を伸ばした。その甥のトゥグリル・ベク、チャグリ・ベクらは、1038年ニシャプールに無血入城し、40年にはダンダーナカーンの戦でガズナ朝軍を破り、ホラーサーンの支配権を手中に入れた。55年にトゥグリル・ベクはバグダードに入り、アッバース朝カリフより史上初めてスルタンの称号を公式に受け、当方イスラム世界における支配者として公認された。・・・

セルジューク朝の記述はまだまだ続くのであるが、トゥグリル・ベクがスルタンの称号を得たということで、セルジューク朝は大きな王朝になるので、これについては改めて取り上げるほうが妥当であろう。
セルジューク朝が台頭してきたところで、トルコ系民族がオスマン帝国を築くに至った民族の大きな流れが掴めたようである。

 

書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その2

「その1」をアップしたのが、2019年6月であったから1年以上の長い時間が経ってしまいました。ペルシャの詩のほうに寄り道したせいであったかもしれません。まだまだ紹介したい部分があるということで締めくくっているので、もう少し彼の詩を紹介したいと思います。

酒が欲しくなるとき
飲酒をとがめる人よ
 いつ君は愚かになったのか?
私に別な忠告をしたほうが
 君には似つかわしい。
とがめる人に我々が従うくらいなら、
 アッラーに従っていたことだろう。
飲み友達よ、朝酒の盃をほし給え。
 そして、私にも注いでくれ給え。
私は世人に非難されると、
 ますます酒が欲しくなる。

震える指
飲み友達は二日酔いが続き、
 指に震えがきている。
右手を左手で支えてやらないと、
 盃をもっていられない。
夜半、私が彼に盃をさすと、
 彼はもっと欲しがり、更に欲しがった。
彼は言った。「私を落ち着かせるため、
 もう一杯、私はもっと欲しいのだ」
これが毎夜の二人の習慣、
 私が余計に注ぐと、彼は更に求める。
やがて倒れてしまうが、彼は知らない、
 大地の上に寝たか、部屋の中に寝たか。

僧院の朝酒
鐘の音が君に暁を告げ、
 修道士が僧院で祈り声をあげた。
酔漢が酒を恋しがっている。
 雨が降り、時は春だ。
君は庭園を見廻し、
 緑の草、黄色の花に笑いかける。
さあ、飲み友達に酒を与えよ、
 雨の一滴をまぜた上で。
肴はラヴェンダーや睡蓮、
 そして色とりどりの花の飾りだ。
野原のここかしこで、
 白い若鹿が草を食んでいる。
すばらしいものは僧院の朝酒、
 そして一年の中で四月。
腰に帯をまいた者よ、
 聖なる酒場で、ユダヤ人の祭日に。
私を知っているなら、注がないでくれ、
 私の胸にひめたもの以外は。
君の知っている私の好物を持ってこい。
 酒であれば、名は何とでもつけよ。

不思議なもの
もし酒が私の食べ物だったら、私は幸せだ。
 食事を待たずに酒だけを飲んでいればよい。
酒は不思議なもの、君はそれを飲む。
 飲むがよい、たとえ酒が君に罪を負わせようとも。
生の赤酒をとがめる人よ、
 君は天国へ行け。私は地獄に住まわせてくれ。

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今回は飲酒詩の中から4編を紹介した。素直に味わっていただきたい。何も難しいことを詠ってはいない。ただ、酒を愛する気持ちの発露である。イスラム社会に生きた酒飲みである。少しは罪に気持ちも抱いている。大ぴらに、酒を扱うのは異教徒である。「僧院の朝酒」で「腰に帯をまいた者」はユダヤ人である。酒飲みの私としては共感すること大である。少し長いので今回紹介していないが「酒と船」の書き始めで今回の結びとしよう。

 悩みごとが生じたら、盃で癒し給え
 悩みごとなどなくなるように。

アブー・ヌワースは酒で有名な詩人であるが、美しい恋愛詩やたしなめの詩、禁欲詩なるものも書いている。またの機会に紹介することにしよう。