2021年アラビア書道作品展の準備

コロナ禍の中で昨年来アラビア書道の教室(名古屋)も休講が多く、先生の指導を受ける機会も非常に少なくなっています。そんな中でも、昨年も川崎市において作品展が開催されて全国から数多くの作品が寄せられました。私の作品もここに掲載したのでありますが、今年も9月に開催が予定されています。今年は川崎のほかに久しぶりに京都でも開催予定です。次回教室が開かれるのは6月30日ですが、緊急事態宣言のために今年になってからは殆ど開かれていません。30日は非常事態宣言が解除されていれば久しぶりに出席することになります。

そんなわけで、今年の作品をどうするかということです。もうそれほど時間があるわけではありません。そこで私は今年もオマル・ハイヤームのルバイヤートの中の一つの四行詩を選びました。そして、お手本をメールで先生に依頼しました。それが5月の下旬でしたので、このところそれを練習しております。まだまだハードルが高いのですが、挑戦です。先生から頂いたお手本が次の画像です。

アラビア書道の世界では世界のトップであられる本田先生が書いて下さったものです。先生の作品は大英博物館にも常設の部屋があって展示されているほどの有名な先生です。恐れ多いとは思いながら、練習に励んでいます。9月初めには完成させて、皆様に披露できるように頑張ります。

さて、詩の内容ですが。次の通りです。私の訳です。

ああ、青春の書(ふみ)は閉じ、

人生の春も過ぎ去ってしまった。

青春という名の歓喜の鳥は、

いつ来て、いつ飛び去ったのだろう? 

英語訳でもっとも有名なFitsGeraldは次のように訳しています。
Alas, that Spring should vanish with the Rose!
That Youth’s sweet-scented Manuscript should close!
The Nightingale that in the Branches sang,
Ah, whence, and whither flown again, who knows!

彼の英訳は元の詩の気持ちを訳していると定評があるのですが、英語のニュアンスまで理解できない私にはよく分かりません。というか、この訳はそれほど元の詩とかけ離れた訳ではありませんが、いったいどの詩を訳したのかと思うようなものもあります(失礼ですが)。

原文のペルシャ語の調べを味わってもらいたいために、ペルシャ語の読み方を次に記しておきました。口ずさんでみてはいかがでしょうか。

افسوس که نامه جوانی طی شد

Afsuus keh naameh-ye javaani tey shod

وآن تازه بهارزندگانی دی شد

Van(va aan) taazeh bahaar-e-zendegaani dey shod

آن مرغ طرب که نام او بود شباب

Aan morgh-e tarab keh naam-e uu bud shabaab

افسوس ندانم که کی آمد کی شد

Afsuus, nadaanam keh kei  oomad key shod

                 

新シリーズ「オスマン帝国」:⑩スルタンのトゥグラ(花押)

この画像は何かおわかりでしょうか。今回のテーマとしたスルタンの「トゥグラ」である。トゥグラというのは日本の花押のようなものである。今でいえば印鑑というか、外国ではサイン、署名に相当するものです。

私がアラビア書道を習っていることは、このブログでも何度かお話ししていますが、このトゥグラはアラビア文字をデザインしているのです。日本の花押と同じようにその人を区別するために他人とは同じではないように作っています。冒頭のものはスルタン・マフムード・ハーンのものです。年表を見ると在位1730~54のスルタンのようです。インターネットでトゥグラの語句で検索すると数多くのスルタンのものが出てきます。無断でここに引用するのは良くないので興味ある方はそちらでご覧いただければと思います。

アラビア書道をやっていると、最終的にはデザインに行きつきます。ナスヒー書体から始め、次にルクア書体を学び、次にディワーニーやスルスなどなどを経てナスタアリークへと続くのです(日本の書道の

楷書から行書、草書などと同じです)が、単にその書体で上手に書くだけでなく、それをどのような形にデザインするかということになるのです。その意味でスルタンのドゥグルはアラビア書道で最後に辿り着くゴールのように自分には感じるのです。

例えば、コーランの開端章の冒頭の語句(そして、全ての章の冒頭にもかかれている)は活字体で書くと以下のようになります。
بسمالله الله الرحمزالرحیم
これをアラビア書道のナスヒー体では次のようになります。二つとも同じ書体ですが、二つ目には伸ばした長い線があるのと左の方に湾曲したラインが描かれています。

そして、先ほどのトゥグラのようにデザインしたものが次の画像です。冒頭のスルタンのトゥグラとそっくりですね。

他にも三つほど次に紹介しておきましょう。いずれも先ほどの語句、通称バスマラと呼ばれるムスリム(イスラム教徒)にとって聖なる言葉です。

引用させていただいた資料は次の『図説・アラビア文字事典』です。ありがとうございました。

 

アラビア書道作品展に出品しました。

7月22日に「アラビア書道でルバイヤート」という記事を書きました。そのときにルバイヤートの中のひとつの四行詩を作品展用に作成するために本田先生に書いていただいたお手本の画像をアップしたのでした。あれから4ヵ月以上が経過しています。私の作品はどうなったのでしょうか?作品展は11月12日から17日まで、京都市国際交流会館にて開かれました。予定通りと言いたいのですが、開催日直前になってやっとできあがりました。まだまだ満足できるものではありませんが、キリがないので不満足ながらも出品しました。また来年に向けて頑張ろうと思います。作品を以下にアップいたします。

用紙はイランで売られているA4サイズの書道用紙がありましたので、普段使っているA3サイズの用紙に拡大コピーしたものを利用しました。一応カラーコピーになります。最初は近所のコンビニにA3サイズの用紙を持参して、拡大コピーをしたのですが、周りの模様が濃い部分と薄い部分ができたり、色が飛んで白い部分ができたりしたのです。そこで、キンコーズに出かけて、コンビニの話もして相談した結果、奇麗な用紙が出来上がったのでした。あとは額縁も必要です、今回が5回目になりますが、いつもは妻が押し花の作品作りを30年位やっていて、額も沢山持っているので、それを借りていました。でも今回は作品展後もそのまま残しておきたいので画材屋さんにいって買ってきました。安いのから高いのまで色々一杯ありました。作品に合うような色や縁取りでそう高くなくて、京都に送るので軽いものをと探したものが画像の額です。作品ができたあと、文字周りの空間が真っ白ではちょっと寂しいので、バステルを削って粉にして指で擦りつけて薄く色付けしました。作品を書くことのほかにこのようなことを色々して、何とか格好がついてきました。そういうことがまた楽しくもありました。来年はもっともっと良いものをと思っています(毎年のことですが(笑))。

キーワード:アラビア書道、ルバイヤート、京都市国際交流会館、

アラビア書道でルバイヤート

アラビア書道をやっていることはまだこのブログには書いてなかったかもしれません。習いだしてからかれこれ5年にはなるでしょう。ナスヒー書体、ルクア書体を終えて、今はナスタアリーク書体(ペルシア書体)を練習しています。そして、今年の作品展の日程が11月に決まりました。まだまだ力不足なのですが、ペルシア書体で四行詩に挑戦しようとおもいます。それで先日、教室の先生に好きな詩のお手本を依頼しました。そして、書いてくださったのが上の写真です。なんと教室の先生ではなくて、本田先生が書いてくださったのでした。

本田先生は日本のアラビア書道界の第一人者というのは勿論ですが、世界のアラビア書道界の第一人者なのです。先生の作品は大英博物館にも所蔵・展示されているのです。マレーシアのイスラムアート美術館でも多数展示されているそうです。インターネットで調べると、素晴らしい先生の作品を見ることができます。もう文字というよりはまさに芸術的な絵画のような宇宙の世界です。頂いたお手本はまさに書道ですが、もったいないのでお手本はコピーを使うことにして、大事に取っておくことにしました。自分でこのように上手に書けることができる日が来るようにせっせと練習しようと思います。

この書について説明しましょう。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの四行詩ルバイヤートの中の一つです。岩波文庫の『ルバイヤート』の表紙には次のように書かれています。「生への懐疑を出発点として、人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを、短い四行詩(ルバイヤート)で歌ったハイヤームは、11世紀ペルシアの詩人である。詩形式の簡潔な美しさとそこに盛られた内容の豊かさは、19世紀以後、フィッツジェラルドの英訳本によって多くの人々に知られ、広く愛読された。日本最初の原典訳」そして、小川亮作の和訳が次の通りです。

  • 今日こそわが青春はめぐってきた!
  • 酒を飲もうよ、それがこの身の幸せだ。
  • たとえ苦くても、君、とがめるな。
  • 苦いのが道理、それが自分の命だ。  

また、ペルシア文学の研究者・岡田恵美子さんは次のように訳している。

  • いざ、青春のめぐりくる日、
  • 酒を飲もう、酒こそわが喜び。
  • その酒が苦くとも、とがめるな、
  • わたしの生命だから苦いのだ。

そして、小生は次のように訳してみました。

  • さあ、いま私は青春の真っただ中、
  • 酒を飲む、それがわが喜び。
  • その酒が苦くても良し、
  • 苦いのは我が人生だから。

キーワード:アラビア書道、四行詩、ルバイヤート、オマル・ハイヤーム、小川亮作、岡田恵美子、

ムハンマドの登場:イスラム誕生

イスラムが誕生したのは7世紀のことである。ユダヤ教やキリスト教に較べると、ずっと新しいのである。7世紀、アラビア半島のメッカで一人の男が神の啓示を受けたということからイスラムは始まった。この男とはムハンマドである。イスラムの創始者といえば、今ではムハンマドというのが定着しているが、以前の日本ではムハンマドのことをマホメットと呼んでいた。それはなせだろうか?アラビア半島はアラビア語の世界である。アラビア語でムハンマドと書いた場合、そのスペルは m h m d と書く。子音ばかりで母音がない。マホメットという呼び方も、そのような母音を記さないことに原因があるのであろう。冒頭の文字は筆者が書いたムハンマドというアラビア文字である。

ムハンマドの生い立ちから始めることにしよう。彼は571年にメッカに生まれた。当時のアラビア半島は部族社会であった。ムハンマドの一家はクライシュ族の支族であるハーシム家に属していた。彼が生まれる前に父は死去しており、6歳のときに母親も他界したため、叔父に養育されたという。この時に叔父の息子アリー(ムハンマドとは従兄弟である)と兄弟のように育ったのであるが、このことを読者には覚えておいてもらいたい。25歳のときに15歳年上の未亡人で女商人のハディージャと結婚し、その後二人の間に二男二女を授かったが、男子二人は成人前に早逝した。

610年ころ(40歳ころ)にメッカ郊外のヒラー山で瞑想に耽るようになり、天使ジブリール(ガブリエル)が現れて神の啓示を受けたとされている。その後何度か啓示を受けた後、妻のハディージャに支えられて、預言者の自覚をもって、イスラムの布教活動を始めた。布教を始めたといっても簡単なものではなかった。ムハンマドは当時のメッカの社会の状態を憂いていたのである。大商人たちが富を独占していること、彼らの利益追求の姿勢、飲酒や賭博の蔓延などなどを批判して、社会の変革を訴えようとしたのだった。全ての人々は平等であると訴えた。彼の布教活動を理解しめしたのは第一に妻のハディージャ、次に従兄弟で兄弟のように育ったアリー、そして友人アブー・バルクたちであった。布教活動が進むにつれてムハンマドには商人たちから圧力がかけられた。抵抗するも多勢に無勢であったろう。ムハンマドはメッカの人々から迫害をうけてメッカを去った。行った先はメディナである。この移動をイスラムでは「ヒジュラ(ヘジラ)」日本語では「聖遷」といって、イスラムの歴史の重要な出来事である。イスラムの人々は我々とは異なる暦を使っている。イスラム暦である。

イスラム暦の紀元はこの事件が起きた西暦622年である。