アッバース朝(つづき)

アッバース朝時代から少々はみ出るものもあるかもしれないが、イスラムの秀でた科学・学問などに係る人を列記してみよう。カッコ内はヨーロッパでの呼び名である。

  • アル・フィワーリズミー(アルゴリズム)数学・天文学、9世紀
  • アル・キンディー(アルキンドゥス)哲学、形而上学、論理学、9c
  • アル・ファルガーニー(アルフラガヌス)数理天文学、?~929
  • アル・ラーズィー(ラーゼス)医学、哲学、錬金術、864~925頃
  • アル・ファーラービー(アルファラビウス)哲学、政治学、870頃~950
  • イブン・アル・ハイサム(アルハーゼン)数学、965頃~1041年
  • イブン・シーナ(アヴィセンナ)哲学、医学、980~1037
  • アル・ガザリー(アルガゼル)哲学、神学、法学、1058~1111
  • イブン・バーッジャ(アヴェンバケ)哲学、音楽、詩、~1139
  • イブン・ズフル(アヴェンゾアル)医学、1092~1161年
  • イブン・ルシュド(アヴェロエス)哲学、医学、法学、1126~1198
  • アル・ビトルージー(アルベトラギウス)哲学、天文学、12世紀

中でも特に有名なのは太字赤字で示したイブン・シーナであろう。彼が著した『医学典範』は長い間ヨーロッパの医学生の教科書として重宝されたものである。ヨーロッパではアヴィセンナ(またはアヴィケンナ)として知られている。日本の高校生の世界史の教科書にも彼の名は出ているはずである。

前回も述べたが、当時のヨーロッパはイスラム世界に較べるとずいぶん遅れていたのである。身内を病気で亡くした青年が、医学を勉強しようとペルシアに行った物語が世界のベストセラーになり、その映画化されたものが2-3年前に日本でも公開されていた。青年はイブン・シーナの下で学ぶというストーリーであった。物語はフィクションなのであるが、イブン・シーナのもとでタブーとされていた人体解剖などを手掛ける場面もあり、イスラム世界の先進性を知るいい作品あった。

幾何学は古代ギリシアで始まり、インドではゼロの概念が発見された。イスラム世界では両者の文化を取り入れて、高度な代数学を生み出したという。その代数学を表現できる数字が「アラビア数字」であった。一段目は、我々の使う(西方)アラビア数字。2段目がアラブ諸国で使う(東方)アラビア数字。最後はペルシアで使うアラビア数字である。

0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
٠ ١ ٢ ٣ ٤ ٥ ٦ ٧ ٨ ٩
۰ ۱ ۲ ۳ ۴ ۵ ۶ ۷ ۸ ۹

例えば10×10という計算を、アラビア数字を使えば左のように書けて計算できるが、ローマ数字ではゼロもないからできなかったという。数学や天文学が発達したことは、イスラムの礼拝の方角を知ることや、礼拝の時刻を知ることにも役立ったかもしれない。

イスラム世界が大きくなるにつれて、様々な社会問題や争いごともふえてきた。そのような状況から法の整備が必要であった。以前、イスラム世界における第一の法源はコーランであると説明したのであるが、このコーランの解釈のためにも法が必要であった。そして、シャーフィイー派、ハナフィー派、ハンバル派、マーリク派という四つの法学派が成立した(四大学派)が成立した。

アッバース朝(750~1258年)

ウマイヤ朝については少々はしょりすぎた感がある。その分、アッバース朝は盛りだくさんの内容となるだろう。何から話そうか。先ずは系図を見ていただこう。西暦750年から1258年までの37代、アッバース朝は、ほぼ500年続いた王朝であった。

初代カリフのサッファーフは若くして急死して、754年に異母兄弟のマンスールが跡を継いだ。彼がアッバース朝の事実上の創始者である。762年にメディナ、763年にバスラにおいてシーア派の反乱が起きたが、いずれも鎮圧することができが。自分の座を危うくさせるような人物は抹殺し、強大な力を持って国づくりに励んだ。彼の功績は全土を結ぶ駅伝の制度を整えたことである。その交通網によって全国の情報をカリフに集めることができた。それにより、彼は農産物や食料の価格、各地域での役人の仕事ぶりなどの情報を収集し実態を把握することができた。しかし何と言ってもアッバース朝初期の注目すべきことは首都バグダードの建設であろう。766年に完成したバグダードは円形都市として有名である。円形都市バグダードで検索すれば様々なイラストや画像がでてくるので、各自でご覧いただきたい。バグダードはティグリス川西岸にあり、この川を利用して海からのあらゆる物産と北イラクやアルメニアなどからも豊富な食糧が入手できた。またユーフラテス川はシリアからの物産を運んでくれた。3万のモスクと1万の公衆浴場が存在した大都市であったという。8世紀末には、ティグリス川の東側にも市街地が拡大して、その人口は百万人ほどであったという。

アッバース朝の最盛期は第5代カリフのハールーン・アッラシード(在位786~809年)の治世であった。バグダードはさらに発展・拡大していた。商人たちはイスラム世界を越えて、広く世界と取引していた。バスラ港からペルシア湾 ⇒ インド洋へでて、インドや東南アジア、さらに中国へと船が行き来していた。カスピ海からは北欧へ、地中海経由で南フランスへのルートも開かれていた。このようなルートを通じてバグダードには世界の物産が溢れていた。

第7代カリフのマームーンは「知恵の館」を建設した。ここではギリシア語による哲学・自然科学の書物を収集し、それをアラビア語に翻訳したのである。ハールーン・アッラシード時代にも「知恵の宝庫」というものがあったが、「知恵の館」では翻訳活動が組織的に行われた。その結果、ギリシアの哲学や科学がイスラム世界におおいて生かされ、更に成熟していったのである。ヨーロッパ人がギリシアの諸学問を知ったのは、イスラム世界を経由してのことなのである。

ウマイヤ朝 ⇒ アッバース朝

正統カリフ時代を経て、イスラム勢力はウマイヤ朝(661~750)となった。この王朝も百年足らずで滅びることになるのであるが、ウマイヤ朝の特記すべきことは、カリフが世襲になったことである。正統カリフ時代のカリフ選出については既に述べたように世襲ではなく選ばれていたとおりである。また、イスラムでは重視するのは血のつながりではなく、共同体(ウンマ)における同胞である。それがウマイヤ朝になってカリフが世襲ということになると共同体内にも首を傾げる者がいても不思議ではない。第5代アブドゥルマリクの治世になり中央集権化が進展した。行政文書がギリシア語、ペルシア語からアラビア語に変わった。つまりアラブ第一主義の傾向が強まっていったのであった。空前の大征服を行って、大帝国を作り上げたのであるが、被征服民である改宗非アラブ人たちの不満は強まっていった。

「ムハンマドの一族から皆が満足する人を指導者に選ぶ呼びかけ」がホラーサーン地方から広がった。ムハンマドの一族とは?ハーシム家か????。747年ホラーサーン全域を掌中に収め、さらにイラクに侵攻したアブー・ムスリムの軍はウマイヤ朝を破り、アッバース家のアブー・アッバースを指導者として擁立した。ウマイヤ朝の中の一部の難を逃れた人々が西方に逃れた。結局、ウマイヤ朝からアッバース朝に代わったのであるが、アリーの一族やシーア派がカリフを継承することにはならなかった。シーア派はイスラム世界ではスンニー派に対して少数派であるが、その後も絶えることなく存在してきた。

シーア派の系譜:初代イマームがアリー。2代目が息子のハサン。3代目が弟のフサインで、カルバラの悲劇の戦いで戦死。フサインには腹違いの弟がいたが、病弱のために戦いには参加せず、ウマイヤ朝の捕虜となるが、その後解放されてメディナに帰っていた。その彼アリー・ザイン・アルアービディーンが4代目イマームである。彼は息子11人、娘5人に恵まれて、シーア派の系譜は続くことになる。そして、その後の継承問題によりシーア派は分派していったのである。中央公論社・佐藤次高著『世界の歴史・イスラームの興隆』92頁から次の系図を引用させていただく。

前に述べたことがあるが、十二イマーム派が主流であり、現在イランの国教である。この12人のイマームは11人まですべて不慮の死を遂げている(殺されたのである)。そして最後の12代ムハンマド・アルムンタザルはシーア派では死去したのではなく、隠れていることになっている。940年のことであるが、お隠れになってしまったという。そして、末世になったときに再来してて民を救ってくれるという。いわゆるメシア(救世主)思想である。

余談ではあるが、1979年にイラン革命が成って、ホメイニ師がテヘランに帰国したとき、イランの新聞はトップ一面に最大の大きさの文字で「イマーム オーマッド」つまり、「イマームがやってきた」と報じていたことを思い出す。

アリーの派=シーア派の誕生

イスファハン(イラン)郊外のモスクで寛ぐ家族

前回からの続きである。アリーの死後、ムアーウイアがカリフに就いてウマイヤ朝(661~750)を創設した。首都はダマスカス(シリア)においた。イスラムの歴史としてはムハンマド⇒正統カリフ時代⇒ウマイヤ朝⇒アッバース朝・・・・と流れていくのである。アリーには二人の男子がいたが、四代目カリフの遺児として、それ相応の待遇をうけて静かに暮らしていた。ウマイヤ朝の時代もムアー・ウィアが死去し二代目になっていた。ウマイヤ朝はカリフを世襲する体制になっていた。そんな時代にクーファ(第四代アリーが拠点としていた地)のアリーの信奉者たちがウマイヤ朝に反旗をひるがえし、そこにアリーの次男フサインが担ぎ出されたのだった。これがシーア派の始まりである。正統カリフ時代の後のウマイヤ朝には同調せずに、自分たちの派をつくり、歩み始めたのだ。シーアとは「派」という意味である。それまでイスラムという一枚岩的な組織に新たな「派」ができた。それがシーアである。シーア派という言い方は「派派」というおかしな意味になってしまうが仕方ない。そして、シーアが支流なら本流のウマイヤ朝はスンニー(スンナ)派という。スンナとは規範・慣行などの意味がある。コーランや共同体で定められた規範に則っていきる派というような意味になる。詳細は省くが680年のカルバラの戦いにおいてフサインは戦死した。シーア派はこの時の戦いを現代でも昨日のことのように深い悲しみとともに抱いている。毎年アシュラの日が近づくと、カルバラの戦いの悲劇を再現した演劇(タージェ)が各地で開かれる。人々はそれを見て涙する。アシュラ当日には男どもが鎖で背中を打ち、こぶしで胸を叩いて町を行進する。女どもは泣きながら後を歩く。シーア派の最高指導者はカリフではなく、イマームという。初代イマームがアリーであり、2代目が長男のハサン、3代目が次男のフサインであるが、その後、幾通りかに分派していくのである。シーア派で主流が12イマーム派であり、今のイランのイスラムはシーア派のこの派である。

そうなると、シーア派とスンナ派の教義はどう違うかという疑問がでるのは当然である。が、両派にとっても、それ以外の諸派にとってもコーランが第一の法源であることには変わりない。その解釈の仕方にスンナ派では四大法学派の解釈に拠ったりする(派によって若干違ったりする)が、シーア派ではイマームの解釈に拠るとか。聖地にしても、シーア派は途中から独自の道を歩いたために、シーア派のイマームにまつわる地が聖地になる。例えば、先ほどのカルバラの戦いのカルバラ、イランのマシャドなどがあるが、メッカもエルサレムもシーア派にとっても聖地である。アリーはシーア派のイマームであるが、スンナ派にとっては正統カリフ時代のカリフであることに変わりはない。イスタンブールのアヤソフィアにはムハンマドなどと並んでアリーの文字が大きく書かれているのを見た人は多いだろう。スンナ派では決してやらない肖像画(例えばアリーの顔)をシーア派では飾ることがある。アリーの肖像画はイランでよく見かける。イマームザーデなどもはシーア派独特のものだろう。こまごまとしたことは、一通りの歴史が終わった時にまた個別に詳しく取り上げてみよう。今回は正統カリフ時代の終わりにシーア派が誕生したということである。基本的なことだけであるが、いつものように山川出版のヒストリカに掲載されている両派の違いを下に紹介しておく。

ムハンマドの死と正統カリフ時代

イスラムについて、六信五行のことが分かり、コーランのこともある程度理解してもらえたのではないだろうか。いずれにせよ、アラビア半島のメッカで誕生したイスラムがメディナやメッカを中心として広がっていったのであった。そして、ムハンマドは632年に死した。ムハンマドの時代を上に図示した。

そして彼の死後、イスラムを率いる後継者4人(4代)の時代に入る。後継者のことをカリフという。そして、この4人によって治められた時代を正統カリフ時代と呼ぶのである。それを簡単に図示したものが下の図である。この時代にイスラムは周辺地域に拡大していったのである。642年にはペルシアのササン朝とニハーヴァントの戦いで勝利し、ササン朝は651年についに滅亡した。イスラムの帝国が出来上がっていった。初代カリフのアブー・バクル(573~634)はムハンマドの友であり、人望厚き長老であったが故にカリフとして認められた。が、就任後2年で他界する。二代目はウマルであった(?~644)。在位634~644年である。就任後にイラク、シリア、エジプトの征服を指導した。イスラム帝国は彼の時代に急速な拡大をなした。そして、三代目がウスマーン(在位644~656)ウマルの死後、彼の遺言によって6名の長老の互選によって選ばれた。当初は順調な治世であったが、拡大した広大な征服地の戦士たちから不満分子も現れた。内部対立も生じ、過激な連中に殺害された。そして四代目がアリー(在位656~661)である。イスラムの誕生の項でムハンマドが叔父に引き取られた時に、兄弟のように一緒に育てられた従兄弟のアリーである。アリーが四代目カリフに就いたのであったが、アリーについては簡単に終わるわけにはいかない。話せば長くなる物語である。

アリーはムハンマドの従兄弟である。血がつながっている身内である。ムハンマドが亡くなり、初代カリフを選ぶときにアブー・バクルが選ばれたのであるが、ムハンマドの血を引くアリーを強く推す人々もいたのである。が、そうはならなかった。二代目選考のときにも、三代目選出の時にもアリーを推す人々はいた。いつしかアリーを信奉するようになった人々がいた。でも、そうならなかったということは、私見ではあるが、そこには何か理由があったのだろう。人間性、性格、リーダーシップ、優柔不断・・・・などなどが。そして、三代目を殺害した連中からも推されて、アリーはようやく四代目カリフに就任したのであったが、ウスマーン殺害に対して血の制裁を加えるべきだという人物と対立して争いとなってしまう。その人物とはシリア総督のムアー・ウィアである。両者の争いは決着がつかずに調停によって収拾することになったのであるが、そうなると今度はアリーの身内の過激な連中が調停に反発したのである。彼らはハワーリジュ派と呼ばれる過激な一派ということになっているが、その中の人物によって殺害されてしまったのである。

結局、ここで漁夫の利を得たのが、ムアー・ウィアであった。彼がカリフに就任することになったのである。そして、ウマイヤ朝を創設した。一方、アリーを信奉していた人々は、アリーの死後もアリーを偲び、アリーを慕う思いが強かった。

 

 

イスラムの啓典:コーランについて(2)

前回に引き続き、コーランについて述べよう。今回はコーランの内容の一部を紹介することにする。と言っても前回述べたように膨大なコーランの中身を逐一紹介するのは無理である。そこで、多くの人が「イスラムでは豚肉は食べない」「お酒は飲んではダメ」などということを知っていると思うが、そのようなものをいくつか取りあげてコーランではどう記されているのか見ることにしよう。日本語訳は前回紹介した日亜対訳クルアーンからの引用である。

1.豚肉を食べないことについて:第2章(牝牛)173節に「おまえたちに死肉、豚肉、そしてアッラー以外の名を唱えられ(屠殺され)たものだけを禁じ給うた。・・・・」。第5章(食卓)3節には「おまえたちには死肉、血、豚肉、アッラー以外のものに声を上げ捧げられたもの、窒息死したもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、肉食獣が食べたもの・・・・・禁じられた。」ともある。まだ他のところにも出てくるのであるが、とにかく豚は上記にようにコーランの中で特定して禁じられているのである。ついでに付け加えておくことがある。ここの文章のなかの「アッラー以外の名を唱えられ(屠殺され)たもの」「アッラー以外のものに声を上げ捧げられたもの」にお気づきであろうか。このことは非常に重要な意味をもつ。つまり、豚以外の動物の肉、例えば日本に来ているムスリムに対して、美味しい牛肉でおもてなしをしようとしても、それはダメなのである。中東では肉と言えば羊が一般的である。羊を屠るときには必ずアッラーの名を唱えなければならない。日本流に屠殺されたものは原則的には食べられないことになる。それを回避したのがハラール化されたハラール食品である。イスラム流に加工されたものであれば問題ない。それらにはハラール認証のマークがついている。

2.お酒を飲まないことについて:第5章90節「悪魔は酒と賭け矢によっておまえたちをアッラーの唱念と礼拝から逸らそうとしているにほかならない」。第2章219節「彼らは酒と賭け矢についておまえに問う。言え、その二つには大きな罪と人々への益があるが、両者の罪は両者の益よりも大きい」 酒は益もあるが害の方が大きいということを言っている。他の箇所には「ナツメヤシとブドウの果実からも。おまえたちはそれから酔わせる物と良い糧を得る。まことに、その中には思考する民への徴がある」などの語句があり、初期のころのイスラムでは結婚式での酒宴などがあったようだ。酒を飲むことが悪いのではなく、酔って我を忘れた行為がいけないとされ禁酒につながっていったように思われる。

まだ、2つの項目しか書けていないが、今日はこれまでに。

イスラムの啓典:コーランについて(1)

上の画像はコーランである。昔、私がテヘランの本屋で買ったものである。コーランは勿論アラビア語で書かれたものであり、世界中のイスラム教徒がアラビア語で唱えるものである。しかしながら、これはイランのものであるから、アラビア語の文言の下に非常に小さなペルシア語の文字で意味が書かれている。ペルシア語はイスラムの影響をうけてアラビア文字を使用しているので、彼らはコーランを唱えることには困らない。さて、今回のテーマはコーランである。六信五行の六信の一つである啓典が出てきた際に、コーランであるとしか書かなかったので、今回は詳しく説明しておこう。

コーランはイスラムにおける第一の法源である。コーランに書かれていることが最高の掟である。しかしながら、コーランに書かれていることだけで全てが解決するわけではない。そのようなときには創始者であるムハンマドの言行が引き合いに出される。そのようなことが伝承としてまとめられているのがハディースと呼ばれるものである。日本でも出版されているが今は入手困難かもしれない。

さらにコーランやハディースでは埒があかない場合はイジュマー(法学者の意見の一致)やキヤース(法学者がコーランやハディースの内容からの類推)に頼ることになるのである。

コーランはムハンマドが神から与えられた啓示をまとめたものであるが、ムハンマドがそれを生前に纏めたものではない。彼の死後、正統カリフ時代に後継者となったカリフたちが編纂したものである。コーランは全部で114の章から成り、章は節に分かれている。第2章には286の節があるが、第108章には3つの節しかない。それぞれの章には名前が付けられている。例えば、1開扉、2牝牛、3イムラーン家、4女、5食卓、6家畜・・・・という具合である。非常に分厚い本であり、秩序正しく、読みやすいような内容とは決して言えないと思うのであるが、興味深いことが書かれている。日本語訳(意味を日本語にしたもので、日本人の信者はそれをコーランとして読むものではない。コーランを詠むということはアラビア語で詠まなければならない)を昔、読んだのは井筒俊彦先生が訳された文庫本3冊であった。色褪せてしまったが手元にある。1冊300円だった。

私の手元には2014年発行のものがある。それは日亜対訳クルアーンという作品社発行の税抜定価4800円という高価なものであった。これは口語訳なので非常に読みやすいし、アラビア語も載っているのがすごい。

各章の最初には「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」という語句がある。信仰深きムスリムはコーランの大部分を諳んじているのであるが、普通の人はそうもいくまい。でも最初の1章、開扉の章、あるいは開端の章は暗唱している人が多いと思う。私もその章はアラビア書道で書くことができた。

コーラン(1)終わり、続く

 

 

「六信五行」の五行とは?

第一に信仰告白である。イスラム教徒になるということは、アッラーが唯一の神であることと、ムハンマドが神の使徒であることを最初に信じることから始まる。従って、イスラム教徒になろうとする者は証人の前で「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」という二つの言葉を唱えなければならない。これが信仰告白である。しかもその言葉はアラビア語で行わなければならない。「ラー・イラーハ イッラッラー」「 ムハンマド ラスールッラー」。我々日本人ならアラビア語で唱えるのが少々難しいかもしれないが、それを唱えるだけでイスラム教徒にはなれるのである。

第二は礼拝である。これはイスラム教徒でない人々にも良く知られていることであろう。彼らは一日に何度も礼拝するということが、特異の目をもって見られた時代もあったが、現代では文化の違いであるということが理解されており、礼拝に対する配慮もなされてきている。礼拝は一日に5回と決められている。日の出前。正午。午後。日没時。夜。時計のない時代の昔、人々はどのようにして礼拝の時を知ったのであろうか。日の出や日没、夜も空を見ればわかる。正午とは太陽が真上に来たことでわかる。午後というのはいつでもいいわけではなくて立った自分の影の長さが身長に等しくなるときである。それとは別に、どこにいても礼拝の呼びかけ(アザーン)がけたたましく鳴り響くことで否応なしに礼拝の時は分かるのである(笑)。礼拝の方向であるが、これは世界中どこにいるイスラム教徒もメッカの方向を向いて行う。現代ではスマホのアプリでメッカの方角も簡単に示してくれるし、礼拝の時刻もアラーム設定すれば教えてくれる。昔は昔で「キブラ・コンパス」というものがあったのだ。キブラとはメッカの方角を意味し、コンパスに自分がいる場所(地域)のメモリを合わせれば大体の方角がわかるのである。この方角であるが、イスラム初期にはメッカではなくてエルサレムであったこともある。また、礼拝の回数であるがムハンマドが天上に登り神に近づいたとされる伝説の際に、もっと多かった礼拝の数を5回にしてもらったというような話も聞いたことがある(真偽のほどはわからない)。皆さんはモスクに入ったことがあるだろうか。モスクにはメッカの方角に向けて壁にくぼみが造られている(ミフラーブという)。モスク内ではそれに向かって礼拝するのである。下にスマホに入れたアプリの写真。

3番目は喜捨である。豊かな人が貧しい人々に富を分け与えること。現代社会のように税を集めて社会保障に充てるような意味合いがある。一種の救貧税ともいえる。コーランには喜捨の用途はまずは貧者、生活困窮者に、・・・・奴隷の身請け、負債で困っている人、旅人・・・などと記されている。商売で利益があれば2.5%だとか農産物の?%だとかあるようである。また、エジプトでは毎日の売り上げからいくらかをサンドウク(金庫・基金)に持っていく姿をNHKの番組で見たことがある。

第4は断食である。イスラム暦の第9番目の月(ラマダーン月)の一カ月間、日の出から日没まで一切の飲食ができない。但し、十歳以下の子供、病人、旅行者、妊婦・授乳中の女性、・・・・などは断食をやらなくてもよい。断食の理由は色々な説があるが、私が二十代のときに付き合っていた同世代の人はこう言った「1年に一回1カ月間断食をすることで、普段十分に食を摂ることができない人々の思いを知ることができる。そのような人々に思いを馳せることができる。そして、月末に近づくにつれて、自分の精神が研ぎ澄まされるように感じ、心があらわれるようなすっきりした気持ちになる」と。断食という食を絶つということだけでなく、慈善行為をする、助け合いに励む、禁欲生活をすることなども心掛けるようである。

最後は巡礼である。イスラム教徒は一生に一度メッカへ巡礼するという行である。現代ならいざ知らず、昔は飛行機や車があるのではない時代であった。例えばインドネシアからメッカまで行くことは不可能だったのではないだろうか。その困難を克服して巡礼することに意味があったのかもしれない。あるいはイスラムがこのように世界中に広がることは想定外だったのかもしれない。余談はさておいて、巡礼とはメッカに行くのであるが、それはイスラム暦の第12番目の月の8から10日と定められた日に行かねばならないのである。そして、メッカのカーバ神殿の周りを七周ほど回ったりする礼拝の儀式を行い、その後、近くのラフマ山に行き、石投げの儀式などを済ませるのである。こうして巡礼を終えるとハッジという称号が与えられる。イスラム教徒にとってこれは大変な名誉なことであり、親戚、一族の誇りである。

 

「六信五行」の六信とは?

ムスリム(イスラム教徒)が信じなければならない6つのことと、実践しなければならない5つのことを合わせて「六信五行」という。言い換えれば、これがイスラムの教えと言ってもいいだろう。今回はその中の「六信」を取り上げよう。6信を上のような図にしてみた。

1.アッラー :神である。唯一絶対の神・・・・ほかに神はいない。

2.天使 :アッラーと地上との間をとりもつ。コーラン第35章1節「讃えあれアッラー、天地の創造主、天使らを使者に立て給う。その翼は二対、三対、または四対。数を増して創造なさるは御心のまま・・・」アッラーは天使を思いのままに創造できると書かれている。ムハンマドにアッラーの啓示を伝えた天使ジブリールは天使の中でも位の高い天使である。キリスト教で受胎告知を伝えたとされる天使ガブリエルのことである。

3.啓典:コーランである。福音書をもつキリスト教、詩篇と律法の書をもつユダヤ教、コーランを持つイスラム教はいずれも天啓の書をもつために、これら三者は同一のカテゴリーにはいるものとされ、啓典の民という。

4.使徒(あるいは預言者):文字通り神の言葉を預かり、人々に伝える者のこと。イスラムではムハンマドがそうである。が、面白いことにユダヤ教やキリスト教のモーゼやキリストもイスラム教の預言者なのである。イスラムからみた預言者の系譜が次図である(自由国民社『中東』より引用)。

5.最後の審判:審判の日があり、生前の善行・悪行により天国・地獄に別れる6.天命(神の予定):この世のすべてのことは神が定めた予定にそって展開。

これは私自身の思うところなのですが、ムハンマドはユダヤ教やキリスト教の延長線上にイスラムを作り、過去の2つを再構築しようとしたのであろう。ノアやアブラハムやモーセやキリストたちもイスラム側でも崇められるべき預言者となっている。ノアの洪水伝説など聖書にでてくる物語もコーランには現れる。もっとも洪水伝説はメソポタミア時代の粘土板にも記載されている物語ではある。ムハンマドが山で瞑想に耽っていたときに、啓示を伝えようと天使ジブリールが現れて「読め!」と言われたとき「私は読めません!」と答えたという。そのことから、ムハンマドは読み書きができなかったということなのであるが、彼自身はユダヤ教やキリスト教について非常に多くの知識を持っていた教養人であったのであろう。と私は思うのである。

イスラム誕生の時代背景

イスラムがアラビア半島の西部、紅海沿いのメッカに誕生したことはすでに述べた。今回は当時の中東地域の状態がどのようであったのか述べてみたい。ササン朝(226~651)がビザンツ帝国(395~1453)と争っていたこともすでに述べたが、上図で示す通り、両者の間では継続的な戦争状態が続いていた。そのことによって絹の道を通じて行われていた商業活動がリスクを回避するためにアラビア半島へ迂回するルートを選ぶようになっていった。インド洋からアラビア海にかけての水域は海にシルクロードと呼ばれるほどに商業活動が活発な海域になっていった。アデンやメッカ、メディナなどの土地が貿易中継地となって繁栄したのであった。メッカの富める商人たちとムハンマドが対立したのはそうような時代であった。元来、部族性を基礎とする遊牧社会のアラブでは互いに授けあう社会だったが、大商人が富を独占し貧富の差が拡大するという社会的な矛盾が激化していたのだ。