ルバイヤート紹介 ②

前回に続いて今回もルバイヤートとしよう。前回のように前置きはやめて早速私の好きな詩を岡田訳と小川訳で紹介していこう。

岡田恵美子訳『ルバイヤート』No.29
ああ、若い日々の書は早くも綴じ、
人生の歓喜の春も過ぎてしまった。
青春という愉悦(よろこび)の鳥は、
いつ来て、いつ飛び去ったのであろう。

小川亮作訳『ルバイヤート』No.35 では同じものがこうなる。
若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

 

岡田訳 No.99
ハイヤームよ、酒に酔うなら、楽しむがよい。
チューリップの美女と共にいるのなら、楽しむがよい。
この世の終わりはついには無だ。
自分は無だと思って、いま在るこの生を楽しむがよい。

小川訳 No.140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈のものがあると思って。

 

岡田訳 No.15
来て去るだけの一生になんの益がある。
この世を織りなす縦糸と横糸の交わりはどこにある。
われわれは罪もなくこの世につながれ、
そして燃やされて灰になる、その煙はいずこ。

小川訳 No.18
来ては行くだけでなんの甲斐があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻の輪につながれ、
身を燃やして灰となる煙はどこであろう?

 

ハイヤームの詩は私に次のように囁いているようだ:
酒を飲むなら、楽しんで飲めばいい
そこにチューリップのような美女がいれば、楽しめばいい
そんな良き日、青春はあっという間に過ぎ去ってしまうもの
いずれ煙と化す我が身、土と化す我が身なのだから

 

 

ルバイヤート紹介 ①

先般、ハーフェズの抒情詩を紹介しましたが、今回はオマル・ハイヤームのルバイヤートの中から、彼の詩を紹介します。既に、ルバイヤートについては過去にも述べたことがありますので、重複する部分があるかと思います。

オマル・ハイヤームについて:
オマル・ハイヤームは1048年に現在のイランのニシャプールの町に生まれ、1131年に没したペルシャの詩人である。ところが生前の彼は詩人として知られた存在ではなかったようだ。そのような彼を岩波文庫『ルバイヤート』の著者である小川亮作氏は、そのあとがきの中で次のように述べている。
「性来彼は学問を好み、数学、天文学、医学、歴史、哲学などの蘊蓄を極め、今日のトルクメン族の祖先がペルシアを征服して建てたセルジュク帝国(1037~1194)の新都メルヴヘスルタン・マリク・シャー(在位1072~1092)建設の天文台に八人の学者の主席として聘せられ、1074年同王の命によって、他の七名の学者とともに暦法の改正に当たり、後で述べる通りその正確さにおいて現代のグレゴリオ暦にもまさるほどの有名なジャラリー暦を制定したが、これは惜しくも採用されるにいたらなかった。」

「彼の科学的業績として今日存在を知られているものは、アラビア語による『代数学問題の解放研究』、『ユークリッドの「エレメント」の難点に関する論文』、気象学の書、恒星表、インド算法による平方および立方根の求め方の正確度を検した数学書等である。」

このように生前の彼は詩人としてよりも科学者として有名であったことがわかる。小川氏のあとがきによると、死後しばらくしてから、彼が書き残していた詩は伝えられたようであるが、今でいう大きなヒットを飛ばすことはできなかったようだ。そんな彼を詩人として世界中に知らしめたのは英国人フィッツジェラルドの翻訳がきっかけであった。彼についての詳細は省略するが、彼は1959年に250部のみの私家版として出版したのであった。最初、売れなかったこの詩集が、次第に陽の目を見るようになったらしい。

ルバイヤートの日本での翻訳本
私の手元には次の翻訳本がある。
小川亮作訳『ルバイヤート』岩波文庫、1949年第1刷発行
竹友藻風訳『ルバイヤート』㈱マール、2005年第1刷発行
岡田恵美子訳『ルバーイヤート』平凡社ライブラリー、2009年初版発行
小川と岡田の訳は原語からの直訳である。2番めの竹友の訳はフィッツジェラルドの英語訳からの和訳である。2005年発行とあるが、竹友訳が最初に発行されたのは1921年(大正10年)である。彼の訳は文語調の美しい調べの名訳であると思う。が、私自身はフィッツジェラルドの英訳が原典からあまりにも意訳すぎると感じているので、原語からの和訳の作品に拍手を送りたい。勿論、フィッツジェラルドの英訳は英語話者にとっては原典の調べを上手に訳した良い作品なのであろうと思う。でないと、世界中の人にルバイヤートの良さを伝えることはできなかったはずである。
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ここで一つの詩を紹介する。そして先述の複数の訳者による翻訳を味わってみてもらいたい。

これが原語のペルシャ語によるものである。ペルシャの詩はこのように美しいナスターリーク書体で書かれると、詩の調べまで感じることができるような気がする。通常反対側の頁にミニアチュールの絵が挿入されるのだ。
ナスターリーク書体に慣れていない人のために、同じ詩を活字体で示すと次のようになる。

ペルシャ語学習の初級者のテキストにはアルファベットでの表記がある。ペルシャ文字が読めなくても、美しいペルシャ語の調べを少しは味わえるかもしれない。

そして、初級学習者用には、ペルシャ語の意味を直訳した英語訳が示されているのである。それが次の通りである。

そこでルバイヤートを世界的に有名にフィッツジェラルドの翻訳が次の通りである。

原文ではBaghdadとBalkhとなっている地名はNaishapurとBabylonとなっている。Balkhは現在のアフガニスタンにある中世に栄えた都市である。Baghdadは言うまでもなく現在のイラクの首都である。アッバース朝時代に首都として建設された大都市である。フィッツジェラルドが訳出したNaishapurは現在のイラン北東部の町でオマル・ハイヤームの出身地である。Babylonはバビロニア王国の都でる。Naishapuru(私はいつもニシャプールと発音しているが)やバビロンにしても地名であるからそのままでいいと思うのであるが、フィッツジェラルドにはその都市の名前から浮かぶイメージがあったのであろうと思う。この彼の英訳から竹友藻風が訳した日本語訳は以下の通りである。

文語調、五七調なので、詩の雰囲気をうまく醸し出している気がする。中には難しい言葉が使われているために、すぐには意味が分からないような訳もあるが、この詩については分かりやすいと思う。

次に、原語から直訳された日本語訳を小川訳、岡田訳と続けて示そう。

色々な訳を紹介したが、これまでにハーフェズの詩の時に登場した黒柳恒男先生の訳が欠けていた。その書籍は私の手元にはないのだが、黒柳恒男訳注『ルバイヤート』大学書林発行である。そこでの訳は次の通りである。

フィッツジェラルド(竹友)、小川、岡田、黒柳の4人による日本語訳を紹介した。いずれが一番しっくりと心に響いただろうか。原文の語順と意味の取り方から、4人の訳のいいとこどりをした私の訳は次の通りとなった。

人生が甘くとも、苦かろうと、 命は尽きる!
そこがバグダートでもバルフでも、 酒杯が満ちるなら、
酒を飲め! 我らが(この世から)去った後も、
月は限りなく満ちては欠け、欠けては満ちる!

お疲れさまでした。ハステ ナバーシイ!

書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1

書評としたいところだが、それはおこがましい。ちょっとした感想程度を述べるだけだし、「このような本があるよ」というだけなので、書籍紹介とした。これからもそうしようと思う。

画像は岩波文庫の表紙であり、そこにアブー・ヌワースについて書かれているのが読めるだろうか。重複するが読みやすいように以下に書き留めてみる。「アブー・ヌワースは8世紀から9世紀にかけてアッバース朝イスラム帝国の最盛期に活躍し、酒の詩人として知られる。現世の最高の快楽としてこよなく酒を愛した詩人は酒のすべてを詩によみこんだ。その詩は平明で機知と諧謔に富み今もアラブ世界で広く愛誦されている。残された1000余の詩篇から飲酒詩を中心に62編を選訳。」

8世紀の人である。アッバース朝(750~1258年)の人である。アッバース朝といえば、このブログでも紹介した王朝である。バグダードに立派な円形都市を建設し繁栄した王朝である。第5代のカリフ、ハールーン・アッラシードが最盛期を築いたのであった。彼の在位が786~809年であるから、アブー・ヌワースは丁度その時代に生きた人物である。彼が生まれたのはアフワズ(現在はイラン領内)で747年から762年あたりと言われ、757年頃というのが有力な説であるとのこと(本書の解説による)。

早速であるが、先ずは彼の詩を紹介しよう。前述のとおり彼の詩は「酒」が主人公である。イスラム社会において酒は飲んでいいの?という疑問は後回しにしよう。

タイトルは「ユダヤ女」とある。ユダヤ女の処で飲む酒は、楽しさも倍増すると言っている。彼女は瞳がきれいで、月のように美しい。手のひらはしっとりと、ナツメヤシの木の芯のよう。まずはユダヤ女である。ユダヤ女が周囲にいて、酒場にいけばユダヤ女がいて、飲み交わすことのできる世界であったということがわかる。当時はアラブとユダヤ人が仲良くしていた時代であったようだ。アラブ人とは異なる目鼻立ちのユダヤ女を美しいと思い、その美しさは「月のようである」と詠っている。女性の美を月に例えるのがアラブだということもわかった。もっともアブー・ヌワースは純粋なアラブ人ではないようだ。生誕地がアフワズであり、両親はペルシア人であった可能性が高い。イスラム帝国がササン朝ペルシアを滅ぼしたあと、ササン朝の優秀な人材はその後のイスラム支配下の社会でも能力を発揮するように扱われたという。現代人が想像するほど民族や宗教の摩擦は少なかったことが一つの詩からもわかるのである。

アラブ人がユダヤ人と酒場で仲良くしていると書いたが、次の詩はどうだろうか。「ユダヤ人の酒家」という題である。

2節目「主人がイスラム教徒でないことが腰帯で分かったとき、我々はそれを喜び、彼は我々を恐れた」とある。ユダヤ人である彼はイスラム教徒の我々を恐れ、我々は上から目線の態度である。やはり両者の間には壁があるのであるが、客として軽口を叩ける社会のようだ。酒を禁じられているイスラム教徒にとってユダヤ人の店は逃避できる場であったのかも知れない。この詩はまだ続く、そして次の頁の最後の一節を見てほしい。

「礼拝の時が近づくと、急いで酒を注がせ、酔いどれて礼拝をやり過ごすのを君は見る」 

本書の解説によると、アッバース朝の最盛期には文化は爛熟し、生活が奢侈になった。そうなると、道徳の退廃も見られた。イスラムの下では、本来飲酒は禁じられているにもかかわらず、酒は半ば公然と飲まれたという。この詩で見るように礼拝に行かずに済むように酒を飲むということもあったのであろう。礼拝に行くべき時だということはわきまえているのである。でも、酒を食らうことにのって、礼拝に行かない理由付けをしているように感じた。「礼拝など糞くらえだ!酒持ってこい!」という気持ちではなく「礼拝に行こうと思ったのに、俺、酒飲んじゃったよ。」という心境ではないだろうか。

上の詩はどうだろうか。イスラム社会では普段でも酒が禁じられている。断食の月(ラマダン月)になると、なおさら酒はダメでしょう。でもこの詩人は「だが、我々はやってのける、人にはできないことを。」と詠う。「夜から朝まで飲み明かすのだ、大人も子供もみんなして。」「我々は歌うのだ、好きな詩を大声で。」「私に酒を注いでくれ、鶏がろばに見えるまで。」と。酒を飲み明かすのは大人だけではない。子供もみんなとは少々行きすぎだろうが。

この文庫本には62篇の詩が収められている。飲酒の詩をいくつか紹介したが、飲酒詩が38篇と半数以上を占めているのは、彼が酒の詩人と言われるからには当然のことである。が、残りの詩は恋愛詩が10篇、称賛詩2篇、中傷詩が4篇、哀悼詩1、たしなめの詩2、禁欲詩5の合計62篇である。称賛詩のひとつは5代カリフであるハールーン・アッラシードを讃える詩である。アブー・ヌワースとカリフは同時代の人であるが、それだけでなく実際に接点があったのである。その辺のことも興味深いことであるし、飲酒詩以外の詩も、もっと紹介したいので、今回のテーマは、書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1としておこう。

キーワード:アラブ飲酒詩選、アブー・ヌワース、アッバース朝、バグダード、ハールーン・アッラシード、ユダヤ、アラブ、ラマダン、禁酒、

オリエント世界 (1) メソポタミア文明からバビロン第一王朝

中東世界について2回書いたのであるが、アラブやトルコ、イランという前の中東世界があった。中国、インドとともに世界の四大文明であるメソポタミア文明とエジプト文明が中東地域で誕生した。現代世界において、政治・社会面で不安定な地域ではあるが、その昔、この地域は文明の開けた世界の中で最も発展していた地域であった。やがてこの地域はヨーロッパ世界からオリエントと呼ばれるようになる。その時代を大雑把に下図のように描いてみた。

メソポタミア文明を築いた中心はシュメール人であった。ウル、ウルク、ラガシュといった有力な都市が互いに競い合って発展していった。だが、シュメール人がどのような人々だったかは、いまだに謎とされている。

メソポタミアは世界で最も早く文字が発明された場所でもある。彼らの文字は絵文字の起源となり、やがて楔形文字に発展していった。文字は商業、経済、政治、文学といった多くの場面で使用された。メソポタミア周辺で発見された粘土板文書は50万枚にも達すると言われている。粘土板に記された有名な物語が『ギルガメシュ叙事詩』である。神と人間が入り混じった主人公ギルガメシュの物語で粘土板に書かれている。「ノアの方舟」の元と思われる洪水伝説が語られている。矢島文夫さんが訳出したものがちくま学芸文庫から出版されている(900円税別)。

図に記されたアツカド文明は紀元前2330年頃から約1世紀の間、シュメール時代に割り込むように栄えた。アツカド人はアラビア半島にルーツをもつセム系言語(アラビア語もセム系)を話す民族だったとされている。その次がバビロニアである。前2000年頃~前9世紀頃まで、中部イラクのバビロンを中心に栄えた。ハンムラビ王はメソポタミアを統一して帝国を築こうとしたが、多様な民族を統合するために制定したのが「ハンムラビ法典」であった。そのバビロニア王国もヒッタイトの攻撃により滅びた。