白色革命

パーラヴィー朝の二代目シャーはアメリカの庇護を受けることによって、次第に王としての立ち位置を安定化させてきた。私が初めてイランに行ったのは1971年の秋であった。長期駐在の予定であった。妻帯者の単身者は毎年1回の帰国休暇が与えられたが、独身者は2年に1回であったから、しばらくは帰国できないという覚悟での出発であった。深夜にメフラバード空港に到着して、市内へ向かう車の中からみた第一印象は「街路が明るい」ということだった。深夜なのでどこの店や会社も閉じているのであるが、どこも電気や照明が煌々と点いていたのである。ここは石油の国、火力発電で電気は豊富にあるのだ。このあと2年後の1973年になると第一次石油危機(オイルショック)が起きて、原油価格は4倍に跳ね上がった。産油国のオイル収入は急増した。イランでも石油収入を財源とした五カ年開発計画が打ち出され、開発プロジェクトに参加しようとして、外国企業がイランに押し寄せていた。

若干24歳でイランを訪れた私は、この国の前途洋々たる未来を感じた。石油のない日本にとってイランは重要なパートナーであり続けるだろうと思った。このころのシャーは自信に満ち溢れていた。近い将来、イランは世界の七大大国の一つになるのだと宣言した。彼の自信の裏づけは「白色革命(ホワイト レボルーション)」を成し遂げたことにあったのであろう。彼が成し遂げた白色革命を紹介しよう。

彼がシャーに就いたときに述べたように、彼は「強いイラン」を志向していた。したがって強い軍隊や兵器を望んだのではあるが、1958年に隣国イラクで王制が崩壊し共和制に転じたことなどから、安定した国家づくりには社会制度や教育の改革が必要であると考えるようになっていた。シャーの改革が始まった。その目標とは「すべての人々にパンを」「すべての人々に家を」「すべての人々に衣服を」「すべての人々に健康な生活を」「すべての人々に教育を」であった。そして最初の取り組みは農地改革であった。1963年1月9日、テヘランで開かれた第一回農業協同組合全国大会の席で改革の必要性を説き、次の最初の6項目を発表し、その後も立て続けに新たな項目を発表した。

  1. 農地改革・・・小作人への土地の供与
  2. 森林、牧場の国有化
  3. 国有企業の株式会社への転換と農地改革への協力
  4. 労働者への企業利益の配分
  5. 選挙法改正・・・完全な普通選挙の実施、特に婦人参政権の実現
  6. 教育普及部隊の創設。大学入学資格取得者が民間奉仕として村々に教育を広める。
  7. 健康部隊の創設。医学・歯学・看護学などの学生が地方の村で治療や講習を無料で行う(1964年1月21日)
  8. 開発部隊と復興部隊の創設ー農業の近代化。村、都市の近代化に協力する(1964年9月23日)。
  9. 「公正の家」と呼ばれる村の裁判所の設置(1965年)
  10. 全ての水資源の国有化(1968年)
  11. 全国都市計画。開発部隊がこれに協力した。
  12. 行政改革。国民教育の改革とも関連。6、7、8の部隊は「革命の兵士たち」と呼ばれ、彼らをボランティアの婦人や若い女性たちが支援した。そして、1975年には次の5項目が追加された。
  13. 大企業の株の49%までを労働者に売却。買い入れには国の資金が貸し付けられ、配当により返済できる(8月)。
  14. 消費者保護価格。統制によりインフレと闘う(8月)
  15. 無償初等教育義務化(8年間)。さらに中等、大学教育も受けた教育と同じ期間国家に奉仕すれば無料となる(12月)。
  16. 二歳までの新生児と母親に対する食糧の無償配布(12月)。
  17. すべてのイラン人への社会保障および年金の普及(12月)。最後に、1977年に2項目が追加された。
  18. 土地、建物の投機に対する闘いー土地価格、家賃などの上昇を抑制し、投機にブレーキをかける。
  19. 腐敗、収賄に対する闘い。

農地改革について彼はその著書『私は間違っていたのか』のなかで、次のようにのべている。「わたしは1941年、かねてから望んでいた私個人の所有になる農耕地を政府に移管した。この私の行動は農村の構造に変化をもたらす一種の革命であったために、当時の政府は何もしようとしなかった。そこで私は、政府に移管した土地を取り戻して、直接農民に分け与えた。モサデクが政権を握ると、またもや私の計画に反対した。私が思いのままに計画を運べるようになったのは、彼の失脚後のことである。」農民に農地を与えることは、それまでの地主階級の土地を取りあげることである。地方豪族などの大地主は当然この改革を望まない。イスラム世界であるイランではモスクも大地主である。モスクはムスリムからあらゆる物の寄進を受けるが土地もその一つである。宗教界が農地改革はイスラムを冒涜するものであると非難した。1963年1月、シャーは農地改革法案に対する国民投票を呼び掛けた。これに対して、国民投票をボイコットするように呼び掛けたのがホメイニであった。ホメイニは農地改革の是非だけでなくシャーの政治そのもの、例えば国防予算の無駄遣い、官僚の腐敗、文化の荒廃にまで言及して説教を重ねた。結局ホメイニはイランから追放になったのであるが、そのホメイニが1979年のイラン革命時において亡命先から帰国してシャーと入れ替わるという皮肉な運命が待ち構えていたのであった。

農地の権利書を与えられて喜ぶ農民たち。

白色革命の項目を追加していった1975年というと、私がイランに居たころである。私はシャーの改革の姿勢を高く評価していた。青年たちが地方に出向いて、教育兵団や開発部隊などとして社会を良くしようとしている姿に感動した。この国には資源がある。それは天然資源だけでなく、将来を担う人的資源が育まれようとしていると感じた。ただ、シャーからモサデクの話がでたが、モサデクの功績はイラン石油の国有化である。シャーとの対立はあったものの、モサデクは真の愛国者であった。それは多くのイラン人も感じていたことであり、モサデクは現在のイランでも英雄として国民の心にある。

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ペルシアからイランへ

話の順番をどうしたらいいのか悩むところである。カージャール朝ペルシアが崩壊し、パーラヴィー朝が成立した。この王朝の初代シャーがレザー・ハーンであった。彼は列強に負けない国造りをするために精力的に働いた。改革を進めた。国家の近代化に努めたことは国民の支持を得たが、次第に独裁性が強まっていった。また、次第にドイツに接近していく彼に対して、イギリスとソ連から圧力がかかり、結局追放されて息子(1919~1980)が後継者として第2代目のシャーに就いたわけである。1941年のことである。レザー・シャーはモーリシャス島に流されたあと、最後は南アフリカでこの世を去った。若き二代目の王は「私は帝位についたとき、難問の渦巻く島に投げ出されていることに突然気が付いた」と後に述懐した。彼は英ソと三国同盟を結び第二次世界大戦を切り抜けた。しかし、若き王は戦後深まった英露の対立の間で板ばさみになり、国のリーダーとしての実権を行使することができない状態が続いた。

国王とアメリカの関係が始まったのはこの時であった。1949年1月、アメリカの国務省がまとめた政策はイランについて「戦略的に重要な中東において、ソ連と国境を接する一連の独立国のうちで最も弱い一環」と述べられており、さらに二カ月後にはアメリカ大使が「私見ではソ連がイランに戻るのは“もし”の問題ではなく、“いつ”の問題だ・・・」と秘密報告を送っていた。アメリカはイランに1949年から余剰武器に供与を始めていた。国王は近代兵器を希望し、イラン軍のアメリカでの訓練を望んでいた。

1950年代に入り、戦後の民族主義に目覚めたイラン国民は資源ナショナリズムを訴えるようになった。1951年には民族主義運動の代表格であったモサデク博士が首相となり国民的な英雄となっていった。議会はモサデクが主導権を握り、国王の存在が薄れた。イランにおける石油開発、生産、流通を一手に担っていた英国籍のアングロ・イラニアン石油会社は国有化により石油産業のすべての資産が接収され、法廷闘争となった。1952年にはイランがイギリスとの断交に踏み切った。アメリカは国有化には反対であったが、アメリカの石油会社にとってはイランの石油界に参入する好機でもあった。イギリスは再びイランでの石油生産を望んでいた。英米の利害が一致した。その答えは「モサデクの排除」であった。権力を奪われようとしている国王とモサデクの対決が計画されていく。国有化により石油収入が途絶えた状況で給料をもらえない人々が増え、社会不安が高まる中で反モサデク運動が展開された。CIAはこのモサデク政権転覆計画をアジャックス(A Jacks)作戦と名付けて実行した。ザヘディ将軍がモサデクに代わり首相の座につき、国王は復権したのである。アメリカに庇護された国王はますますアメリカに傾倒していく。石油事業を再びスタートさせるために「イランコンソーシアム」が設立されて、その後のイラン石油産業を牛耳ることになる。当然そこにはアメリカが参入して、以後イギリスとアメリカの立場が逆転したのである。

表1は当時の中東諸国における石油産業を操る石油会社に対するメジャーズの出資を%で表したものである。イランのコンソーシアムにはメジャーズ5社が35%+米企業連合5%の40%の参入を果たしているのである。英、仏、米、蘭という当時の大国の石油メジャーズがすべて顔をそろえているのである。そのことにより、イラク、サウジアラビア、クウェート、バーレーンなどの石油についても話し合いで生産をコントロールできたのである。中東の石油生産を調整できるということは石油価格をもコントロールできたということである。中東においてメジャーズがやってきたことは、それはまた一つの歴史である。それについては改めて取りあげることにする。

冒頭の画像は1976年に発行された切手である。パーラヴィー朝第2代のシャーが王位についてから35年を記念した非常に大きい切手である。私はその頃にイランにいたので買ったものである。日本への手紙にも貼って受け取る人を驚かせたものである。

次回はシャーの改革について話をしよう。

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第一次大戦後の中東:イギリスの三枚舌外交

第一次世界大戦でオスマン帝国が降伏したのは1908年である。その後、セーヴル条約やローザンヌ条約を経て、現在のトルコが生まれたことは前回述べた通りである。さて、今回はそれ以外のオスマン帝国の領土であった中東地域の戦後処理について述べるわけであるが、それには第一次大戦の時にさかのぼる必要があろう。

  • 1915年:フセイン・マクマホン書簡:イギリスはオスマン帝国を攻略するうえでアラブを味方にする必要があった。イギリスはカイロに駐在していた高等弁務官であるヘンリー・マクマホンにイスラムの聖地メッカの太守であるフセイン・イブン・アリと交渉させていた。両者の交渉のやり取りが「フセイン・マクマホン書簡」と呼ばれるものである。そこには、彼らアラブ側がイギリス軍に参戦してオスマン帝国に勝利すれば、現在のシリア周辺にアラブ人の国を造ることを認めると約束したことは書かれている。ここでアラブ人を率いて大活躍したのが「アラビアのロレンス」である。
  • 1916年:サイクス・ピコ条約:イギリスとフランスは戦争中から、オスマン帝国の領土を分割して分け合うということを秘密裏に協議していた。その合意がサイクス・ピコ条約である。合意の内容は「シリア周辺はフランスの影響下に置かれる」というものであった。フセインに約束したことと、相反する協定であった。
  • 1917年:バルフォア宣言:1917年11月にイギリスはユダヤ人に対してユダヤ人国家の建設を支援することを表明した。バルフォア外相がロスチャイルドに充てた書簡で「ユダヤ人のためのナショナル・ホームをパレスチナに建設することを支援する」という内容で、「バルフォア宣言」と呼ばれている。

このようにイギリスは第一大戦後にオスマン帝国の領土分割について、矛盾する画策を行っていたのである。イギリスの狡猾なやり方は「二枚舌」ではなく「三枚舌」というべきものである。イギリスのどこが紳士の国であるのだろうか。このような経緯があったために、フセイン達はアラブの独立国家を樹立しようと行動を起こしたのは当然である。それを制して、英仏は植民地化へ動く。結果的にイギリスとフランスの委任統治領というものが誕生するのである。また、ユダヤ人たちも自分たちの国家を建設しようとして移住しようとしてきたのである。

  • 英国の委任統治領
  • イラクの地域・・・・・・・・後にイラク王国(1921年)⇒イラク共和国
  • トランスヨルダンの地域・・・後にヨルダン・ハシムヤット王国(1928年)
  • パレスチナの地域・・・・・・ユダヤ人流入⇒イスラエル独立宣言(1948年)
  • 仏国の委任統治領
  • シリアの地域
  • レバノンの地域

書いてしまえば簡単に見えるが、実際にはそうではない。アラブ人たちはフセインの息子たちがシリアの地域で独立を宣言すると、フランスが制圧するという戦争状態であったわけである。委任統治というと穏やかに委任されて治めてあげるように聞こえるが、体のいい植民地化である。そんなものがうまくいくはずがない。イラクとヨルダンの国にはフセインの息子を国王に据えて打開策を図ったのである。シリアとレバノンにしても、伝統的な大シリアという地域とレバノン地域の国境を作為的に線引きして、分離して団結させないように画策したのである。ユダヤ人とパレスチナ人(アラブ諸国対イスラエル国)間の紛争、いわゆるパレスチナ問題の原因もここに始まっているのである。まだまだ述べたいことはあるが、気が立ってくるので今日はこの辺にしておこう。

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立憲革命(カージャール朝ペルシア)

前回のタバコボイコット運動(1891年)はペルシアの利権をことごとく獲得していった帝国主義に対する抵抗であった。抵抗運動の中心であった宗教界の要人や有力商人たちの政治的発言力は高まっていった。そんな時代である1904年から日本がロシアと戦ったのであるが、東洋の小さな国がロシアという大国と戦ったことは中東世界でも大きな関心事であった。そして日本が日露戦争に勝利したとなると、日本という国の分析が始まったのであった。日本の勝利の要因は「日本が立憲君主国であったからである」と。

上の図で見るように、1905年から憲法の発布と議会の開設を求める運動が起きてた。そして、それを勝ち取ったのであったが、その時のシャー(王)が死去したあとに就任したシャーは1908年に議会を解散し、憲法も停止してしまった。これにより、ペルシア全国で反政府運動が湧き上がったのであった。カスピ海沿岸のラシュト市やイスファハーン市からは国民軍が結成されてテヘランに集結した。その結果、シャーを廃位に追い込み、新たなシャーを擁立して、国民国家を作ることにしたのであった。この流れが立憲革命と呼ばれるものである。しかしながら、ここでロシアが武力干渉して、議会の機能を停止してしまったのである。

カージャール朝は今度はロシアの帝国主義に翻弄されてしまった。そしてロシアとイギリスはカージャール朝の領土を勝手に線引きして自分たちの勢力圏を設定したのである。1907年の英露協商である。

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タバコボイコット運動

いつものように山川出版社のヒストリカから上の図を拝借した。カージャール朝時代のペルシアとアフガニスタンの地域の様子が簡潔にまとめられている。前回述べたようにイギリスやロシアがペルシアに対して影響を与えようとして近づいてきたのであったが、ペルシアはペルシアでまたアフガニスタンへ進出する野心も持っていた。それゆえにこの図ではアフガンがでてくるのである。アフガンの向こうにはインドがある。イギリスにとってはこの地域は対ロシアの戦略からも非常に重要な地域であった。

さてカージャール朝ペルシアはロシアとの戦争に敗れ、領土の一部は割譲することになったあとには社会不安が高まった。バーブ教徒の乱とでているが、イスラムから派生した新興宗教である。この流れをくむ宗教が今現在も存在して、ペルシアだけでなく世界に少しずつ広がっている。もちろん現在のイランではこの宗教は認められていない(本題から外れるのでここまでにする)。政治的に弱体化したカージャール朝は財政的にも破綻をきたすようになる。そこに目をつけたイギリスは多額の資金援助を王室に差し出すのである。援助と言っても貸付、融資である。王族はその金で贅沢三昧をしては、また融資を受ける繰り返しであった。イギリスはペルシアにおける様々な利権を要求し、それを獲得していった。例えばペルシアにおける紙幣の発行することまで売り渡したのであった。最も有名なのがタバコである。世界史では「タバコボイコット運動」として紹介されているものである。

1890年王であるナーセロッディンシャーがイギリス人のタルボットに50年にわたってタバコ売買の独占権を与えたのである。酒を飲めないイスラム世界のペルシアの人々にとってタバコは大切なものであった。これに反発した国民が一斉に起こしたのがタバコボイコット運動であったつまり好きなタバコを国民がみんな我慢して吸わないことを続けたのであった。そして、この利権の売買を取りやめさせることに成功したのであった。この大衆運動が成功したのは、聖職者たちの組織的な指令があったからである。組織的な反対運動が大きな力となった。直接的にはミールザ・ハッサン・シーラーズィーが発したファトゥワの効果が大であるが、注目されるのはアフガーニーであった。彼はイスラム世界が一団となって帝国主義と立ち向かう必要があると説いて、各地を飛び回った。名前からしてアフガニスタン地方の出身であろうが、バグダードで学び頭角を現したようである。

この運動は現在のイランにおけるナショナリズムの最初の出来事として歴史上特記される出来事になっているのである。

図には「タバコ・ボイコット運動」のしたに「立憲革命」というのがある。これについては次回にしよう。