ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!

 

さて、このビストゥーンの磨崖碑の位置であるが、写真でみると分かりやすいだろう。小生が下から撮った写真である。下の方で人物がいるところが道であり、この磨崖碑をみるには下から見上げるわけであるが、100m近い頭上のものを肉眼では見ることはできない。また補修用に足場が組まれているので視界が遮られるため、レリーフや碑文を見ることは不可能なのである。それを小生は目の前でみて、碑文を手で触ったのである。

目の前でみた碑文の壁が次の写真である。

ここは世界遺産である。管理事務所の方に案内してもらいたどり着いたのである。世界中の研究者たちから立ち入りができるようにとの要請が沢山くるそうであるが、許可することはないとのことであった。小生の場合は特別である。

そうそう、今回はこの碑文を解読したローリンソンの秘密を明らかにすることであったね。実はローリンソンはここに自分の名前を書いていたんだ!(現代なら大事な遺跡に落書き禁止!というものだが?歴史的な仕事だから、仕方ないよね。)それが、次の写真である。1844年という文字とH.C.Rawlinsonと他に二つの名前が見えるでしょう。

この写真は特ダネものではないでしょうか????

 

ビストゥーンの磨崖碑

上の絵はウィキペディアから拝借したものである。昨日からお話ししているダレイオス大王が王位に就いた際に造られたものである。ウィキペディアでは「反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ。描かれている人物は左から順に、槍持ち、弓持ち、ダレイオス1世。彼は僭称者ガウマタを踏みつけている。さらにその右に命乞いをする9名の反乱指導者がいる。左からアーシナ(エラム)、ナディンタバイラ(バビロニア)、フラワルティ(メディア)、マルティヤ(エラム)、チサンタクマ(アサガルタ)、ワフヤズダータ(ペルシア)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)、最後尾の尖帽をかぶっている人物はスクンカ(サカ)。反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ。」と書かれている。一人一人が何処の誰であるか特定できているのである。しかしながら、一度にすんなりと彼ら全員を征服したのではないことも分かっている。最後尾の男のレリーフはサカ族であるが、彼が征服されたのは他の者たちよりも遅い時代(BC520)であり、このレリーフもあとから彫られたのである。それに関する記述も新たに1欄が加えられているのである(それが第5欄という)。

実は信じてもらえないかもしれないが、私はこの断崖絶壁に造られた磨崖碑の前に登り、レリーフと碑文を眼前で見たのである。その話は改めてアップするが、レリーフの周辺に彫りこまれた文字にも圧巻されたのだった。頭が真っ白になるほどの興奮を覚えたのだ。紀元前520年頃の歴史的な遺産の前に立っている自分が信じられなかった。楔形文字の一部を下に示そう。

余はダレイオス、偉大なる王、諸王の王、ペルシアの王、諸邦の王、ウィシュタースパの子、アルシャーマの孫、アケメネスの裔。・・・・
王ダレイオスは告げる、アウラマズダーの御意によって余は王である。アウラマズダーは王国を余に授け給うた。・・・・

びっしりと書かれた碑文を解読したのはローリンソンであると昨日書いたが、彼はここに彼の足跡を残しているのである。それは次回のお楽しみにされたい。

 

ダレイオス1世とビストゥーンの磨崖碑

前回、カンビュセス2世の弟の偽者が現れ王位就任を宣言した後に、カンビュセス自身が急死したことを述べた。さて、その後であるが、後に第3代の王位に就くことになるダレイオス1世には彼を含めて7名の仲間がいた。彼らがスメルディスを偽者と見破り、BC522年9月末に偽王を殺害した。そこで、だれが王位を継承するかという問題が残った。ヘロドトスの『歴史』によれば、彼らの議論では決めることはできなかったという。そこで早朝に馬に乗って集まったあと、一番先に嘶いた馬に騎乗していた者が王位に就くこととしたとか。少々、うさん臭い話ではあるが、彼ら同志では決められずに籤のようなもので決めたということらしい。いずれにせよ、ダレイオス1世が王位に就いたのだ。

混乱した国家を鎮圧したのであるが、敵はスメルディスだけではなかった。アケメネス家の安泰を揺るがそうとする輩は各地に居たわけであり、ダレイオスはそれらを制圧して王位に就いたことを宣言した。彼はキュロス大王の直系ではないことを気にしていたようで、「自分はこの国に安泰をもたらすために悪い奴らを制圧して王位に就いたのである」ということを声を大にして訴えたのである。それが上に示したレリーフと周囲の碑文である。9人ほどの人物が手に縄をかけられてダレイオスの前に並んでいる。ダレイオスの足で踏んづけられている人物も一人いるようだ。これらは反逆者であり、彼らを制圧したのがダレイオスであるという意味である。また彼らの頭上には有翼神アフラマズダがいる。写真では分かりづらいから絵にしてみた。

有翼神アフラマズダのシンボルである。そして、ダレイオスは言う「アフラマズダ神は王国を余に授けたもうた」と。ダレイオスはアフラマズダ神の助けと加護のおかげで戦いに勝利したとして、彼の背後に神がいることを強調して権威付けを図ったのである。

このレリーフの周囲には楔形文字でダレイオスが王位についたことに関する記述がなされていて、「ビストゥーンの磨崖碑文」と呼ばれている。ビストゥーンはイランのケルマンシャーにある地名である。この碑文は3つの言語で書かれている。エラム語、バビロニア語、古代ペルシア語の3つである。そして、この碑文は解読されているのであるが、それは3つの言語で同じことが書かれていることから解読が容易だった(容易と言っても大変な作業ではあるが)。地上70m位の断崖絶壁にある碑文をどのようにして解読作業はなされたのであろうか。それは次回に譲ことにするが、それを行ったのはイギリス人のローリンソンであった。

アケメネス朝第2代国王「カンビュセス2世」

キュロス大王がアケメネス朝初代の王であるが、アケメネス家の存在は紀元前700年ころまで遡ることができる。上の図は山川出版社の『世界史図録ヒストリカ』に掲載されている系図の一部を拝借したものであるが、キュロス大王はキュロス2世ということになる。系図によると祖父がキュロス1世であり、父がカンビュセス1世ということがわかる。そして、キュロス大王は生前にカンビュセス2世を王位継承者に指名し、弟のバルディアには広大な地域の統治権と特権を与えた。カンビュセス2世はBC525~BC522年にかけてエジプトを征服し、さらにリビアから中央アジアにいたるまで帝国の領土を拡大したのだった。

カンビュセス2世は父親のキュロス大王とは性格が違い、短気で癇癪持ちであったと言われるが、彼は一人の国王の命令によって全国が統一されるような支配体制、つまり中央集権的な国家を望んだ。その結果、弟のバルディヤを暗殺したのであるが、暗殺されたはずの弟の偽者(マギ僧のスメルディス)が現れた。そして、この偽者はカンビュセスがエジプトの遠征中に王位就任を宣言した。カンビュセスは急いで帰還しようとしたが、そこで急死する。ということで、カンビュセス2世はあっけなくこの世を去ったのであるが、この偽者の王を巡って国は混乱する。このあたりの歴史については、ギリシアの歴史家で有名なヘロドトスが『歴史』の中で詳しく書いている。ヘロドトスが生きた時代がこの時代に近いこともあって、彼の『歴史』に書かれていることは比較的信頼性も高く、注目すべき内容なのである。

さて、カンビュセス後の後継者が系図では直系でないダレイオス1世となっているではないか。その辺りの経緯は次回に譲ことにしよう。

アケメネス朝ペルシア創設者キュロス大王の墓

前回、キュロス大王がユダヤ人を解放したと述べた。彼はアケメネス朝ペルシアを建国し、パサルガダエで新しい都の建設を始めたのであった。しかしながら、この都の完成を待たずしてキュロスは戦士した。というもののここには建設された宮殿などの遺跡が残されている。その後、都はスサやペルセポリスに移るのである。ここで最も有名なのが上の写真の背景である。キュロス大王の墓である。私の身長が丁度第一段目ほどであるので、高さは私の身長の8倍から10倍程度でしょうか。次回からアケメネス朝の歴史になります。

中東世界とは (2)

前回、数多くの少数民族がいると書いた。例えば、イランにはルール、バルチ、トルクメン、クルド、バクチヤーリなどがいる。アラブ人やトルコ人もアルメニア人もいる。でも中心をなすのはイラン人=ペルシア人=アーリア人であって、イランと言えばペルシア文化が基調の国である。

同様にトルコもそうである。中東問題のひとつでもあるクルド問題のクルド人達は少数民族ではない。しかしながら、東ローマ帝国を滅ぼして築いたオスマン帝国の主役はトルコ人であり、そこに築いたのはトルコ文化である。このような意味合いで、私は上の図を描いたのである。中東にはアラブとペルシアとトルコの3つの文化があることを認識してもらいたい。

強調したいのは「中東には数多くの民族、そして彼らの文化があるので一つではない。しかし、中東の文化には3つの中心的な文化がある」ということである。多くの人々はイラク人とイラン人は同じ中東の隣の国で同じような民族・文化であると思っているのではないだろうか。イラクはアラブであり、イランはそうではない。特にイラン人は同一視されることを嫌悪する。それは西洋人が我々をみて「チャイニーズ?」「コーリアン?」と言われたときの感情以上のものがある。シルクロードを通じて中国や日本に洗練された文化を伝えたササン朝ペルシアは初期のイスラム帝国=アラブに滅ぼされたのだった。