サウジアラビアとイランの国交正常化への動き


この画像は2016年にイランとサウジアラビアが国交を断絶した当時のものである。サウジアラビアや周辺の湾岸諸国、つまり王政の国々が1979年のイラン革命の後、自国への革命の伝播を恐れ、何かとイランと対立していたのであった。評論家は中東における覇権争いであるとか、シーア派とスンニー派の対立であると論じてきた。現代ではイエメンの内戦を取り上げて、反政府派のフーシーをイランが、政府をサウジが支援し合い、事実上はイランとサウジの戦いであるとも言われている。いずれにせよ、両国の対立は根深いものがある。

今回、中国の仲介で両国が国交を正常化に戻すことに合意した。既にお互いの大使館を開くことも具体的に進んでいる。昨日はイラン側が大統領に対してサウジから招待状が届いたと発表した。サウジは公には認めていない。外相同士の会談も準備中であると報道されている。両国の接近は世界中で概ね歓迎されている。しかしながら、この和解への道が中国による仲介であることから、「中国の思惑はどこにあるのか?」と、論説するメディアもある。でもそれはどうでもいいことではないだろうか。脱化石燃料と叫ばれるようになったのは最近のことで、過去の長い間、中東は世界のエネルギーの重要な供給者であった(いまもそうではあるが、化石燃料に対する重要性は減少している)。本来なら、中東のエネルギーに依存する比率の高かった日本が中東の安定のために、中東の紛争を解決すべく積極的に動くべきだった。パレスチナ問題がその最も代表的なものであるが、フセインのイラク、シリア問題、イラン・サウジの対立などの解決にもっと関わるべきであった。何もしないできた日本が、また西側の大国も今更中国による仲介に文句を言う資格はないだろう。中東が平和になるなら誰が仲介してもいい。イラン・サウジ関係がが正常化してもそれは中東の一部の問題解決にしかならないのは分かっている。また、それすら実際にどこまで進展するかはまだまだ未知である。

話は飛ぶが、いま習近平がロシアを訪問している。ロシアとウクライナの戦争終結のために提案するとかも言っているみたいである。それに対してまた「中国の思惑は?」と世界中が言う。私は中国がどういう思惑であろうと、この戦争は一日でも早く終わらすべきだと思っている。中国がロシアに武器を提供することを西側が批判するなら、西側もウクライナに武器を供与しないで欲しい。武器製造企業は莫大な利益を挙げているのだ。彼らは戦争は終わらせたくないのである。今日、岸田総理がウクライナを電撃訪問したと昼のニュースで報じられていた。どうせ行くならロシアに行って、「戦争を止めろ」と説得してもらいたい。北朝鮮に拉致された人々を取り戻すためには、北朝鮮に行って、「彼らを返せ」と連れて帰ってもらいたい。

アフガニスタンの民話:ムルグイとミロス

こんにちは。肩の調子は相変わらずですが、急に春めいて毎日20度以上の天気が続いています。このように暖かいと気持ちも晴れるような気がします。今日は2週間ぶりに整形外科に行ってきました。自分では手術の覚悟をしたので具体的に相談してきました。結論は私が選んだ人工関節の手術は今すぐ出来るのではなく、もう少し経過観察の後でないとできないということです。そういうガイドラインがあるそうです。それまで自然治癒的な回復をチェックすることになりました。もう既に二カ月経過するので、もう少し様子見です。今すぐに手術ということにはならなくて実はホッとしています。

それはそれとして、少し前にアフガニスタンのことを書きました。読んで下さった読者の方からメールを頂きました。「長い間探していたムルグイとミロスの本が手に入った」ということでした。私は、この本のことを知りませんでしたが、アフガニスタンの作品は珍しいので読みたいと思って調べてみました。そしてネット経由で古書店から入手することができました。次の画像がその表紙です。

「アフガニスタン民話集」です。この中に30の短編が掲載されていて、最初の作品が「ムルグイとミロス」でした。早速読んでみました。一人の青年の話ですが、結婚をして子供もいるけど、色々ややこしい経過の後で、村を出て、そこで出会った女性に恋い焦がれ、ややこしい経緯を経て、皆死んでいくというような物語でした。

私の関心を惹いたのは❶ラザル族という単語。注を見るとパシュトゥン族の一部、ユスフザイ族グループに属する。とあったことです。パシュトゥン族とは現在のアフガニスタンでも中心部族です。作品に部族の名前が出て来るところが、アフガニスタンが部族中心の社会であることが分かります。❷ところどころに「イスラム」が出て来ることです。例えば「おじのタウス・ハンがコーランを片手に立ち上がった」とか、「こうなるのがきっと神のみ心なのでしょう」とか「アラーの神は偉大なるかな」という語句もありました。
アフガニスタンの民話ですから、当然のことなのですが、これらのことから「確かにアフガニスタンの民話」だと、アフガニスタンらしいものだと感じたのです。

他にもまだ29の民話があるので、もう少し読んでから感想を述べようと思います。短いものは次の画像のようにわずか1頁の物もありました。

奈良のお水取りとペルシアの関係

 

前回(2月22日)、このブログに肩のMRI検査をすると書きましたが、その結果は「肩の腱板断裂」でした。かなりひどい断裂とのことでして、手術を勧められました。❶は切れた腱板を引っ張って肩に接合する方法ですが、腱板がかなり傷んでいるので劣化したゴムを伸ばしたら切れてしまうのと同じで、術後にまた切れる可能性が大きいとのこと。❷は人工関節を埋める方法。2014年に認可された現在最も進んだ手術方法で諸条件があるが私には適応できる方法。手術しなければ長い時間をかけて自然修復的な改善もあるが腱がきれているので腕を高く上げることができるようにはならないそうです。手術は全身麻酔で入院が1-2週間。その後1カ月は装具をつけて養生とのこと。中々大変な手術のようなので考え中ということです。来週、診察時に相談することにしています。心配してくれている読者がいるので、経過報告させていただきました。さて、めっきり春めいてきましたね。3月3日です。冒頭の画像は今朝の中日新聞に掲載された画像です。奈良東大寺のお水取りの儀式の前に若狭から御香水を送る儀式を紹介しています。このお水取りがペルシアと関係があることをご存知でしょうか。


若狭地方に春を告げる神事「お水送り」が3月2日、福井県小浜市の神宮寺近くを流れる遠敷川の河原で営まれた。古い伝説で、若狭と奈良は地下でつながっており、遠敷川に注がれた「香水」が東大寺二月堂の井戸に湧くとされる。ほら貝が響く中、白装束の僧侶が竹筒から香水を注ぐと、観光客らが幻想的な光景に見入った。(中日新聞サイトより引用)QRコードからは動画も見ることができます。

ペルシアとの関係がどこにあるのか?説明が難しいので既存のサイトの資料を引用させていただくことにします。サライのサイトからです。https://serai.jp/tour/44963

「お水取り」は旧暦2月に行なわれる、奈良に春の到来を告げる仏教行事。1年間の「悔過(けか)」、つまり罪・穢れを懺悔(ざんげ)し、洗い清め、かつ国民・国家の安泰を祈るのが目的である。二月堂本尊の十一面観音に祈願するので「修二会(しゅにえ)の十一面悔過法要」というのが正式名称である。
この行を始めたのは実忠(じっちゅう)という僧侶だ。東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正の弟子とされる。不思議な話だが、これほど大規模な仏教行事を創始した人なのに、生まれた年はもちろんのこと、亡くなった年もわかっていない。
実忠とはどんな人物だったのか--。実忠はイラン人であると唱えた学者がいる。浄土真宗の僧侶で、古代インドのサンスクリット語やイラン語の権威だった言語学者の伊藤義教(いとうぎきょう、1909~1996)である。
彼は「お水取り」のルーツが中国や朝鮮半島にまったく見られないことに疑問をもった。そこで『日本書紀』など、古代の資料を調べてみると、インドを始め中東のペルシア一帯から多くの文化人や宗教家が来日していることがわかった。例えば天平勝宝4年(752)に東大寺大仏開眼供養の導師を務めた僧侶、菩提僊那(ぼだいせんな)はインド人である。
伊藤義教は得意のイラン語を駆使して古代ペルシアの宗教を検証し、実忠という名前は古代ペルシャ語の「ジュド(異なる)」と「チフル(種族)」、つまり「異邦人」を意味し、ペルシアで栄えたゾロアスター教の教えや儀式を元にお水取りを構成したのだという大胆な説を立てた。実忠は、もしかしたら中国を経由せずに海路で日本へやってきたのかも知れない。
お水取りは2月20日から2月末まで別火(べっか)という準備期間と、3月1日から14日までの本行(ほんぎょう)からなる。この行事を担当する僧侶を練行衆(れんぎょうしゅう)という。練行衆は毎年11人が選ばれ、彼らは一旦行に入ると家族の不幸などがない限り、途中で抜け出すことはできない。
本行は昼の12時から夜中まで、6回に分けて行なわれる。基本的には同じ内容の繰り返しだが、途中ちょっと変わった特別行事がいくつも入ってくる。それがどのような意味を持つのか、じつのところ、すべてがはっきりしているわけではない。
その典型が、3月12日の深夜に始まる「お水取り」という行事である。
大きな咒師松明(しゅしたいまつ)を先頭に閼伽井屋へ向う練行衆。仏教行事というより神事といったほうがふさわしい。

大きな咒師松明(しゅしたいまつ)を先頭に、閼伽井屋へ向う練行衆。仏教行事というより神事といったほうがふさわしい。
深夜1時過ぎ、5人の練行衆が供を従え、二月堂下にある「閼伽井屋(あかいや)」という堂へ向かう。堂内には若狭井(わかさい)という井戸があり、そこから本尊の観音様にお供えする香水(こうずい)を汲み取る。闇の中での無言の行で、誰も現場を見ることができない。あまりにも神秘的な行事なので、この香水を汲み取る行がとりわけ有名になり、ついには「お水取り」が修二会全体の名称になってしまったというわけだ。閼伽井屋から汲み上げた香水を参拝者にふるまう。身体につけるとご利益があるとされる。

さて、その若狭井の香水だが、若狭国(福井県)にある遠敷(おにゅう)という所から地下を通って二月堂下の2つの穴から湧き出すとされている。なぜ若狭からなのか。古代の大陸文化の多くは日本海側から琵琶湖を経て奈良にやってきたからという説がある。しかし、先の伊藤義教によると、それは後世につけられた理由だという。そう語る伊藤が注目したのは、イランやアフガニスタンで造られている「カナート」という地下水路である。雨の少ない砂漠地帯では貴重な水を蒸発させないために、山間部から地下に直線の水路を造り、オアシスに水を供給した。若狭から東大寺までおよそ90km。もちろん、そんなに長い地下水路は存在しないが、貴重な水を遠くから運ぶことの意義がお水取りの神事に隠されていると伊藤は断言する。

中東と古代日本は、1000年以上前に太いパイプで結ばれていた。当時の人たちのほうが、現代人より世界を見る目がはるかに広かったのかもしれない。お水取りの期間中、練行衆は二月堂周辺の神社にもお参りする。神も仏も崇拝する日本的信仰といえる。文/田中昭三

ペルシアとの関係は以上の説明でお分かりでしょうか。こじつけで信憑性が疑問と思われる方も多いでしょう。でも、遠い若狭の国から地下を通って奈良にまで水を届ける物語。その由来は若狭の神様が奈良での集まりに遅刻したことを詫びて御香水を届けたとか。その周辺の物語はチムドンドンするのです。また、ここで紹介されている伊藤義教先生は私自身が学生時代に1年間講義を受けた思入れのある先生なのです。楔形文字の話などを思い出します。そして、イランのベヒストゥーンのダリウス大王の碑文(3つの言語で書かれている)には誤訳があるとおっしゃっていたことも覚えています。そんな影響を受けて私はベヒストゥーンの碑文を2011年に訪れたのでした。立ち入り禁止の地上70m以上の絶壁にあるのですが、世界遺産管理事務所と交渉して案内してもらったのでした。碑文の解読に成功したローリンソンが自分の名前を刻んでいるのを発見しました。そのことはずっと以前にこのブログに書いているのでご覧ください。

 

アラビア文字の面白さ

先日、左肩を痛めたけど少し良くなったのでアラビア書道の稽古も始めたとか、ブログも再開するよと言ったのでした。でも、中々痛みが無くなりません。そこで改めて別の評判の良い整形外科病院を訪れたのです。これまでの医院と同様にレントゲンを撮ったのですが、「腱が切れているようだよ。MRIで精密検査したほうがいいよ」ということでした。その検査までは少々日にちが空くのですが明後日なのです。そんなわけでこのブログも書けていませんが、今日は晴天で暖かいので、あまり腕に負荷のかからないことを書こうと奮起しました。そこで決めたテーマはアラビア文字のことです。
アラビア語には興味がない読者も多いと思います。私自身も
参考書は持っていますが、「アラビア語は難しいので手が出ない」状態です。が、アラビア文字には興味がありますし、好きです。アラビア語に興味ない人も今回はアラビア文字についてちょっと関心を持って見てください。

上にアップしたのはNHKラジオのアラビア語講座のテキストの「アルファベット早見表」です。アラビア語は28文字です。でも表を見て下さい。28文字が全然異なる形ではなく、ある文字の一つに点が一つ、あるいは二つ、三つついている文字がありますね。それらを一つとして数えたら、17個の形になります。覚えるのは簡単そうですね。今言っているのは独立系の文字のことです。これらの文字が単語の頭にきた時、文字と文字との間にきた時、語尾にきた時で形が変わったりするのが少しややこしいかもしれませんが、実際に書いて見ると、合理的になっているわけです。また後ろの文字に繋いで書かれない文字があったりもします。話を点のことに戻しましょう。

ب 英文字の b に相当します。
ت 英文字の t に相当します。
ث 英文字の th に相当します。th の日本人が苦手な発音ですね。
点の数で違う文字になります。点の数が非常に重要ということです。別の文字も見ましょうか。

ج 英文字の j に相当します。
ح 
英文字の h に相当します。
خ 
英文字の kh に相当します。
このように点の数で文字が変わるということがお分かりですね。次にアラビア語以外でもアラビア文字を使っている国(言語)があります。昔はトルコやインドネシアもそうでした。現在ではウルドゥー語やペルシア語がそうです。そこで面白いことが発生するのです。例えばアラビア語には P という音=文字がありません。でもペルシア語には P はペルシア語のPですから必須ですよね。そこで پ という文字が使われています。アラビア語では点を3つ付けた th がありましたが、それは上についていました。ペルシア語では下に点を3つ付けてPとしているのです。同様にアラビア語にはチ chi という音=文字がありません。日本人の千葉さんの名前を書くことができません。ペルシア語にはその音があるので文字が必要です。トルコ語でも必要でした。そこでできたのが چ です。上述したグループに点3つの文字が追加されて利用されているのです。そのような文字は5つあるのです。
まだまだ話したいのですが、少し腕がつかれました。今日はこの辺で終わりとしましょう。アラビア文字、如何でしたか?面白いと思われたら「いいね」ボタンを押していただければ嬉しく思います。

 

トルコ南東部で大地震

6日にトルコ南部で大きな地震が起きましたね。テレビニュースでは高い建物が倒壊する様子なども映し出されていました。

震源地は上の画像の地域でして、シリアとの国境近くです。地震の規模はマグニチュード7以上で、その後、9時間後にも7以上の地震が起きたとのこと。この地震による死者は時間が経過するにつれて増えつつあります。トルコ側だけでなくシリア側でも被災者が多数出ているようです。

映像を見ていると、やはり建物の耐震対策が日本のようにしっかりとられていないように感じますね。レンガ建ての建物もおおいようです。私が昔イランに居た頃の建物を思い出します。そのころの建物はやはりレンガ建てが多くありました。そして、そのレンガで床もふくのですが、梁と梁の間を緩やかなアーチ型にしてレンガを繋いでいました。ですから上からの圧力に対しては充分な強度があるのですが、梁を揺らされると、つまり横揺れが起こると、もろく崩れるのでした。幸い、滞在中に大きな地震には会わなかったので幸いでした。が、妻とは地震が起きた場合には食卓の下に逃げることを決めていました。建物が崩壊した時にまず一番に食卓のあるダイニングを探すということにしていました。もう40年以上も前のことですから、建物の構造も耐震性のある物に代わってはいるでしょうが、トルコの建物の崩壊現場を見ると、十分な対策ができているようには見えません。昔はレンガそのものが焼成煉瓦ではなく、日干し煉瓦も使われていました。雨が少ない土地ですからできた話ですが、地方の田舎に行くと、日干し煉瓦でできた家が沢山あったのです。今はどうでしょうか?トルコは雨も多いでしょうから、日干し煉瓦は使われないでしょう。それにしても今回のトルコ、シリアの地震による被災地にいち早く支援が届くことを祈るばかりです。

ブログ再開:ナイルの水を飲んだ者は、再び、そこ(ナイル)に戻る

肩の捻挫で暫くブログも休んでいましたが、2週間たってもまだ痛みます。でも少しは痛みが軽減したので少しづつ動かすようにしています。そこでアラビア書道の稽古をボチボチ始めました。書くのは右手を使うわけですが、左手で用紙を押さえる必要があります。押さえないと紙が動いてしまうので書けません。押さえる位なら左手でできると思ったのですが、机の高さに左手を乗せると当初は痛かったのですが、今日は何とかできるようになりました。そこで、今後稽古するのは次のお手本にしました。

しばらくの間、ペルシア書体(ナスタアリーク書体)でペルシア語の四行詩を稽古してきましたが、四行詩を書くとなると文字数が多いので、個々の文字は小さく、細くなります。そこで今回は大きな太い文字で書ける短い文にしたのです。用紙のサイズはA3です。偶々本田先生が書かれたお手本を頂いたので、これにしました。これを稽古して、上手く書けたら5月に名古屋で開く名古屋教室の作品展に出そうと思います。でも太くて大きい文字、それはそれなりに難しいものです。大きいと墨が足らなくてカスレてしまったりします。それはそれとして、何と書いてあるのでしょうね。

アラビア語の有名な諺というか言葉です。「ナイルの水を飲んだ者は、再びそこ(=ナイル)に戻る」という意味です。インターネットで調べるとこの言葉の意味を解説したものがいくつか出ています。言葉の意味通りにエジプトに再び縁があって再訪した体験談などが語られています。同じような諺は日本ではすぐには思いつきません。でも、一度訪れてまた行きたいなと思う所は沢山ありますね。私はイランのイスファハンの町です。何度も行ったことがあるのですが、また行きたいと思う美しい町です。

ちょっとお休み

先週、山歩き中に滑って手を故障したので、数日間、ブログを休みます。片手で入力は大変。

イランの反政府運動の行方

先週、中日新聞は2日にわたり「ヒジャブの下から・女性が変えるイラン」という特集記事を掲載した。
イランでは昨年秋頃から政府に対する抗議でもが、激化していた。きっかけはクルド人女性がヘジャブの着用が不適切だとして風紀警察に拘束された末に死亡したことに対する抗議だった。その抗議デモが各地に拡大して、反政府の大きなうねりとなってきたのである。鎮圧に乗り出した政府はデモの参加者の多くを拘束したが、衝突の過程で多くの死者がでている。また拘束された者で何人かは死刑を執行されたという。見せしめのための死刑執行であるが、それ以後、大規模のデモは姿を消しているが、国民の政府に対する控えめな抗議は続いている。

記事では、初めはクルド人女性の拘束後の死に対するものであったが、反政府運動にまで拡大したのは現在の経済悪化の状況に対する政府への反感であるとしている。米国の経済生活により経済は悪化し、ウクライナ問題のせいもあり物価はさらに上昇し、国民の生活は困窮しているのだ。

私はインスタグラムを利用している。そこでイランの人とも接点があるのだが、インターネットが常時つながる状態ではないと彼らは言う。また、この記事にも「女性・命・自由」というスローガンもインスタ上では飛び交っている。原語では زن  زندگی آزاد である。記事では真ん中の言葉を「命」としているが、命といういみでも間違いではないが、英語でいうと Life である。生活、人生の色合いが強いと思う。自分たちの生活が無茶苦茶だという意思表示であろう。風紀警察の車が姿を消したともあるが、一時的なものであろう。1979年の革命後にイスラム回帰した時代でも風委委員会が国中を席巻した。彼らはトヨタのピックアップを多く利用していた。その車の後ろ側にはTOYOTAの文字が浮き彫りされていた。当時はTOYOTAの車が怖いイメージを与えていたのだった。

アフガニスタン:国家の成立から共和国まで

前に紹介した渡辺光一著『アフガニスタン 戦乱の現代史』岩波新書にはアフガニスタンでの国家の形成について、以下のように記している。つまりはアフガン人達は周辺の強国に挟まれた地域に居住しており、これらの国に支配されてきたのであった。アフガン人が自分たちの国を形成できたのは18世紀になってからということである。

多民族に長い間支配されてきたアフガンに初めてアフガン人の王朝が成立したのは18世紀になってからである。18世紀初頭までのアフガンは三つの強力なイスラム帝国の支配下にあった。三つとはアフガン以北に展開してきたトルコ系民族のアストラハン朝、アフガン以西のペルシャに展開してきたサファヴィー朝、そしてアフガン以東のインドに展開してきたムガル朝である。これらの大きな国が勢力を競い、アフガニスタンはそれらの境界地域にあって支配されてきたのだった。18世紀になると、アストラハン朝とサファヴィー朝が衰退し始め、ムガル朝もイギリスの進出などにより国運が傾き始めていた。こんな中で急速に勢力を伸ばしたのが、カンダハールを地盤とするギルザイ族と呼ばれるパシュトゥーン人であった。1722年、ギルザイ族がペルシャの都イスファハンに進攻し、その壮麗さと富の大きさから「世界の半分」と呼ばれた都はあっけなく陥落したのだった。一方でアフガン南西部には部族の異なるアブダリ族が急速に勢力を伸ばし、1747年にはギルザイ族を倒すまでになった。彼らはパシュトゥーン人の伝統に従って、部族長の一人アフマド・シャーが王に選出された。彼は都をカンダハールに定めドゥッラーニー朝を創設した。そして、25年の短い治世の大半を領土拡大に励んだという(1772年、50歳で死亡)。息子のティムール・シャーが王を継承し、都をカーブルに移した。
これ以後を年表形式で列記する:
1747年 ドゥッラーニー朝成立
1826年 ドースト・ムハンマド・カーンが政権を握り、ムハンマドザイ朝成立
1839~42 第一次アフガン戦争
1878~80 第二次アフガン戦争
1880 アブドゥル・ラーマン・カーン即位
1885年 ロシアがアフガンに進出
1887年 英露、アフガン国境協定
1893年 英領インドとの間にデュランド・ライン確定
1914年 第一次世界大戦勃発
1919年 第三次アフガン戦争、アフガン独立
1929年 タジク朝成立
ナディル・シャー即位(~33年暗殺)
1933年 ザヒル・シャー即位(~73年)  1939~45年第二次世界大戦
1953年 ムハンマド・ダウド首相就任
1963年 ザヒル・シャー、ダウド首相を更迭
1964年 第三次憲法施行
1965年 初の総選挙。人民民主党結成。
1969年 第二回総選挙
1973年 軍事クーデターで元首相ダウドが大統領に。ザヒル・シャーが伊に亡命。
王制廃止。アフガニスタン共和国成立。

 

 

「シルクロード文庫」開設へ

1月3日付の中日新聞は上の記事を掲載していた。昨年亡くなった前田耕作和光大学名誉教授の遺志に基づいて「シルクロード文庫」という図書館を作るということである。新聞によると、前田先生はユネスコのアフガニスタン文化遺産保護国際調整委員などを歴任。自ら設立した「アフガニスタン文化研究所」の所長を務めた。2001年にタリバン政権が大仏とともに破壊した仏教画の修復に関わり、21年のタリバンの復興後は各国の専門家とともに現地の文化財の保護に努めた。図書館は今年の3月に開館するが、前田さんたち研究者が集めた貴重な本1万数千冊を収蔵するという。

丁度いまこのブログでアフガニスタンを扱い始めたところであったので、まさにタイムリーな記事だと思い、そのことをここに紹介した。多民族が交差したシルクロードの平和な交流の歴史が、紛争に明け暮れる今の世界に蘇ることを祈りたいものである。

実は私自身不勉強で前述の経歴の前田耕作先生のことは知らなかった。しかし、どこかで聞いたことがある名前だなと思い書棚をみていたら、次の文庫本が見つかったのである。
書名は「宗祖ゾロアスター」である。著者前田耕作とある。2003年発行であるから、ちょうど20年前の発行である。文庫本になる前に単行本ででたのが1997年なので、25年前の著作ということになる。私はペルシアに関する研究者なのでゾロアスターは当然専門領域なのでこの書も所有していたのである。ゾロアスター教やゾロアスターという人物に関する研究書は少ないので前田先生の功績は大なのである。人との繋がりがというものは意外と多いということを感じた正月だった。