新シリーズ「オスマン帝国」:⑩スルタンのトゥグラ(花押)

この画像は何かおわかりでしょうか。今回のテーマとしたスルタンの「トゥグラ」である。トゥグラというのは日本の花押のようなものである。今でいえば印鑑というか、外国ではサイン、署名に相当するものです。

私がアラビア書道を習っていることは、このブログでも何度かお話ししていますが、このトゥグラはアラビア文字をデザインしているのです。日本の花押と同じようにその人を区別するために他人とは同じではないように作っています。冒頭のものはスルタン・マフムード・ハーンのものです。年表を見ると在位1730~54のスルタンのようです。インターネットでトゥグラの語句で検索すると数多くのスルタンのものが出てきます。無断でここに引用するのは良くないので興味ある方はそちらでご覧いただければと思います。

アラビア書道をやっていると、最終的にはデザインに行きつきます。ナスヒー書体から始め、次にルクア書体を学び、次にディワーニーやスルスなどなどを経てナスタアリークへと続くのです(日本の書道の

楷書から行書、草書などと同じです)が、単にその書体で上手に書くだけでなく、それをどのような形にデザインするかということになるのです。その意味でスルタンのドゥグルはアラビア書道で最後に辿り着くゴールのように自分には感じるのです。

例えば、コーランの開端章の冒頭の語句(そして、全ての章の冒頭にもかかれている)は活字体で書くと以下のようになります。
بسمالله الله الرحمزالرحیم
これをアラビア書道のナスヒー体では次のようになります。二つとも同じ書体ですが、二つ目には伸ばした長い線があるのと左の方に湾曲したラインが描かれています。

そして、先ほどのトゥグラのようにデザインしたものが次の画像です。冒頭のスルタンのトゥグラとそっくりですね。

他にも三つほど次に紹介しておきましょう。いずれも先ほどの語句、通称バスマラと呼ばれるムスリム(イスラム教徒)にとって聖なる言葉です。

引用させていただいた資料は次の『図説・アラビア文字事典』です。ありがとうございました。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:⑦オスマン帝国の重要事項(重要語句)

1月12日には「1444年:メフメト2世(征服者)在位1444年~46が即位して、1453年にコンスタンティノープルを攻略した」ところで終わった。今回はオスマン帝国に関する重要事項を整理してみようと思う。

デヴシルメ:
オスマン帝国拡大の原動力となった一つがデヴシルメである。支配下にあったキリスト教徒(アルバニア、ギリシア、ブルガリア、セルビア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、ハンガリーなど、つまりバルカン半島の非ムスリムの諸宗教団体の教徒の少年を対象とした制度であった。7~17歳、時には18歳までの身体強健、眉目秀麗、頭脳明晰な者を徴収し、強制的にイスラムに改宗させた。少年たちは」赤い衣装(クズル・アパ)をまとい、先端の尖った円錐型の帽子を被り、イスタンブールに送られた。そこでそれぞれの適正に応じて訓練を受けて各種の任務に使用された。例えば、眉目秀麗、容易淡麗、知的な少年は選ばれて宮廷役務に服する道へと進み、将来は宮廷官僚の役職が約束された。残りの身体強健な者はトルコ語習得のためにトルコ人の下に預けられ、その後、軍人としての道を歩んだ。この制度で行われた徴用の最後は1703年であった。

イェニチェリ:
1354年以後オスマン帝国の領土が拡大すると、新たな戦力が必要となり、それを補給するために設けられた新しい兵士軍のことである。スルタン直属の歩兵軍団である。戦争捕虜の一部をトルコ人農家に預けてトルコ語を習得させ、ムスリムに改宗させたうえで軍人とした。これによって徴収された者の殆どがイニチェリとなった。イニチェリ軍団は16世紀頃まで精鋭部隊として規律正しく帝国の発展に寄与した。17世紀頃からはしばしば暴動を起こすこともあった。

スルタン:
前項でスルタンという語がでたので、説明すると、「スルタンとはイスラム法の施行・維持・正統派信仰の擁護する世俗の君主」である(帝国書院『世界史図説「タペストリー」』による)。平凡社『新イスラム事典』では「11世紀以後、主としてスンナ派イスラム王朝の君主が用いた称号・・・」とある。更に「オスマン朝におけるスルタン位は、1396年のニコポリスの戦の後、バヤジット1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けれたことに始まり、オスマン王家によって世襲された。」と記されている。要は君主、王様である。

ディーワーン:
イスラム国家の行政機関のことであるので、イスラム世界で広く存在するものであるが、帝国書院の世界史図説ではオスマン帝国では御前会議と括弧書きしており、「ディーワーンと呼ばれる御前会議では、軍事や行政、財政などの問題が扱われた。」とあり、その場の絵が載っており、そこには大宰相、宰相、国璽尚書(こくじしょうしょ)、財務長官などが描かれている。スルタンはその場には居なくて、窓から様子を伺っている。

ティマール制
建国から16世紀末にいたるオスマン帝国の国家と社会とを規定した軍事封土制。オスマン帝国の軍事力の中心をなしたシパーヒーと呼ばれる騎兵は封土から生じる租税の徴収・取得権を認められる代償として、平時には治安の維持、農業生産の管理、戦時には封土の多寡に応じた数の従士を従えて出征した。(平凡社『新イスラム事典』)要は騎兵に土地を割り当てる代わりに軍役を義務づけたわけである。