中東の石油(4):石油の発見(イラク・旧オスマン帝国領)

イギリスがペルシャ(イラン)の石油を手に入れた。次はドイツである。ドイツはオスマン帝国(トルコ)への進出を狙っていた。トルコでの石油開発のために「トルコ石油」が設立された。この会社の設立に参加したのは次の3社(3国)であった。

会社 出資比率
 イギリス アングロ・ペルシャ石油 50%
 ドイツ ドイツ銀行 25%
 オランダ ロイヤル・ダッチ・シェル石油 25%

ところが第一世界大戦が始まり、ドイツは敗北した。オスマン帝国もドイツ側についたが1918年に降伏した。従って、「トルコ石油会社」の出資者の構成は次のように変化していった。
先ず、ドイツの持ち分がフランスに譲渡された。その後、1922年にはアメリカ企業連合がアングロ・ペルシャ石油から25%を譲り受けた。つまり、英仏蘭米が各々25%を所有したのである。そして、各社が1.25%をグルベンキアンに譲渡して、最終的には以下の通りとなった。

会社 出資比率
 イギリス アングロ・ペルシャ石油 23.75%
 フランス フランス石油 23.75%
 オランダ ロイヤル・ダッチ・シェル石油 23.75%
 アメリカ アメリカ企業連合 23.75%
 個人 グルベンキアン 5%

グルベンキアンというのはトルコのアルメニアに生まれた男である。オスマン帝国のスルタンは石油開発の利権をあちこちに切り売りしていたために、トルコ石油を設立するときにフィクサー的な役割を果した男であり、今回も調整に貢献したのであった。そして、この会社は「トルコ石油会社」から「イラク石油会社」となったのである。イラク石油が石油を発見したのは1927年であった。ここに出てきたアメリカ企業連合というのはエクソンとモービルであった。両者が持ち株を1/2ずつ分け合った。このイラク石油会社という舞台に世界の主要石油会社が結集したことになった。イラク地方は石油埋蔵量が大いに期待できるところであったので、イラク石油のメンバーは、今後の石油開発に遅れをとることのないようにお互いが牽制する必要があった。そこで1928年7月に生まれたのが「赤線協定」であった。彼らは地図上で旧オスマン帝国領土の国境線を赤く引き、その赤線の中では抜け駆けすることは許されず、全員で分け前を享受するということを約束した。この協定が、その後の中東地域における石油利権争いに大きな影響を与えることになったのである。