アリーの言葉

先般『アラブのことばと絶景』を書籍紹介としてアップしました。その後、ボチボチ中を読んでいました。その中に正統カリフ第四代アリーの言葉がありました。上の画像の言葉です。「賢い人は最初に考えてから話し、愚か者は最初に話してから考える。」です。同じような言葉や似たような言葉は他にもあるような気がしますが、アリーがそう言っていたということが伝わっているのでしょう。

私は沖縄三線を趣味で弾くのですが、デンサー節には「むにいさざ慎め 口(フチ)ぬ外出(フカン)だすなよ。出(ウ)だしたら 又ん飲みぬならる デンサ」という部分があります。つまり「言葉は慎重にしなさい。 軽率な発言はしてはならない。 一度口走っててしまえば取り消しはできない。」という意味です。アリーの言葉とは少しニュアンスが違いますが、言葉を発するときはよくよく考えなさいという点では共通していると思います。

アリーについて皆さんはご存知ですか。正統カリフ第四代と先述した通り、イスラムの創始者ムハンマド亡き後の後継者がカリフです。4代目のアリーまでを正統カリフ時代といいます。ムハンマドは両親の死後、叔父に育てられました。その叔父の息子がアリーであり従兄弟になります。二人は兄弟のように成長してきたのでした。ムハンマドの娘ファーティマの婿でもありました。このようにムハンマドに最も近い関係にあったアリーなので、ムハンマドの死後の後継者となるべきだと主張する者達も大勢いたわけですが、初代カリフは長老のアブー・バクルが選ばれました。結局、アリーは四代目に就任したのではありますが、ムアーウィヤという人物との争いの結果、イスラムは分裂したのでした。この辺りのことはこのブログのずっと以前の「イスラムの歴史」の中に書かれている筈です。分裂した一方がウマイヤ朝になり勢力を拡大しました。一方、アリーを担ぎ出そうとしたグループは「アリーの派」と呼ばれます。派という言葉がシーアです。つまり、イスラムのスンナ派(スンニー派)とシーア派になるわけですね。シーア派はスンナ派と何が違うのかと気になる方が大勢いますが、基本的な部分はムハンマドの教え、コーランを信奉することに変わりはありません。コーランの解釈などで異なる部分がでてきます。また、シーア派ではアリーの肖像画を飾ることが多々見られます。偶像崇拝禁止に厳しいスンナ派では肖像画を飾ることはありません。私も軽々に物を言ったり、書いたりすることを慎重にしなければならないと思いつつ、今日はこれにてお終いにしましょう。

 

中東世界の女性たち:ハディージャ

ハディージャとはいうまでもなく、イスラムの創設者「ムハンマド」の最初の妻である。25歳頃のムハンマドと結婚したハディージャは40歳位であり、夫とは死別していた寡婦であった。裕福な商人であった。東京堂出版の黒田壽郎編『イスラーム辞典』では次のように説明している。色々な書籍で彼女についての記述を読んだが、これが一番詳しくて正しいように思えたので、拝借することにした。

彼女はクライシュ族のフワイリドの娘で二度の結婚歴を持ち、財産と独立を備えた裕福な商人であった。ムハンマドを雇い入れたハディージャは、彼をシリアに向う隊商の長として派遣したが、彼はその使命を見事に果たしている。誠実で責任感のある人がらに心を動かされたハディージャは、ムハンマドに結婚を申込んだ。時にハディージャは40歳、ムハンマドは25歳であったといわれる。この結婚はムハンマドにとって大きな意義をもつものであった。その一つは、メッカでの主たる活動である商業において、彼にその才能を磨く機会を与えたことである。さらに彼の精神的発展にも大きな役割を果たしている。
ハディージャにはワラカと呼ばれるキリスト教徒の従兄弟がいた。啓示を受けたムハンマドが、自分はユダヤ教徒およびキリスト教徒のそれと同じ啓示を受けているというい確信を持つに至ったのは、ワラカとハディージャの助けによると伝えられている。また預言者としての使命に確信を失った時、ムハンマドを励まし、確信を再びとり戻させたのはハディージャそのひとであった。彼女はイスラームに帰依した最初の人物であった。
ハディージャはムハンマドとの間に、女四人、男二人の子供をもうけたが、息子二人は夭逝している。ムハンマドにとって、ハディージャの信頼はきわめて重要であった。彼は生涯、妻を思い起こすたびに愛と感動と感謝の念にあふれたと伝えられる。
「この世にあるいかなる女性もハディージャには値しない。私を信じる者がいない時に、彼女だけが私を信じてくれた。皆が私の言葉を嘘とみなしたのに、彼女は真実であると受け入れてくれた。」
ハディージャはヒジュラの三年前、おそらく619年にこの世を去った。彼女が生きている間、ムハンマドは他に妻を娶らなかった。

他の資料を見るとハディージャは二人の夫と結婚の経験があり一人は生別、一人は死別とある。またムハンマドとの間の子供は三男四女であったとも。いずれも男子は夭逝しているのは同じである。また、ハディージャは生前ムハンマドに他の妻を持つことを許さなかったともある。(以上岩波の新イスラム事典)。大きな差異はないが、こちらのほうはムハンマドが自発的に他の妻を持たなかったのではなく、ハディージャが許さなかったと少々ニュアンスが違っているのが面白い。またハディーシャの従兄弟のワラカがキリスト教徒というのは、ネストリウス派キリスト教修道僧であるという資料もある。私はコーランを読んでいるとムハンマドは旧約聖書のことをよく知っていたんだなと思う。元々読み書きのできない彼がどうして知識を吸収したのだろうかと思ったものであるが、彼の周りにワラカのような人物がいたということで納得がいくのである。イスラム誕生以前のアラビア半島にはユダヤ教徒もキリスト教徒も沢山いたのである。
またムハンマドが隊商の長としてシリア辺りまででかけたのであるが、そのような長距離を駱駝でトボトボと灼熱の砂漠も通過したであろうに、大変な苦労をしたことであろう。冒頭の画像を参考にされたい。

 

 

イスラムを知る:ハディースの紹介

皆さんはハディースを知っていますか。上の画像は中央公論社発行、中公文庫の表紙です。第1巻から6巻まで6冊に上る大著です。今は絶版になっていて、古書で一冊5千円位しています。私は昔、定価で買うことができました。イスラムに馴染みのない人にはあまり縁のない物かもしれませんが、イスラム教徒にとっては聖典コーランに次ぐ非常に重要な文書なのです。インターネットでハディースを説明しているものの中から、手短に分かりやすいのをここに紹介しましょう。


世界大百科事典 第2版の解説
ハディース【ḥadīth】
広くは伝承一般,狭くは預言者ムハンマドの言行に関する伝承を意味するアラビア語。狭義のハディースは,預言者の教えを守り,その人間像を後世に伝えようとするサハーバ(教友)の自然の情に発し,彼の死の直後から数多く語り継がれ,8世紀にズフリーによって最初に収集・記録された。それは一方で,ムハンマド伝に始まるイスラムの歴史叙述の発達を促したが,他方,預言者によって確立された宗教的・倫理的・法的慣行=スンナをハディース研究によって知ろうとした学者たち,ハディースの徒を誕生させた。

わかりやすいと言いましたが、決してそうではないですね。要はムハンマドが生存中に言った事や彼がとった行動をまとめたものです。例えば、「Aという人がムハンマドに~~について尋ねたら、ムハンマドはこのように答えた」のようなものです。実際に読んでみると、大変疲れるものでした。
Aさんがムハンマドに~~について尋ねるとムハンマドはこう答えた、とBさんが言ったということを、Cさんが、Dさんより聞きつけた。などと回りくどい部分がいっぱいあって6冊全部を読むには相当の覚悟が必要です。正直なところ私は全部を読んでいません。でも、結婚式での酒についての記述などは興味深い物でした。初期のイスラムでは酒は全面的に禁止されていたわけではなかったことが分かりました。

イスラム社会はコーランの記述が全てです。でも、コーランの記述をどのように解釈すればいいか難しい場合があります。そのようなときの対処方法がいくつかあるわけですが、その一つとしてハディースに示されているムハンマドの言行録が役に立つわけです。

でもムスリムの人々の中に生きているハディースは、ハディースの中に示されている言葉です。いま私の手元にあるのは「40のハディース」というものです(次の写真)。これは私が東京にあるモスク、東京ジャーミーで頂いたものです。

この中に書かれている事柄をムスリムは日常生活の糧としているわけです。すべてをお示しはできませんが、いくつかを画像で以下にアップしておきます。良いことが書かれていると思います。

イスラムとは徳の教えである。

豊かさとは富の多さではない。豊かさとは心の満足(知足)によるものである


もっとも善き人とは、妻を大切にする人である。

イスラムの教えはこのようなものなのです。このような教えに逆らっている人は、イスラム社会に居てもムスリムではないのです。一部の過激なテロを引き起こすような人々はムスリムではないのです。ムスリムも我々と同じ人間なのです。