メソポタミア

このブログを始めてから2年と4か月ほどが経過した。時々、最初の頃の記事を見返すのであるが、最初の頃の記事は短くて、要点のみを記しているようである。だらだらと長く書くよりもいい点があるかもしれないが、今読んでみると、少々舌足らずというか、充実していないと反省をする部分も多い。そういうことを感じながら、過去の記事とは重複する部分もあるだろうが、自分の興味関心の強い部分を改めて書いていくことにしよう。幸いにも新しい読者も増えつつあるので、なおさらのことである。そんな言い訳を前置きしておいて、今回は上の図のバビロン第一王朝について書いてみる。

いつものように世界史の窓では次のように書かれている。
バビロン第一王朝:
セム系遊牧民アムル人が西方からティグリス・ユーフラテス川中下流域のバビロニアに侵入し、紀元前1900年頃、バビロンを都に建設し、メソポタミア文明を発展させ、前18世紀のハンムラビ王の時に全盛期となった王朝。バビロニアはメソポタミア中部地域をさす。王朝名としては、後の新バビロニアと区別して「古バビロニア王国」ともいう。アムル人はシュメール人(ウル第3王朝)を征服したが、楔形文字などその文化を取り入れ、メソポタミア文明の最盛期を生み出した。
その全盛期の前18世紀ごろの王がハンムラビ王で、彼は周辺の諸国を征服してメソポタミアの統一を回復し、交通網を整備、さらにハンムラビ法典をつくったことで有名である。
バビロン第1王朝はハンムラビ王の死後急速に衰え、カッシートなどに圧迫され、最終的にはヒッタイトによって前1595年に滅ぼされた。ここまでを「古バビロニア時代」ともいい、メソポタミア地域だけの時代が終わり、オリエントの統一という世界国家の段階にはいる。

非常に分かり易く説明されている。メソポタミア文明を生み出したのはシュメール人であった。ウルやウルクの都市国家を発展させた。このシュメール人の都市国家を征服したのがアムル人であり、バビロンを都として建国したのがバビロン第一王朝(バビロニア王国)というわけである。彼らはシュメール人が築いた文化をさらに発展させた。そして、その最盛期が紀元前18世紀のことで、その当時の王が6代目のハンムラビであったわけだ。ハンムラビ法典で有名な王である。

ウルやウルクの位置、バビロンの位置を上図で確かめられたい。メソポタミアとは、古代のギリシャ語で二つの大河に挟まれた土地を意味する。二つの大河とは、チグリス川とユーフラテス川である。イラクの首都バグダードの位置も示されている。バグダードはバビロンのすぐ近くであり、メソポタミア文明が栄えた地域に建設された都市である。バグダードが建設されたのはアッバース朝であるから、時代はもっと新しいわけではあるが。

私たちが子供の頃は、ハンムラビ法典は世界最古の法典と習ったような気がするが、現在ではそうではなく、ウィキペディアでは「ハンムラビ法典は、完全な形で残る、世界で2番目に古い法典である」と記されている。つまり、ハンムラビ法典はシュメール人たちが作った法典を基にして作成されたということのようだ。「紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典。アッカド語が使用され、楔形文字で記されている。」とも記されている。社会の教科書などで、ハンムラビ法典が刻まれた石を見たことがある人も多いのではないだろうか。岡山オリエント美術館のツィッターのサイトには次のような図がアップされていた。高さはどれほどでしょうか?というクイズである。
岡山市立オリエント美術館【改修工事で休館中】 on Twitter: "【オリエン太クイズ】ハンムラビ法典 楔形文字でたくさんの決まりごとがしるされている。 上部分にいるのはハンムラビ王と太陽の神シャマシュ。 右と左、どっちがハンムラビ王かな?そして、 ハンムラビ法典の ...【こたえ🍬】
左側に立っているのがハンムラビ王。右側に座っているのが太陽の神シャマシュ。王権の象徴を受け取っている様子を表しているよ。そして、ハンムラビ法典の高さは225センチメートルあるんだ!
ということである。2m25cm.

ハンムラビ法典といえば「目には目を、歯には歯を」という復讐法で有名であるが、その内容はともかくとして、そのような法律が、紀元前1800年というような大昔の時代に作られていたことは驚きである。前出の世界史の窓には次のように書かれている。
社会正義の確立と維持が作成意図
ハンムラビ王はこの法典の作成意図を、その前文で「そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、……わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された」と明確に述べている。また、後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、……、虐げられた者に正義を回復するために、わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べている。
このような、王権の責務の一つが社会正義の確立と維持であり、その実現のために裁判を行い、法を定めるという思想は、メソポタミア文明のなかでウル第3王朝のシュメール法典であるウルナンム法典にさかのぼることが出来る。ハンムラビ王がこの法典を作成したのは、周辺諸国を征服し、メソポタミアの統一を再建した治世37年(前1755年)以降のことと考えられ、領域国家を統治する王権の正当性をこの碑文で示したのであろう。

このハンムラビ法典が刻まれた石の現物は1901年にイランのスーサで発見されたのである。足跡をたどれば、紀元前12世紀にエラムの王により奪われたものである。そして、エラムは紀元前540年、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世に占領されて滅んだという。従って、アケメネス朝の王都で発見されたことは道理に適っている。そして、現在はパリのルーヴル美術館が所蔵している。レプリカは岡山のオリエント美術館で見ることができるそうである。

今回はここまでとしておこう。
2021年のゴールデンウイークが始まったが、コロナのせいで昨年に続いて、外出自粛の日々を送らねばならない。こんな時は、ゆっくり読書したり、机に向かってみるのもいいことかもしれない。

 

オリエント世界 (1) メソポタミア文明からバビロン第一王朝

中東世界について2回書いたのであるが、アラブやトルコ、イランという前の中東世界があった。中国、インドとともに世界の四大文明であるメソポタミア文明とエジプト文明が中東地域で誕生した。現代世界において、政治・社会面で不安定な地域ではあるが、その昔、この地域は文明の開けた世界の中で最も発展していた地域であった。やがてこの地域はヨーロッパ世界からオリエントと呼ばれるようになる。その時代を大雑把に下図のように描いてみた。

メソポタミア文明を築いた中心はシュメール人であった。ウル、ウルク、ラガシュといった有力な都市が互いに競い合って発展していった。だが、シュメール人がどのような人々だったかは、いまだに謎とされている。

メソポタミアは世界で最も早く文字が発明された場所でもある。彼らの文字は絵文字の起源となり、やがて楔形文字に発展していった。文字は商業、経済、政治、文学といった多くの場面で使用された。メソポタミア周辺で発見された粘土板文書は50万枚にも達すると言われている。粘土板に記された有名な物語が『ギルガメシュ叙事詩』である。神と人間が入り混じった主人公ギルガメシュの物語で粘土板に書かれている。「ノアの方舟」の元と思われる洪水伝説が語られている。矢島文夫さんが訳出したものがちくま学芸文庫から出版されている(900円税別)。

図に記されたアツカド文明は紀元前2330年頃から約1世紀の間、シュメール時代に割り込むように栄えた。アツカド人はアラビア半島にルーツをもつセム系言語(アラビア語もセム系)を話す民族だったとされている。その次がバビロニアである。前2000年頃~前9世紀頃まで、中部イラクのバビロンを中心に栄えた。ハンムラビ王はメソポタミアを統一して帝国を築こうとしたが、多様な民族を統合するために制定したのが「ハンムラビ法典」であった。そのバビロニア王国もヒッタイトの攻撃により滅びた。