ロシア・トルコ戦争(露土戦争)について

ロシアのウクライナ侵攻は依然として続いている。ウクライナ東部はほぼロシアが制圧したようであるが、ウクライナ側の抵抗は止まず、多くの市民が犠牲になっている。今回はオスマン帝国時代に中東で起きた「ロシア・トルコ戦争」を回顧してみよう。

まずはインターネット上の「世界史の窓」の記述を引用させていただこう。
17世紀末以来、ロシアにとっては、海上では黒海の制海権を得て、両海峡から東地中海方面に進出すること、陸上ではバルカン半島のスラヴ系民族を統合して勢力を拡大すること、いわゆる南下政策は、国家的野望であり、悲願であった。その地域はすでにオスマン帝国が押さえるか、その属国が治めており、ロシアが南下を図ろうとするかぎり衝突を避けることはできない。ロシアとオスマン帝国との間では、17世紀後半から19世紀後半まで200年間に、大小の戦争が12回に渡って行われている。それらを総称してロシア=トルコ戦争と言う。そのなかでもロシアのエカチェリーナ2世の時の2次にわたる戦争と1877~78年の戦争が重要。一般的にロシア=トルコ戦争(露土戦争)とは、19世紀のものに限定する場合が多い。

つまり、トルコとロシアの間では何度も戦争が行われたのである。

ピョートル大帝時代:
黒海北岸にもオスマン帝国の勢力圏が及んでおり、クリミア半島にはオスマン帝国を宗主国とするクリム=ハン国があったので、まずオスマン帝国に対して攻勢をかけた。ピョートル1世は、1696年、黒海につながるアゾフを占領した。その後、北方戦争が起こったため、バルト海方面への進出が主となった。1711年、北方戦争の最中、亡命していたスウェーデンのカール12世の意を受けたオスマン帝国がロシアに宣戦、プルート河畔の戦いでロシア軍が敗れたため、アゾフをオスマン帝国に一時返還する、ということもあった。

エカチェリーナ2世(在位 1762~96年)の時代
エカチェリーナ2世のときに再び南下政策が活発化し、オスマン帝国への侵攻が再開された。
第1次ロシア=トルコ戦争:1768年にロシア軍が、クリミア半島、バルカンに陸軍を進め、黒海では海軍がオスマン海軍を破る。1774年、キュチュク=カイナルジャ条約でダーダネルス=ボスフォラス海峡(両海峡)の商船の航行権などを獲得。ロシアのクリム=ハン国の保護権を認められた。しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアは、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国領に移り、救援を求めた。
第2次ロシア=トルコ戦争:1787年、オスマン帝国はクリミア=タタール人の要請を入れて、ロシアにクリミア半島と黒海北岸の軍隊の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して開戦となった。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を、オーストリアがロシアを支持したために、国際問題化した。ロシアとオーストリアは共に出兵し、特にロシア陸軍はオスマン帝国領内に深く進攻し、イスタンブル(コンスタンティノープル)に迫まった。1792年、イギリス、スウェーデンが手を引き、オスマン帝国は孤立したため講和に応じ、ヤッシーの和約で、オスマン帝国がロシアのクリミア半島領有を認めた。このクリミア半島併合は、ポーランド分割とともにエカチェリーナ2世の領土拡張の成功となった。
バルト海政情悪化の影響:ロシアとオーストリアが同盟してオスマン帝国との戦いとなったとき、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し出兵した。ということは、バルト海を巡る諸国のあいだの対立となるのでにわかに政情が不安定になり、バルト海の船舶航行ができなくなることを意味し、ポーランドやロシアからフランスに運ばれる小麦などの穀物がストップした。そのためフランスでは穀物価格が急騰し、1788年には折からの荒天による凶作が重なり、食糧不足・物価高騰が起こった。パリ市民には不満が鬱積し、それが翌年のフランス革命勃発のきっかけのひとつとなったのだった。

クリミア半島にはクリミア=ハン国があり、そこはオスマン帝国を宗主とする属国であったわけである。ハン国と呼ばれたことから、この国はジンギス=ハンの末裔のモンゴルの国であった。
クリミア自治共和国の位置
近代のクリミアは、1783年のロシア帝国によるクリミア・ハン国併合に始まる。1921年にはソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置されたが1945年に廃止され、代わって置かれたクリミア州は1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナが独立すると再び自治共和国の地位を得たが、2014年クリミア危機でウクライナ国内法を無視する形で一方的に独立を宣言。続いてロシアによるクリミアの併合が宣言され両国による領有権をめぐる対立が続いている(この部分はウィキペディア参照)。
今現在はクリミアのロシアの占拠を国際社会は認めていないわけであるが、こうして過去の歴史を振り返ってみると、領土などは常に変化し続けてきたわけである。日本のような島国では、そのような実感は殆どないのであるが。でも沖縄がかつては琉球王国であったが、いまは日本に併合されている。東北の北の方から北海道には倭人はいなくて蝦夷の地であったのを倭人が進出?していった。北海道へも退去移住して開拓していった。島国の日本であるからこの程度であったのだろう。陸続きで国々が存在する地域では、力によって現況を変えることは多々あったことを知るのである。今まさに歴史は繰り返すのを目の当たりに見ているような気がする。繰り返さないで欲しいのだが。

中東諸国❷:トルコ

ウクライナがロシア軍の攻撃を受けて大変な戦争が続いています。最近ではウクライナがアメリカと結託して化学兵器を使おうとしているから攻撃しているとか、戦争を正当化するための出鱈目な主張もしています。プーチンは狂ったようですね。
そんな中で各国がロシアを非難し、制裁を発動し、ウクライナを支援する動きが大きくなっています。また、両国間の仲介役をかって出る国もいるわけですが、トルコもその一つです。ロシアとウクライナの外相会議をお膳立てしましたが、結果は何も出ませんでした。そのトルコが今回のテーマです。
トルコもロシアとの間には苦い歴史があります。ロシアの南下政策で南へ進出したかったロシアはトルコの脅威でした。何度か戦争となりました。コトバンクには次のように書かれています。
【露土戦争】
18~19世紀を通じて,ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦われた一連の戦争。ロシア・トルコ戦争とも呼ばれる。不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。
簡単すぎてあまり大事件のように聞こえませんが、もっと詳しくは「世界史の窓」などを見ていただくといいでしょう。いずれにせよロシア軍の侵攻によってオスマン帝国が戦争の場になったわけです。

さて、トルコの国情についてです。今回も米国はCIAの資料を利用しています。自動翻訳なので妙な日本語文があるかもしれません。

概要 現代トルコは、敗北したオスマン帝国の残党から、後にアタチュルクまたは「トルコ人の父」という称号を授与された国民的英雄ムスタファ・ケマルによって設立されました。彼のリーダーシップの下で、国は根本的な社会的、法的、政治的改革を採用しました。一党支配の期間の後、複数政党政治の実験は、野党民主党の1950年の選挙勝利と政権交代につながりました。それ以来、トルコの政党は拡大しましたが、民主主義は不安定な時期と軍事クーデター(1960、1971、1980)によって崩壊し、いずれの場合も最終的には正式な政治権力が民間人に返還されました。1997年、軍は再び、当時のイスラム志向の政府の追放者(一般に「ポストモダンクーデター」と呼ばれる)の設計を支援しました。トルコは、ギリシャによる島の乗っ取りを防ぐために1974年にキプロスに軍事的に介入し、それ以来、トルコだけが認めている「北キプロスのトルコ共和国」の守護国として行動してきました。米国指定のテロ組織であるクルディスタン労働者党(PKK)によって1984年に開始された分離主義者の反乱は、長い間トルコの治安部隊の注目を集め、40,000人以上の命を奪ってきました。2013年、トルコ政府とPKKは暴力を終わらせることを目的とした交渉を行いましたが、2015年に激しい戦闘が再開されました。トルコは1945年に国連に加盟し、1952年にNATOの加盟国になりました。1963年、トルコは欧州共同体の準会員になりました。2005年にEUとの加盟交渉を開始しました。過去10年間、経済改革といくつかの政治改革が相まって、2015年から2016年まで続くトルコでは、アンカラ、イスタンブール、および主にクルド人の南東部地域全体での大規模な攻撃を含む、テロリストによる暴力の増加が見られました。2016年7月15日、トルコ軍の一部がクーデターを試みましたが、一般的な抵抗が広まったため、最終的には失敗しました。トルコ市民がクーデター軍と対峙するために一斉に街頭に出たとき、240人以上が殺され、2,000人以上が負傷した。政府は、失敗したクーデターを扇動したとして、フェトフッラーギュレンの国境を越えた宗教的および社会的運動(「ヒズメット」)の信者を非難し、運動の信者をテロリストとして指名した。クーデター未遂以来、トルコ政府当局は13万人以上の警備員、ジャーナリスト、裁判官、学者を逮捕、停職、または解雇しました。ギュレンの運動との関係が疑われる公務員。クーデターの失敗に続いて、トルコ政府は2016年7月から2018年7月まで非常事態宣言を制定しました。トルコ政府は2017年4月16日に国民投票を実施し、有権者はトルコを議会から大統領制に変更する憲法改正を承認しました。改正案は、2018年6月の大統領選挙と議会選挙に続いて完全に発効しました。
元首 レジェップ・タイップ・エルドガン大統領(2014年8月28日から国家元首、2019年7月9日から政府の長)。
政府代表 レジェップ・タイップ・エルドガン大統領
政体 共和制
首都 アンカラ
国土面積 783,562平方キロメートル (日本は38万)
人口 82,482,383(2021年7月推定)
This is the population pyramid for Turkey. A population pyramid illustrates the age and sex structure of a country's population and may provide insights about political and social stability, as well as economic development. The population is distributed along the horizontal axis, with males shown on the left and females on the right. The male and female populations are broken down into 5-year age groups represented as horizontal bars along the vertical axis, with the youngest age groups at the bottom and the oldest at the top. The shape of the population pyramid gradually evolves over time based on fertility, mortality, and international migration trends. <br/><br/>For additional information, please see the entry for Population pyramid on the Definitions and Notes page.
人種 トルコ語70-75%、クルド人19%、その他の少数民族7-12%(2016年推定)
言語 トルコ語(公式)、クルド語、その他の少数言語
宗教 イスラム教徒99.8%(主にスンニ派)、その他0.2%(主にキリスト教徒とユダヤ教徒)
経済概要 一人当たりGDP
$ 28,400    (2020年推定)
$ 28,200(2019年推定)
$ 28,300(2018年推定)
経済 トルコの主に自由市場経済は、その産業と、サービス部門によって推進されていますが、その伝統的な農業部門は依然として雇用の約25%を占めています。自動車、石油化学、および電子産業は重要性を増しており、トルコの輸出構成の中で従来の繊維および衣料品セクターを上回っています。しかし、最近の政治的安定と経済のダイナミズムは、国内の不確実性と安全保障上の懸念に取って代わられ、金融市場のボラティリティを生み出し、トルコの経済見通しを圧迫しています。

現在の政府の政策は、構造的な経済改革の実施が鈍化している一方で、ポピュリストの支出措置と信用破綻を強調しています。政府はいくつかの戦略的セクターでより積極的な役割を果たしており、経済機関や規制当局を利用して政敵を標的にし、司法制度に対する民間セクターの信頼を傷つけてきました。2016年7月から2017年3月の間に、法の支配と経済改革のペースに関する懸念を理由に、3つの信用格付け機関がトルコのソブリン信用格付けを格下げしました。

トルコは依然として輸入石油とガスに大きく依存していますが、より幅広い国際的パートナーとのエネルギー関係を追求し、再生可能エネルギー、原子力、石炭などの国内エネルギー源の使用を増やすための措置を講じています。トルコとアゼルバイジャニのアナトリア横断天然ガスパイプラインは、トルコとヨーロッパへのカスピ海ガスの輸送を増やすために前進しており、完成すると、トルコの輸入ガスの供給源を多様化するのに役立ちます。

2001年にトルコが深刻な金融危機を経験した後、アンカラはIMFプログラムの一環として金融および財政改革を採用しました。改革は国の経済ファンダメンタルズを強化し、2008年まで年平均6%以上の力強い成長の時代を迎えました。積極的な民営化プログラムはまた、基礎産業、銀行、輸送、発電、通信への国家の関与を減らしました。世界的な経済情勢と財政引き締めにより2009年にGDPは縮小しましたが、トルコの規制の厳しい金融市場と銀行システムは、国が世界的な金融危機を乗り切るのに役立ち、GDP成長率は2010年と2011年に輸出と投資として約9%に回復しました。危機後に回復した。

2016年以降のトルコのGDPの成長は、トルコ経済の根底にある不均衡が根強いことを明らかにしています。特に、トルコの大きな経常赤字は、成長の資金を調達するために外部投資の流入に依存しなければならないことを意味し、経済を投資家の信頼の不安定な変化に対して脆弱なままにします。その他の厄介な傾向には、トルコリラの対ドル安が続いていることを考えると、2017年に増加した失業率とインフレ率の上昇が含まれます。政府債務はGDPの約30%と低いままですが、銀行と企業の借入は過去10年間でGDPの%としてほぼ3倍になり、新興市場の同業他社を上回り、投資家は長期的な持続可能性について懸念を抱いています。

輸出入 輸出品
自動車および車両部品、精製石油、配送トラック、宝飾品、衣料品およびアパレル(2019)輸入品
金、精製石油、原油、車両部品、鉄くず(2019)