想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

ナクシェ・ロスタム(Naqsh-e-Rostam) 王の墓群

前回、アケメネス朝はアレクサンドロス大王によって滅ぼされたと書いた。次のテーマに移りたいところであるが、ナクシェ・ロスタムについて書き残しておきたい。ナクシェとは絵、ロスタムとはペルシアの伝説物語の英雄の名前である。英語で表記するとNaqsh-e-Rostam ペルシア語でنقش رستم‎ である。ここはペルセポリスから北へ約4kmほどのところにある王族の墓が並んでいる場所である。ビストゥーンの磨崖碑と同じように垂直に立っている岩山の壁面に造られている。墓は4つ並んでいるのだが、左の3つから少し離れた右の方に1つが少し左の方を向きかげんで並んでいる。一番左からダレイオス2世、アルタクセルクセス1世、ダレイオス1世、クセルクセス1世の順番である。前回の王の系図をみれば4人の関係がわかるであろう。

最初にここを訪れたのは1972年であったと思う。自分も二十代であった。その時には誰もいなくて、このような歴史的遺産に対する取り扱いに驚いたものだった。あれから何度も訪れた。日本から来訪者が来る度にイスラハンとペルセポリスを案内したついでにここにも来た。いつからか入場料(といっても囲いがしてあるわけでもないが)を徴収する人がいるようになった。金額も大した額ではないが、一応、歴史的な遺産として扱われるようになった。いつ行っても晴天ばかり(これはイランなら北のカスピ海沿岸を除いてほとんどのところがそうであるが)。青い空に磨崖壁の遺跡が美しく映えるのである。

ダレイオス大王の偉業② ペルセポリス

ペルセポリスはダレイオス大王が造ったペルシア帝国第三の首都であり、ここの宮殿跡が残っている。ピエール・ブリアン著『ペルシア帝国』によれば、「王家の食卓には毎日、王と側近だけでなく、高官から行政官、帝国内の諸民族の代表、王宮の衛兵、寵臣など、宮廷に仕えるすべての臣下ー総計1万5千人分の食事が用意される」とある。ここからも宮殿の規模の大きさがわかる。実際に現地を見ると乱雑に残された柱跡や、宮殿の門、壁面の様々な図柄の彫刻や楔形文字に圧倒される。様々なレリーフに描かれている人々は朝貢のために来た者たちで、その衣装や貢物の形から、どこの国から何を持ってきているのかが特定されているのである。ここでは講釈することはせずに、写真をアップすることでペルセポリスを味わっていただきたい。写真をクリックすると拡大されます。