アラビア書道でルバイヤート

アラビア書道をやっていることはまだこのブログには書いてなかったかもしれません。習いだしてからかれこれ5年にはなるでしょう。ナスヒー書体、ルクア書体を終えて、今はナスタアリーク書体(ペルシア書体)を練習しています。そして、今年の作品展の日程が11月に決まりました。まだまだ力不足なのですが、ペルシア書体で四行詩に挑戦しようとおもいます。それで先日、教室の先生に好きな詩のお手本を依頼しました。そして、書いてくださったのが上の写真です。なんと教室の先生ではなくて、本田先生が書いてくださったのでした。

本田先生は日本のアラビア書道界の第一人者というのは勿論ですが、世界のアラビア書道界の第一人者なのです。先生の作品は大英博物館にも所蔵・展示されているのです。マレーシアのイスラムアート美術館でも多数展示されているそうです。インターネットで調べると、素晴らしい先生の作品を見ることができます。もう文字というよりはまさに芸術的な絵画のような宇宙の世界です。頂いたお手本はまさに書道ですが、もったいないのでお手本はコピーを使うことにして、大事に取っておくことにしました。自分でこのように上手に書けることができる日が来るようにせっせと練習しようと思います。

この書について説明しましょう。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの四行詩ルバイヤートの中の一つです。岩波文庫の『ルバイヤート』の表紙には次のように書かれています。「生への懐疑を出発点として、人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを、短い四行詩(ルバイヤート)で歌ったハイヤームは、11世紀ペルシアの詩人である。詩形式の簡潔な美しさとそこに盛られた内容の豊かさは、19世紀以後、フィッツジェラルドの英訳本によって多くの人々に知られ、広く愛読された。日本最初の原典訳」そして、小川亮作の和訳が次の通りです。

  • 今日こそわが青春はめぐってきた!
  • 酒を飲もうよ、それがこの身の幸せだ。
  • たとえ苦くても、君、とがめるな。
  • 苦いのが道理、それが自分の命だ。  

また、ペルシア文学の研究者・岡田恵美子さんは次のように訳している。

  • いざ、青春のめぐりくる日、
  • 酒を飲もう、酒こそわが喜び。
  • その酒が苦くとも、とがめるな、
  • わたしの生命だから苦いのだ。

そして、小生は次のように訳してみました。

  • さあ、いま私は青春の真っただ中、
  • 酒を飲む、それがわが喜び。
  • その酒が苦くても良し、
  • 苦いのは我が人生だから。

キーワード:アラビア書道、四行詩、ルバイヤート、オマル・ハイヤーム、小川亮作、岡田恵美子、

白色革命後の1970年代のイラン

白色革命のあと、横道に逸れていたので軌道を戻そう。当時のイランは国王が近代化を進めるために教育の普及、経済発展を推進しようとしていた。そして70年代に入った。私が最初にイランに入ったのが1971年秋のことである。それから2年ほどたった時に第四次中東戦争が勃発したのだった。それが第一次石油危機(石油ショック)である。

インターネットの「世界史の窓」では第四次中東戦争を次のように説明している。・・・1973年10月6日、エジプト軍はシナイ半島で、シリア軍はゴラン高原で、一斉にイスラエル軍に攻撃を開始、不意をつかれたイスラエル軍は後退を余儀なくされた。エジプト大統領サダトの主導した奇襲作戦は成功を収め、中東戦争で初めてアラブ側が勝利を占めたかに見えた。しかし、ようやく体制を整えたイスラエル軍は反撃に転じ、シナイ半島中間で踏みとどまった。その時点でアメリカが停戦を提案、開戦後ほぼ1ヶ月で停戦となった。
十月戦争、ラマダン戦争、ヨム=キプール戦争 アラブ側ではこの戦争を「十月戦争」または「ラマダン戦争」といい、イスラエル側はちょうど開戦の日がユダヤ教の祝祭日ヨム=キプール(贖罪の日)だったので、「ヨム=キプール戦争」といっている。

この戦争でイスラエル軍不敗の神話が崩れ、エジプト大統領サダトはこれを有利な材料としてシナイ半島の返還をイスラエルに迫った。またサウジアラビアをはじめとするアラブ諸国の産油国の組織であるアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、イスラエル支援国に対するアラブ原油の販売停止又は制限をするという石油戦略をとり、さらに石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を4倍にしすることを声明した。これはイスラエルを支援する欧米や日本に大きな打撃を与え、第1次石油危機(オイル=ショック)と言われている。・・・・

戦争自体は短期間で終わったのであったが、第一次石油危機と言われたように、世界に与えた影響は非常に大きかった。石油資源を輸入に依存する日本では大騒ぎになった。ガソリンスタンドは営業時間を短縮する。テレビ局も深夜は放送をストップする。石油製品の枯渇するかもしれないと、買いだめが行われた。トイレットペーパまでが買いだめの対象となってパニック状態であった。1973年の秋に私は赴任から2年が経過したので1カ月の帰国休暇で帰国したが、上空からみる日本の夜景は暗かった。でも、日本はこれが契機となって省エネルギーを積極的に進めていったのである。

原油価格は4倍に跳ね上がった。産油国の石油収入が膨大なものとなった。イランも同じであった。国王は経済発展計画をどんどん進めようとした。経済五カ年計画が策定されて実行に移されていった。実行する途中でも計画はどんどん拡大されていって、計画規模も膨れ上がっていった。世界中からこの開発計画に便乗しようと企業が集まってきた。数多くの日本企業も進出してきていた。主要な商社は勿論のことであるが、メーカや通信事業社、技術援助の専門家達である。我々のようなコンサルタンツ企業はプロジェクトを立案しては国際入札にかけていた。我が社の当時のメインプロジェクトは石油ショック以前から取り組んでいたタレガン(Taleghan)プロジェクトであった。テヘランの西方にあるガズビン市の北方の山中をタレガン川が流れている。この川はこのまま流れてセフィードルード川となってカスピ海に通じる川である。この川をダムを造って堰き止めて、ガズヴィン平野に導水するというものであった。堰き止めた水を掘削したトンネルを通して流域変更するという大規模なものであった。タレガン川のダムは建設中であったが、ガズヴィン側に設けたジアラン堰はもう完成してすでに通水していた。建設資金は世界銀行の融資、設計と施工管理は我が社、建設コントラクターはドイツ、施主は水電力省であった。我が社は実績が認められて、そのあと、シスタン州や、ギーラーン州などでもプロジェクトを沢山受注していったのであった。

日本が参加したプロジェクトで有名なのがIJPCであった。イラン日本石油化学プロジェクトというもので、商社がオーガナイザーになって日本企業の技術を発揮した石油化学プラント基地の建設であった。有名なプロジェクトなので説明は省くが、我が社もイランに精通したコンサルタンツということで、一部業務を担った。例えば建設資材として必要なアグレゲートなどの調達プランなど、私自身は日本企業の従業員の社会保険の仕組みや手続きなどのアドバイザー的なことも引き受けた。でも、この大プロジェックとは後日イラン革命のために中途でストップしたことは言うまでもない。

話を国王の政治に戻そう。すでに1951年のイラン石油の国有化については述べている。結局は失敗に終わったのでしたね。そして、その後のイランの石油事業をスムーズに運営できるようにイランコンソーシアムという組織ができたという説明をした。分かりやすく言うと欧米の石油会社(メジャーズ)がイランの石油事業(油田の操業、精製、流通、販売)を牛耳ったということだ。その契約を国王は1973年の5月に変更することに成功したのである。契約は条件を変更して継続ではあるが、イランの油田の操業権を取り戻すことには成功した。テヘランの街のビルの壁には垂れ幕が下がって、このことを快挙とした。国王の手柄と奉った。

イランは活況を呈していた。開発が進められて雇用も増えた。地方からテヘランに出てくれば、何らかの職にありつける。すでにテヘランで働いている人は故郷の身内を呼び寄せる。と同時に諸物価が高騰しはじめた。最初私が借りたフラットは17,500リヤルであった。当時の為替レートは1リヤルが約4円であったから7万円ほどであった。地方の現場からテヘランに帰ってきた一人いのスタッフが泊まる広さはあった。その後、私は何度が引っ越しをした。しばらくはテヘランを離れてカスピ海沿岸の町ラシトでの勤務を経て再びテヘランに戻ってからの最後の賃料は9万リヤルであった。36万円という膨大な金額になっていた。1978年のことであった。これでは一般市民にとってもたまったものではなかった。政府は物価統制を打ち出すものの焼け石に水であった。そうなると市民の不満が高まる。政治への批判も当然でてくる。それらを取り締まることになる。SAVAKサバクが恐れられるようになっていた。SAVAKとは? 秘密警察のことである。少々話が暗くなってしまうので今日はこの辺までにしておこう。文中の写真は1975年カスピ海沿岸のプロジェクト現場を走り回っていたころのものである。

キーワード:イラン、白色革命、第一次石油危機、第四次中東戦争、石油ショック、原油価格、経済開発、国王