閑話休題:چهارشنبه‌ سوری Chahar Shanbeh Suri のこと

この数日は非常に暖かい日が続きます。名古屋は昨日18度で、今日はまた14度です。春が近くなりました。前に述べたことがあると思いますが、イランでは春分の日がノウルーズ、つまり新年になります。でも、今日はノウルーズを紹介するのではなく、その前に行われるチャハルシャンベ・スーリー (چهارشنبه‌ سوری ) について紹介しましょう。イラン暦とはイスラム暦の紀元と同じですが、春分の日を元日とする太陽暦であります。ですから、いまはもうイラン暦の12月です。12月は Isfandという名前がついています。日本なら12月は師走というのと同じことです。そして、ノウルーズ前の今年最後の水曜日の夜のお祝い行事がチャハルシャンベ・スーリーなのです。チャハルシャンベが水曜日という意味です。火のお祭りです。悪を象徴する暗黒に勝利する善を象徴する光を祝うお祭りです。この儀式の背後にある象徴性はすべて2500年以上以前のゾロアスター教に由来しています。だから、これはイスラムの伝統でもなく、アラブの部族や人々によって祝されるものではありません。ゾロアスター教に起源があるのですが、現在では宗教色の濃い行事でも、政治的な行事でもありません。これは暗黒の終わりを祝い、そして、希望に満ちた新たな光の始まりを祝うお祭りなのです。つまり、暗黒=寒い冬が終わり、光=暖かい春=新春・新年の到来を待ち望むお祝いの行事なのです。

人々は通りや路地で焚火を作ります。そして、歌いながら、その火の上を飛び越えます。歌の文句は 「あなたの赤(元気・健康)を私に、私の黄色(痛み・病)をあなたに!」というような意味で、無病息災を神に祈るわけです。

子供たちはお菓子を求めてスプーンや鍋を叩いて各戸を廻る qashogh-zani (スプーン叩き)ことなどもします。これはハローウィンと関係があるかもしれません。また、ku-ze shekastanといって、この一年の災いを打ち壊すというように、陶器を叩きつけて壊すとうようなことも行うようでした。

焚火の上を飛び越えるという行事から、私は日本でも同じような行事があることを思い浮かべるのです。全国あちこちのお寺などで火渡りの行事がありますよね。ゾロアスター教は2500年ほど前には存在していたし、紀元前10世紀ごろからとかも言われています。インドや中央アジア、中国などから日本にも伝わっている可能性もありますね。また、チャハルシャンベというのは水曜日のことなのですが、実際に行われるのは火曜日の夜なので、最初は不思議に思ったものでした。ここでも一つ勉強することになるのです。一日は日没から始まり、次の日の日没前に終わるのです。ですから、水曜日というのは火曜日の夜から、水曜日の夕方までなのです。

我が日本にも穏やかな平和な春がやってくることを祈って終わります。

画像の出所はイランのウェブサイト(tehran times, real Iran)より。

 

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オスマン帝国(4)

上の画像は講談社発行「興亡の世界史10」の『オスマン帝国500年の平和』である。サブタイトルも見えているが、そこには「イスラムの名の下に多民族が共有した帝国」とある。時間の余裕のある人は図書館ででも借りて読んでもらいたい本である。さて、このブログではビザンツ帝国を滅ぼした後の歴史について、この本に記載されている年表から主な出来事をピックアップしてみたい。

  • 1453年、コンスタンチノープル征服
  • 1460年、ペロポネス半島併合
  • 1469年、白羊朝との戦いに勝利して、中央アナトリアを支配
  • 1492年、スペインなどからユダヤ教徒を受け入れ
  • 1501年、イランにサファヴィー朝が成立
  • 1514年、サファヴィー朝にチャルディランの戦いで勝利する
  • 1515年、東部・南部アナトリアを征服
  • 1516年、シリアを征服
  • 1517年、エジプト征服。マムルーク朝を滅ぼす。メッカ、メディナの支配者となる。
  • 1512年、ベオグラード征服
  • 1522年、ロードス島征服
  • 1526年、モチーハの戦いでハンガリー軍を破る
  • 1529年、ウィーン包囲
  • 1538年、プレヴェザの海戦でヴェネチア・スペインの合同艦隊を破る
  • 1543年、フランスと協同でニース攻撃
  • 1557年、建築家シナンにより、スレイマニエ・モスク完成
  • 1571年、レパントの海戦でヴェネチア・ハプスブルク家などの連合艦隊に敗れる
  • 1574年、チュニス奪還。チュニジアを属国に。
  • 1579年、サファヴィー朝とコーカサスとアゼルバイジャンを巡って戦争始まる
  • 1587年、サファヴィー朝にアッバース1世即位し、コーカサス、アゼルバイジャンを奪還
  • 1606年、シリアでジャンボラットオールの乱
  • 1622年、イェニチェリが反乱。オスマン2世殺害
  • 1639年、サファヴィー朝とカスレ・シーリーン条約
  • 1672年、オスマン帝国ヨーロッパ側の領土最大に
  • 1683年、ウィーン包囲(第二次)失敗
  • 1699年、カルロヴィッツ条約。ハンガリー・トランシスヴァニアをハプスブルグ家に割譲
  • 1718年、パッサロイッツ条約。ベオグラード周辺を失う。

周辺諸国との争いを続けながら領土を拡大していったことが良く分かる。そして、このころから領土を逆に奪回されるようなことも起きてきていることも分かる。

  • 1740年、フランスがカピチュレーション改訂版を獲得。カピチュレーションとは生命・財産の安全,治外法権(領事裁判権,免税)などの保障を在留外国人に特権的に認めることを定めた国際的条約のことである。このような特権を一国に与えると、同じように強国から要求されることにもなるのである。

 

  • 1768~74年、露土戦争。チェシュメの海戦でロシア軍に大敗。1787~92年、第二次露土戦争。クリミアを露が併合。ロシアとの戦争はこのあとも何度か繰り返す。

次第にオスマン帝国は衰退へと向かっていく。この年表の所々にサファヴィー朝が出てきたのであるが、サファヴィー朝はオスマン帝国の東側、つまり今のイランに位置したペルシア帝国である。ペルシア帝国はアケメネス朝、ササン朝、そしてこのサファヴィー朝とまさに興亡の歴史そのものの帝国である。西のオスマンと東のサファヴィーが同時期に覇権を争った両国である。両者の関係はスンナ派 ⇔ シーア派の対立でもあるのだ。

キーワード:オスマン朝、サファヴィー朝、露土戦争、カピチュレーション、ウィーン包囲、プレヴェザの海戦、カルロヴィッツ条約、レパントの海戦

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オスマン帝国(3)ミマール・シナンを知ってますか?

多くの日本人がトルコ旅行をしているでしょう。そして、イスタンブールでモスク見学、バザールで買い物、少し遠出してカッパドキアやトロイの遺跡、コンヤで旋回舞踊を見たりとか。親日的な人々、美味しいトルコ料理(世界三大料理だとか)も人気のある理由でしょうか。オスマン軍楽隊が演奏するジェッディン・デデン(Ceddin Deden)は東洋的な響きもあり、私たちの心を鼓舞してくれるメロディーではないでしょうか。このように盛りだくさんの観光を楽しんできた方は沢山いることでしょう。そこで質問です。「皆さんはミマール・シナンのことを知っていますか?」

シナン(?~1588年)は土木工事のようなことを生業とする父親のもと、キリスト教徒の家庭に生まれた男です。オスマン帝国の仕組みの紹介の中に、デヴシルメという制度を紹介しましたが、シナンは正にそのデヴシルメで徴用されたのでした。そして、これまた紹介済みの図にあったように、イェニチェリ(スルタンの近衛兵)になるのです。とんとんと出世して軍団の長にまで昇格します。軍人として勤めあげたわけですが、この間にバルカン半島や様々な土地を訪れ、建築物や構造物に触れることから、そのようなものに対する興味・関心が強くなり、自らも勉強したわけです。軍の現場でも実際に土木・建築的な仕事をこなすようになったそうです。こまごまとしたことは、この程度にしておきましょう。

1539年にシナンは宰相から住宅を建設する役所の長官に任命されたのです。そして、・・・・で、晩年にはモスクの建築を手がけたのです。そう、今回皆さんに伝えたいのは、トルコを観光すると素晴らしいモスクを沢山見ることができます。シナンが造り上げたモスクも見ているのです。

オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしましたね。そして、ビザンツ帝国はキリスト教の立派な教会や建築物を造っていました。そこで、ビザンツ帝国がオスマン帝国に敗れた際に、彼らは「オスマンが俺たちに勝ったといっても、お前たちはこのような壮大なモスクや建築物はいつになっても造ることはできないだろう」と言い放ったとか。たしかに、キリスト教の大聖堂として建てられたアヤソフィアは立派です。あの大きなドームの屋根をイスラム教徒には造れはしないさ!といいうのが、敗れた側のセリフだったわけです。

シナンはオスマン帝国の建築家として見事にモスクを造り上げた人なのです。シェフザーデ・ジャーミイ、スレイマニエ・ジャーミイ、セリミーエ・ジャーミイなどが彼が建てた有名なモスクです。でも、もっともっと沢山あるのですよ。インターネットで調べると沢山でてくるので、自分で調べてみてください。

それはそれで、いいのですが、私は冒頭に紹介した夢枕獏さんが書いたこの文庫本を是非とも読んでもらいたいのです。アヤソフィアを見ながら、自分で作るモスクへの夢を実現するために努力する男の姿に引き付けられました。これは事実に基づいた小説なのですが、キリスト教徒の家に生まれた男が、いつかオスマン帝国というイスラム国家のために尽くしたという過程のなかに、葛藤がなかったのかとか、いろいろ考えてしまうのです。

キーワード:トルコ、オスマン帝国、ミマール・シナン、モスク、ビザンツ、アヤソフィア、

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オスマン帝国(2)スルタンとは

前回、「オスマン帝国のしくみ」という図を示したが、その支配構造の頂点には突然「スルタン」が現れていた。イスラム世界ではムハンマド亡き後の後継者がカリフと呼ばれていた。正統カリフ4人もカリフであった。その後のウマイヤ朝もアッバース朝も最大権力者はカリフであったではないか。ただ、アッバース朝の衰退とともにイスラム世界の分裂も進んでいたことは既に述べた。アッバース朝にはカリフがいる状況で、後ウマイヤ朝の指導者もカリフを名乗った。イスラム世界の頂点にたって共同体を牽引してきたのがカリフであった筈である。イスラムという宗教の指導者=精神的な指導者、同時にイスラムは政教一致的な共同体であるので政治的な、あるいは軍事的な面でも指導者の役割をもっていた。イスラム世界に1人というのが本来の姿である。

アッバース朝時代には、先ほど述べた後ウマイヤ朝とエジプトのファーティマ朝君主がカリフを名乗ったので、同時期にイスラム世界に3人のカリフが存在したことがある。モンゴルの侵入により、1258年にアッバース朝が滅び、カリフ制度は途切れる形になった。その後、マムルーク朝でスルタンを名乗るバイバルス1世がアッバース朝のカリフの末裔をカリフとして擁立した。スルタンの権威にお墨付きを与えようとする実権のない形式的な擁立である。1299年にオスマン帝国が興て、1517年にマムルーク朝を滅ぼすと、カリフはオスマン帝国へ連れていかれた。オスマン帝国には実権を有するスルタンとバックに形式的なカリフがいたわけである。

カリフやスルタンという位置づけをこまごまと述べてきてしまった。私の勝手な解釈も含んでいるが、分かりやすく言うと、江戸時代の日本でいうとカリフは天皇でスルタンが将軍であろう。さらにイスラム世界ではアミールなどという語句もでてくる。これは地方を統括する総督のような者が、権力を蓄えてきたときに、ある程度の自治を与えられたときに、称号として与えられたものか。大名に相当かもしれない。

オスマン帝国では、スルタンを中心にした国家運営が行われたが、一つは宰相を頭に政治・軍事が行われ、一方でイスラム法学者の最高位であるシェイヒュル・イスラム職の下でウラマー(イスラムの学者・宗教指導層)がイスラム教徒の生活になくてはならない存在であった。

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オスマン帝国(1)

いよいよオスマン帝国(1299~1922年)の登場である。前回、オスマン軍がビザンツ帝国を滅ぼしたと述べた。その強大化したオスマン帝国の歴史を一枚の図に表すと次の通りである(笑)。

オスマン帝国とはトルコ民族によって、1299年にアナトリアに建てられたイスラム国家である。第一次大戦後の1922年に滅亡するまで600年にわたり、西アジア(但し、イランを除く)、北アフリカ、バルカン、黒海北岸、カフカースの大部分を支配した。

  • 1326年にブルサを首都とする。
  • 1354年にバルカン半島に進出
  • 1361年頃にアドリアノープル(エルディネ)に遷都
  • 1453年、コンスタンチノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡させる
  • 15世紀末までに、バルカンとアナトリア全土を支配
  • 1517年、エジプトのマムルーク朝を滅ぼして、メッカとメディナの保護権を獲得=このことはスンナ派イスラム世界の盟主を意味する。そして、アッバース朝の衰退とともに失われていたスンナ派の統一の回復でもあった。そして、シーア派政権のサファヴィー朝が大国化し、相争う構図が成立していくのであった。

トルコ人は支配下にあった非トルコ人を同化させようとはしなかった。支配者として役人や兵士を派遣することはあったが、一定期限を越えて常駐することはなかった。トルコ人の居住地域に帰るか、また別のアラブ人たちの居住区に転勤するような形であった。トルコ人たちが戦ったのはアラブ人ではなく、アラブ人たちを支配していたマムルーク朝という体制であった。そして、支配下に置いたアラブ地域では彼らに自治権を与えていた。トルコ人の多くはアラビア語を習得する必要はなかったが、トルコ語の中にはアラビア語の語彙が入っていった。また、アラビア語の知識がなくては法の基盤であるイスラム法(シャリーア)を理解して維持することができなかった。いつものように帝国書院のタペストリーを見ると、「オスマン帝国のしくみ」は次のように図示されている。

  • ティマール制とは建国から16世紀にいたる国家と社会を規定した軍事封土制。江戸時代の将軍と大名のような制度。
  • デヴシルメ制とは、バルカン半島方面のキリスト教徒農民の少年を対象に、所定の手続きを経て必要な人数の徴用を行った制度。スルタン直属の近衛師団の補充などに充てた。

オスマン帝国の領土の図である。スルタンの時代別に色分けがされている。遠くはウィーンにまで遠征をおこなったのである(1529年と1683年)。

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ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の最後の戦い

前回はモンゴルが来襲してイル・ハン国を初めとした複数のハン国ができたと述べた。以前掲載した歴史図のこの部分を切り取ったのが上図である。東のインドにはデリー・スルタン朝が、西のエジプトにはマムルーク朝の名がある。マムルークとは奴隷という意味で、アイユーブ朝を滅ぼしてマムルークが建てた王朝である。マムルーク朝については採りあげたい気もするが、ここではスルーしておこう。後日採りあげることがあるかもしれない。ここで見てもらいたいのは、イル・ハン国とマムルーク朝の間である。1299年という数字があり、オスマン帝国の領域が細い縦の帯で始まっている点である。そして1517年にマムルーク朝を滅ぼすというところで領域の幅が広くなっている。しかしながら、この歴史図は前にも述べたが、ビザンツ帝国は描かれていない。今回はビザンツ帝国(395~1453)が都コンスタンチノーブルをオスマン軍によって陥落させられた、そして滅亡していった当時の歴史を振返ることにしよう。

  • セルジューク朝末期においてイスラム化したトルコ系民族が中央アジアからアナトリア(小アジア)に移動し、オスマン朝(1299)を建国した。
  • バルカン半島にはビザンツ帝国、イランの地域はイル・カン国からティムールへ。インドはデリー・スルタン朝。
  • 1299 オスマン帝国建国:オスマン1世(1299-1326)
    1354 ヨーロッパ侵入始まる
    1362 アドリアノープルを占領
    1366 アドリアノープルへ遷都
    アドリアノープルとは古代都市ハドリアノポリスの後身。現在のトルコ最西端のエディルネ州の州都エディルネのこと。2000年の人口12万人。ギリシア国境まで5キロの地点。
  • 1389 コソヴォの戦い
    オスマン帝国のムラト1世がセルビア・ボスニアなどのバルカン半島のスラヴ勢力をコソヴォで破った戦い。この結果、ドナウ川以南のバルカン半島は19世紀にいたるまでイスラムのオスマン帝国の支配下におかれつづけた。セルビア人はコソヴォの戦いに敗れた6月15日を国辱記念日としている。
  • 1389 バヤジット1世即位(1389-1402)
    1394 スルタンの称号を受ける
    1402 アンカラの戦い
    ティムールとの戦い。バヤジット1世は捕虜となった後、病死。以後11年間空位時代となり滅亡の危機に陥る
  • 1413 メフメト1世即位(1413-1421)
    1444 ヴァルナの戦いでハンガリー、ポーランドを撃破
    メフメト2世即位(1444-46、51-81)
  • 1453 コンスタンティノープル攻略(=ビザンツ帝国滅亡)

長々と書いてきたが、今回伝えたいのはオスマン軍がビザンツ軍の最後の砦コンスタンチノープルを陥落させた戦いの奇想天外な戦法だけである。例のように山川出版のヒストリカの図を借りて説明する。

オスマン軍は敵の心臓部である金角湾に艦隊を入れようとするが入れない。ビザンツ軍が金角湾の入り口に鉄の鎖を配備したからである。攻めあぐねたメフメト2世は艦隊を山越えさせるという歴史に残る奇想天外な戦法を考えたのである。図の金角湾の入り口の右側、ボスフォラス海峡側から矢印のルートの山を切り開き木道をつくり、艦隊を引きずりあげて山越えさせたのである。舟が山に登ったのである。「船頭多くして舟山に上る」という諺は「リーダーがたくさんいると、意見が対立して、本来登るべきは川なのに、迷走して山へ進んでしまう」ということであるが、この話は実際に舟が山を越えて敵陣に乗り込んだという、私の大好きな話なのだ。

画像の出所:山川出版社の歴史図説ヒストリカ

キーワード:オスマン、ヴィザンツ、メフメト2世、金角湾、イスタンブール、コンスタンチノープル

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モンゴルの襲来

まずはモンゴルが台頭した地域の様子を要約してみよう。

  • 10世紀のはじめ頃、中国の北部に遼(916~1125年)という国があった。遼は金(1115~1234年)という国に滅ぼされるが、遼の残党が中央アジアに逃げて西遼(1132~1211)を建てた。西方からはカラ・キタイとも呼ばれた。東の金、西のセルジューク朝と覇を競った
  • 中央アジアのアラル海(現在は環境破壊によって消滅しつつある湖として有名になってしまった)に流れ込むアム川沿いの豊かな草原地帯の農耕地帯はホラムズと呼ばれた。セルジューク朝はここに総督をおいていたが、権力を保有するようになった結果、ホラムズ朝(1077~1231)を建てた。
  • 同じ時期に草原地帯の東でもチンギス・ハンが統率する新興勢力が成長していた。そして1206年にモンゴルという国が生まれた。
  • 1220年、モンゴルがホラズム朝との戦いに勝利し、ホラズム朝は1231年に消滅した。
  • 1227年、チンギス・ハン没

1256年、モンゴルの大軍が現在のイランの地に押し寄せた。指揮したのはシンギス・ハンの孫のフラグだった。

フラグの軍はイラン全土を制圧し、バグダードへ。バグダードはまだアッバース朝のカリフ本拠地ではあったが、すでに弱体化しており、簡単に陥落した。カリフも殺された。アッバース朝は1258年に滅亡した。そしてチンギス・ハンの子孫たちが上図で示したような国を建てていったのである。

  • チャガタイ・ハン国(1227~1370)
  • オゴタイ・ハン国(1224~1310)
  • キプチャク・ハン国(1243~1502)
  • イル・ハン国(1258~1411)

いつものように、山川出版のヒストリカによって、これらの国を地図でみると次のようになる。

モンゴル軍の攻撃・虐殺が行われた後に、広大な領域がモンゴルの支配下に入ったのである。これまで述べてきたイスラム世界の中心部(イラン・イラク辺り)はイル・ハン国となった。首都はタブリーズであった。現在はイランに所属する地方都市であるが、イランの首都テヘランの西北西の方角、トルコに近い地域である。1973年頃の冬に1人でこの辺りを旅したことがある。雪はなかったが非常に寒かったことを覚えている。その時写した写真は白黒であるためか、なおさら寒さを感じさせている。

イスラム世界はモンゴルに征服されてしまったが、そこでもイスラム商人は活躍した。当時の世界にとってイスラム商人は重要な役割を果していた。彼らなくして商業・経済は成り立たなかったということでもあろう。複数のハン国はイスラム化していったことが非常に興味深く思うのは私だけではあるまい。

 

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十字軍の遠征(2)

サラディンはイエメンに軍隊を派遣し、紅海を通ってインド洋、さらには東南アジア、中国に至る海の交易路を確保した。第3回十字軍のあとも遠征は第7回(1270年)まで繰り返し行われた。が、第3回以来、十字軍側は劣勢であった。ここまで書いてきたことを読むと、十字軍とイスラムがエルサレムを支配下に置こうと、何度か戦いを繰り返したという簡単な言葉で言い表してしまいそうであるが、実際にはそうではない。ヴェネツィアの商人たちが商圏拡大の利を求めて遠征したこともあった。少年・少女たちが奴隷商人に売り飛ばされた事件もあった。その歴史はもっと複雑である。

第1回十字軍で勝利したキリスト側はエルサレム王国を造ったと述べたが、それ以外にも、エデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国など、またエルサレム王国の属国として、ガリラヤ公国、ジャッファとアスカロン伯国、トランスヨルダン領、シドン領なども挙げることができる。このような細々としたことはあったということだけを知っておけばいいだろう。そして、十字軍が築いた要塞も数多くあった。前回紹介した『十字軍物語から』図を4枚拝借して、ここに紹介しておこう。

これほど立派な要塞が築かれていたのである。遠征して、ちょちょいのちょいと築けるようなものではなかったろう。彼らの本気度を感じることができるのではないだろうか。

十字軍の戦いについて述べてきた。イスラム教徒対とキリスト教徒の争いであるが、戦いの勝者が敗者に対してとった扱いをみるとイスラム側の方が寛容であったように思うのであるが、それも決めつけることはできない。たとえ数少ない蛮行のうちの1つであっても、被害者にとっては許されざる行為である。それでは、キリスト教徒とイスラム教徒が共存した明快な歴史はないのだろうか?いや、それがあるのである。シチリヤでのことである。

http://www.vivonet.co.jp/rekisi/a06_jujigun/fede.html このサイトは「世界史の窓」というウェブであり、世界史のことを知るうえで非常に役に立つサイトである。ここにはシチリヤの歴史のなかで以下のようにイスラムとキリスト教徒の共存について記されている。

877年にシラクサが陥落して全島をイスラムが支配した。首都はパレルモ。イスラムの支配は宗教に関して寛容で、税金さえ払えば今までどおりキリスト教を信仰できた。シチリアには高いイスラム文化が持ち込まれ、島は発展した。

 イスラムの支配は200年続いた。シチリアをイスラム教徒から奪回したのがノルマン人のロベルト・ギスカルドである。彼は、フランスのノルマンディに生まれ、南イタリアに単身渡ってきて傭兵になった。そして、徐々に力をつけてノルマン人のリーダになり、瞬く間に南イタリアを支配下に治めた。1071年、弟のルッジェーロ1世をシチリアに派遣し征服した。

 風雲児ロベルトはローマ教皇と対立して何度も破門された。しかし、カノッサの屈辱で有名な教皇グレゴリウスを、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の攻撃から助けている。1085年、東ローマ帝国征服を目指しギリシアに遠征するが、熱病にかかり亡くなった。

シチリア王国
アラブの面影が残るモンレアーレ大聖堂
 1130年、教皇はルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世に王位を与え、シチリア王国(ノルマン朝)が誕生した。ノルマン人は支配者となったがその数は非常に少なく、自然とギリシャ人やアラブ人を多く官僚として登用した。従来のイスラム支配体制が踏襲され、イスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒が仲良く暮らす国ができた。ヨーロッパが十字軍の熱狂の中にあった時代に、これは驚異のできごとだった。

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十字軍の遠征(1)

上は塩野七生さんの『十字軍物語』の表紙である。塩野さんは『ローマ人の物語』のあと、これを著したのであるが、読んでいて非常に面白かった。私がここに書いている文章は単に歴史の流れを記述しているにすぎないが、彼女の著作は読んでいると、ドラマを見ているような気がしてくる。ドラマの中の風景が映像が見えてくるのだ。

第1回十字軍は1096年に始まった。そこで当時の中東地域に乱立していた国々を先ずピックアップすることにしよう。

  • ファーティマ朝(909~1171)
  • ブワイフ朝(932~1062)
  • ガズナ朝(962~1186)
  • カラ・ハン朝(10世紀中ごろ?~12世紀?)
  • セルジューク朝(1038~1194)

ブワイフ朝はペルシア人、ガズナ朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝はトルコ人によるイスラム国家である。アッバース朝は衰退しており、バグダードはブワイフ朝が支配下に治めていた。が、アッバース朝のカリフを打倒するのではなく保護するという形をとっていた。一方、ファーティマ朝はアッバース朝のカリフに真っ向から否定して自らのカリフ政権を樹立したのである。非常に複雑な様相を呈していたのである。

前回と重複する部分も多いが、エルサレムとは紀元10世紀ごろにユダヤの王ダビデが神殿を建設したところであり、ダビデの子ソロモンは神殿を立派なものにした。時がたち、神殿は破壊され、その後再び第二神殿が再建された。その頃にイエスが十字架の刑に処せられ、いったん埋葬される。彼の復活を信じ、彼を救世主とみなすキリスト教が成立した。その後、135年にローマ帝国がエルサレムの町を破壊し、神殿も破壊した。イスラムがエルサレムを征服したのは638年のことである。イスラム側の勢力の興亡もあり、970年にはファーティマ朝がエルサレムを支配していた。ファーティマ朝が11世紀後半に弱体化すると、セルジューク朝がエルサレムを占領するようになった。この占領を率いた軍人アトスズは略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止して、エルサレムの平安は維持されていたという。1098年には再びファーティマ朝がエルサレムを奪還した。少々ややこしいのであるが、イスラム世界でも勢力争いが盛んになっていた時代であった。

さて、そこでいよいよ十字軍の登場である。11世紀頃からキリスト教徒の間では聖地エルサレムへの巡礼熱が高まっていた。1095年、クレルモンの宗教会議においてウルバヌス2世がエルサレム奪還のために十字軍の遠征を提唱。1096年から第1回十字軍の遠征が始まった。

第1回(1096~99年):4万人を超える規模の十字軍は食料を用意して出たわけではなく、進軍する地域の住民から食料を奪い、レイプ、虐殺などを行いながらエルサレムに向かったのである。沿道の住民は十字軍に対抗する術もなく、震えあがっていた。エルサレムにおいてもイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺を行った。その結果、十字軍はエルサレムを奪還して、エルサレム王国を建設した。

第2回(1147~49年):十字軍はセルジューク軍の反撃を受けて、シリア付近で敗退。

第3回(1189~92年):この遠征は、十字軍の遠征の中でも特に注目されるものではないだろうか。エルサレムが再びイスラムの支配下になった有名な戦いなのだ。トップに紹介した『十字軍物語2』の帯に「イスラムにサラディンあり!」とあるように、この戦いでサラディンという英雄が出現したのである。彼はファーティマ朝で宰相にまで出世したあと、ファーティマ朝のカリフが死ぬと、「アッバース朝のカリフがイスラム世界の唯一のカリフであると宣言し、自分はスルタンであると称してエジプトに君臨し、アイユーブ朝を創始したのである。ファーティマ朝はシーア派であったが、彼のアイユーブ朝はスンナ派であった。当時セルジューク朝の中から勢力を拡大していたザンギー朝のヌール・ウッディーンが死すと、彼の領土の大部分を併合して、十字軍との戦いに備えて作戦を練った。1187年、ヨルダン川の水源である湖に近いヒッティーンの丘でサラディンは十字軍勢を撃破した。さらにエルサレムを攻撃して陥落させた。彼はキリスト教徒もユダヤ教徒もエルサレムに住むことができるようにした。3つの教徒が共存できる聖地としたのである。が、ローマ教会はここで第3回の十字軍派遣を決めたのである。この戦いは2年にわたり、激戦をくりかえしたのであるがサラディンの勝利となる。エルサレム王国はエルサレムを失うが、シリアの海岸部に拠点を確保することができてエルサレム王国の名は残すことができた。サラディンはヨーロッパからの巡礼者を迎えて保護することを約束したのである。

サラディンは武勇に秀でた強い英雄というだけでなく、寛容な精神でもって敵を受け入れた大人物であった。キリスト教側からもサラディンは高く評価された歴史に残る人物であった。余談かもしれないが、イラクのフセイン大統領のことを思い出してもらいたい。彼はイラクのクルド地区に近い所の出身であった(彼自身はクルド人ではない)。それ故、フセインは俺はサラディンの生まれ代わりだとか言っていたことがある。そう、サラディンのルーツはクルドであると思われるのである。サラディン(正式名称はサラーフ=アッディーンであるが、ヨーロッパにはサラディンと伝わった)

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