書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1

書評としたいところだが、それはおこがましい。ちょっとした感想程度を述べるだけだし、「このような本があるよ」というだけなので、書籍紹介とした。これからもそうしようと思う。

画像は岩波文庫の表紙であり、そこにアブー・ヌワースについて書かれているのが読めるだろうか。重複するが読みやすいように以下に書き留めてみる。「アブー・ヌワースは8世紀から9世紀にかけてアッバース朝イスラム帝国の最盛期に活躍し、酒の詩人として知られる。現世の最高の快楽としてこよなく酒を愛した詩人は酒のすべてを詩によみこんだ。その詩は平明で機知と諧謔に富み今もアラブ世界で広く愛誦されている。残された1000余の詩篇から飲酒詩を中心に62編を選訳。」

8世紀の人である。アッバース朝(750~1258年)の人である。アッバース朝といえば、このブログでも紹介した王朝である。バグダードに立派な円形都市を建設し繁栄した王朝である。第5代のカリフ、ハールーン・アッラシードが最盛期を築いたのであった。彼の在位が786~809年であるから、アブー・ヌワースは丁度その時代に生きた人物である。彼が生まれたのはアフワズ(現在はイラン領内)で747年から762年あたりと言われ、757年頃というのが有力な説であるとのこと(本書の解説による)。

早速であるが、先ずは彼の詩を紹介しよう。前述のとおり彼の詩は「酒」が主人公である。イスラム社会において酒は飲んでいいの?という疑問は後回しにしよう。

タイトルは「ユダヤ女」とある。ユダヤ女の処で飲む酒は、楽しさも倍増すると言っている。彼女は瞳がきれいで、月のように美しい。手のひらはしっとりと、ナツメヤシの木の芯のよう。まずはユダヤ女である。ユダヤ女が周囲にいて、酒場にいけばユダヤ女がいて、飲み交わすことのできる世界であったということがわかる。当時はアラブとユダヤ人が仲良くしていた時代であったようだ。アラブ人とは異なる目鼻立ちのユダヤ女を美しいと思い、その美しさは「月のようである」と詠っている。女性の美を月に例えるのがアラブだということもわかった。もっともアブー・ヌワースは純粋なアラブ人ではないようだ。生誕地がアフワズであり、両親はペルシア人であった可能性が高い。イスラム帝国がササン朝ペルシアを滅ぼしたあと、ササン朝の優秀な人材はその後のイスラム支配下の社会でも能力を発揮するように扱われたという。現代人が想像するほど民族や宗教の摩擦は少なかったことが一つの詩からもわかるのである。

アラブ人がユダヤ人と酒場で仲良くしていると書いたが、次の詩はどうだろうか。「ユダヤ人の酒家」という題である。

2節目「主人がイスラム教徒でないことが腰帯で分かったとき、我々はそれを喜び、彼は我々を恐れた」とある。ユダヤ人である彼はイスラム教徒の我々を恐れ、我々は上から目線の態度である。やはり両者の間には壁があるのであるが、客として軽口を叩ける社会のようだ。酒を禁じられているイスラム教徒にとってユダヤ人の店は逃避できる場であったのかも知れない。この詩はまだ続く、そして次の頁の最後の一節を見てほしい。

「礼拝の時が近づくと、急いで酒を注がせ、酔いどれて礼拝をやり過ごすのを君は見る」 

本書の解説によると、アッバース朝の最盛期には文化は爛熟し、生活が奢侈になった。そうなると、道徳の退廃も見られた。イスラムの下では、本来飲酒は禁じられているにもかかわらず、酒は半ば公然と飲まれたという。この詩で見るように礼拝に行かずに済むように酒を飲むということもあったのであろう。礼拝に行くべき時だということはわきまえているのである。でも、酒を食らうことにのって、礼拝に行かない理由付けをしているように感じた。「礼拝など糞くらえだ!酒持ってこい!」という気持ちではなく「礼拝に行こうと思ったのに、俺、酒飲んじゃったよ。」という心境ではないだろうか。

上の詩はどうだろうか。イスラム社会では普段でも酒が禁じられている。断食の月(ラマダン月)になると、なおさら酒はダメでしょう。でもこの詩人は「だが、我々はやってのける、人にはできないことを。」と詠う。「夜から朝まで飲み明かすのだ、大人も子供もみんなして。」「我々は歌うのだ、好きな詩を大声で。」「私に酒を注いでくれ、鶏がろばに見えるまで。」と。酒を飲み明かすのは大人だけではない。子供もみんなとは少々行きすぎだろうが。

この文庫本には62篇の詩が収められている。飲酒の詩をいくつか紹介したが、飲酒詩が38篇と半数以上を占めているのは、彼が酒の詩人と言われるからには当然のことである。が、残りの詩は恋愛詩が10篇、称賛詩2篇、中傷詩が4篇、哀悼詩1、たしなめの詩2、禁欲詩5の合計62篇である。称賛詩のひとつは5代カリフであるハールーン・アッラシードを讃える詩である。アブー・ヌワースとカリフは同時代の人であるが、それだけでなく実際に接点があったのである。その辺のことも興味深いことであるし、飲酒詩以外の詩も、もっと紹介したいので、今回のテーマは、書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1としておこう。

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米国とイラン

昨日の新聞はアメリカがイランにサイバー攻撃を仕掛けたと報じています。イランがアメリカの無人偵察機を撃墜したことへの報復だそうです。アメリカはイランに対話せよと言っていることに対してイランは話し合いには応じない姿勢を崩していません。アメリカは対話に応じさせようと更に制裁を強めようとします。圧力を加えて話し合いに応じさせようとする姿勢です。

でも、それって普通の人の感覚ではないですね。話し合いに持ち込もうとするなら、緊張状態をいったん解いた状態で話し合いましょうというのが普通ですね。戦争状態にある両者が停戦・休戦協定を話し合おうとするなら、いったん戦闘状態を停止させて、話し合いをするのではないでしょうか。アメリカはイランに対して話し合い、対話に誘おうという一方で制裁を強めているわけですから、つじつまがあいません。

アメリカはパレスチナに5.4兆円の経済支援策を打ち出しました。少し前にはパレスチナ和平案を提示する予定でしたが、イスラエルのリクードが連立政権を樹立できなかったために、できませんでした。トランプの娘婿が和平案を提示する予定でした。彼は今回の経済支援策を「パレスチナの人々と地域のより明るく繁栄した未来に向けた枠組みだ」と主張しています。今回も彼がイスラエルからの点を稼ぐためのパフォーマンスでしょう。

パレスチナがどう反応するかはわかりませんが、アメリカの一連の行動の真意は皆さんもうお分かりですね。

パレスチナ問題というのはパレスチナ人とユダヤ人との民族対立から始まりましたね。それがイスラエルが建国することによって、イスラエル対アラブ諸国の対立になりました。しかし、アラブはイスラエルの軍事力の前に勝つ見込みのない戦いには意欲を示さなくなっています。もちろんハマスなどはそうではないでしょうが、アラブ諸国はイスラエルと戦争しても勝てるとは思っていません。

イランはアラブではありません。アラブとはイスラムという枠の中では同胞かもしれませんが、アラブのスンナ派に対してイランはシーア派です。考え方が根本的に違います。シーア派イランはたとえ武力で負けると分かっていても筋を通そうとした戦いは貫きます。これまでアラブイスラムがユダヤイスラエルに対して抱いていた憎悪をイランは捨てていません。イスラエルは狂信的なシーア派イランが一番怖いのです。

トランプが今やっていることは、パレスチナ問題で対立していたイスラエルの敵をアラブからイランに変えようとしているのです。パレスチナにはイスラエル優位の和平を成立させる。そして、イスラエルの最大の敵イランを懲らしめることにより、トランプはアメリカのユダヤロビーから歓迎される大統領になる。それがトランプ再選への道になると考えているのでしょう。

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安倍首相訪イ

安倍総理がイランのロウハニ大統領と握手している写真です。現地のペルシア語新聞Iranの今日のトップでした。画像の上のタイトルは直訳すると「良い方向への変化は道中である」つまり「緊張緩和へはまだ道半ば」ポジティブにいうと「緊張緩和に歩き始めた」というニュアンスでしょうか。全ての新聞が安倍首相とロウハニ、あるいはハメネイとの会談を取りあげています。そんなおり、昨日小生が記したホルムズ海峡で事件が起きました。安倍さんが現地にいて曲がりなりにも意見交換したときの発生ですから、最高指導者ハメネイの指示ではないでしょう。アメリカはイランの仕業だとPRしていますが、真偽のほどは不明です。もし、イランの仕業だとすると革命防衛隊の暴走でしょう。そうだとすればハメネイの求心力・指導力が弱まったということになりますから、いまはまだそうではないと思います。米とイの緊張が緩和されないほうがいいのは誰でしょうか。明日の学習会の私の講義はきっと熱っぽくなるでしょう(笑)。

昨日のフェイスブックです:今日、安倍総理がイランに向けて出発しました。イランと米との良き仲介者となれるのでしょうか。トランプ大統領のポチとしての使い走りではなく、日本の国益のために独自の外交が望まれます。日本にとってイラン原油の輸入比率は減少してきていますが、それでも重要な輸入元です。米イ関係がもつれて戦いになったら、イランはペルシア湾をホルムズ海峡で封鎖することができます。そうなるとUAE,クウェート、カタールからの輸入(全輸入の45%)も途絶えることになります。最大の輸入元であるサウジからの原油も影響は受けますが、紅海側からのルートも可能でしょう。しかし、それもイェメンとの関係などがからみます。サウジからの輸入にもある程度影響が出るでしょう。とにかく日本の指導者は中東地域の紛争解決に対して積極的に汗を流す必要がありましょう。今週末の学習会はこんな問題を取り上げます。

 

白色革命

パーラヴィー朝の二代目シャーはアメリカの庇護を受けることによって、次第に王としての立ち位置を安定化させてきた。私が初めてイランに行ったのは1971年の秋であった。長期駐在の予定であった。妻帯者の単身者は毎年1回の帰国休暇が与えられたが、独身者は2年に1回であったから、しばらくは帰国できないという覚悟での出発であった。深夜にメフラバード空港に到着して、市内へ向かう車の中からみた第一印象は「街路が明るい」ということだった。深夜なのでどこの店や会社も閉じているのであるが、どこも電気や照明が煌々と点いていたのである。ここは石油の国、火力発電で電気は豊富にあるのだ。このあと2年後の1973年になると第一次石油危機(オイルショック)が起きて、原油価格は4倍に跳ね上がった。産油国のオイル収入は急増した。イランでも石油収入を財源とした五カ年開発計画が打ち出され、開発プロジェクトに参加しようとして、外国企業がイランに押し寄せていた。

若干24歳でイランを訪れた私は、この国の前途洋々たる未来を感じた。石油のない日本にとってイランは重要なパートナーであり続けるだろうと思った。このころのシャーは自信に満ち溢れていた。近い将来、イランは世界の七大大国の一つになるのだと宣言した。彼の自信の裏づけは「白色革命(ホワイト レボルーション)」を成し遂げたことにあったのであろう。彼が成し遂げた白色革命を紹介しよう。

彼がシャーに就いたときに述べたように、彼は「強いイラン」を志向していた。したがって強い軍隊や兵器を望んだのではあるが、1958年に隣国イラクで王制が崩壊し共和制に転じたことなどから、安定した国家づくりには社会制度や教育の改革が必要であると考えるようになっていた。シャーの改革が始まった。その目標とは「すべての人々にパンを」「すべての人々に家を」「すべての人々に衣服を」「すべての人々に健康な生活を」「すべての人々に教育を」であった。そして最初の取り組みは農地改革であった。1963年1月9日、テヘランで開かれた第一回農業協同組合全国大会の席で改革の必要性を説き、次の最初の6項目を発表し、その後も立て続けに新たな項目を発表した。

  1. 農地改革・・・小作人への土地の供与
  2. 森林、牧場の国有化
  3. 国有企業の株式会社への転換と農地改革への協力
  4. 労働者への企業利益の配分
  5. 選挙法改正・・・完全な普通選挙の実施、特に婦人参政権の実現
  6. 教育普及部隊の創設。大学入学資格取得者が民間奉仕として村々に教育を広める。
  7. 健康部隊の創設。医学・歯学・看護学などの学生が地方の村で治療や講習を無料で行う(1964年1月21日)
  8. 開発部隊と復興部隊の創設ー農業の近代化。村、都市の近代化に協力する(1964年9月23日)。
  9. 「公正の家」と呼ばれる村の裁判所の設置(1965年)
  10. 全ての水資源の国有化(1968年)
  11. 全国都市計画。開発部隊がこれに協力した。
  12. 行政改革。国民教育の改革とも関連。6、7、8の部隊は「革命の兵士たち」と呼ばれ、彼らをボランティアの婦人や若い女性たちが支援した。そして、1975年には次の5項目が追加された。
  13. 大企業の株の49%までを労働者に売却。買い入れには国の資金が貸し付けられ、配当により返済できる(8月)。
  14. 消費者保護価格。統制によりインフレと闘う(8月)
  15. 無償初等教育義務化(8年間)。さらに中等、大学教育も受けた教育と同じ期間国家に奉仕すれば無料となる(12月)。
  16. 二歳までの新生児と母親に対する食糧の無償配布(12月)。
  17. すべてのイラン人への社会保障および年金の普及(12月)。最後に、1977年に2項目が追加された。
  18. 土地、建物の投機に対する闘いー土地価格、家賃などの上昇を抑制し、投機にブレーキをかける。
  19. 腐敗、収賄に対する闘い。

農地改革について彼はその著書『私は間違っていたのか』のなかで、次のようにのべている。「わたしは1941年、かねてから望んでいた私個人の所有になる農耕地を政府に移管した。この私の行動は農村の構造に変化をもたらす一種の革命であったために、当時の政府は何もしようとしなかった。そこで私は、政府に移管した土地を取り戻して、直接農民に分け与えた。モサデクが政権を握ると、またもや私の計画に反対した。私が思いのままに計画を運べるようになったのは、彼の失脚後のことである。」農民に農地を与えることは、それまでの地主階級の土地を取りあげることである。地方豪族などの大地主は当然この改革を望まない。イスラム世界であるイランではモスクも大地主である。モスクはムスリムからあらゆる物の寄進を受けるが土地もその一つである。宗教界が農地改革はイスラムを冒涜するものであると非難した。1963年1月、シャーは農地改革法案に対する国民投票を呼び掛けた。これに対して、国民投票をボイコットするように呼び掛けたのがホメイニであった。ホメイニは農地改革の是非だけでなくシャーの政治そのもの、例えば国防予算の無駄遣い、官僚の腐敗、文化の荒廃にまで言及して説教を重ねた。結局ホメイニはイランから追放になったのであるが、そのホメイニが1979年のイラン革命時において亡命先から帰国してシャーと入れ替わるという皮肉な運命が待ち構えていたのであった。

農地の権利書を与えられて喜ぶ農民たち。

白色革命の項目を追加していった1975年というと、私がイランに居たころである。私はシャーの改革の姿勢を高く評価していた。青年たちが地方に出向いて、教育兵団や開発部隊などとして社会を良くしようとしている姿に感動した。この国には資源がある。それは天然資源だけでなく、将来を担う人的資源が育まれようとしていると感じた。ただ、シャーからモサデクの話がでたが、モサデクの功績はイラン石油の国有化である。シャーとの対立はあったものの、モサデクは真の愛国者であった。それは多くのイラン人も感じていたことであり、モサデクは現在のイランでも英雄として国民の心にある。

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