ウズベキスタンの書架台

今日はウズベキスタン製の書架台の紹介です。ウズベキスタンの木工品でして、向こうに行くとお店に沢山並んでいるようです。残念ながら私はウズベキスタンに興味があり、是非とも行きたい国なのですがまだ行ったことがありません。かつて、ウズベキスタン観光から帰った知人に見せてもらったことがあり、以前から欲しいと思っていた品物です。今回、皆さんご存知のメルカリに出ていたので入手することができました。

冒頭の写真はその書架台にコーランを置いたところの写真です。英語では「Folding Quran holder」とか「Folding Quran stand」と訳されているように、イスラムのコーランを置く台なのです。Folding という 部分は折り畳み式ということです。もちろん、どんな本や楽譜などをおいてもいいでしょうね。

これの特徴は一枚の板でできているようなのです。信じられないのですが、厚い板をうまく切り込みをいれてはがすようにしてバラバラにならないように切っていって作るのでしょうか。確かに複数の板を組み込んでくっつけた形跡はありません。まず、畳んでいる状態が次です。

これを少し広げていくと、すこし高くなってきます。次のようになります。

さらに伸ばしていくと、次のようになります。

同じ状態のものを前からみると、高さも良く分かります。このような状態ならコーランを載せられます。

次の写真を見てください。これも同じような形になっていますが、上部両サイドの先端を見てください。先ほどの上の写真ではその部分が山のようにカーブしています。しかし、これは角ばった形になっています。組み立て方が幾通りもできるのです。最初はこの形にすることすら難しいかったです。形ができてもストッパー的な部分があわなくてペシャンコになったりします。試行錯誤しながら覚えればいいでしょう。でも書架台としてなら、今できている形で十分でしょう。

コーランを置くと様になりますね!

昨日、この写真をインスタグラムに投稿しました。するとイラン人の方から、ペルシャ語ではこれを「رحل」rahl ということを教えてくれました。早速辞書を見ると確かに載っていました。「コーランの書架」「書見台」と。こうして今日も又新しい単語を覚えることができました。

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吉田正春:ペルシャを訪れた最初の日本人の一人

上はペルシャ湾と当時のペルシャの地図である。ペルシャ湾内に黒い実線が描かれており、チグリス川を遡りバグダードに続いている。さらにもう一本の線がブシェールからシラズ、イエズディ、イスパハン、テヘラン、レシトへと続いている。現在ではシーラーズ、ヤズド、イスファハン、テヘラン、ラシトと表記されている都市である。これは明治時代に、この地に足を踏み入れた日本人が辿ったルートである。

その男の名は吉田正春。彼は明治13年(1880年)にカージャール朝ペルシャとの国交樹立のための調査団を率いて現在のイランを訪れた。ブッシェール港に着いた彼らは先ず、現在のイラクの首都バグダードを往復してから、イランの首都テヘランに向かったのであった。

この調査の旅が実現するまでの経緯を少し説明しておこう。明治7年(1874年)1月、榎本武揚が駐露特命全権公使となり、サンクトペテルブルクに赴いて、樺太・千島交換条約を締結したのであるが、その後、1879年に訪欧の帰途にロシアに立ち寄ってペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーに会う機会があった。そこで、皇帝から国交樹立の条約締結の提案があった。榎本武揚は帰国後に国交樹立の前段階の調査団を派遣することを決めた。その結果、団長として外務省御用掛である吉田正春が選ばれたのである。

吉田正春以外のメンバーは、参謀本部から工兵大尉古川宣譽、大蔵省商務局から大倉組商会副頭取の横山孫一郎、大倉組商会社員土田政次郎、七宝焼き磁器商の後藤猪太郎、小間物商の藤田多吉、金銀細工物商の三河鋳二郎であった。

一行は、明治13年4月に軍艦比叡で東京を出発し、途中、香港着4月23日、香港発5月1日、シンガポール着5月7日、ボンベイ着5月20日、ペルシャのブシェール港に到着。ブシェールに到着したのであるが、吉田と横山は先ずバグダードに行って、再びブシェールに戻っている。そして、改めてテヘランを目指したのである。外務省の資料は次のように記している。

1878年(明治11年)、榎本武揚(えのもと・たけあき)駐ロシア公使が、ロシアでペルシャ国王(ガージャール朝の第四代ナーセロッディーン・シャー)および総理大臣と会見したことが、明治の日本とペルシャとの交流のきっかけとなりました。特使派遣を知らせる井上馨(いのうえ・かおる)外務卿からペルシャ外務卿への通牒(1880年4月1日付)によれば、この榎本公使とペルシャ国王との会見をきっかけとして、両国間に通商協定を結ぶ機運が生まれ、交易の準備として、まずは商況調査のための使節団が派遣されることとなりました。
 特使に選ばれたのは、外務省御用掛の吉田正春(よしだ・まさはる)でした。吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。使節団には、吉田を団長として、参謀本部から派遣された古川宣譽(ふるかわ・のぶよし)陸軍工兵大尉、大倉組副社長の横山孫一郎(よこやま・まごいちろう)や同社員の土田政次郎(つちだ・まさじろう)、七宝焼陶器や小間物、金銀細工の商人が参加していました。
 一行は1880年4月に、インド洋での演習に向かう軍艦「比叡」で東京湾から出発し、5月にはペルシャ湾岸のブーシェフルに到着しました。その後吉田と横山はバグダッドへと旅行した後、再びブーシェフルに戻って古川らと合流し、7月の下旬から9月にかけてシーラーズ、イスファハンを経てテヘランへと北上の旅を続けました。
 吉田使節団の道中はまさに冒険というべき苦労の旅でした。途次、砂漠で遭難しそうになったり、現地人に医者と間違えられたり、険しい崖道を夜闇の中命からがら進んだり、といった稀有な体験をしながら、テヘランに到達したようです。
 一行は同年9月27日、ペルシャ国王ナーセロッディーン・シャーに謁見しました。この時に国王が吉田に与えた言上は、国書として日本側に渡されました。その国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。
 この時の会見の模様は、吉田が帰国後に提出した「謁見始末」に詳しく報告されています。吉田はまた、政府に提出した報告書に基づき『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著しました。国王はアジアでともに近代化をめざす国として日本に強い関心を示し、日本の政体・徴兵制度・鉄道建設など様々な問題についての詳細な質問を行ったことが「謁見始末」に記されています。この会見は、外国からの訪問者に対する会見としては異例の長時間に及んだということです。

9月17日に王に謁見したとあるから、ブシェールを出発した日がはっきりと分からないのであるが6月初めとすると、4ヵ月近くかかったことになる。そして、『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著したとある。その書の表紙の画像が次である。

なかなか古めかしい表紙である。国会図書館のサイトのデジタル資料として公開されているものである。これも是非見てみたいものであるが、私が入手しているものは、中央公論社の中公文庫1990年12月に発行された復刻本のようなものである。その表紙画像も次に示しておこう。

 

文語体で書かれているので読みにくいけど、興味があれば厭わずに読めるものである。これによると、テヘランに到着するまでの当時のペルシャの様子が描かれているので非常に興味深い。中から部分的に紹介してみよう。

第三章:ブシールよりシラズに到る道中(表記も原文通り):
ブシールよりテヘランに到らんとするには、その旅装の都合二様あり。荷物を多く持ちたる者は隊商(キャラバン)に入るべく、また軽装急行の者は駅伝(チャバル)に拠らざるべからず。駅伝の方法はおおむね普通旅客の成し得るところにあらずして、かの国の官吏または外国人に限りこれが便に藉(か)ることを得、すなわち費用を多くして日数を短くする方なり。隊商はその体ほぼアラビアに似たれども、途上はアラビアに比して見ればまず大抵安全なる方と言わざるべからず。・・・・・

まどろっこしいので、自分の言葉で書くことにする。
駅伝は費用が高いが時間的に早く行ける。ペルシャ側の役人の勧めなどもあり駅伝を利用することにするが、荷物が多いものもいるので、隊商利用と駅伝利用の二つの組に分けてシラズに向かって出発したそうである。

途中で現地の子供が口の中を大怪我をしたのに出会った。吉田たちを外国人と知って、助けを求められたことがあった。医者でもないし、どうしようもなかったが、泣き疲れたので仕方なく、砂糖水をなめさせることしかできなかった。それでも感謝されて、その場を立ち去ったというようなことも書かれていた。

ラバに乗った印象は次のように記している。「鞍上は馬よりも穏やかであるが、ゴー、ストップを御するのは難しい。口の引っ張る力が強いので、力いっぱい腕に力を入れても止まってくれない。普段騎乗に慣れていない自分たちはしばしば墜落した」とロバの背に乗り四苦八苦している様子が目に見える。今から見れば珍道中であったようだが、過酷な旅であったろう。いくつかの挿絵も紹介しておこう。

 

 

一行はテヘランで王に謁見したのであるが、すぐに会えたのではなく、結局テヘランには4ヵ月滞在したとある。テヘランでの仕事がメインであったが、カスピ海沿岸のギーラーン州のラシトに回った。そして、船でバクー(現在のアゼルバイジャン)に行きそこからトルコ経由のルートに変更している。ラシトは私が45年ほど前に妻と1歳の娘と共にしばらく住んでいた町である。正春はラシトについて、以下のように記している。
「ギーラーン州に入れば到るところ村落相連なり、田野広廓、石は皆苔衣を帯び、樹は皆老大陰をなせり。・・・・ここに至って余は初めて信ぜり。テヘラン以南の荒れ果てた地をもってペルシャの国は皆同じということは言えないと。・・・」。カスピ海沿岸は雨も多く、湿度も高いので風景は日本とそっくりなところなのだ。正春もそれをみて、ペルシャは砂漠の地ばかりではないということを自分の目で見て知ったのであった。気候・風土が似ているということは、生活様式も似通ったものがある。ラシトに住んでそのようなことも私は驚いたのであった。例えば、冬に家庭で暖をとるのに、コタツがあった。

さて、長くなってしまったので終わりにしようと思うが、先ほどの外務省の資料の記述に、吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。という部分があった。そうなのだ。吉田正春は吉田東洋の息子である。土佐から東京にでて英語を学び外務省に勤めるようになった。このペルシャの旅のあと、彼は政治運動にも参加する。板垣退助などとも親交があったはずである。

一つのことを調べて、あることを知ると、そこからまた芋づる式に新たなことを知るきっかけになる。正春が乗っていった軍艦比叡は前回紹介したエルトゥールル号の遭難生存者をトルコへ送還した軍艦であった。そして、その正春のことを知ると、彼が吉田東洋の息子で、時代的にもきっと坂本龍馬とも交流があったと思わざるを得ない。実は10年ほど前に正春のことを知りたくて高知に行ったことがあるのです。知を求め、広げることは何と快感なんだろう。

 

 

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トルコと日本:エルトゥールル号の遭難

映画 海難1890 ポスター画像

このブログでもトルコに関する記事を書いています。それは歴史の部分で「オスマン帝国」についてでした。自分でいうのも何ですが、歴史の上面をざっと述べた程度でしかなかったかもしれません。でも、このブログへのアクセスの統計をみると、「オスマン帝国」と「ササン朝ペルシャ」「ダレイオス大王」などの記事が意外と読まれていることが分かります。自分自身でもトルコという国に対するイメージは悪くはなく、むしろ良い方でしょう。何故でしょうか。「親日的な国・国民である」「アジアとヨーロッパの接点に在って、文化が融合したエキゾチックな国」だとか「オスマン帝国の軍楽隊の音楽が勇ましい」とか、色々あるように思います。トルコを訪れる日本人観光客も多いようです。私もトルコに行ったときには日本語を話す人が寄ってきて、お店などを案内してくれました。結局は客引きなのですが、高いものを買わされるようなことがなければ、全然友好的だなと感じるでしょう。

親日的だという表現は定着していると思います。インターネットでちょっと見てみても、「イラン革命の際に、イランから逃げ遅れた日本人を救出するために、トルコ航空がテヘランから日本人を日本に運んでくれた」ことが代表的な親日の現れのように書かれています。そして、その背景として、「かつてトルコの船が日本で遭難したときに日本人が一生懸命救助の手を差し伸べたことへの、恩返しである」とも書かれています。今回はこのエルトゥールル号の遭難がテーマです。

この地図は紀伊半島の先端です。和歌山県串本町です。串本というと台風が日本に接近した時に、「潮岬の沖100kmに接近」などと耳にすることがある、あの潮岬のあるのが串本町です。その潮岬のすぐ目の前の沖にあるのが「大島」と呼ばれる島です。昔の人なら串本節で歌われたあの大島だとすぐに分かるほど、有名な民謡です。唄いだしは「ここは串本、向かいは大島。仲をとりもつ巡行船・・・・・」です。地図をご覧ください。少し東北に那智山があります。有名な那智の滝のあるところです。そしてその東のほうに新宮という市があります。那智の滝のところにある「熊野那智大社」、新宮にある「熊野速玉大社」、そして新宮から熊野川を船で遡って(今は車ですが)本宮にある「熊野本宮大社」の3つを総称して「熊野三山」と呼ばれています。世界遺産の地でありまして、蟻の熊野詣と呼ばれたように、平安時代には都から天皇や上皇さんから一般庶民までが列をなして訪れた信仰の地なのであります。トルコ船が遭難したのは、このような地域にある大島の沖だったのです。ちなみに私が生まれ育ったのが、新宮なのです。子供の時から那智の滝や潮岬は遠足でよく行ったものでした。大島を見ては、その向こうにある外国という世界に夢を馳せたものでした。いま大島へは巡行船ではなく、橋でつながっています。次の写真は、その大島にあるトルコ記念館です。南紀串本観光協会のホームページから拝借したものです。そのホームページではエルトゥールル号の遭難について以下のように記述しています。

明治22年(1890年)オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。

巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。

日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。

明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。

やがて、山のような波に揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。

この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。

この事故によりオスマン・パシャ特派大使海軍将校以下580余名が遭難しましたが、地元住民の献身的な救難活動により奇跡的に69名の命が救われました。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。

トルコとの友好関係
後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が建設されました。慰霊碑は長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校の生徒達の手で通年、清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の生徒達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。

また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。

このように580余名が遭難し、69名が救助されたわけですが、500名以上が遭難死した大惨事であったわけです。救出された人々はその後、神戸に移されました。その後、日本海軍の「比叡」と「金剛」が神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けたのでした。

今回の冒頭の画像は、この遭難を日本とトルコの合作で制作した映画のポスターです。日本とトルコの友好125周年を記念して、2015年に制作されたのでした。この映画が公開されるまえに、私は新宮に帰省したのでトルコ記念館を訪れました。撮影につかわれた小道具などが展示されていました。

125 Years Memory movie poster in four different languages

昨年の2019年4月20日「カージャール朝からパーラヴィー朝へ」の記事の冒頭で「吉田正春」の名前を出しましたが、彼については後日改めて紹介すると書いていました。彼が向かったのはペルシャですが、この時に彼が乗ったのも「比叡」だったのです。正春はペルシャのシャーと会った後、すぐには帰国せずにトルコ経由で欧州に回ったのではなかったでしょうか。正春については近いうちに紹介することにします。

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中東におけるコロナの状況

新型コロナウイルス感染症に世界中が脅かされ始めたのが、今年の初めでしたから、もう5ヵ月にもなりますね。日本でも全国で緊急事態宣言が発出され、現在も8都道府県で継続されています。でも、感染者の増加も緩やかになりつつあることが、せめてもの救いというものです。私自身は定年退職者でありますし、非常勤の大学講師も後期のみなので、外出する必要もなく隠遁生活(笑)をおくっています。運動不足を回避するため、毎日5000歩程度のウォーキングを続けています。さて、冒頭の画像はPCのスクリーンショットですが、米国のジョンズ・ホプキンス大学が立ち上げている新型コロナウイルス感染状況ダッシュボードです。ニュースメディアを初めとして世界中から毎日十億人以上のアクセスがある信頼高いサイトです。世界中のデータを集めて、このようなサイトを構築することのできる機動力は驚くべきことです。大学の研究機関としてのポジションを見事に維持できていることに感心するばかりです。

今回はこのブログの対象としている中東地域のコロナの感染状況をこのサイトから拾い集めましたので、それを紹介いたします。中東では最初イランが多くの感染者を出しました。その後、イランよりもトルコの方が多くなり、今現在はトルコが最多となっています。死者はイランの方が多いですね。サウジが5万人台、カタールのような人口が少ない国でも2万4千人と意外と多いです。下の表にまとめていますので、そちらをご覧いただければ私の説明は不要と思います。この数値がどれほど正確なのかは分かりません。イエメンなどでは少ないのですが、どこまでデータが把握されているのかという点もあるでしょう。医療設備の整っていない地域や感染症対策の不十分な地域もあるでしょうから、コロナが拡がらないことを願うばかりです。

Country Infected Death Country Infected Death
Turkey 150,593 4,171 Bahrain 7,184 12
Iran 122,492 7,057 Oman 5,379 25
S.Arabia 57,354 320 Iraq 3,554 127
Qatar 33,969 15 Lebanon 931 26
UAE 24,190 224 Jordan 629 9
Kuwait 15,691 118 Yemen 130 20
Egypt 12,764 645 Japan 16,305 749

この数値は一応5月19日午前のものです。日本は中東ではないので色を変えています。そして、日本のサイトにおいて、19日午前10時ののものとして発表されているのは、感染者16,635人、死者763人ということです。

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ビストゥーンの磨崖碑(3)動画とスライドショーを追加

このブログを始めた最初の頃、2019年1月11日に「ダレイオス1世とビストゥーンの磨崖碑」、12日に「ビストゥーンの磨崖碑」、翌13日に「ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!」という記事を書いています。このブログを書き始めて約1年半が経ったことになります。ワードプレスを使うのも初めてのことで、戸惑いながら記事を書いたものでした。アクセスも殆どない状態が続いたが、最近になって閲覧数が少しずつ増えてきているのは嬉しいことです。そして、どの記事が閲覧されているかというと、意外と古いところ、つまり歴史の古い部分が見られているということも分かりました。つまり、このヒストゥーンの碑文辺りが見られているということです。ということで、ビストゥーンの碑文秘話を過去の記事に加えてちょっと詳しく書いてみました。そして、私が訪れた時に移した写真を動画にしたものを最後に添付することにしましたので、ご覧いただければ嬉しく思います。

ここを訪れたのはもう8年ほど前のことになります。その頃私は、名古屋の南山大学のエクステンション・カレッジで「中東世界を読み解く」という講義をしていました。そして、私がイランへ行くというと、80代の男性と、30代の女性が一緒についてきたのでした。この時の目的はビストゥーンの碑文を見るということだったのです。それで早速ケルマンシャーから現地へ行ったのでした。以前行ったときに買ったガイドブックには修復中であるので、見ることができないと書いていたのですが、今回の新版のガイドブックにはそう書いてはいなかったのです。ところが行ってみると、維持管理のために、修復時の時のまま、碑文の前に木造のプラットフォームのような広い場所が作られていました。つまり、崖の下からは全然見えない状態だったのでした。次の写真の通りでした。私は望遠レンズも持参したのですが、無理でした。

私は土産物屋のおじさんに管理事務所を教えてもらって行きました。職員が何人かいたので、その一人に「私は日本から碑文を見るために来たのです。上に登って見せていただきたい。これを見ないでは日本に帰れません」とお願いしたのです。あまり熱心に聞いてくれたようには感じなかったのですが「分かった。でも今は大勢の人たちが来ているので、貴方だけに見せるのは難しい。もう少ししたらお昼になるので皆ランチでちょっと人が少なくなるだろう。その時に案内しよう。」と言ってくれたのでした。私は先ほどの土産物店に戻り、お昼になるのを待ちました。でも、一向に事務所の人が来る気配はありませんでした。それで再度事務所に出かけることにしました。そして、中に入っていって、ちょっと偉そうな(管理者的な人)の近くにいって、話しかけようとすると、彼の方から「〇〇君、連れて行ってやれ!」と若い男性に向かって言ったのでした。現場に戻って鉄格子で閉鎖していた扉を開けて、仮設の階段を登り上に行ったのですが、なかなか険しいところでした。碑文の前に着くとそこは少し広いスペースができていました。私は感動で頭の中が真っ白になりました。眼前にあの歴史的なレリーフがあるのです。ローリンソンが解読しようと大変な苦労をして大偉業を成し遂げたレリーフがあるのです。しばらく感動に浸ったのでした。同行の二人も私の説明を聞いてそのすごさを知って感動していました。こんなことを体験させてもらえて「先生ってすごいなあ」ということでした。

管理事務所の案内してくれた男性が次の写真の左から二人目の背の高い青年です。左端の男性は、現地で雇ったタクシーの運転手です。一緒に連れて行ってあげました。

正確にいうと、事務所というのは世界遺産管理事務所です。そして、案内者が言うには「世界中から研究者などが見学許可を求めてきています。が、私たちは許可してはいないんです。危険ということもありますし、大体この碑文については研究もしつくされていますしね。でも、あなたのように突然きて、見るまで帰れないというわけですから、上司もOKしたんですね。特にあなたがペルシャ語でお願いしたのが好印象だったようです。」と言ってくれたのでした。

ここに写真を動画にしたものをアップしようとしたのですが、容量が大きすぎると出てしまいました。仕方がないのでユーチューブにアップしたものにリンクさせることにしました。ご覧ください。動画とスライドショーの二つです。再生時は画面を最大にしてご覧ください。

 

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ペルシャ語講座15:時刻の表し方

日常生活において時間や時刻の表現は大変重要です。間違えると時には大きな失敗につながることもあります。時計をみて、何時何分という表現を覚えるのが簡単な方法だと思います。また、ペルシャ語の表現は英語の表現とほぼ同じと思っていいでしょう。時計の図は Oxford picture dictionary から拝借させていただきます。

時間は sa-at サーアットといいます。1時、2時、3時の「時」もサーアットです。

1時は サーアッテ イェク

1時5分:yek va panj daqiqe ですが、vaの部分が続いて発音されるので、yekou panjdaqiqeとなります。daqiqeは普通は省略されます。英語と同様に5past 1という言い方もあります。panj daqiqe bad az yekです。

最も一般的なのは
イェコウパンジかな。

 1時5分の5分が10分に代わっただけですね これは15分ですから、punzudahとなりますが、英語と同様に1/4という表現ロブを使うことも多いです。
イエコウロブ となります。
イエコウ ビスト ダキーケ
ビスト ダキーケ バッド アズ イェク
1時半です。英語のhalfに相当するのが nim ニームです。ですから、イエコウ ニームとなります。イエコウ スィー ダキーケといってもOKです。
① イェコウ チェヘル (ダキーケ)
② ビスト ダキーケ ベ ドウ という風に2時まで20分という言い方もあります。これも英語と同様ですね。
2時まで15分という言い方がイェクロブ ベ ドウ です。文字通り説明すると「2時まで一つの1/4」ということです。勿論、イエコウ チェロパンジ でも結構です。

カタカナで分のことをダキーケと書きましたが、ローマ字ではdaqiqeと書いたように、kではなくqの音ですから、喉の奥を転がすような感じです。

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アラビア太郎と石油利権

先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。

そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。

山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。

1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。

昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功

石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。

アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、

2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。

 

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想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

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中東の石油(11):セブン・シスターズ

中東の石油シリーズの最後は「セブン・シスターズ」という題にしたい。中東の石油利権を手に入れて、中東の石油だけでなく世界の石油を牛耳ってきた石油会社は「国際石油資本」とか「石油メジャーズ」と呼ばれることがある。このブログの中でも欧米の石油会社が競って中東の石油利権を手に入れてきたことを述べてきた。そのような中で、彼らの仲間に入ろうとして競ったが、勝てなかった男がいた。そして、彼は対抗した相手を「7人の魔女」と呼んだのであった。その男、とはイタリアのエンリコ・マッティである。ウィキペディアでは彼のことを以下のように記している。

エンリコ・マッテイ(Enrico Mattei、1906年4月29日 – 1962年10月27日)は、イタリアの実業家、政治家。長年にわたりイタリア国営石油会社ENIを率い、当時ヨーロッパの石油市場を独占していたメジャーに対抗した。マッテイはキリスト教民主主義の党員であり、1948年から1953年にかけては議員も務めた。1962年に飛行機事故により死亡したが、メジャーとの対立を続けたその経歴から謀殺の噂が今も絶えない。

末尾に書かれているように、彼の突然の死はメジャーズによって仕掛けられた暗殺であるというのが定説である。冒頭の画像は、1926年にイギリスで生まれたジャーナリスト、アンソニー・サンプソンが著した『セブン・シスターズ / 不死身の国際石油資本』の表紙である。彼はエンリコ・マッテイが「7人の魔女」と呼んだ7つの石油会社を「セブン・シスターズ」として石油の歴史と石油会社の熾烈な競争を書き著した。私の手元にあるこの本は石油界のおどろおどろした歴史の内情がつぶさにわかる名著である。セブン・シスターズとは次の7社である。(ウィキペディアより引用)

  • スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ石油、その後1999年にモービルと合併しエクソンモービル)
  • ロイヤル・ダッチ・シェル(オランダ60%、英国40% )
  • アングロペルシャ石油会社(後のBP)
  • スタンダードオイルニューヨーク(後のモービル、その後1999年にエクソンと合併してエクソンモービル)
  • スタンダードオイルカリフォルニア(後のシェブロン)
  • ガルフ石油(後のシェブロン、一部はBP)
  • テキサコ(後のシェブロン)

スタンダード石油が誕生した後、数多くの石油会社が設立された、合併や再編成、消滅を繰り返して現在に至っている。少し古いがその推移を図示したものが岩波新書の瀬木 耿太郎著『石油を支配する者』(1988)から拝借して紹介しておこう。

この新書は現在でもアマゾンを利用すれば手に入る。値段も手ごろであるので、是非とも読んでもらいたい一冊である。(終わり)

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中東の石油(10):OPECの結成後

テーマがあちこちに移り、目まぐるしいかも知れないが、ご容赦願いたい。今回はまた「中東の石油」に戻ることにしよう。前回はOPECが結成されて、徐々に産油国の力が強くなってきたというところで終わった。その続きである。

産油国が強くなったというものの、メジャーズに利権を与えるという契約の基本は変わっていなかった。そこで、1972年には、メジャーズに対してパーティシペーションを求める交渉が開始された。パーティシペーションとは、産油国がメジャーズに与えた利権に参加するというものであった。OPECを代表して交渉にあたったのはサウジアラビアのヤマニ石油相であった。この交渉に加わった産油国はイラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アブダビの湾岸産油国であった。イランは名目上とはいえ、既に石油国有化を終えていたので、この交渉には参加していない。

交渉をめぐり、メジャーズ間の意見は分裂した。結局、国有化されるよりはパーティシペーションへと傾いていった。ヤマニは長い交渉の末に、1972年10月にメジャーズと「一般協定」の締結に成功した。協定により、石油会社の25%を産油国が所有することになった。そして、その比率は1983年までに51%にまで引き上げるというものであった。さらに産油国が獲得できるようになった持分25%相当の原油を石油会社が買い戻す価格(バイバック価格)について、アラムコのメンバー4社は公示価格の93%という高い水準を認めたのであった。この価格の高さだけでなく、誰が原油を買い戻すのか(手に入れるのっか)ということが大きな問題であった。石油会社同士がもめるばもめるほど産油国の立場が強くなっていった。

当時、アメリカにおける原油生産量が下降しだし、アメリカは本格的に石油輸入国になった。パーティシペーションによって産油国が得た原油がスポット市場に姿を現すようになり、原油価格は上昇した。OPEC諸国のパーティシペーションの比率や、原油価格の買い戻し価格が予想より高かったことから、イランはコンソーシアムと条件改善を求めて交渉を開始した。しかし、コンソーシアムがイランの要求に応じないため、1973年にパーラヴィー国王はコンソーシアムとの協定期間を1979年以後は延長せずに、契約を終結させることを発表した。この時、私はイランに駐在していたので、テヘランでこの発表を聞いた。役所の建物には垂れ幕が垂れ下がり、国王の英断を讃えていた。契約終了予定の1979年とはイラン革命が成立した年である。国王自身は追放(逃亡)の身となり、真の国有化を見ることができなかった。歴史とは皮肉なものである。

クウェートの場合はどうであっただろうか。OPECが設立された1960年にクウェート国営石油会社(KNPC)が設立された。この会社はクウェート石油会社(KPC:既に述べたメジャーズの会社)が生産した石油製品をクウェート国内で販売することを目的としていたが、KNPCはスペインの企業と合弁会社を設立し探鉱・開発にも進出していった。前述したように、OPECの一員であるクウェートもKOCに対して25%の事業参加協定を調印したのであったが、クウェートの場合は議会が最終的に批准せずに、クウェート政府は1974年にKOCの60%を取得し、1976年には100%つまりすべての株を取得し国有化に至ったのであった。さらにクウェート政府はKNPCの株もすべて取得し完全国有化した。そして、1980年には石油関連部門を統括するために100%政府所有のクウェート・ペトローリアム・コーポレーション(KPC)を設立した。

イラク石油会社(IPC)も1972年3月、イラク政府に対して20%のパーティシペーションを承諾した。しかし、イラク政府は、その年の6月にIPCの国有化を発表した。産油国にとって国有化が即、パーティシペーションより有効な結果を生んだかというと、決してそうではない。原油生産・精製事業を自力で操業することはできなかったし、販売面ではメジャーズのボイコットを受けた。しかしながら、イラク政府は1964年に既に探鉱・開発・生産を目的として国営イラク石油会社(INOC)を設立していた。INOCはソ連と1967年に協定を結び、ソ連から必要な設備の供給を受け、石油開発・輸送・販売等の支援を受けていた。両国は通商条約を結び、イラクとソ連との間には友好関係が築かれていった。国有化されたIPCの原油が西側にボイコットされた時、イラク政府はソ連に安く引き取らせて切り抜けた。

アラムコのメンバーであるエクソン、テキサコ、シェブロン、モービルも1972年3月にサウジアラビア政府に対して20%のパーティシペーションに合意した。さらに12月には1973年1月以後、25%に比率をアップし、以後一年ごとに5%ずつ増やし、1981年には51%とする「一般協定」に調印した。1974年には「一般協定」が改定され、サウジアラビアの参加比率は60%に改められた。そして、1980年には完全な国有化に至ったのであった。

OPEC結成の1960年から第一次石油危機前後の70年代前半にかけて、産油国が自国の石油資源を外国石油会社から取り戻してきた経緯をごく簡単に紹介した。このような経緯があったから、イランは二度と天然資源の利権を外国企業に与えることはしないと憲法で規定している。他の産油国もほぼ同様な考え方である。この資源を持たない我々は産油国との友好関係を上手に築き、末永くエネルギー源を確保できるような外交関係を確立させなければならないのであるが、現実はどうであろうか。

 

 

 

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