ロシアのウクライナ侵攻と金貨

平和の祭典であるオリンピック冬季大会が開催されて終了しました。その一方で、平和とは真逆のウクライナとロシアの問題が危機的な状況になっています。ロシアはウクライナの中の2つの州の親ロシア地域の独立を承認するというのです。親欧米化するウクライナを放っておけないわけです。ロシアにとってはNATOの拡大を見過ごせないわけです。問題は複雑です。ドイツの東西統一、つまり西ドイツと東ドイツが一緒になった時あたりまで遡って議論する必要もあるでしょう。そちらのことはそちらの専門家に任せましょう。

この問題で私たち一般人に与える影響はどうでしょう。世界情勢が不安定になると原油が高騰しています。ガソリン価格が170円以上になっています。ロシアから欧州へ天然ガスの供給が止まる可能性もあります。そのために日本の輸入している天然ガスを融通できないかという打診もあったようです。原油や天然ガスとなると豊富な中東が注目されるようになってくるでしょう。

また金が高騰していますね。グラム7000円を超えていました。そこでこのブログとしては中東の金貨を1枚紹介することにします。イランの国王時代(パーレヴィー国王)に発行されていたパーレヴィー金貨です。1~5パーレヴィーの5種類があり、1が8グラム、5が40グラムほどです。次の画像は私が所有する5パーレヴィーの大きな金貨です。この金貨の価値が上がることよりも、戦争のない平和になってほしいものです。

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モスクを知る❺:トルコのモスク

 

今回はトルコ型のモスクとしたいのだが、私も含めて建築やモスクの専門家でない者にとっては、そんなに詳しいことは必要ないだろう。そこで、簡単にトルコのモスクと題したのであるが。

トルコの首都イスタンブールは元々はビザンツ帝国の首都であった。その名はコンスタンチノープルである。コンスタンチヌス帝の名前からきている。このブログの中でもビザンツ帝国がオスマン軍に攻略されて陥落したことは何度か述べたと思う。ビザンツ帝国の都には当時から素晴らしい建築物が存在していた。有名なのがキリスト教正教会の大聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)である。これがイスラムのモスクとして転用されているアヤソフィアである。従って、アヤソフィアを見て、トルコのモスクはこうであるというのは間違っているだろう。というものの、それに匹敵するモスクを造ろうとしたのだから、トルコのモスクはこのようでいいということなのだろう。

ビザンツ帝国はオスマン軍に敗れて国は滅亡した。しかしながら、彼らは「国は敗れても、大聖堂を築くことのできる技術や文化をオスマンたちは手にすることはできないだろう」と言ったという。そして、このキリスト教正教会の大聖堂を見て、その技術の高さに驚き、あの大きなドームを自らの手で造りたいと発奮した男がいた。ミマール・シナンであった。

このシナンについて、「世界史の窓」では次のように記している。
シナンは、ギリシア系のキリスト教徒の家に生まれ、若くしてデウシルメによってイェニチェリとなり、スレイマンに従って各地を転戦しながら、架橋や陣地構築技術を身につけ、50歳を過ぎてから、スレイマン1世の悲願であったハギア=ソフィア聖堂を凌駕する規模のモスクの建築に取り組み、1557年に完成させた。そのほか、数多くのモスク建設や水道建設にあたり、オスマン帝国時代の技術水準の高さを示す建築を残している。そして更に次のような引用をしている。(引用)シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラム教に改宗させて徴用する制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。百歳という長い寿命のなかで、81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建てたといわれている。首都におけるシナンの代表作といえるモスクが、シュレイマニエ・ジャミイ(一般にスレイマン=モスク)である。1550年に着工、1557年に完成した。<浅野和生『イスタンブールの大聖堂』2003 中公新書 p.198>

彼自身がかつてはキリスト教徒であったこと。オスマン帝国には異教徒であるキリスト教徒を徴用して育てる制度があったことなども興味深いことである。イスタンブールに行けば彼の手掛けたモスクにも出会うことができるのである。また、少し離れるがエディルネという街にも彼が建てた有名なモスクがある。シナンがモスクを建てようとした土地はチューリップ畑であった。地主は土地を手放そうとはしないので、シナンは足繁く通った。結局、モスクにチューリップを残すことで話がついたのであった。このモスクの建物の中の一本の柱にチューリップが逆さに彫り込まれているという。一度訪れてみたいモスクである。モスクを訪れた人々がチューリップを触って、その物語を回想するのだそうで、チューリップはすり減ってしまった。今はガラスのカバーがつけられているそうだ。シナンの一生を描いているのが、夢枕獏さんの『ミマール・スィナン』である。文庫本2冊の大作であるが、面白いのであっという間に読めてしまう。

最後に神谷先生のサイトでのトルコ型モスクについての部分を一部だけ引用させていただこう。
・・・・・・一方、外部はというと、通常 広い敷地の中央に 整然としたプランで建つので、ペルシアよりは はるかに外観がある。しかし ドーム屋根は 近くで見ると 上部が蹴られて、実際の高さほどに 偉大には見えないし、常に黒っぽい鉛板で葺かれた姿は ややグルーミーでさえある。外観を誇示しようとはしなかった と言えるし、しかも どのモスクもよく似た外観をしているので、いささか退屈な感も なしとしない。あくまでも 内部空間の探求が主目的なのであって、外部の形は その結果にすぎなかったのだろう。
オスマン帝国は トルコばかりでなく エジプトから東欧まで支配したので、グレーのドーム屋根と鉛筆型のミナレットがセットになった トルコ型モスクを、津々浦々に建てた。その最高傑作が、トルコ史上最大の建築家(ミマル)シナンが設計した イスタンブルのスレイマニエ(スレイマン1世のモスク)と、エディルネの セリミエ(セリム2世のモスク)である。

トルコの素晴らしいモスクの写真はネットを見ればたくさん出て来るので、是非ともご覧いただきたい。

モスクを知る❹:ペルシア型のモスク

前回モスクにはアラブ型、ペルシア型などがあることを知ったので、その辺りについて考えてみよう。先ず、イスラムが生まれたのはアラブ社会の中である。そこで生まれた礼拝の場であるモスクは当然アラブ型といえるだろう。いま、ペルシア型のモスクというと何が違うのであろう。ペルシアはアラブとは異なる文化圏である。イスラムが7世紀に誕生して、イスラム世界を拡大し始めた時、北西にはビザンツ帝国が、北にはササン朝(226年 – 651年)という二つの帝国が存在していた。そのササン朝は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に敗れ、その後滅亡したのである。こうした歴史を経てペルシアはイスラム化していったのである。そこで造られたモスクがアラブ型のものとは異なっていても不思議ではない。ササン朝ペルシアといえば、シルクロードを経て中国へ、そして奈良へと洗練された文化を伝えた国である。その後のモスク建築にも独特の様式が取り入れられているのであろう。

先日紹介した神谷武夫氏のサイトでは次のような説明がある。
モスク建築の歴史に 画期的な変化をもたらしたのは、ペルシア(現在のイラン)が、ササン朝の遺産である「イーワーン」を モスクに もちこんだことである。初めはごく控えめに、中庭に面する礼拝室のアーケードの中央スパンを 他よりも幅広くし、アーチの高さも高くして、ミフラーブに向かう中央身廊を強調したのだった。この場所に イーワーンを設置すると、中庭が一気に活気づく。ササン朝宮殿のイーワーンは玉座や謁見室としての機能をもっていたのだが、この場合には そうした機能は不要なので、モスクを造形的に美化しようという意図のほうが強かった。

フィールーザーバードの アルダシール宮殿遺跡(イーワーンの元)


こうして中心軸が強調されると、中庭において このイーワーンと向き合う面にも その対応物が欲しくなる。そこで ここにもイーワーンを設けて向かいあわせると「ダブル・イーワーン型」のモスクとなる。列柱ホールが中庭を囲んでいただけの単調なモスク型は、こうして大いにメリハリのある建築となった。さらに、中庭を囲む他の2辺の中央にもイーワーンを設置すると、4基のイーワーンが 縦・横の中心軸上に向かいあう「四イーワーン型」のモスクとなって、飛躍的に造形効果が増大する。

ザワレの金曜モスク

 四イーワーン型の 最初の作例といわれるのは、12世紀の ザワレの金曜モスクである。地方都市なので 規模は小さく、中庭は約 16m角の正方形である。そこに 各辺の長さの 1/3ほどの幅をもつ イーワーンが 向かいあうのだから、アラブ型モスクとは まったく異なった中庭空間となった。4基のイーワーンに囲まれた中庭の求心性は強烈で、奥の礼拝室自体よりも シンボリックな空間となる。イスファハーンの金曜モスクでは、アッバース朝時代の 古典的な列柱ホール・モスクが、12世紀に 四イーワーン型モスクへと 劇的に変えられた。イーワーンのアーチの内側は 半ドームや半円筒形ヴォールトの天井とされ、しばしば華麗な ムカルナス装飾 がほどこされた。アラブ人よりも、見た目の美しさを重視する ペルシア人の 感性の発露だったと言える。

さて アラブ型からペルシア型への 変化部分は 、他にもあった。まず 屋根の不燃化である。アラブ型では シリア・ビザンティンの伝統に従って 木造の陸屋根が基本であったが、ペルシアでは 木材の欠如から、すべてをレンガ積みでつくろうとする。柱から柱へは すべてアーチを架け渡し、4つのアーチで囲まれた区画ごとに 小ドーム天井を架けたのである。それと同時に、ミフラーブの手前は 柱を取り除いて広い正方形の空間をつくり、ここに 大きなドーム屋根をかけた。この 天井の高い場所が主空間となり、均質的なアラブ型とはちがう、メリハリのある礼拝室となったのである。

以上で大体の違いがお分かりであろう。ペルシア型の最大の特長はイーワーンである。四角い壁のような入り口がアーチになっている面である。このイーワーンが四角い中庭を囲む対面の2カ所、あるいは4面に設けられているわけである。有名なイスファハンの「王のモスク(現在のイマーム・モスク)の図面は以下の通りである。

王の広場から入っていくと図の中庭にでるのであるが、中庭を囲む四面がイワーンであることがわかるであろう。王の広場から入っていくときに通る最初の門もイーワーンである。次の写真はそれを私が写したものである。

ドームと尖塔という取り合わせのアラブ型に対してペルシア型はイーワーンとタイルが特徴と言えるかもしれない。ペルシア型にも尖塔はある。前にも述べたことがあるが地方の素朴なモスクが好きである。私が写したそんなモスクのイーワーンも紹介しておこう。