サッカーワールドカップの開催地・カタールのこと


サッカーのワールドカップが始まりましたね。私はサッカーにはあまり関心がないのですが、優秀な選手たちが選ばれて日本代表チームとして参戦するのですから、応援はします。昨日はサウジアラビアが優勝候補のアルゼンチンに勝つという番狂わせがあったようです。中東・イスラム世界を扱うこのブログの主としては拍手です。今日は少しだけ開催地のカタールについて書いて見ましょう。

ペルシア湾にニョキっと突き出た半島のような島のような形がカタールです。1800 年代半ばからアル サーニ家によって統治されていたカタールは、主に真珠採掘で知られる貧しい英国の保護領でした。この真珠産業も日本の御木本が開発した養殖真珠によって衰退したのでした。でも、現在は石油と天然ガスによる多大な収入をもたらす独立国家へと変貌を遂げています。身近な国ではないように見えるが、実際にはそうではありません。カタールの化石燃料は石油よりもむしろ天然ガスの開発が先んじており、日本は大量の天然ガスを輸入してきたのです。天然ガスは気体であるので、それを液化したガス、つまりLNG=液化天然ガスを専用のタンカーで運んできたのです。液化施設を造るには莫大な費用が掛かるために、日本も出資したプロジェクトで開発を進めました。実用化後はカタールにとっても永続的に利益がもたらすように「take or pay」「テイク オア ペイ」という契約方式をとっていました。つまり日本側での需要が例え減った場合のリスクをなくする方法です。LNGを受け取ることが義務付けされ、受け取らない場合でも支払いはするという契約だったのです。それだけ日本にとってはエネルギー源として必要だったのでした。現在は、輸入元も増えているし、そのような契約は過去のことでしょう。

国際的なニュースをテレビで見ていると「アルジャジーラ」というカタールのメディアからの放送をみることがあるでしょう。中東のCNNと呼ばれることもあるようですが、中東地域のニュースはアルジャジーラが詳しく報道してくれるので助かります。アルジャジーラという意味はアルが定冠詞、ジャジーラが島あるいは半島を意味します。アラビア半島でアルジャジーラというとアラビア半島でしょうが、カタールでアルジャジーラというとカタール半島を意味するのでしょう。ちなみに私の名前は「島」ですからジャジーラです。ペルシア語ではジャジーレです。カタールのことを詳細に述べてもあまり関心はないと思いますので、今日はこの辺で終わりましょう。今夜の日本対ドイツのサッカーを楽しんで応援しましょう。

レバノンとイスラエル海上境界画定で合意

14日の中日新聞の記事を上にアップしました。図で見るように両国の沖にはガス田が存在するのであるが、その領有を巡り争っていたが、この度、海上の境界を定めることに合意が形成されたということだ。しかしながら、境界線は図のようにカナ・ガス田を横切るような形で引かれた。イスラエルはカナの権益をレバノンに認める代わりに金銭で補償を受けるということである。カリシュ・ガス田はイスラエルが獲得することになった。国交のない両国が合意に達したことは画期的なことであると評価は高い。

この合意が結ばれた裏には米国の仲介が大きかったようである。そしてロシアのウクライナ侵攻により、ロシアから欧州へのガス供給が不安定なことが背景にある。つまり両国はガス開発を進め、そのガスを欧州に供給するという狙いもある。また欧州側もロシア産以外のガスには魅力を感じるであろう。二つのガス田は両国で分け合ったという形であるが、図を見ると両者の間の距離は非常に近い。海底深くでは繋がっている可能性も無きにしも非ずだ。一つのコップの美味しいドリンクを二人がストローで吸い合っている風景が思い浮かぶ。愛し合っているカップルならば微笑ましい。しかし、状況が変われば、お前の方が飲みすぎだと気まずくなる。そんなことのないように、これをきっかけにして両国が友好的に転じることを期待しよう。

アラビア太郎と石油利権

先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。

そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。

山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。

1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。

昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功

石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。

アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、

2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。

 

中東の石油(11):セブン・シスターズ

中東の石油シリーズの最後は「セブン・シスターズ」という題にしたい。中東の石油利権を手に入れて、中東の石油だけでなく世界の石油を牛耳ってきた石油会社は「国際石油資本」とか「石油メジャーズ」と呼ばれることがある。このブログの中でも欧米の石油会社が競って中東の石油利権を手に入れてきたことを述べてきた。そのような中で、彼らの仲間に入ろうとして競ったが、勝てなかった男がいた。そして、彼は対抗した相手を「7人の魔女」と呼んだのであった。その男、とはイタリアのエンリコ・マッティである。ウィキペディアでは彼のことを以下のように記している。

エンリコ・マッテイ(Enrico Mattei、1906年4月29日 – 1962年10月27日)は、イタリアの実業家、政治家。長年にわたりイタリア国営石油会社ENIを率い、当時ヨーロッパの石油市場を独占していたメジャーに対抗した。マッテイはキリスト教民主主義の党員であり、1948年から1953年にかけては議員も務めた。1962年に飛行機事故により死亡したが、メジャーとの対立を続けたその経歴から謀殺の噂が今も絶えない。

末尾に書かれているように、彼の突然の死はメジャーズによって仕掛けられた暗殺であるというのが定説である。冒頭の画像は、1926年にイギリスで生まれたジャーナリスト、アンソニー・サンプソンが著した『セブン・シスターズ / 不死身の国際石油資本』の表紙である。彼はエンリコ・マッテイが「7人の魔女」と呼んだ7つの石油会社を「セブン・シスターズ」として石油の歴史と石油会社の熾烈な競争を書き著した。私の手元にあるこの本は石油界のおどろおどろした歴史の内情がつぶさにわかる名著である。セブン・シスターズとは次の7社である。(ウィキペディアより引用)

  • スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ石油、その後1999年にモービルと合併しエクソンモービル)
  • ロイヤル・ダッチ・シェル(オランダ60%、英国40% )
  • アングロペルシャ石油会社(後のBP)
  • スタンダードオイルニューヨーク(後のモービル、その後1999年にエクソンと合併してエクソンモービル)
  • スタンダードオイルカリフォルニア(後のシェブロン)
  • ガルフ石油(後のシェブロン、一部はBP)
  • テキサコ(後のシェブロン)

スタンダード石油が誕生した後、数多くの石油会社が設立された、合併や再編成、消滅を繰り返して現在に至っている。少し古いがその推移を図示したものが岩波新書の瀬木 耿太郎著『石油を支配する者』(1988)から拝借して紹介しておこう。

この新書は現在でもアマゾンを利用すれば手に入る。値段も手ごろであるので、是非とも読んでもらいたい一冊である。(終わり)

中東の石油(10):OPECの結成後

テーマがあちこちに移り、目まぐるしいかも知れないが、ご容赦願いたい。今回はまた「中東の石油」に戻ることにしよう。前回はOPECが結成されて、徐々に産油国の力が強くなってきたというところで終わった。その続きである。

産油国が強くなったというものの、メジャーズに利権を与えるという契約の基本は変わっていなかった。そこで、1972年には、メジャーズに対してパーティシペーションを求める交渉が開始された。パーティシペーションとは、産油国がメジャーズに与えた利権に参加するというものであった。OPECを代表して交渉にあたったのはサウジアラビアのヤマニ石油相であった。この交渉に加わった産油国はイラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アブダビの湾岸産油国であった。イランは名目上とはいえ、既に石油国有化を終えていたので、この交渉には参加していない。

交渉をめぐり、メジャーズ間の意見は分裂した。結局、国有化されるよりはパーティシペーションへと傾いていった。ヤマニは長い交渉の末に、1972年10月にメジャーズと「一般協定」の締結に成功した。協定により、石油会社の25%を産油国が所有することになった。そして、その比率は1983年までに51%にまで引き上げるというものであった。さらに産油国が獲得できるようになった持分25%相当の原油を石油会社が買い戻す価格(バイバック価格)について、アラムコのメンバー4社は公示価格の93%という高い水準を認めたのであった。この価格の高さだけでなく、誰が原油を買い戻すのか(手に入れるのっか)ということが大きな問題であった。石油会社同士がもめるばもめるほど産油国の立場が強くなっていった。

当時、アメリカにおける原油生産量が下降しだし、アメリカは本格的に石油輸入国になった。パーティシペーションによって産油国が得た原油がスポット市場に姿を現すようになり、原油価格は上昇した。OPEC諸国のパーティシペーションの比率や、原油価格の買い戻し価格が予想より高かったことから、イランはコンソーシアムと条件改善を求めて交渉を開始した。しかし、コンソーシアムがイランの要求に応じないため、1973年にパーラヴィー国王はコンソーシアムとの協定期間を1979年以後は延長せずに、契約を終結させることを発表した。この時、私はイランに駐在していたので、テヘランでこの発表を聞いた。役所の建物には垂れ幕が垂れ下がり、国王の英断を讃えていた。契約終了予定の1979年とはイラン革命が成立した年である。国王自身は追放(逃亡)の身となり、真の国有化を見ることができなかった。歴史とは皮肉なものである。

クウェートの場合はどうであっただろうか。OPECが設立された1960年にクウェート国営石油会社(KNPC)が設立された。この会社はクウェート石油会社(KPC:既に述べたメジャーズの会社)が生産した石油製品をクウェート国内で販売することを目的としていたが、KNPCはスペインの企業と合弁会社を設立し探鉱・開発にも進出していった。前述したように、OPECの一員であるクウェートもKOCに対して25%の事業参加協定を調印したのであったが、クウェートの場合は議会が最終的に批准せずに、クウェート政府は1974年にKOCの60%を取得し、1976年には100%つまりすべての株を取得し国有化に至ったのであった。さらにクウェート政府はKNPCの株もすべて取得し完全国有化した。そして、1980年には石油関連部門を統括するために100%政府所有のクウェート・ペトローリアム・コーポレーション(KPC)を設立した。

イラク石油会社(IPC)も1972年3月、イラク政府に対して20%のパーティシペーションを承諾した。しかし、イラク政府は、その年の6月にIPCの国有化を発表した。産油国にとって国有化が即、パーティシペーションより有効な結果を生んだかというと、決してそうではない。原油生産・精製事業を自力で操業することはできなかったし、販売面ではメジャーズのボイコットを受けた。しかしながら、イラク政府は1964年に既に探鉱・開発・生産を目的として国営イラク石油会社(INOC)を設立していた。INOCはソ連と1967年に協定を結び、ソ連から必要な設備の供給を受け、石油開発・輸送・販売等の支援を受けていた。両国は通商条約を結び、イラクとソ連との間には友好関係が築かれていった。国有化されたIPCの原油が西側にボイコットされた時、イラク政府はソ連に安く引き取らせて切り抜けた。

アラムコのメンバーであるエクソン、テキサコ、シェブロン、モービルも1972年3月にサウジアラビア政府に対して20%のパーティシペーションに合意した。さらに12月には1973年1月以後、25%に比率をアップし、以後一年ごとに5%ずつ増やし、1981年には51%とする「一般協定」に調印した。1974年には「一般協定」が改定され、サウジアラビアの参加比率は60%に改められた。そして、1980年には完全な国有化に至ったのであった。

OPEC結成の1960年から第一次石油危機前後の70年代前半にかけて、産油国が自国の石油資源を外国石油会社から取り戻してきた経緯をごく簡単に紹介した。このような経緯があったから、イランは二度と天然資源の利権を外国企業に与えることはしないと憲法で規定している。他の産油国もほぼ同様な考え方である。この資源を持たない我々は産油国との友好関係を上手に築き、末永くエネルギー源を確保できるような外交関係を確立させなければならないのであるが、現実はどうであろうか。

 

 

 

中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。

 

 

中東の石油(8):石油国有化以後

イランの石油事業が石油メジャーズの殆どのメンバーが参加したコンソーシアムによって運営されるようになったことを前回述べた。その後、1957年にイランの石油開発法が制定された。この法律はコンソーシアムの利権地域以外でNIOC(国営イラン石油会社)が外国石油会社との合弁により、石油開発を進めることを認めたものであった。まず、1957年8月にイランの沖合大陸棚の油田開発のためにSIRIPが設立された。この合弁会社のパートナーはイタリアの国有炭化水素公社(AGIP)であった。ついで、1958年4月にはスタンダード石油インディアナ社の子会社パン・アメリカン石油会社との合弁会社IPACが設立された。これら2社の契約方式は「利権供与合弁事業方式」というべきものであった。NIOCは合弁会社の半分をシェアしているために、利益の50%を得ることができた。一方、外国側のパートナーも利益の50%を受け取るが、イラン政府はその取り分に50%の所得税をかけることができたのであった。つまり、イラン側は利益の75%を受け取ることができるという内容であった。これを契機に、同様の条件による合弁会社の設立が相次いだ。それらはDEPCO, IROPCO, IMINOCO, LAPCO, FPC, PEGOPCO,などであった。この75%対25%という利益配分は周辺産油国における利権協定の条件にも大きな影響を与えていった。

さらに、1966年には新方式の「請負作業契約」がNIOCとフランス国営石油会社ERAPとの間で締結された。この新しい契約は外国の石油会社に利権を与えるのではなく、単なる請負者として石油を開発させるものであった。請け負ったERAPはNIOCの計画、指示によって契約地域内の探鉱と開発に従事するが、ERAPは探鉱・開発の技術と必要な費用は自らが負担し、たとえ油田開発に失敗しても費用は返ってこない。もし、成功すれば探鉱費は無利息借款となり、商業量石油の生産開始後15年間で返済されるというものであった。また、開発費もイランに対する借款となり、こちらは5年以内に、フランスの銀行の現行利息に2.5%を加算した金額相当を返済するというものであった。このように、NIOCはコンソーシアムの協定地区以外で新方式により、より良い条件の下で石油開発を推進していった。これらの合弁会社による石油開発の実績は実は大きなものではなかった。しかし、石油会社との契約条件を改善していったことが、産油国側にとっては大きな成果であった。この方式はイラクやサウジアラビアに波及していったのである。

中東の石油(7):イランの石油国有化(2)

1951年にモサデク首相がイランの石油国有化を行ったことを前回とりあげた。だが、国有化は結局失敗と言わざるを得なかった。イランの石油は国際石油会社からボイコットされたため、市場に出すことができなかった。ということは石油収入が入ってこないということだ。それまでのアングロ・イラニアン石油会社から配分される金額に不満はあったものの、石油収入は莫大なものであった。それが入ってこなくなったのだから、イラン経済は低迷することは当然の成り行きであった。イギリスはイランでの足場を失う大損失を被ることになる。なんとか国有化を阻止したかった。いずれにせよ、国有化は議会で決定されたことであり、国営イラン石油会社もすでに誕生してしまった状況である。

アメリカのCIAとイギリスの諜報機関が連携をとって1953年、モサデク政権転覆作戦(エイジャックス作戦、Operation Ajax)を実行したのである。CIAがイランのザヘディ将軍を担ぎ出して、クーデターのシナリオを実行したのだった。モサデクは失脚に追い込まれ、若き国王がアメリカの保護の下に権力を取り戻した。そして、イランの石油生産、精製、流通、販売を正常化させるために、アメリカの提案で「イラン石油コンソーシアム」が結成された。このコンソーシアムがイランの石油事業を操業するのである。そして、収益の半分をNIOCがとり、残りの半分をコンソーシアムが得るのであった。肝心のコンソーシアムのメンバと出資比率は次の通りとなった。

アングロ・イラニアン 40%
ロイヤル・ダッチ・シェル 14%
フランス石油 6%
ガルフ 7%
モービル 7%
 スタンダード・ニュージャージー 7%
ソーカル 7%
テキサコ 7%
イリコン・エージェンシー 5%

つまり、イランの石油事業を操業するコンソーシアムに当時の国際石油会社が総揃いして参加したのである。そして、イギリスの独占体制が崩れたのであった。結果的にみると、アメリカがクーデターを計画して現政権を崩壊させて、新政権後のイランの石油事業に参入することに成功したということになる。そのシナリオはフセイン政権時代のイラクに大量破壊兵器が存在することをでっち上げて、その政権を崩壊させて、イラクに影響力を行使しようとしたことと重なるものがある。大国にとって政権を転覆させることなど簡単なことなのである。イラン政府とコンソーシアムの契約期間は25年であったが、5年間の延長を3回行うことができた。イランの石油国有化は達成されたというものの「イラン人の手によるイラン石油産業の経営」は有名無実となってしまった。

このコンソーシアムに石油メジャーズの殆どが参加したということは、重要な意味を持っていた。コンソーシアムのメンバーは中東産油国各国で石油会社を操業していた。だから、イランのコンソーシアムで会合をすれば、中東全域の石油生産を、ひいては市場を、価格をコントロールできるようになったのである。1955年におけるメジャーズのシェアは92%という高い比率であった。

イランの石油国有化の失敗はその後のOPECの結成へとつながっていったのである。

中東の石油(6):イランの石油国有化(1)

前回までに中東の石油資源が大国の石油会社の支配下になったことを述べた。各社の出資比率を表にまとめると次のようになる。

イラン トルコ➡イラク バーレーン クウェート サウジアラビア
AP 100 50 23.750 50
ドイツ銀行 25
RDS 25 23.750
仏石油 23.750
エクソン 23.750 30
モービル 11.875 10
グルペンキアン 5.0
ソーカル 100 30
ガルフ 50
テキサコ 30
発見年 1908 1927 1931 1938 1938

AP=アングロ・ペルシャ石油会社。後にアングロ・イランニアン石油会社に変更
RDS=ロイヤル・ダッチ・シェル石油会社。

さて、時代が進むと世界各地で大国による支配に対する反発が強まってくる。植民地からの独立のための運動が起きてくる。石油のような資源に対しても自国に取り戻そうという動きがでてくるのは当然のことである。イランの石油国有化が今回のテーマである。

ダーシー利権を与えたときのペルシャの政治体制はカージャール朝であった。1925年にレザー・ハーンがクーデターを起こして、パーラヴィー王朝を開いた。彼は自らをシャー(王)と称しトルコに倣って国内の近代化に努力した。国名をペルシャからイランと改めたが、イランの石油利権はイギリスが保有したまま残されていた。アングロ・ペルシャ石油会社はペルシャがイランとなったのを受けて、アングロ・イラニアン石油会社(Angro Iranian Oil Company)と改称された。AIOCは1933年にイラン政府と契約を更新した。利権の及ぶ範囲は10万平方マイルに限られ、イラン政府に対する支払いも増大した。しかし、利権の期間は60年に渡る長期であった。アバダンの製油所が大規模化し、ケルマンシャーーにも製油所が建設された。1941年までに5つの油田が発見・開発された。第二次世界大戦中に原油生産は減少した。しかし、戦後の欧州の急速な需要増のために生産は急増していった。そして、各地で民族主義が高揚した。石油生産についても、石油収入の配分が不公平であるとの不満がイラン国内に充満してきた。このような時期の1948年にはベネズエラが石油会社との間で、政府と石油会社の利益配分をそれぞれ50%とする新しい分配方法を定めることに成功していた。サウジアラビア政府もアラムコから同様な条件を獲得した。このような環境で、イラン政府とAIOCとの条件改善交渉は一気に国有化へと飛躍していった。

1951年4月、石油国有化法案が議会に提議され満場一致で可決され、国営イラン石油会社(NIOC)が誕生した。可決後にイギリス人は全員退去し、残された油田や施設の操業はイラン人の手に委ねられた。イギリスはイランの石油が手に入らなくても、イラクやクウェートでの増産により補うことができた。そして、イランの石油を世界の市場から締め出すべく世界の石油会社に、イラン石油のボイコットを働きかけた。ペルシャ湾にはイギリス軍艦が配備されてイラン石油の輸出を阻もうとした。この時にイランの石油を買い付けに行ったのがあの映画「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光石油の日章丸である。・・・・・出光はイギリスから訴えられる・・・・イランは石油が売れなくて経済が疲弊していく・・・・・国有化を断行したのはモサデク首相であったが、政権の座がぐらつき始める・・・・・イギリスとイランの法廷闘争、イギリスと出光の法廷闘争がつづく・・・・イランは混沌とした状況に陥ってしまった。

国有化は行われた。しかしながら、イランの石油事業は行き詰ってしまった。ここでアメリカのCIAが登場するのである。CIAの策略により、クーデターが起きる。モサデクを失脚させる。そして、その後のイランでアメリカが大きな足場を作るのだ。この続きはまた次回に。

 

中東の石油(5):石油の発見(ペルシャ湾岸諸国)

イランで、そしてイラクで石油が発見された。そうなると次はどこかということになる。アラビア半島やペルシャ湾岸諸国であろう。イラク地方で石油利権をめぐる激しい駆け引きが1920年代におこなわれていた当時、アラビア半島に対する関心は低かった。サウジアラビアについていえば、1923年にアングロ・ペルシャ石油会社のジェネラル・マネージャーが送った書簡には「サウジアラビアで石油は発見されそうにない。それは地表に全く油徴がないからである。ほとんど調査されていないとはいえ、地質的な構造からも特に有望とは思えない」と書かれていたそうである。

一方、ニュージーランドのフランク・ホームズ少佐は第一次大戦終了後も帰国せず、石油を求めて中東に滞在していた。そして、彼は1924年にイギリスの保護区であったバーレーンの首長から一鉱区の利権を得た。ホームズはこの利権を1927年11月にガルフ社に5万ドルで売却した。この時、ガルフは赤線協定のメンバーになっていたので、赤線協定の対象地域内にあるバーレーンの石油開発については他のメンバーに諮る必要があった。しかしながら、アングロ・ペルシャ石油がバーレーンでの石油の存在を強く否定したために、ガルフはその利権を協定に参加していなかったソーカル社(スタンダード石油カリフォルニア)に売却したのであった。そして、そのソーカルが1931年に石油を掘りあてたのである。この発見はサウジアラビアへの注目を引くことになる。イラク石油会社内部にもサウジアラビアの利権獲得の動きはあったが、結局、バーレーンで成功したソーカルがイブン・サウド国王から利権を得ることに成功した。

利権を得たものの、ソーカルは資金不足を解消するために、赤線協定には参加していないテキサコに提携を持ちかけた。テキサコはスペインの市場を開拓しており、ソーカルにとっては新しい販路としての市場も魅力的であった。1938年3月にサウジアラビアのダンマンの油田で石油を発見した。そして、石油会社アラムコ(ARAMCO)が設立された。

ガルフがホームズ少佐からバーレーンの利権を得た時に、実はそれにはクウェートの利権も含まれていたのである。バーレーンの利権はソーカルに売却したが、クウェートは赤線協定の区画外であったため、ガルフはその利権を保持していた。クウェートはイギリスの保護下にあった経緯から、クウェートの首長は英国との間で「英政府の同意なしには、誰にも石油利権を与えない」という約束をしていた。ガルフと英国籍のアングロ・ペルシャ石油との間でこの利権をめぐって争いが激化し、首長は両者の駆け引きを利用して好条件を引き出していった。1934年12月23日に両社は首長との間で協定を締結するに至った。クウェート石油会社(KOC)が設立されて、ガルフとアングロ・ペルシャ石油が半分ずつ出資した。双方の和解の裏には一つのテクニックが必要であった。ガルフがカナダに子会社を作って、そこが当事者という形をとったのだ。カナダは英連邦の一員であるからという大義名分ができたというのである。石油は1938年に発見された。

バーレーン
ソーカル社 100%
クウェート
アングロ・ペルシャ石油 50%
ガルフ 50%
サウジアラビア
ガルフ 50%
テキサコ 50%

これで、イラン、イラク、バーレーン、クウェート、サウジアラビアで石油が発見されたことになる。そして、それらの油田は英、蘭、仏、米という大国の石油会社に所有されたわけである。その後、中東諸国ではナショナリズムが台頭する。石油資源を自国の資源に取り戻そうとする動きがでてくる。次回以後は石油資源の国有化への道のりを辿ることにしよう。