ロシア・トルコ戦争(露土戦争)について

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ロシアのウクライナ侵攻は依然として続いている。ウクライナ東部はほぼロシアが制圧したようであるが、ウクライナ側の抵抗は止まず、多くの市民が犠牲になっている。今回はオスマン帝国時代に中東で起きた「ロシア・トルコ戦争」を回顧してみよう。

まずはインターネット上の「世界史の窓」の記述を引用させていただこう。
17世紀末以来、ロシアにとっては、海上では黒海の制海権を得て、両海峡から東地中海方面に進出すること、陸上ではバルカン半島のスラヴ系民族を統合して勢力を拡大すること、いわゆる南下政策は、国家的野望であり、悲願であった。その地域はすでにオスマン帝国が押さえるか、その属国が治めており、ロシアが南下を図ろうとするかぎり衝突を避けることはできない。ロシアとオスマン帝国との間では、17世紀後半から19世紀後半まで200年間に、大小の戦争が12回に渡って行われている。それらを総称してロシア=トルコ戦争と言う。そのなかでもロシアのエカチェリーナ2世の時の2次にわたる戦争と1877~78年の戦争が重要。一般的にロシア=トルコ戦争(露土戦争)とは、19世紀のものに限定する場合が多い。

つまり、トルコとロシアの間では何度も戦争が行われたのである。

ピョートル大帝時代:
黒海北岸にもオスマン帝国の勢力圏が及んでおり、クリミア半島にはオスマン帝国を宗主国とするクリム=ハン国があったので、まずオスマン帝国に対して攻勢をかけた。ピョートル1世は、1696年、黒海につながるアゾフを占領した。その後、北方戦争が起こったため、バルト海方面への進出が主となった。1711年、北方戦争の最中、亡命していたスウェーデンのカール12世の意を受けたオスマン帝国がロシアに宣戦、プルート河畔の戦いでロシア軍が敗れたため、アゾフをオスマン帝国に一時返還する、ということもあった。

エカチェリーナ2世(在位 1762~96年)の時代
エカチェリーナ2世のときに再び南下政策が活発化し、オスマン帝国への侵攻が再開された。
第1次ロシア=トルコ戦争:1768年にロシア軍が、クリミア半島、バルカンに陸軍を進め、黒海では海軍がオスマン海軍を破る。1774年、キュチュク=カイナルジャ条約でダーダネルス=ボスフォラス海峡(両海峡)の商船の航行権などを獲得。ロシアのクリム=ハン国の保護権を認められた。しかし、クリム=ハン国のクリミア=タタール人は依然としてオスマン帝国のスルタンに従う姿勢を崩さなかった。そこでロシアは、1783年に強制的にクリム=ハン国を併合し、ロシア化をはかった。そのため多くのクリミア=タタール人がオスマン帝国領に移り、救援を求めた。
第2次ロシア=トルコ戦争:1787年、オスマン帝国はクリミア=タタール人の要請を入れて、ロシアにクリミア半島と黒海北岸の軍隊の撤退を要求、ロシアはそれを拒否して開戦となった。この戦争では、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を、オーストリアがロシアを支持したために、国際問題化した。ロシアとオーストリアは共に出兵し、特にロシア陸軍はオスマン帝国領内に深く進攻し、イスタンブル(コンスタンティノープル)に迫まった。1792年、イギリス、スウェーデンが手を引き、オスマン帝国は孤立したため講和に応じ、ヤッシーの和約で、オスマン帝国がロシアのクリミア半島領有を認めた。このクリミア半島併合は、ポーランド分割とともにエカチェリーナ2世の領土拡張の成功となった。
バルト海政情悪化の影響:ロシアとオーストリアが同盟してオスマン帝国との戦いとなったとき、イギリスとスウェーデンがオスマン帝国を支援し出兵した。ということは、バルト海を巡る諸国のあいだの対立となるのでにわかに政情が不安定になり、バルト海の船舶航行ができなくなることを意味し、ポーランドやロシアからフランスに運ばれる小麦などの穀物がストップした。そのためフランスでは穀物価格が急騰し、1788年には折からの荒天による凶作が重なり、食糧不足・物価高騰が起こった。パリ市民には不満が鬱積し、それが翌年のフランス革命勃発のきっかけのひとつとなったのだった。

クリミア半島にはクリミア=ハン国があり、そこはオスマン帝国を宗主とする属国であったわけである。ハン国と呼ばれたことから、この国はジンギス=ハンの末裔のモンゴルの国であった。
クリミア自治共和国の位置
近代のクリミアは、1783年のロシア帝国によるクリミア・ハン国併合に始まる。1921年にはソビエト連邦の下にクリミア自治ソビエト社会主義共和国が設置されたが1945年に廃止され、代わって置かれたクリミア州は1954年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された。ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年にウクライナが独立すると再び自治共和国の地位を得たが、2014年クリミア危機でウクライナ国内法を無視する形で一方的に独立を宣言。続いてロシアによるクリミアの併合が宣言され両国による領有権をめぐる対立が続いている(この部分はウィキペディア参照)。
今現在はクリミアのロシアの占拠を国際社会は認めていないわけであるが、こうして過去の歴史を振り返ってみると、領土などは常に変化し続けてきたわけである。日本のような島国では、そのような実感は殆どないのであるが。でも沖縄がかつては琉球王国であったが、いまは日本に併合されている。東北の北の方から北海道には倭人はいなくて蝦夷の地であったのを倭人が進出?していった。北海道へも退去移住して開拓していった。島国の日本であるからこの程度であったのだろう。陸続きで国々が存在する地域では、力によって現況を変えることは多々あったことを知るのである。今まさに歴史は繰り返すのを目の当たりに見ているような気がする。繰り返さないで欲しいのだが。

中東諸国❷:トルコ

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ウクライナがロシア軍の攻撃を受けて大変な戦争が続いています。最近ではウクライナがアメリカと結託して化学兵器を使おうとしているから攻撃しているとか、戦争を正当化するための出鱈目な主張もしています。プーチンは狂ったようですね。
そんな中で各国がロシアを非難し、制裁を発動し、ウクライナを支援する動きが大きくなっています。また、両国間の仲介役をかって出る国もいるわけですが、トルコもその一つです。ロシアとウクライナの外相会議をお膳立てしましたが、結果は何も出ませんでした。そのトルコが今回のテーマです。
トルコもロシアとの間には苦い歴史があります。ロシアの南下政策で南へ進出したかったロシアはトルコの脅威でした。何度か戦争となりました。コトバンクには次のように書かれています。
【露土戦争】
18~19世紀を通じて,ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦われた一連の戦争。ロシア・トルコ戦争とも呼ばれる。不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。
簡単すぎてあまり大事件のように聞こえませんが、もっと詳しくは「世界史の窓」などを見ていただくといいでしょう。いずれにせよロシア軍の侵攻によってオスマン帝国が戦争の場になったわけです。

さて、トルコの国情についてです。今回も米国はCIAの資料を利用しています。自動翻訳なので妙な日本語文があるかもしれません。

概要 現代トルコは、敗北したオスマン帝国の残党から、後にアタチュルクまたは「トルコ人の父」という称号を授与された国民的英雄ムスタファ・ケマルによって設立されました。彼のリーダーシップの下で、国は根本的な社会的、法的、政治的改革を採用しました。一党支配の期間の後、複数政党政治の実験は、野党民主党の1950年の選挙勝利と政権交代につながりました。それ以来、トルコの政党は拡大しましたが、民主主義は不安定な時期と軍事クーデター(1960、1971、1980)によって崩壊し、いずれの場合も最終的には正式な政治権力が民間人に返還されました。1997年、軍は再び、当時のイスラム志向の政府の追放者(一般に「ポストモダンクーデター」と呼ばれる)の設計を支援しました。トルコは、ギリシャによる島の乗っ取りを防ぐために1974年にキプロスに軍事的に介入し、それ以来、トルコだけが認めている「北キプロスのトルコ共和国」の守護国として行動してきました。米国指定のテロ組織であるクルディスタン労働者党(PKK)によって1984年に開始された分離主義者の反乱は、長い間トルコの治安部隊の注目を集め、40,000人以上の命を奪ってきました。2013年、トルコ政府とPKKは暴力を終わらせることを目的とした交渉を行いましたが、2015年に激しい戦闘が再開されました。トルコは1945年に国連に加盟し、1952年にNATOの加盟国になりました。1963年、トルコは欧州共同体の準会員になりました。2005年にEUとの加盟交渉を開始しました。過去10年間、経済改革といくつかの政治改革が相まって、2015年から2016年まで続くトルコでは、アンカラ、イスタンブール、および主にクルド人の南東部地域全体での大規模な攻撃を含む、テロリストによる暴力の増加が見られました。2016年7月15日、トルコ軍の一部がクーデターを試みましたが、一般的な抵抗が広まったため、最終的には失敗しました。トルコ市民がクーデター軍と対峙するために一斉に街頭に出たとき、240人以上が殺され、2,000人以上が負傷した。政府は、失敗したクーデターを扇動したとして、フェトフッラーギュレンの国境を越えた宗教的および社会的運動(「ヒズメット」)の信者を非難し、運動の信者をテロリストとして指名した。クーデター未遂以来、トルコ政府当局は13万人以上の警備員、ジャーナリスト、裁判官、学者を逮捕、停職、または解雇しました。ギュレンの運動との関係が疑われる公務員。クーデターの失敗に続いて、トルコ政府は2016年7月から2018年7月まで非常事態宣言を制定しました。トルコ政府は2017年4月16日に国民投票を実施し、有権者はトルコを議会から大統領制に変更する憲法改正を承認しました。改正案は、2018年6月の大統領選挙と議会選挙に続いて完全に発効しました。
元首 レジェップ・タイップ・エルドガン大統領(2014年8月28日から国家元首、2019年7月9日から政府の長)。
政府代表 レジェップ・タイップ・エルドガン大統領
政体 共和制
首都 アンカラ
国土面積 783,562平方キロメートル (日本は38万)
人口 82,482,383(2021年7月推定)
This is the population pyramid for Turkey. A population pyramid illustrates the age and sex structure of a country's population and may provide insights about political and social stability, as well as economic development. The population is distributed along the horizontal axis, with males shown on the left and females on the right. The male and female populations are broken down into 5-year age groups represented as horizontal bars along the vertical axis, with the youngest age groups at the bottom and the oldest at the top. The shape of the population pyramid gradually evolves over time based on fertility, mortality, and international migration trends. <br/><br/>For additional information, please see the entry for Population pyramid on the Definitions and Notes page.
人種 トルコ語70-75%、クルド人19%、その他の少数民族7-12%(2016年推定)
言語 トルコ語(公式)、クルド語、その他の少数言語
宗教 イスラム教徒99.8%(主にスンニ派)、その他0.2%(主にキリスト教徒とユダヤ教徒)
経済概要 一人当たりGDP
$ 28,400    (2020年推定)
$ 28,200(2019年推定)
$ 28,300(2018年推定)
経済 トルコの主に自由市場経済は、その産業と、サービス部門によって推進されていますが、その伝統的な農業部門は依然として雇用の約25%を占めています。自動車、石油化学、および電子産業は重要性を増しており、トルコの輸出構成の中で従来の繊維および衣料品セクターを上回っています。しかし、最近の政治的安定と経済のダイナミズムは、国内の不確実性と安全保障上の懸念に取って代わられ、金融市場のボラティリティを生み出し、トルコの経済見通しを圧迫しています。

現在の政府の政策は、構造的な経済改革の実施が鈍化している一方で、ポピュリストの支出措置と信用破綻を強調しています。政府はいくつかの戦略的セクターでより積極的な役割を果たしており、経済機関や規制当局を利用して政敵を標的にし、司法制度に対する民間セクターの信頼を傷つけてきました。2016年7月から2017年3月の間に、法の支配と経済改革のペースに関する懸念を理由に、3つの信用格付け機関がトルコのソブリン信用格付けを格下げしました。

トルコは依然として輸入石油とガスに大きく依存していますが、より幅広い国際的パートナーとのエネルギー関係を追求し、再生可能エネルギー、原子力、石炭などの国内エネルギー源の使用を増やすための措置を講じています。トルコとアゼルバイジャニのアナトリア横断天然ガスパイプラインは、トルコとヨーロッパへのカスピ海ガスの輸送を増やすために前進しており、完成すると、トルコの輸入ガスの供給源を多様化するのに役立ちます。

2001年にトルコが深刻な金融危機を経験した後、アンカラはIMFプログラムの一環として金融および財政改革を採用しました。改革は国の経済ファンダメンタルズを強化し、2008年まで年平均6%以上の力強い成長の時代を迎えました。積極的な民営化プログラムはまた、基礎産業、銀行、輸送、発電、通信への国家の関与を減らしました。世界的な経済情勢と財政引き締めにより2009年にGDPは縮小しましたが、トルコの規制の厳しい金融市場と銀行システムは、国が世界的な金融危機を乗り切るのに役立ち、GDP成長率は2010年と2011年に輸出と投資として約9%に回復しました。危機後に回復した。

2016年以降のトルコのGDPの成長は、トルコ経済の根底にある不均衡が根強いことを明らかにしています。特に、トルコの大きな経常赤字は、成長の資金を調達するために外部投資の流入に依存しなければならないことを意味し、経済を投資家の信頼の不安定な変化に対して脆弱なままにします。その他の厄介な傾向には、トルコリラの対ドル安が続いていることを考えると、2017年に増加した失業率とインフレ率の上昇が含まれます。政府債務はGDPの約30%と低いままですが、銀行と企業の借入は過去10年間でGDPの%としてほぼ3倍になり、新興市場の同業他社を上回り、投資家は長期的な持続可能性について懸念を抱いています。

輸出入 輸出品
自動車および車両部品、精製石油、配送トラック、宝飾品、衣料品およびアパレル(2019)輸入品
金、精製石油、原油、車両部品、鉄くず(2019)

 

モスクを知る❺:トルコのモスク

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今回はトルコ型のモスクとしたいのだが、私も含めて建築やモスクの専門家でない者にとっては、そんなに詳しいことは必要ないだろう。そこで、簡単にトルコのモスクと題したのであるが。

トルコの首都イスタンブールは元々はビザンツ帝国の首都であった。その名はコンスタンチノープルである。コンスタンチヌス帝の名前からきている。このブログの中でもビザンツ帝国がオスマン軍に攻略されて陥落したことは何度か述べたと思う。ビザンツ帝国の都には当時から素晴らしい建築物が存在していた。有名なのがキリスト教正教会の大聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)である。これがイスラムのモスクとして転用されているアヤソフィアである。従って、アヤソフィアを見て、トルコのモスクはこうであるというのは間違っているだろう。というものの、それに匹敵するモスクを造ろうとしたのだから、トルコのモスクはこのようでいいということなのだろう。

ビザンツ帝国はオスマン軍に敗れて国は滅亡した。しかしながら、彼らは「国は敗れても、大聖堂を築くことのできる技術や文化をオスマンたちは手にすることはできないだろう」と言ったという。そして、このキリスト教正教会の大聖堂を見て、その技術の高さに驚き、あの大きなドームを自らの手で造りたいと発奮した男がいた。ミマール・シナンであった。

このシナンについて、「世界史の窓」では次のように記している。
シナンは、ギリシア系のキリスト教徒の家に生まれ、若くしてデウシルメによってイェニチェリとなり、スレイマンに従って各地を転戦しながら、架橋や陣地構築技術を身につけ、50歳を過ぎてから、スレイマン1世の悲願であったハギア=ソフィア聖堂を凌駕する規模のモスクの建築に取り組み、1557年に完成させた。そのほか、数多くのモスク建設や水道建設にあたり、オスマン帝国時代の技術水準の高さを示す建築を残している。そして更に次のような引用をしている。(引用)シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラム教に改宗させて徴用する制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。百歳という長い寿命のなかで、81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建てたといわれている。首都におけるシナンの代表作といえるモスクが、シュレイマニエ・ジャミイ(一般にスレイマン=モスク)である。1550年に着工、1557年に完成した。<浅野和生『イスタンブールの大聖堂』2003 中公新書 p.198>

彼自身がかつてはキリスト教徒であったこと。オスマン帝国には異教徒であるキリスト教徒を徴用して育てる制度があったことなども興味深いことである。イスタンブールに行けば彼の手掛けたモスクにも出会うことができるのである。また、少し離れるがエディルネという街にも彼が建てた有名なモスクがある。シナンがモスクを建てようとした土地はチューリップ畑であった。地主は土地を手放そうとはしないので、シナンは足繁く通った。結局、モスクにチューリップを残すことで話がついたのであった。このモスクの建物の中の一本の柱にチューリップが逆さに彫り込まれているという。一度訪れてみたいモスクである。モスクを訪れた人々がチューリップを触って、その物語を回想するのだそうで、チューリップはすり減ってしまった。今はガラスのカバーがつけられているそうだ。シナンの一生を描いているのが、夢枕獏さんの『ミマール・スィナン』である。文庫本2冊の大作であるが、面白いのであっという間に読めてしまう。

最後に神谷先生のサイトでのトルコ型モスクについての部分を一部だけ引用させていただこう。
・・・・・・一方、外部はというと、通常 広い敷地の中央に 整然としたプランで建つので、ペルシアよりは はるかに外観がある。しかし ドーム屋根は 近くで見ると 上部が蹴られて、実際の高さほどに 偉大には見えないし、常に黒っぽい鉛板で葺かれた姿は ややグルーミーでさえある。外観を誇示しようとはしなかった と言えるし、しかも どのモスクもよく似た外観をしているので、いささか退屈な感も なしとしない。あくまでも 内部空間の探求が主目的なのであって、外部の形は その結果にすぎなかったのだろう。
オスマン帝国は トルコばかりでなく エジプトから東欧まで支配したので、グレーのドーム屋根と鉛筆型のミナレットがセットになった トルコ型モスクを、津々浦々に建てた。その最高傑作が、トルコ史上最大の建築家(ミマル)シナンが設計した イスタンブルのスレイマニエ(スレイマン1世のモスク)と、エディルネの セリミエ(セリム2世のモスク)である。

トルコの素晴らしいモスクの写真はネットを見ればたくさん出て来るので、是非ともご覧いただきたい。

ナスレッディン・ホジャ

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2022年も早や10日になりました。日本でもオミクロン株の侵入と共に感染者数がうなぎ登りに増えています。海外では爆発的な増加が止まらずに、先日のアメリカでは一日に110万人という驚くべき実態が報じられていました。そんな中ですが、いやそんな中だからこそ、今日はホジャを紹介して、日々の緊張を和らげたいと思います。ホジャを描いた17世紀のミニアチュール(トプカプ宮殿所蔵)

上の画像はウイキペディアに掲載されているもので、ホジャについては次のように説明している。「ナスレッディン・ホジャ(Nasreddin Hoca)は、トルコ民話の登場人物。トルコ人の間で語り継がれる頓智話、小話の主人公であり、神話・伝説に現れるトリックスターの一人に挙げられる。ホジャの小話を集めた行状記はトルコのイソップ童話とも言われ、トルコ文学史上重要な作品の一つに数えられている。しかし、ホジャが実在の人物であるか、実在したとしてもいつの時代の人物であったかは明確ではない。

頓智話、小話であると説明されている。私は「笑い話」と捉えている。実際にホジャの物語の本を手にした最初はイランでペルシア語のものであった。優しい内容なのでペルシア語初心者でも楽しく理解できるものだった。日本語版は平凡社から『ナスレッディン・ホジャ物語ートルコの知恵話』というタイトルで出版されている。定価2500円(税込み2750円)とちょっとお高い。その中からいくつかを抜き出してみることにしよう。

ホジャが家の中で、指輪を失うたげな。探したげな。探したげな。見つからなんだげな。今度は、戸口の前へでて、そこを探しはじめたげな。隣の衆が見て、訊いたげな。
ホジャどん、何を探してなさる?
自分の指輪を無うしたんじゃ。それを探しとるんですわい。
どこで落としなさった?その指輪を?
家ん中で。
なら、何で、家ん中を探しなさらん?
ホジャはこう答えたげな。
中はひどう暗うてなあ。じゃで、ここを探してますわい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

集まって喋ってるところで、アラビアからやって来たばかりの男が、彼地はどえろう暑いんで、人々は皆、真裸で歩き廻っとる。と話してたげな。
その場に居たホジャは、すかさず、口を挟んで、
へえぇ、ならば、そこじゃぁ、女と男とが、どうして見分けられるんじゃろかい?

他愛ないと言えばそうかも知れないが、このような話がこれでもか!というくらい沢山でてくるのである。面白いです。

数年前に私がアラビア書道の作品展に出品したものですが、文章はペルシア語の諺です。 یاسین بگوش خر خواندن  というのは直訳すると、「ヤースィンをロバの耳に」で、ヤースィンはコーランの中の一章の名前なので「コーランの一章をロバの耳に」ということ。つまり日本での「馬の耳に念仏」と同じ。それはそれでいいのですが、作品左上の挿絵がペルシア語版ホジャの本に載っていた挿絵を参考にして描いたものです。ユーモラスに書けたと思っています。

ロバにコーランを読んでやっているのがホジャというわけです。

イスラムの美②:陶器

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前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

トルコ料理

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以前に、イラン料理を紹介したことがある。中東にも色々な国があるのだから、イラン料理だけ紹介したのでは片手落ちだろう。そこで今回のトルコ料理となった。

これまた随分前のことであるが、このブログの中で中東の文化圏を3つに分けたことがある。その時に示したのが次の図であった。
中東に数多くの国があるが、大きく分けるとアラブ、トルコ、ペルシャとなる(イスラエルは別として)。それぞれの国にそれぞれの特徴ある料理があるかもしれないが、この3つの区分で紹介してみよう。そうすると次はアラブ料理ということになるのかも知れない。

さて、トルコ料理である。いつからそうなったのか?誰がそう決めたのか?は知らないが、トルコ料理は世界三大料理の一つであるという。フランス料理と中華料理とトルコ料理だそうな。他の二つは日本でも馴染みがあるが、それらに比べるとトルコ料理は馴染みの薄い料理であることは間違いないだろう。でも、トルコ料理レストランは近年増えているように思う。少し大きな都市ならば、見つけようとすれば見つかるのではないだろうか。ちなみに私の住んでいる愛知県では大小色々10件以上検索される。

肝心の料理であるが非常に沢山あるし、私がここで詳しく紹介するよりも、ウェブには数多くのサイトで紹介されているのをご覧いただいたほうがいいだろう。ちなみに、   https://4travel.jp/magazine/gourmet/00183 のトラベルマガジンのサイトは写真付きで料理の説明が詳しくされている。料理の名前だけをここに引用させていただこう。ドネル・ケバブ。シシ・ケバブ。イスケンデル・ケバブ。キョフテ。バルック・エクメーイ。ミディエ・ドルマ。メルジメッキ・チョルバス。チョバン・サラタス。フムス。 ピラウ。ピデ。マントゥ。ドンドゥルマ(アイスクリーム)。さらにデザートのスイーツも紹介されているのである。他のサイトではサルマもおいしそうに紹介されている。ケバブは一般的にケバーブとかキャバーブと呼ばれる肉を焼いたものである。有名なドネル・ケバブは肉の塊をクルクル回転させて、焼きあがった外周りを削って供するもので、街角でのファストフードのようにパンに挟んだりすることもできる。ドルマは野菜でご飯とひき肉などを詰めたもので大きなピーマンが一般的かな。ピラウはピラフ。ピデはパンというかピザの類。サルマはブドウの葉やスイスチャード(ふだん草)などの葉で豆やコメなどを包んだもの。マントウは餃子のようなもの。
こう見てくると種類が豊富、世界中の料理に似たものもあり、一度や二度、レストランに行っただけでは、トルコ料理を食べたとは言えないような感じである。つまり、私はトルコレストランに行った事があるが、食べたことのない料理がまだまだあるということだ。

最後に写真を2枚載せておこう。もう20年位前に学生一人を連れてイスタンブールに行った時の写真である。貧乏旅行である。町中にある小さな店先にトルコ料理が並んでいた。それを二人で食べた時の写真である。現地の人々が気軽に食べる庶民的な食堂というか、屋台に近いものである。店の外のテーブルでの愉しいひと時であった。私にはこのような旅のほうが似合うような気がする。


アララト山

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今回は珍しく自然の風景です。アルメニア側からみた写真で、出所はフリー画像のサイト、Pixabay の写真を利用させていただいた。アララト山である。標高5,137mでトルコの東部に位置している。アルメニア川から写した写真なので、前景にある建物は修道院である。アルメニア正教会の修道院なのであろう。アララト山と呼ばれるが、実際には2つの峰があり「大アララト山」「小アララト山」と呼ばれている。5,137mは主峰、つまり大アララト山の標高である。小アララト山の標高は 3,896m である。二つ並んだ景色が次の画像である。

アララト山の周辺は古くからアルメニア人たちが居住しており、オスマン帝国時代の末期までそうであった。帝国末期の時代に強制移住により、アルメニア人が居なくなったが、その当時に大量虐殺が行われたともいわれている。それはともかくとして、アルメニアにとってアララト山はシンボルとして生き続けているのである。次の画像はアルメニア共和国の国章である。

小さくて見えにくいかもしれないが、真ん中に描かれていいるのがアララト山である。三色旗の国旗の中にこの国章が描かれた旗も見かけることがあった。

アララト山を話題にするなら、ノアの箱舟を忘れてはなるまい。このブログでもノアの箱舟伝説の記事を書いたことがあるが、旧約聖書の大洪水の舞台である。箱舟の残骸というか化石のようなものが山中から発見されたなどというニュースか噂のようなものが流れたこともある。

私自身はこの目でアララト山を見たことはない。でも、冬の12月にイスタンブールからテヘランへの飛行機に乗った時に窓から見下ろした一帯が高峻な山々で真っ白に雪で覆われていた。アララト山もそこにあったかもしれない。目を凝らして探したが見つけられなかった覚えがある。

日本の最高峰よりも、さらに1500mほども高い聖なる山である。ひとつの自然界の山が人間の歴史を見続けて、何かを私たちに語り掛けているようである。

クルド人について

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2020年2月に「クルド人の国家ができようとしていた(イラクの歴史3)」というい記事を書きました。タイトル通りの内容で、それはそれでいいのですが、先日来メソポタミアの民族などを書いてきましたのでクルド人という民族そのものについてちょっと書いてみようと思いました。

先ずは、クルド人の話す言葉はクルド語です。クルド語は言語学的にはインド・ヨーロッパ語族、イラン語派西イラン語群に属する言語のひとつである。つまり、イランで話されているペルシャ語に近い言語である。クルド語をクルド語で書くと كوردی である。ペルシャ語と同じくアラビア文字を使用している。インド・ヨーロッパ語族に属していることからわかるように、イラン人と同じアーリア系の民族である。19世紀のフランスの考古学者は身体的特徴として「肩幅が広く、胸板の厚い、中肉中背の美しい人々である。体のバランスがとれていて、頭は小さく、髪は黒く巻き毛である。額は広く、鷲鼻で、目は大きく瞳は黒い。眉は濃く、頬は出ていてばら色である。これらの人々はたいてい小麦色の肌で、黒くて薄い髭を有している(Pars Today のウェブサイトより引用)」と述べているそうである。

Pars Today はさらにクルド人の衣服についても次のように記している。

クルド人は、イランの他の民族と同じように独自の美しい民族衣装を有しており、クルド人はそれぞれ、昔からの文化の象徴としてそれを保持することを義務付けられています。各民族、各国民の文化や慣習において、衣装はその歴史や社会、価値観を示す象徴的なもののひとつです。
クルド人の民族衣装は、地域や社会階層により、それぞれ異なっています。クルド人の地域には、西アーザルバイジャーン、コルデスターン、ケルマーンシャー、北ホラーサーン州が含まれます。イラン、イラク、トルコ、シリアに暮らすクルド人の衣装は、各地の気候条件に応じた美しい装いとなっています。クルドの民族衣装を研究しているナーザニーン・エスファンディヤーリーさんは、このように述べています。
「地元の男性の衣装には、体、頭、足を覆うものがあります。これらはそれぞれ、季節、仕事、生計、儀式、祝祭の種類によって異なっています。クルドの各居住区によって衣装は異なっていますが、体を完全に覆うという点ではすべて共通しています。クルド人男性の衣装は、次のようなもので構成されています」。

チューヘ:コットンあるいはウール、ヤギの毛でできた前開きの丈の短い上着。クルドの伝統的衣装のひとつ。
ファランジー、ファラフジー:フェルトの長袖衣装
パントール:足首がすぼまったゆったりしたズボン。ランクとも呼ばれる。
マレキー:襟のないシャツ。ボタンで留める。
スーラーニー:ゆったりした長袖のシャツ。シャツの袖には三角形の布がついており、通常手首や腕に巻きつけている。
シャール:およそ3メートルから10メートルの布で、腰付近に巻く。また男性が帽子の代わりに頭に巻く布もある。
ピーチ・オ・キャルーラウ:クルドの帽子は、通常女性たちがクルド独自の文化に残されている模様を使って、特別な技量を用いて編んだもので、黒と白が用いられている。先人たちの教えによれば、男性は頭をむき出しにすべきではないとされている。
プーチ:白と黒のハンカチのような布で、帽子の周りに巻きつける。
キャラーラシュ:足を覆うもの。白色で非常に美しく織られており、絨毯の糸と絹糸、革でできている。使用されている素材から、匂いを防ぎ、涼しさを維持できる。その特性上、冬や雨の季節には使えない。

上の写真からもわかるように日本のモンペのようなズボンが特徴的である。ここで述べられているクルド人の特長は Pars Today から引用したものであるから、イランのクルド人についての記述である。クルド人はご承知のようにイラク、トルコ、そしてシリアに居住しているわけであるから、必ずしもここで記述されたものが全てではないであろうということを追記しておこう。

私自身は昔テヘランに居た時にクルド人と出会ったことはある。でも、それは僅かな人数でしかなかったし、テヘランにはアフガン、トルクマンほか数多くの民族がいたので、特に気にすることもなかったのである。その後、2011年にケルマンシャーを訪れたことがある。ケルマンシャーはクルド人が大勢居住している都市なので、そこでは多くのクルド人と出会いました。どこでもペルシャ語が通じたので、特に違和感を覚えることはなかった。この時の旅は3人だったのだが、エコノミークラスの宿をとった。フラット貸しの宿で寝室二つにベッドが3つづつ置かれていた。一番目を引いたのは受付のカウンター周りにはキリストの宗教画が飾ってあったことだった。オーナーはムスリムではなかったのだ。町で声をかけてきた人がいて、翌日に彼の家に招待されたのもケルマンシャーの想い出である。

最後にクルドに関してし日本で出版されている本を一冊紹介しておこう。新評論発行・勝又郁子著『クルド・国なき民族のいま』は2001年発行のものであるが、クルド問題について詳しく知ることができる。

シリーズ「オスマン帝国」:⑬ アンカラの戦い(1402年)

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私の場合、世界史で暗記した年号の一つに「アンカラの戦い:1402年」があった。今回は私自身にとって受験時代を思い起こすようなこの「アンカラの戦い」をテーマとして、学びなおしてみようとおもう。

インターネットの「世界史の窓」には次のように書かれている。
1402年、ティムールがオスマン帝国軍を破った戦い。オスマン帝国の進めていたバルカン侵攻が一時停滞した。ティムール朝のティムールは1400年からオスマン帝国領の小アジア、シリアに侵略の手を伸ばしていた。1402年、小アジアのアンカラ(現在のトルコの首都)の近郊で両軍の決戦が行われ、ティムールとオスマン帝国のスルタン、バヤジット1世が相対した。戦いはティムールの圧勝に終わり、バヤジット1世を捕虜とし多くの街を略奪した。ティムールはバヤジット1世を格子付きのかごに乗せ、多くの捕虜とともにサマルカンドに連行するつもりであったが、これを知ったバヤジット1世は服毒して自殺した。この敗戦の結果、オスマン帝国のコンスタンティノープル占領は半世紀遅れたと言われる。

      出所:帝国書院『最新世界史図説・タペストリー』

アンカラの戦いは、ティムールが行った数多い外征の一つであった。その勝利によってオスマン帝国を事実上崩壊に追いこんだが、すでに本拠をバルカン半島に移していたオスマン帝国(都はエディルネ)軍を追撃することはなく、また小アジアを帝国領とすることもなかった。すでに中央アジアから西アジアにかけて成立していたティムール帝国ともいわれる領土はそれ以上は拡張しなかった。ティムールの関心は次ぎに東方に移り、明の永楽帝との決戦をめざして、1404年に中国遠征に出発、その途上で、翌年死去する。

      出所:山川出版社『世界史図録・ヒストリカ』

 一方敗れたオスマン帝国(便宜上後の「帝国」の称号をそのまま使用。実態はこの段階では帝国とは言えない)は壊滅的打撃を受けた。滅亡はしなかったものの、それ以前の1389年のコソヴォの戦い、1396年のニコポリスの戦いで得ていたセルビアやハンガリーなどの領土を一時放棄しなければならなかった。

 アンカラの戦いにおけるオスマン帝国の敗北は、ビザンツ帝国にとってもその脅威となっていたオスマン帝国が弱体化したことによって幸運だったと言え、その支配領域はコンスタンティノープル周辺だけになっていたとはいえ、なおも約半世紀存続することができた。この約50年間、オスマン帝国は次のメフメト1世とムラト2世の再建のための準備期間となり、イェニチェリ、シパーヒーなどの軍事力を回復させて、メフメト2世のときに目標をコンスタンティノープル攻略再開に向けていくこととなる。

非常にわかりやすく説明されている。オスマン帝国がまだビザンツ帝国を滅ぼす以前の時代のことで、オスマンが勢力を拡大しつつあった時代のことである。サマルカンドを拠点として版図を拡大すべく西進してきたティムールの軍勢との戦いがアンカラにおいて繰り広げられたのである。ただ、ティムールはこれ以上西進することはなく、彼の眼は東方に注がれたのであった。それが、オスマンの滅亡を防ぐことになったわけである。
ティムールが軍をひいたあとのアナトリアにはバヤジットの4人の王子がいた。長男スレイマンはオスマン朝に忠誠なヨーロッパ領に渡った。次男イサはブルサを拠点とし、三男メフメトは自分が知事をしていたアマスィアを奪回していた。四男ムサは父バヤジットとともに捕虜となったが、解放された後にキュタヒヤ地方を領有した。このような状態の中でオスマン朝の再建を志すも、バヤジットの後継者争いが始まってしまたのである。争いの結果、メフメトはイサからブルサ、ニカイアを奪った。イサに加担したスレイマンも後継争いには敗れ殺された(1410年)。残ったのはヨーロッパ側のムサとアジア側のメフメトの二人であった。二人の戦いも1413年にブルガリアのソフィアの近郊での戦いでムサが敗れ、絞殺された。アンカラの戦いから11年後に再びオスマン帝国の統一がなったのであった。

第5代のスルタン・メフメト一世(在位1413~1421年)の誕生である。

 

 

 

シリーズ「オスマン帝国」:⑫ マムルークとは

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オスマン帝国について読んだり見たりしていると「マムルーク」が時々登場してきます。歴史の流れの中では「マムルーク朝」というのもあります。今回はマムルークについて整理してみようと思います。

インターネットの「世界史の窓」では次のように書かれています。
イスラーム社会には多数の家内奴隷や軍事奴隷が存在した。軍事奴隷は戦争の捕虜が充てられ、アラブ人以外の異教徒が多かった。ウマイヤ朝の時代からアフリカ東海岸から売られてきた黒人奴隷も存在したが、アッバース朝時代からは西方のトルコ人やギリシア人、スラヴ人、チェルケス人、クルド人などが「白人奴隷兵」とされ、「マムルーク」(所有されるもの、の意味)と言われるようになった。彼らはイスラーム教に改宗してマワーリーになり、解放されることもあった(解放奴隷)。
ですから、マムルークはオスマン帝国以前からイスラム社会にあった奴隷であることが分かります。さらに次のような記述が続いています。
イスラーム帝国では、アラブ人の正規の軍隊のほかに、このようなマムルーク軍団を持っていたが、彼らは戦闘集団として次第に重要な存在となっていった。特に中央アジアから西アジア世界に移住したトルコ人は、騎馬技術に優れ、馬上から自在に弓を射ることができたので、アッバース朝時代の中央アジアの地方政権、サーマーン朝などによってもたらされたマムルークが広くイスラーム世界に輸出され、盛んに用いられるようになった。
特にトルコ人騎馬得意で馬上から弓を射る技術に長けていたので多用されたということです。ですから、マムルークというとトルコという強いイメージを私は持っているようです。イスラム社会には奴隷が沢山いたことは有名なことですが、必ずしも南部アメリカの重労働で酷使された奴隷とはちょっと異なっていたように思います。家庭教師のような教育をしてもらう奴隷などもいたそうです。ムハンマドがイスラムを拡げようとしたときの最初の弟子が奴隷であったと聞いたこともあるような気がします。マムルークという語の意味が所有されるものであることも興味深いことです。

マムルークが奴隷であることが分かったので、もう少し奴隷について調べましょう。私の疑問にいつも答えてくれる後藤明著『ビジュアル版イスラーム歴史物語』(講談社)の122頁を引用させていただきます。
中東地域は、世界に先駆けて文明の華を開花させた地域ですが、奴隷という、商品として売買する人間を世界に先駆けて生み出した地域でもあります。つまり、イスラームが誕生する数千年も前の昔から、この地域には奴隷がいたわけです。イスラームの時代になっても、イスラームは奴隷という存在を否定することなく、認めてきました。そして、戦争の際の捕虜などは奴隷となり、市場で売買されてきました。
奴隷を意味するアラビア語の単語はいくつかありますが、グラームはその一つです。この言葉は元来は一族の若者を意味しています。父親や伯父たちの仕事を手伝って、細々とした雑用をこなす半人前の若者です。学校などがなかった時代の若者は、このように実地訓練で教育されて、一人前になっていくのです。このような若者を意味する言葉が、同時に奴隷を意味していました。グラームと表現される奴隷は、一人前の自由人ではないのですが、主人たちのそばで雑用をこなす立場の人間とみなされていたわけです。農園で、鞭を打たれながら働く奴隷、主人の子供を嫌々ながらも生まなくてはいけない女奴隷など、惨めな境遇の奴隷もいましたが、イスラーム世界での奴隷の一般的イメージは、自由人とさほど変わらぬ立場の人間らしい存在でした。そして、奴隷を解放して自由人にすることが、善きムスリムの善行として、大いに勧められてきました。
少し長く引用しましたが、非常に良く分かるように説明されています。先ほど、私は奴隷がイスラム社会に居たことは有名だと書きましたが、奴隷はイスラム以前からの昔からいたということですね。

奴隷についてアチコチ検索してみると、ある論文を見つけました。それは、波戸愛美氏のイスラム世界における女奴隷 ―『千夜一夜物語』と同時代史料との比較― Female Slaves in the Islamic World : Comparison between the Arabian Nights and its Contemporary Sources です。そこに女奴隷を売買する場面が記載されていました。引用させていただきます。
『千夜一夜物語』においては、奴隷売買は、奴隷市場においてか、買い主のもとに奴隷商人がやってくるといった形で行われている。同時代史料との比較が可能なライデン版から事例を抜き出してみると、「女奴隷アニース・アルジャリースとヌール・アッディーン・イブン・ハーカーンの物語」には、奴隷の売買の記述が幾度か現れる。王に素晴らしい女奴隷を望まれたワジール(宰相)は、すぐさま市場に向かい、奴隷商人に「10,000ディーナール(金貨の単位)以上の美しい女奴隷がやってきたら、売りに出す前にこちらに見せるように」と命令する。そして、女奴隷アニース・アルジャリースがペルシア人の仲買人の手によって大臣のところに連れてこられるが、仲買人は彼女の値段を聞かれて次のようにいう。
ああ、ご主人様! 彼女の値段は10,000ディーナールでございます。しかし、彼女の持ち主が誓って申しますには、彼女が食べました鶏や、彼女が飲みました酒、そして彼女の先生方からいただきました恩賜の衣といったものの値段がそれではまかないきれないとのことでございます。なぜなら、彼女は書道、言語学、アラビア語、クルアーンの解釈、文法学、医学、法学などを修め、それと同様にあらゆる諸楽器の演奏にも通じているのでございます。
この台詞は、女奴隷アニース・アルジャリースが主人のもとで衣食住を保証され、また高度な教育を受けていたことを示唆するものである。そして、仲買人はその養育費をも大臣に払えと要求している。
やはりここでも奴隷ががんじがらめに束縛されていたわけではない。ここでは高等教育を受けた知的な人物であることが分かるのである。

マムルークについて調べながら書き始めたのですが、奴隷の話になってしまいました。かなり長くなったので、今回はここまでにしましょう。そして、マムルークが王朝を建てたという「マムルーク朝」に至る話は次回に回すことにいたしょうましょう。