想い出の中東イスラム世界:Sizdah Be-dar (سیزده‌بدر) 祝日 سیزده‌بدر

今日は3月31日です。そろそろイランではFarvardin月の13日になるでしょうか。3月21日の春分の日がイラン暦の元旦でしたから、4月の2日頃が13日になるでしょう。この日はタイトルに書いたように、シーズダアベダルという祝日になります。イスラムの行事ではありません。ペルシアの伝統的な祭事です。春が近づいた春分の日を年の初めの元旦とし、更に2週間ほど経つと草木の芽が一斉に吹きだします。このときイランの人々はお昼の食事を抱えて外に飛び出すのです。英語ではピクニックデイと訳されていたりします。この日でなくともイランの人々は外で食事をするのが大好きです。次の写真はある年の9月に通りがかった公園で写した風景です。家族そろって昼食をしている所でした。

普段でもこのように食事を広げて、楽しくひと時を過ごす姿があちこちで見られるのです。私たちが傍を通ると「ベファルマイ!(どうぞ)」と言って誘ってくれるのです。「メルシー(ありがとう)」と言って通り抜けようとすると「タアロフナコン(えんりょしないで)」と更にしつこく誘ってくれるのです。彼らはすごく社交的で開放的な人々でした。彼らは「自分たちはメフマンドゥーストなんだ」と言います。メフマンは客人のことで、ドゥーストは好きという意味。つまりお客好きの民だというわけです。そうです日本でいう「おもてなし」好きということです。

話を戻しましょう。イランの現体制は厳格なイスラムによって統治されています。イスラムにおいての祝祭日は当然イスラムに関する日に限られています。例えばラマダン明けの日というように。でも、イランは厳格なイスラム体制ですが、アケメネス朝ペルシアのようなイスラム以前の誇り高き歴史があります。その当時の宗教はゾロアスター教が有名です。先ほどの春分の日の元旦やここで紹介しているシーズダアベダルの風習はゾロアスター教に由来するものです。従って、イスラム暦の新年とは異なるノウルーズというお正月をお祝いする風習があるのです。お正月の飾りにも頭文字がSの付くハフト・シン(七つのS)を飾ったりします。ついでに言うならば「お年玉」も子供たちが楽しみにするものです。イランでは「エイディ」というのですが、日本と同じような風習です。

いま日本中が桜の花に酔いしれています。今年はコロナ以前のように花見をすることができるようになったところが増えましたね。コロナが治まって、イランの核合意が好転して制裁が緩和されたりすれば、是非ともイランを訪れたいと思います。そのためにも、ペルシア語を忘れないように勉強をしておきたいなと思うのです。

サウジアラビアとイランの国交正常化合意のその後

前回、中国の仲介によりイランとサウジアラビアが国交正常化への合意をしたことを取り上げた。私の考えはどこの国が仲介しようと和解⇒和平⇒平和になるなら歓迎であると述べた。しかしながら、イエメンの問題など難しい問題が残っているとも述べた。早速ではあるが、イエメン問題についても和解へのステップが始まったようだ。私の読みが狂ったとしても、いい方向への流れであるから歓迎である。明らかになった合意のポイントを中日新聞が共同通信によるものとして伝えている。
5項目が示されているが、イエメンに関するもの以外は大したことではない。イランの核合意の立て直しはアメリカ次第である。サウジが米に働きかけたとしても、中国の仲介によることが米の機嫌を損なっている以上、簡単ではない。イランの反政府メディア支援を停止するという項目は訳が分からない。サウジが支援していたと認めているのだろうか。もはやイランの反政府運動は若者たちの間で根強く広まっており、サウジの影響を受けているものではない。やはりこの合意で注目すべき動きはイエメンの問題であろう。具体的に終結を目指す動きがでるならば、これが一番大きな成果であろう。

 

サウジアラビアとイランの国交正常化への動き


この画像は2016年にイランとサウジアラビアが国交を断絶した当時のものである。サウジアラビアや周辺の湾岸諸国、つまり王政の国々が1979年のイラン革命の後、自国への革命の伝播を恐れ、何かとイランと対立していたのであった。評論家は中東における覇権争いであるとか、シーア派とスンニー派の対立であると論じてきた。現代ではイエメンの内戦を取り上げて、反政府派のフーシーをイランが、政府をサウジが支援し合い、事実上はイランとサウジの戦いであるとも言われている。いずれにせよ、両国の対立は根深いものがある。

今回、中国の仲介で両国が国交を正常化に戻すことに合意した。既にお互いの大使館を開くことも具体的に進んでいる。昨日はイラン側が大統領に対してサウジから招待状が届いたと発表した。サウジは公には認めていない。外相同士の会談も準備中であると報道されている。両国の接近は世界中で概ね歓迎されている。しかしながら、この和解への道が中国による仲介であることから、「中国の思惑はどこにあるのか?」と、論説するメディアもある。でもそれはどうでもいいことではないだろうか。脱化石燃料と叫ばれるようになったのは最近のことで、過去の長い間、中東は世界のエネルギーの重要な供給者であった(いまもそうではあるが、化石燃料に対する重要性は減少している)。本来なら、中東のエネルギーに依存する比率の高かった日本が中東の安定のために、中東の紛争を解決すべく積極的に動くべきだった。パレスチナ問題がその最も代表的なものであるが、フセインのイラク、シリア問題、イラン・サウジの対立などの解決にもっと関わるべきであった。何もしないできた日本が、また西側の大国も今更中国による仲介に文句を言う資格はないだろう。中東が平和になるなら誰が仲介してもいい。イラン・サウジ関係がが正常化してもそれは中東の一部の問題解決にしかならないのは分かっている。また、それすら実際にどこまで進展するかはまだまだ未知である。

話は飛ぶが、いま習近平がロシアを訪問している。ロシアとウクライナの戦争終結のために提案するとかも言っているみたいである。それに対してまた「中国の思惑は?」と世界中が言う。私は中国がどういう思惑であろうと、この戦争は一日でも早く終わらすべきだと思っている。中国がロシアに武器を提供することを西側が批判するなら、西側もウクライナに武器を供与しないで欲しい。武器製造企業は莫大な利益を挙げているのだ。彼らは戦争は終わらせたくないのである。今日、岸田総理がウクライナを電撃訪問したと昼のニュースで報じられていた。どうせ行くならロシアに行って、「戦争を止めろ」と説得してもらいたい。北朝鮮に拉致された人々を取り戻すためには、北朝鮮に行って、「彼らを返せ」と連れて帰ってもらいたい。

アフガニスタンの民話:ムルグイとミロス

こんにちは。肩の調子は相変わらずですが、急に春めいて毎日20度以上の天気が続いています。このように暖かいと気持ちも晴れるような気がします。今日は2週間ぶりに整形外科に行ってきました。自分では手術の覚悟をしたので具体的に相談してきました。結論は私が選んだ人工関節の手術は今すぐ出来るのではなく、もう少し経過観察の後でないとできないということです。そういうガイドラインがあるそうです。それまで自然治癒的な回復をチェックすることになりました。もう既に二カ月経過するので、もう少し様子見です。今すぐに手術ということにはならなくて実はホッとしています。

それはそれとして、少し前にアフガニスタンのことを書きました。読んで下さった読者の方からメールを頂きました。「長い間探していたムルグイとミロスの本が手に入った」ということでした。私は、この本のことを知りませんでしたが、アフガニスタンの作品は珍しいので読みたいと思って調べてみました。そしてネット経由で古書店から入手することができました。次の画像がその表紙です。

「アフガニスタン民話集」です。この中に30の短編が掲載されていて、最初の作品が「ムルグイとミロス」でした。早速読んでみました。一人の青年の話ですが、結婚をして子供もいるけど、色々ややこしい経過の後で、村を出て、そこで出会った女性に恋い焦がれ、ややこしい経緯を経て、皆死んでいくというような物語でした。

私の関心を惹いたのは❶ラザル族という単語。注を見るとパシュトゥン族の一部、ユスフザイ族グループに属する。とあったことです。パシュトゥン族とは現在のアフガニスタンでも中心部族です。作品に部族の名前が出て来るところが、アフガニスタンが部族中心の社会であることが分かります。❷ところどころに「イスラム」が出て来ることです。例えば「おじのタウス・ハンがコーランを片手に立ち上がった」とか、「こうなるのがきっと神のみ心なのでしょう」とか「アラーの神は偉大なるかな」という語句もありました。
アフガニスタンの民話ですから、当然のことなのですが、これらのことから「確かにアフガニスタンの民話」だと、アフガニスタンらしいものだと感じたのです。

他にもまだ29の民話があるので、もう少し読んでから感想を述べようと思います。短いものは次の画像のようにわずか1頁の物もありました。

奈良のお水取りとペルシアの関係

 

前回(2月22日)、このブログに肩のMRI検査をすると書きましたが、その結果は「肩の腱板断裂」でした。かなりひどい断裂とのことでして、手術を勧められました。❶は切れた腱板を引っ張って肩に接合する方法ですが、腱板がかなり傷んでいるので劣化したゴムを伸ばしたら切れてしまうのと同じで、術後にまた切れる可能性が大きいとのこと。❷は人工関節を埋める方法。2014年に認可された現在最も進んだ手術方法で諸条件があるが私には適応できる方法。手術しなければ長い時間をかけて自然修復的な改善もあるが腱がきれているので腕を高く上げることができるようにはならないそうです。手術は全身麻酔で入院が1-2週間。その後1カ月は装具をつけて養生とのこと。中々大変な手術のようなので考え中ということです。来週、診察時に相談することにしています。心配してくれている読者がいるので、経過報告させていただきました。さて、めっきり春めいてきましたね。3月3日です。冒頭の画像は今朝の中日新聞に掲載された画像です。奈良東大寺のお水取りの儀式の前に若狭から御香水を送る儀式を紹介しています。このお水取りがペルシアと関係があることをご存知でしょうか。


若狭地方に春を告げる神事「お水送り」が3月2日、福井県小浜市の神宮寺近くを流れる遠敷川の河原で営まれた。古い伝説で、若狭と奈良は地下でつながっており、遠敷川に注がれた「香水」が東大寺二月堂の井戸に湧くとされる。ほら貝が響く中、白装束の僧侶が竹筒から香水を注ぐと、観光客らが幻想的な光景に見入った。(中日新聞サイトより引用)QRコードからは動画も見ることができます。

ペルシアとの関係がどこにあるのか?説明が難しいので既存のサイトの資料を引用させていただくことにします。サライのサイトからです。https://serai.jp/tour/44963

「お水取り」は旧暦2月に行なわれる、奈良に春の到来を告げる仏教行事。1年間の「悔過(けか)」、つまり罪・穢れを懺悔(ざんげ)し、洗い清め、かつ国民・国家の安泰を祈るのが目的である。二月堂本尊の十一面観音に祈願するので「修二会(しゅにえ)の十一面悔過法要」というのが正式名称である。
この行を始めたのは実忠(じっちゅう)という僧侶だ。東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正の弟子とされる。不思議な話だが、これほど大規模な仏教行事を創始した人なのに、生まれた年はもちろんのこと、亡くなった年もわかっていない。
実忠とはどんな人物だったのか--。実忠はイラン人であると唱えた学者がいる。浄土真宗の僧侶で、古代インドのサンスクリット語やイラン語の権威だった言語学者の伊藤義教(いとうぎきょう、1909~1996)である。
彼は「お水取り」のルーツが中国や朝鮮半島にまったく見られないことに疑問をもった。そこで『日本書紀』など、古代の資料を調べてみると、インドを始め中東のペルシア一帯から多くの文化人や宗教家が来日していることがわかった。例えば天平勝宝4年(752)に東大寺大仏開眼供養の導師を務めた僧侶、菩提僊那(ぼだいせんな)はインド人である。
伊藤義教は得意のイラン語を駆使して古代ペルシアの宗教を検証し、実忠という名前は古代ペルシャ語の「ジュド(異なる)」と「チフル(種族)」、つまり「異邦人」を意味し、ペルシアで栄えたゾロアスター教の教えや儀式を元にお水取りを構成したのだという大胆な説を立てた。実忠は、もしかしたら中国を経由せずに海路で日本へやってきたのかも知れない。
お水取りは2月20日から2月末まで別火(べっか)という準備期間と、3月1日から14日までの本行(ほんぎょう)からなる。この行事を担当する僧侶を練行衆(れんぎょうしゅう)という。練行衆は毎年11人が選ばれ、彼らは一旦行に入ると家族の不幸などがない限り、途中で抜け出すことはできない。
本行は昼の12時から夜中まで、6回に分けて行なわれる。基本的には同じ内容の繰り返しだが、途中ちょっと変わった特別行事がいくつも入ってくる。それがどのような意味を持つのか、じつのところ、すべてがはっきりしているわけではない。
その典型が、3月12日の深夜に始まる「お水取り」という行事である。
大きな咒師松明(しゅしたいまつ)を先頭に閼伽井屋へ向う練行衆。仏教行事というより神事といったほうがふさわしい。

大きな咒師松明(しゅしたいまつ)を先頭に、閼伽井屋へ向う練行衆。仏教行事というより神事といったほうがふさわしい。
深夜1時過ぎ、5人の練行衆が供を従え、二月堂下にある「閼伽井屋(あかいや)」という堂へ向かう。堂内には若狭井(わかさい)という井戸があり、そこから本尊の観音様にお供えする香水(こうずい)を汲み取る。闇の中での無言の行で、誰も現場を見ることができない。あまりにも神秘的な行事なので、この香水を汲み取る行がとりわけ有名になり、ついには「お水取り」が修二会全体の名称になってしまったというわけだ。閼伽井屋から汲み上げた香水を参拝者にふるまう。身体につけるとご利益があるとされる。

さて、その若狭井の香水だが、若狭国(福井県)にある遠敷(おにゅう)という所から地下を通って二月堂下の2つの穴から湧き出すとされている。なぜ若狭からなのか。古代の大陸文化の多くは日本海側から琵琶湖を経て奈良にやってきたからという説がある。しかし、先の伊藤義教によると、それは後世につけられた理由だという。そう語る伊藤が注目したのは、イランやアフガニスタンで造られている「カナート」という地下水路である。雨の少ない砂漠地帯では貴重な水を蒸発させないために、山間部から地下に直線の水路を造り、オアシスに水を供給した。若狭から東大寺までおよそ90km。もちろん、そんなに長い地下水路は存在しないが、貴重な水を遠くから運ぶことの意義がお水取りの神事に隠されていると伊藤は断言する。

中東と古代日本は、1000年以上前に太いパイプで結ばれていた。当時の人たちのほうが、現代人より世界を見る目がはるかに広かったのかもしれない。お水取りの期間中、練行衆は二月堂周辺の神社にもお参りする。神も仏も崇拝する日本的信仰といえる。文/田中昭三

ペルシアとの関係は以上の説明でお分かりでしょうか。こじつけで信憑性が疑問と思われる方も多いでしょう。でも、遠い若狭の国から地下を通って奈良にまで水を届ける物語。その由来は若狭の神様が奈良での集まりに遅刻したことを詫びて御香水を届けたとか。その周辺の物語はチムドンドンするのです。また、ここで紹介されている伊藤義教先生は私自身が学生時代に1年間講義を受けた思入れのある先生なのです。楔形文字の話などを思い出します。そして、イランのベヒストゥーンのダリウス大王の碑文(3つの言語で書かれている)には誤訳があるとおっしゃっていたことも覚えています。そんな影響を受けて私はベヒストゥーンの碑文を2011年に訪れたのでした。立ち入り禁止の地上70m以上の絶壁にあるのですが、世界遺産管理事務所と交渉して案内してもらったのでした。碑文の解読に成功したローリンソンが自分の名前を刻んでいるのを発見しました。そのことはずっと以前にこのブログに書いているのでご覧ください。