日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(2)

前回は日本書紀の中にトカラ人が日本にやってきた記述の一部を紹介した。そして、その一行の中に舎衛という女性がいたが、舎衛とはどういう意味なのかという点で学者間に議論があって、どうやらそれは地名であるということになっている。ひとつはネパールの地名であるとし、ひとつはトカーレスターンの地名であると。そしてまた、トカラ人の名前に「乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)」というのがあった。波斯というのはペルシャの意味なので、トカラというのはペルシャのことなのだろうかも思うわけである。今回はその先に進めて行こう。

トカラを表記するのに私はここまでカタカナで記したが、書記には勿論感じで記されている。吐火羅、覩貨邏、覩カ羅(この部分のカは入力できなかったのでカタカナにした。貝の右に化の文字。つまりは貨と配置が異なった文字)などと表記されているのであるが、いずれも同じ地域をさすもので、伝統的にはトカーレスターン(トハーレスターン)とされてきたそうである。これはアフガニスタン北部から隣接する当時のソ連領域の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、パルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域である。サマルカンドやボハーラーというと現在はウズベキスタンの都市である。ところが、井上光貞博士や竹内理三博士によってトカラを東南アジアに求める説も提唱されたとある。それによるとトカラとは驃国のことで、ピュー族がビルマのイラワジ川の中流域に建設したもので、首都はプロムであるという。彼らは突羅成と自称し『新唐書』によれば、およそ18の属国があって、その中に舎衛が含まれているという。中央アジアではなくてもっと日本に近い東南アジアのほうが来日の可能性がより高いと思うが、それに対して実際にトカーレスターンのバルフから長安にやってきた宣教師などの事例を挙げて論争があったようである。

さて、先を急ごう、ペルシャ文化渡来考の著者、伊藤義教先生の説に移ろう。結論を先にいうと舎衛は地名ではないというのである。舎衛の女というのはトカラ人とは異なる舎衛人の女ではなく、同じトカラ人であるという。理由は一緒に行動していたことや、書記の記述をすなおに読めばそうなるという。そして、難題であるとする舎衛という意味を読み解くのである。以下、伊藤先生の説である。

舎衛は中世ペルシャ語シャーフ(shah) で王の対音とみるほかはない。従って舎衛女とは「舎衛の娘」として「王の娘・王女」以外のなにものでもない。ここまで詰めてくれば、書紀のトカラは、伝統に従って、トカーレスターンに同定するほかはない。トカラ人の漂着者たちの中に王女が一人いたことになり、それゆえに大和朝廷に迎え入れられた理由なのである。

7世紀にトカラ人が日本に漂着した。その中の一人が王女であって、大和朝廷に迎えられていた。トカラとはトカーレスターンであり、その地は今のウズベキスタン辺りである。ブハーラーやサマルカンドはかつてはペルシャ帝国に組み入れられたこともある地域である。つまり、日本書紀に登場する渡来人の招待はペルシャの王女とたちであったというわけである。とここまでくると、私の想像が駆け巡る。王女となるとペルシャの王女。となると、それはササン朝の王女であろう。ササン朝はイスラムによって滅びたわけであるが、その王朝の一部がシルクロードを経て長安へ、さらに日本へ来たということも可能性はあろう。そうなると、話はさらに続いていかねばなるまい。その話のネタは次の画像の書に託したい。

 

日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(1)

正倉院の宝物には西域から伝来したものが沢山あることは皆さん承知のことでしょう。シルクロードを通じて西域の文化が中国を経由して日本に伝わってきています。中でも、ササン朝ペルシャの洗練された器物が有名です。でも、ササン朝ペルシャの時代よりももっと前の時代に西域の人々が渡来してきていることが、日本書紀には記録されているのです。今回はそのような渡来人について述べて見たいと思います。タイトルを「日本書紀にみるゾロアスター教徒の来日」としたのですが、正確にはゾロアスター教徒ではなく、ペルシャ人と言った方が良いかもしれません。

654年4月「トカラ国の男二人、女二人、舎衛の女一人が嵐に遭って日向に漂着した」
657年7月3日「トカラ国の男二人、女四人が筑紫に漂泊し、わたしどもは、はじめ奄美島に漂泊しましたと言った。そこで早馬をもって大和に迎え入れた。
657年7月15日「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭盆会、暮饗覩貨邏人。」「すみ山の像を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭盆会を営み、夕方にトカラ人を饗応した。」
660年3月10日「トカラ人が妻なる舎衛婦人といっしょに朝廷に伺候した」
660年7月16日「また、トカラ人乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)が本国に帰りたくて、送使を出してほしいと願い出て、『のちにまた大和朝廷にお仕えした。そこで、妻を残してそのしるしにします』と言った。そして彼は送使数十人(とをあまりのひと)といっしょに、西海に向けて旅立った。」

ここまでを整理してみよう。5つの日時での記述がなされている。最初の654年は孝徳天皇の御世(御代)であり、後の四つは斉明天皇の時代である。トカラ人の男二人と女二人、それに舎衛の女一人が九州に漂着したという記録である。舎衛の女というのが、トカラ人ではなくて舎衛人の女という意味なのか、トカラ人ではあるが、何らかの意味をもつ舎衛の女かはこの時点では分からない。漂着したところが、日向なのか筑紫なのか、奄美島なのか私には分からないが、その後、大和朝廷に迎えられたということのようだ。その後、乾豆波斯達阿が帰国したいと申し出て、妻の舎衛を残して旅立ったとある。達阿というのは名前らしい。またその前の波斯はハシと読むがペルシャの意味である。とすると、トカラ人というのはペルシャ人のことなのだろうか?

私自身は日本書紀を所有していないし、していても読むことはできないだろう。そこでここまで述べてきたことは上の画像の文庫本を参考にして書いている。というか、読みながら書いている。というのは読んでいるだけではすんなりと頭に入ってこないのである。数ページ読んでみて、その部分を整理して、ここに書いてみて、ああそういうことなんだなと理解しているのだ。私が持っている知識を披露しているのではなく、私自身が理解するために書いているのである、皆さんはそれに付き合って下さっているという状況です。さて時代は天武天皇の御世になる。

676年1月1日「大学寮諸学生陰陽寮外薬寮及舎衛女堕羅女百済王善光新羅仕丁等捧薬及珍異等物進」⇒「大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮や舎衛女・堕羅女・百済王善光・新羅の仕丁たちが薬や珍異等物(めずらしきものども)を奉献した」
つまり新年元旦に天皇に珍しいものを献上したという記録である。注目するのは、ここにも舎衛女が出てきているのである。伊藤義教先生によると、殆どの学者が舎衛国の女としているそうである。舎衛国あるいは舎衛城は梵語名をシュラーヴァスティー(在ネパール)であり、北コーサラ国の首都で、その郊外には有名な祇園精舎があったという。このシュラーヴァスティー説に異を唱えたのは僅か一人だけ井本英一先生であるそうな。井本先生というのは私が大学で4年間教えを受けた主任教授である。つまりゼミ担任である。私たちはそんなことは何も知らずに教えを受けていたのであるが。
それでは井本先生が唱えた説は「舎衛はトカーレスターンの地名Shaweghar または Sawe 」と同定されたそうである。伊藤義教先生はまた異なる説をお持ちのようである。この伊藤先生にも私は学生時代に講義を受けたのであった。そのころ先生は京都大学の教授であったが、非常勤講師として私たちに「古代文字の解読」の講義をされた。この場合の古代文字とは楔型文字つまり古代ペルシャ語の楔型文字のことである。我々にとっては現代ペルシャ語自体も初心者であるのに、そのようなものが理解できるはずはなかった。その先生が語られたダレイオス碑文を60歳代半ばにしてビストゥーンで直にお目にかかるとは、当時は想像だにしなかった。

新たにトカーレスターンとは何処なのかという興味も湧いてきた。何か謎解きのようになってきた。ここまで書いてきた行数はそれほど多くはないが、読んでは整理しながら書くもんだから、結構時間がかかった。久しぶりに快晴となり外は猛暑が再来した。少々疲れたので今日はここまでにして、続きは後日としよう。

ペルシャ語講座31:数に関する表現

以前のペルシャ語講座14あたりで数の表し方を扱っています。今回は数に関連してもう少し詳しく述べて見たいと思います。
まずは1~10です。序数とは英語なら、first, second, third・・・というものです。

基数 読み方 序数 読み方
1 یک  yek  یکم  yekom
2 دو do دوم dovvom
3 سه se سوم sevvom
4 چهار chahar چهارم chaharom
5 پنج panj پنچم panjom
6 شش shesh ششم sheshom
7 هفت haft هفتم haftm
8 هشت hasht هشتم hashtom
9 نه noh نهم nohom
10 ده dah دهم dahom

1に対して1stは yekom ですが、yek を yak と発音する人は yakom と発音しています。しかしながら、普通はアラビア語由来の avval アッヴァルを使うことの方が多いでしょう。例えば first night なら شت اول シャベ・アッヴァル というわけです。farvardin 月の最初の日 なら روز اول فروردین  ルウゼ アッヴァル ファルヴァルディン となります。

以後、箇条書き風に述べていきましょう。
一度や二度という場合の言い方は yek daffe,  yek bar, yek martabe でいいでしょう。二度なら yek の部分を do ドウにして下さい。daffe, bar, martabeは回数や度数などを表す言葉です。それぞれ دفحه بار مرتبه と書きます。

日本語では物を数えるときに例えば本なら冊、動物なら頭(トウ)などと付けますが、ペルシャ語も同様です。
2頭の馬=دو رأس اسب  ドウ ラス アスブ
2冊の本=دو جلد کتاب  ドウ ジェルド ケターブ
2人(二人)=دو نفر  ドウ ナファル
鉛筆のような小さなものの場合は adad を使って 彼は5本の鉛筆を買った پنج عدد مداد خرید
複などの場合は dast を使って、私は1着のスーツを買った یک دست لباس خریدم
一軒の家を彼は買ったの場合は門という意味のba-b باب を使って、
یک باب خانه جرید
卵のような小さなものは da-neを使って、彼は卵を10個持ってきた
ده دانه تخم مرغ آورد
まだまだ沢山ありますが、これ位にしておきましょう。

カップ一杯のお茶=یک فنحان چای  yek fenjan chai   イエク フェンジャーン チャイ
コップ一杯の水=یک لیوان آب  yek livan a-b  イエク リヴァーン アーブ

 

アラビア書道について

これまで何度かアラビア書道の記事を書きました。いずれも作品展に提出したものをアップして、その内容などを簡単に紹介するものでした。今回は少しまとめてアラビア書道とはどのようなものかと紹介してみようと思います。一人でも興味・関心を持っていただいて、トライしてみようという方がおられたら嬉しいのですが。

アラビア書道とは、日本の書道とは少々異なるのは勿論です。当然ながらアラビア語を書くわけです。アラビア語はアラビア文字を使いますから、アラビア書道はアラビア文字を書くことになります。が、アラビア文字を使用するのはアラビア語だけではありません。ペルシャ語やウルドー語でも使いますので、アラビア書道はアラビア語だけのものではありません。もちろんペルシャ語のアラビア書道はペルシャ書道ということになるのでしょうが、アラビア語で書くアラビア書道の中に、ナスタアリーク書体(ペルシャ書体)という書体もあるのです。

アラビア書道の主な書体
書体の話になりましたので、書体について説明しましょう。日本の書道でも楷書、草書、行書、隷書、篆書などとあるように、アラビア書道にもあります。
上の画像は私たちが最初に習うナスヒー書体のテキストの冒頭にある書体の紹介です。上からナスヒー書体、ルクア書体、ディーワーニー書体、シャリー・ディーワーニー書体、スルス書体、ナスタアリーク書体(ペルシャ書体)、クーフィー書体と順番に習っていくわけです。各書体の説明が右側にあるのですが、小さくて読めないかもしれませんね。アラブ人が手書きで文字を書く時の書体がルクア書体です。コーランやモスクの壁に書かれているのはスルス書体です。ディーワーニー書体はオスマン帝国の政庁で開発されたもので、スルタンが発布する勅書などに使われた書体です。

アラビア書道の道具類
書道ですから、筆と墨と紙があればいいわけです。

筆は普通は細い葦、あるいは竹を使います。基本的には自分で削って作ります。日本では竹の方が入手しやすいので私たちはもっぱら竹を使います。葦の筆も使ったことがありますが、竹の方が耐久性があって使い勝手がいいです。


墨(インク)は日本の書道用の墨汁を使っています。百均ショップので十分です。黒色です。でもアラビア書道の作品集などを見ると黒以外に緑や青なども使われています。私も、たまには青で書くことがありますが、これは粉インクです。ペルシャ雑貨の店で売っているのですが粉を瓶に詰めて売っています。次の画像の上は墨汁の黒色で、下が粉インクの青です。

用紙・紙
竹の固い筆を使うので、紙は少し厚めで表面がツルツルした滑りのいい紙を使います。私たちは教室の先生からアート紙という用紙を分けてもらっています。普通の紙に書く場合は昔は卵白を刷毛で塗って、その上を擦ってすべすべにしたそうです。現代的な方法としては画材店で売っているグロス・ポリマー・メジウムという液体を水で薄めて何回か塗り重ねた後乾かして使うそうです。次に画像を上げましたが、真ん中の白い紙が練習用で、作品展に出すときなど清書するときは両サイドのような周りに装飾が施された用紙などを利用しています。

そこに書いてみると次の画像のようになります。左は先生に書いていただいたお手本です。右がいま練習している途中のものです。もう少し練習しなければなりません。

テキスト・教本
筆と墨と用紙が揃ったら、アラビア書道を開始することができます。私たちは先生から日本語のテキストを入手することができますので不自由はありません。今私が使っているテキストの一部をちょっと覗いて見てください。
1枚目の画像の左側はペルシャ雑貨店で入手した現地の教本です。

ついでに現地のテキストの中もお見せしておきましょう。

教室など
さて、アラビア書道をやってみたいと思われませんか?そうした場合にはアラビア書道協会の教室を訪ねてみてください。検索すれば、ホームページがすぐにでてきます。東京周辺は勿論、名古屋、大阪、京都、神戸、大阪にも教室がありますので、ホームページで確認してください。

ペルシャ語講座30:夏の言葉

暑い夏が続きます。先日は岐阜県多治見市で40度超えました。その前の日に多治見のスーパー銭湯に行ってきたのですが、その日もかなり暑かったです。暑いと言えば中東地域は非常に暑いことは言うまでもありません。でも、中東と言っても広いので、場所によっては差があるのは当然です。私がよく知っているのはイランですが、テヘランの夏は非常に暑かったことを思い出します。40度は軽く超えてました。でも湿度が低いので陰では爽やかさを感じることができました。

初めてイランに行ったのが1971年でしたが、その当時の私の会社の勤務は午前と夕方の2部に分かれていました。昼に一度家に帰って、食事して昼寝などの休憩をして、夕方会社に戻るという方式でした。私は独身でしたし、昼寝をする習慣もなかったので、よくホテルに行ったものでした。そこでサンドイッチ程度の軽食を食べて、屋外プールを利用したものです。裸になり一度プールに入って、プールサイドに上がると、気化熱が働いて身体から熱が奪われて寒い位になりました。そんな風な形で避暑をしていました。そのホテルの名はVanak hotel でした。そのころは日本からJALが飛んでましたので、日航の客室乗務員の女性たちの宿泊ホテルになっていたので、プールサイドには彼女たちがいて癒されたものでした。

今回は、暑さや寒さに関する言葉などを取り上げて見ましょう。
暑い季節の夏はターベスターン=تابستان で、反対の冬はゼメスターン زمستان です。春はバハールبهار   秋はパーイーズ  پاییز です。季節は ファスル fasl  فصل です。
暑いときはプールで泳ぎます。プールはestakhr エスタックル استخر : 海は  ダルヤー دریا 湖はダルヤーチェدریاچه  川はルードハーネ رودخانه です。私は」プールで泳ぎました= ダル エスタックル シェナー カルダム = در استخر شنا کردم いつも言うように動詞の語尾が一人称を示しているので、マンは不要です。泳ぐは シェナー カルダン です。
暑いは ギャルム گرم  寒いは サルド سرد  うだるように暑いはダーq داغ です。ギャルムは暖かいときも使えますから、暑いは非常にをつけてkheili ギャルムがいいかもしれません。だーqは沸騰するような暑さです。日本のような湿度の高い状態の形容詞は マルツーブ مرطوب です。

まだあまり長く書いていないのですが、クーラーを入れずに書いているので、非常に暑くなってきました。熱中症にならないように今日はここまでにしておきます。

東京五輪閉幕:中東諸国のメダル数

2021年8月8日、TOKYO2020・東京五輪が閉幕しました。コロナ禍の下で開催賛否両論の中での開催でした。野球では台湾が参加を見合わせました。個人ではコロナ陽性のために出場できなかったアスリートもいれば、自ら参加を辞退したアスリートもいました。開催の裏には様々な背景があるわけですが、ともかく終了しました。そこで、このサイトでは中東諸国のメダル数をチェックしました。今朝のメディアから作成してみました。金メダルの数を優先して順位づけしています。まずは1位から10位までをあげて、その下に中東諸国を並べています。結局、メダルを大量に獲得しているのは先進国です。ここに挙げた中東諸国9か国のメダル数は38個です。アメリカは1国で中東全体の3倍ほどの獲得です。1位から6位、それに10位のイタリアが中東全体より多く獲得しており、7から9位のオランダ、フランス、ドイツは中東合計数とほぼ同じ数でした。

順位
1位 米国 39 41 33 113
2位 中国 38 32 18 88
3位 日本 27 14 17 58
4位 英国 22 21 22 65
5位 ROC 20 28 23 71
6位 豪州 17 7 22 46
7位 オランダ 10 12 14 36
8位 フランス 10 12 11 33
9位 ドイツ 10 11 16 37
10位 イタリア 10 10 20 40
27位 イラン 3 2 2 7
35位 トルコ 2 2 9 13
39位 イスラエル 2 0 2 4
41位 カタール 2 0 1 3
54位 エジプト 1 1 4 6
74位 ヨルダン 0 1 1 2
77位 バーレーン 0 1 0 1
77位 サウジアラビア 0 1 0 1
86位 シリア 0 0 1 1

長年の努力が実を結び、快挙を成し遂げたアスリートもいれば、そうでなかった者もいます。色々なドラマがありました。今回は10代の若い人たちが大活躍でした。本来のオリンピック精神からかけ離れてしまった今のオリンピックを私は否定的に見ていますが、そこに参加するアスリートたちの活躍には応援をし、感動もしました。でも、最終的にオリンピックから見えてきたことの一つは国別メダル数の偏りです。それは世界の格差でしかありません。

コーランについて(10):第104章・・・中傷者

最近のネット社会では誹謗中傷が酷い状態であるらしい。まもなく閉会となる東京オリンピックに出場したアスリートたちに対するものも非常に多いようである。コーランを見ると第104章に「中傷者」という章があるので、それを見ることにしよう。

ええ呪われよ、よるとさわると他人の陰口
宝を山と貯めこんで、暇さえあれば銭勘定

これだけあればもう不老不死と思ってか。
いやいや、つぶし釜(なんでも粉々につぶしてしまうもの。地獄を指す)に叩き込まれる身のさだめ。
が、さて、つぶし釜とはそもなんぞやとなんで知る。
ぼうぼうと焚きつけられた神の火で、
忽ち心(投げこまれる罪人の心臓)を舐めつくし、
頭の上から蓋をして、
蜿々長蛇の柱とはなる(はてしなく続く柱の列のように火焔が燃え立つのである)。

後半は少し分かりにくいかもしれないが、要は人を中傷するような輩は地獄に落ちるんだということ。金をため込んで銭勘定ばかりするような輩は、貯め込んだ財産が不老不死を与えてくれると思っているのかもしれないが、そんな輩も地獄へ落ちるということだ。そして、地獄というのは、前回にも出て来たが、劫火の責めを受ける処である。最後の審判で地獄行となった者は火で焼かれるが、彼らは既に死を経験しており、地下のあの世から、喇叭の音によって復活した者どもである。一度死んでいるので、再び死ぬことはない者どもである。つまり、酷い劫火に焼かれても、死ぬことはなく、永遠に火の攻めを受けるのである。もう殺してくれと泣き叫んでも、死なずに、一生苦しみ続けるのである。一生というのは可笑しいな!

とにかく、イスラムの地獄での苦しみはコーランのあちこちで述べられている。その部分だけを抜き書きして整理するだけで学位論文が書けるかもしれない。世界中の人々が、他人を誹謗中傷したりすると地獄に落ちることを心に留めておいてもらいたいものである。

コーランについて(9):第99章・・・地震

コーランの章は全部で114章である。そして、その順番は長い章が前にあり、短い章が後ろにあるそうだ。だから、最後の方の章は非常に短い記述となっている。短いと我々にとっても読みやすいし、分かりやすい気がする。そこで今回紹介するのは第99章の「地震」である。全8節の構成である。この程度なら全文を紹介できる。いつものように井筒俊彦訳である。

① 大地がぐらぐら大揺れに揺れ、
② 大地がその荷を全部吐き出し(地下の死者が一人のこらず発き出される)。
③ 「やれ、どうしたことか」と人が言う、
④ その日こそ、(大地)が一部始終を語り出でよう(天地終末の意味を大地が語るであろう)、
⑤ 神様のお告げそのままに。
⑥ その日こそ、人間は続々と群れなして現われ(地中から復活して出て来る)、己が所業(現世で自分がどんなことをしていたか)を目のあたり見せられる。
⑦ ただ一粒の重みでも善をした者はそれを見る(それを見る、とは自分のしたその善事を改めて見せられ、それに応じた褒美を戴くこと)。
⑧ ただ一粒の重みでも悪をした者はそれを見る。

この章は最後の審判のことを述べているのである。つまり、最後の審判の時に大地がぐらぐら揺れる地震が起きて、大地から死者が復活して、最後の審判を受けるのだぞということだ。
最後の審判では生前に善をなしたものは褒美を受けて、楽園に行けるのであるが、悪をなしたものには地獄に落とされる罰が下るということである。その罰についてはコーランの色々な章で陳べられている。過酷な火攻めに苦し悶える地獄で永遠に住むために蘇るのである。

復活から最後の審判に至る筋道は「第39章群れなす人々」の中で次のように述べられている。
嚠喨と喇叭が鳴り渡れば(復活の瞬間の描写)、天にあるものも地にあるものも、愕然として気を失う。アッラーの特別の思召しによる者以外は誰も彼も。次いでもう一度吹き鳴らされると、みな起き上がってあたりを見廻す。
大地は主の御光に皎々と照り輝き、帳簿(一切の人間の運命を記入した天の帳簿)が持ち出され、すべての預言者、あらゆる証人が入場して来て、公正な裁きが始まる。誰も不当な扱いを受けることはない。誰もが自分のしただけの報いをきちんと頂戴する。誰が何をして来たか。(アッラー)が一番よく御存知。

ここまで具体的に述べられていると、映像が浮かぶ感じである。この喇叭をふくのは天使の一人イスラーフィールである。復活した人間は生前の所業が記録された帳簿と証人によって裁かれる。誰も言い逃れはできない。それゆえ、生前の行為は重要になるわけである。

オリンピック開催中:バレーボール「イラン―日本」戦

東京オリンピックが始まって、既に1/2程が経過しました。日本は柔道での結果が素晴らしく、金メダルが続出して勢いがつきました。卓球混合ダブルスの金メダルでも日本中が盛り上がりましたね。一方で、コロナ禍の下で「それどころではない!」という医療従事者や感染した人々も沢山いるのが現状です。7月末から東京の感染者が3千人超が続いています。4千人超の日もありました。私自身はコロナに関係なくオリンピック反対なので、一部の競技を静かにテレビ観戦しています。
そんな中、8月1日の男子バレーボールの予選を見ました。日本ーイランの試合でした。どちらもこの試合に勝てば決勝リーグに進出できるということで熱戦が繰り広げられました。このブログは中東寄りのサイトですので、どちらも応援しました。テレビに映るイランの選手の映像を写してインスタグラムにアップしました。ここにも紹介しましょう。

インスタグラムではイランの人々から「いいね」を頂きました。この時点では1-1という状態でした。その後1-2とイランがリードし、そのあと日本が踏ん張って2-2となりました。最終5セットに突入し、そこでも接戦の結果、日本が勝ったのでした。イランチームはアジアで一番強いチームだそうでしたが、開催国の利もあったのでしょうか。決勝リーグでの日本の勝利は厳しいのでしょうが、頑張ってほしいものです。

書籍紹介:Cambridge History of Iran

このブログが「イスラム・中東世界への招待」と題しているように、私は高校生時代から中東地域に興味・関心を抱いていた。きっかけは世界史で習った世界の四大文明のうちメソポタミア文明とエジプト文明の二つが中東地域にあったこと。そしてアケメネス朝ペルシャの都・ペルセポリスの写真が世界史の教科書の冒頭に載っていたことなどだった。また、日本には石油がないので海外から輸入しなければならない。中東にはその石油が豊富にあるのだった。日本は中東の国々と良好な関係を保っていく必要があると思っていた。当時はイスラムがどうのこうのという雑音は殆どなかったように思う。それだけまだ外国との関係が一般市民の間では薄かったと思う。

前置きが長くなったが今日の本題は書籍紹介である。冒頭にその本の画像をアップした。これでは厚さが分からないから次の画像をアップした。
かなり分厚い本である。8冊である。1巻から順に紹介すると:
1. The Land of Iran
2. The Median and Achaemenian Periods
3-1. The Seleu
cid, Parthian and Sasanian Periods
3-2. The Seleucid, Parthian and Sasanian Periods
4. From The Arab Invasion to the Seljuqs
5. The Seljuq and Mongol Periods
6. The Timurid and Safavid Periods
7. From Nadir Shah to the Islamic Republic である。日本語にすると:
1.イランの国土
2.メディア王国とアケメネス朝期
3.セレウコス朝、パルティア、ササン朝時代であるが、この3巻は2冊である。
4.アラブの侵入からセルジューク朝時代
5.セルジュ―ク朝からモンゴル襲来の時代
6.ティムールの時代からサファヴィー朝の時代
7.ナーデル・シャーの時代からイスラム共和国の時代  である。

普通イランの歴史というとアケメネス朝からのものが多いが、ここではその前身のメディア時代から詳述されている。アケメネス朝を創設したキュロス大王の前の時代はメディアがペルシャを支配していたのである。
イランというとペルシャである。ペルシャ帝国というと先ずアケメネス朝、そして我々日本に馴染みの深いササン朝であり、イランの歴史の中でもっとも繁栄したサファヴィー朝を想うのであるが、それ以外に数多くの王朝が歴史をつないだわけである。言い換えれば侵略されたわけである。

7世紀にアラビア半島でイスラムが生まれ、それが周辺世界へと拡大していった。ササン朝ペルシャはイスラムによって崩壊し、ペルシャはイスラム化していった。されど、イスラム化された社会の中で、ササン朝の文明までを築いてきたペルシャ人たちはイスラムの支配下の中でもその存在価値を発揮して生き残ってきた。アラブの侵略だけでなく、モンゴルの襲来によっても大々的な破壊が行われた。四方を海に囲まれた日本の歴史とは異なる血生臭い歴史である。老後のためにゆっくり読もうと思って買いそろえていた全8巻である。そろそろ読み始めることにしよう。

この歴史書はアマゾンで買うことができる。一冊3万円程する非常に高価なものである。私が買ったのはずっと前のことだからそれほどはしなかったが決して安いものではなかった。ボケ防止のためにも、宝の持ち腐れにならないように活用することにしよう。