中東の美:ラスター彩の輝き

前回、白瑠璃碗、つまりガラス器を取り上げたので、今回も焼き物を取り上げよう。今回はガラスではなくと陶器やタイルである。冒頭の画像はINAXライブミュージアム「世界のタイル博物館」コレクションを紹介している小冊子『ラスター彩タイル』の表紙である。副題として「天地水土の輝き」とある。発行は2013年9月である。ラスター彩とはなんであろうか。この小冊子では「ラスター彩は器の表面に描かれた図柄が金属的な輝きを呈する陶器の彩画技法で、イスラーム地域で特に発展した。」と説明されている。そしてINAX社が集めた12世紀~13世紀に焼かれた美しいタイルが紹介されている。無断転載は禁止なのでここに紹介はできなくて残念であるが、INAXのホームページから見ることができるのではないだろうか。ところで、ラスター彩は金属的な輝きをいかにして発光させているのだろうか。インターネットでは以下のように説明されていた。

ラスター彩とは:
① ウィキペディア
ラスター彩(ラスターさい、Lusterware)とは、焼成した白い錫の鉛釉の上に、銅や銀などの酸化物で文様を描いて、低火度還元焔焼成で、金彩に似た輝きを持つ、9世紀-14世紀のイスラム陶器の一種。ラスター(luster)とは、落ち着いた輝きという意味。
② 大辞林 第三版
イスラム陶器の一。スズ白釉はくゆうをかけて焼いた素地きじに銀・銅などの酸化物で文様を描き低火度で焼成したもの。金属的輝きをもつ。
③ 百科事典マイペディア
陶器の表面に金属や金属酸化物のフィルム状の被膜を600〜800℃の低火度で焼きつけ,真珠風の光沢や虹彩(こうさい)を出した焼物。この技法は9世紀にメソポタミアで始まったといわれ,次いでエジプトで発達し,のち12,13世紀のペルシア陶器に多く用いられた。
④ 世界大百科事典 第2版
陶器の釉薬において金属酸化物に起因する輝き,あるいはこの輝きをもつタイプのイスラム陶器をいう。日本では〈虹彩手〉〈きらめき手〉と呼ばれている。技法的には,スズ釉による白色陶器(素地を青緑,藍彩にする例もある)に銀,銅酸化物(硝酸銀,硫化銅)を含む顔料で絵付をし,低火度還元炎で再度焼成する。呈色は黄金色が多いが,釉薬の成分,焼成温度などによって微妙に変化するので,黄褐色,赤銅色を呈することもある。 ラスター彩の技法は9世紀にメソポタミアで創始され,次いでエジプトに伝えられてファーティマ朝下で発達し,王朝滅亡後はイランに伝播した。

釉薬に金属、特に錫を混ぜるような技法であるらしい。かといって、そのように釉薬を調整すればできるというものではない。焼成の温度や陶土の質だとか、ラスター彩のあの本当の輝きを出すことは非常に難しいということだ。

これは私の手元にある1986年発行・保育社カラーブックス『ペルシャ陶器』500円の表紙である。著者は人間国宝の加藤卓男さんである。私の手元には2冊あり、もう一冊は表紙を広げると次のように著者のサインがある。陶器の作品に描かれる見慣れた銘のそばにペルシャ文字でتاکو کاتو と付記している。最初の تا の部分はちょっと変形させているようだが。著者の加藤卓男さんは、ペルシャ陶器のラスター彩に魅せられて、イランに通い、ついにラスター彩を復元することができた陶芸家なのである。岐阜県多治見市に1804年に開いた幸兵衛窯の第六代目である。現在は七代目の代になっている。幸兵衛窯では彼の作品やコレクションが見学できるので、私は時々訪れることがある。

この『ペルシャ陶器』によると釉薬のことや、イスラム模様のこと、各地域のラスター彩のことなどを知ることができる。

また、上の画像の『やきもののシルクロード』という書籍では加藤卓男さんが追い求めたペルシャ陶器のことを味のある文章と絵で著している。素晴らしい書籍である。彼はペルシャ風の絵をうまく描いており。陶板も数多く製作しており、幸兵衛窯では買い求めることができる。

最後は圧巻の『ラスター彩陶・加藤卓男作品集』を紹介して終わろう。

著作権に触れるといけないので遠慮して作品集の写真の中の一枚だけアップさせてもらおうとするのだが、一枚を選ぶのが非常に難しい。読者はどうかネットの中で、検索して彼の作品をご覧いただきたい。いや実際に幸兵衛窯に行って、本物をみていただきたいものである。

 

 

 

 

書籍紹介:正倉院ガラスは何を語るか

今回紹介する本は冒頭の中公新書・由水常雄著『正倉院ガラスは何を語るか』である(2009年発行ですが、今でも新鮮な内容です)。副題として「白瑠璃椀に古代世界が見える」がついている。私を含め多くの日本人はシルクロードが好きである。遠い昔、西域のほうからラクダやロバを率いた隊商が異国情緒豊かな洗練された物品を運んできた。その頃は唐であったろうか、中国からはシルクが運ばれていった。シルクロードの貿易産物は奈良の都にも届いたのであった。毎年秋に開催される正倉院展には多くのシルクロードファンが押し寄せる。

正倉院所蔵物の中でも有名な物の一つがガラスの瑠璃碗であろう。子供の時に美術の教科書で見たような気がする。あるいは歴史の教科書であったかもしれない。シルクロードの長い道のりを経て、日本までやってきた浪漫を感じさせる碗であった。

本書の冒頭には次のように書かれている。
奈良の東大寺正倉院に奈良時代から今日まで伝えられてきた多くの宝物は、世界最高の文化遺産として、わが国はもちろんのこと世界中の人々によって、驚異の遺宝として、称賛されている。そして、これらの宝物のなかでもとりわけ美しく、華やかなロマンをたたえているのが、異国情緒満載のガラス器類である。東大寺正倉院には、現在六点のガラス器が宝蔵されている。いずれも外国からもたらされた外来文化を象徴するガラス器である。1965年に発行された正倉院ガラスの正式な学術調査報告書、正倉院に事務所編『正倉院のガラス』(日本経済新聞社)によるとそれら六点のガラス器については、「瑠璃唾壺(るりだこ)こそ平安中期の奉献である確証はあるが、他のガラス容器はその性格が天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4年のものと見ても別段さしつかえあるとは考えられない。」と解説している。この天平勝宝4年(752年)には、東大寺の大仏がほと完成して、盛大な大仏開眼供養会が開催された。国内外から多数の参拝者が訪れ、外国の要人たちからも多くの宝物類が奉献された。この報告書『正倉院のガラス』に基づいて、中学、高校の歴史教科書をはじめ、百科事典等の辞典類にも、この記述が一般化されていて、今日に至るまで、これが正倉院ガラス器の一般通念となってきたのであった。

私が子供の頃に見たと先述したのは間違いではなかったようだ。本書の内容を知ってもらうために目次の画像を以下にアップしてみよう。



正倉院に宝蔵されている白瑠璃碗についての説明、それがササン朝時代の経済活動によって日本にたどり着いた経緯などが第1章、第2章で知ることができる。そして、本書の魅力は白瑠璃碗が正倉院に辿り着くまでの数奇な運命のような道のりを解き明かしたことである。まるで、サスペンスドラマや推理小説を読むような感じであった。ガラス器であるから構造的なちょっと難しい部分もあったり、中央アジアのガラス製作の工房などをたずねるのも、サスペンスドラマで犯人の足取りを辿るような感覚であった。あの白瑠璃碗はずっと正倉院に存在していたのではなかったのである。保存されている物のリストがいくつかの時代に作成されており、著者はそれを綿密に調べた結果が述べられている。詳しいことを書くとドラマの結末になるので、そこまでにしよう。

白瑠璃碗が何処で制作されたのか?についても著者はきめ細かな調査・考察を重ねている。東京大学東洋文化研究所教授、深井博士の説によると製作地はシリアやエジプトなどのローマ帝国の東方領ではなくて、イラン高原の古代オリエントの伝統が濃厚に残っていた地方(ギラーン州)と推定、製作年代は三世紀以降七世紀以前とされている(34頁)。しかしながら、著者はギラーン州は製作地として考えることもできようが、古代貿易ルートの集荷地と考えることのほうがより妥当性があろうとして、実際の製作地は現在のイラクのキッシュであると推定しているのである。


ギラーン州が白瑠璃碗の製作地あるいは交易で栄えた集積地であったとする両者の見解について、私は「えっ」と思ったのではある。このブログでも私は何度かギラーン州(私はギーラーン州と書きます。ペルシャ語の記載は گیلان  ですから)のことを書いています。そこでゲットした壺のことも書きましたね。しばらく住んでいたところなので、古代オリエントの伝統が濃厚に残っているような土地だとは思ったこともなかったのです。またカスピ海があるので船による交易はある程度盛んではありますが、南をエルブルズの山脈で阻まれたこの地域はそれほど交易で栄えた地域とは思っていないのです。でも実際に白瑠璃碗がここでも見つかっているとのことなので、改めてこの地域に対する興味が湧いてきました。今度行ったときにバザールの奥の方で探してみたりしてみたいものです。この白瑠璃碗は世界で2000個程発見されているとのこと。そこで著者はキッシュでは組織だった工房のもとで厳格に管理された状態で大量に生産できるシステム、技術があったとしています。

 

そして、実際に白瑠璃碗を複製したというのである。ここで、私はこの著者の本気度に感心したのであった。はじめ、ササン朝ペルシャから伝来したガラス器を愛でて、その背景となったペルシャの世界に夢を膨らませる内容だと思っていたのが、違った。面白かった。そして、復元ができているなら買うこともできるのだろうか?と思うのは当然である。インターネットで検索すると、ありました。ヤフーオークションにもでていました。楽天ショッピングにもあったかな。いずれにせよ、この著者が監修して作られた作品があるのです。そういうことなのです。

ササン朝(2)ローマ帝国との争い

ササン朝(226-651)の時代、ヨーロッパ世界ではローマ帝国が発展していた。しかしながら、ローマ帝国は皇帝テオドシス1世が亡くなるとき(395年)に東を長男アルカディウスに、西を次男のホノリウスに与えた。ローマ帝国は東と西に分かれた分割統治となったのである。その後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に悩まされ、100年足らずの476年に崩壊する。東ローマ帝国はオスマン帝国に敗れた1453年まで長きにわたって繁栄した。このような時代背景を踏まえた上で、ササン朝とローマ帝国との覇権争いを見ることにしよう。

シャープール1世(在位242~272年)が260年にエデッサの戦いでローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。4世紀にはユリアヌス帝(361~363年)がササン朝との戦いでクテシフォンまで迫ったが傷を負い戦死した。ササン朝のホスロー1世は579年ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いで戦死した。ホスロー2世(590~628年)は614年にビザンツ帝国の領土であったエルサレムを攻撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち帰った。ローマ側のヘラクレイオス1世(610~641年)が628年にクテシフォンを占領した。・・・・このように歴史年表に現れている主だった戦いの記録からも両者の敵対関係を知ることができる。

冒頭の写真であるが、私の背後に写っているのが、文中で述べたエデッサの戦いの戦勝記念のレリーフ碑である。シャープール1世が馬上から、捕虜にしたローマ皇帝ウァレリアヌスを見下している。一方、ローマ皇帝は跪いているという図柄である。このように強力な勢力を誇ったササン朝を打ち滅ぼした勢力がイスラムであった。

ササン朝ペルシア(1)

ササン朝ペルシアを手元にある数研出版『世界史辞典』で引いてみると、以下のように記載されている。

ササン朝(Sāsān)226-651 中世ペルシアの王朝。名はその先祖イスタフルのマズダ教の祭司ササンに基づくという。アルダシール1世(226-241)がパルティアの衰微に乗じて、クテシフォンに即位、諸王の王と号し、ゾロアスター教を国教としたが、総じて他宗教にも寛容。領土を広げて古代ローマ帝国と対立。6世紀中ごろ、ホスロー1世のとき、黄金時代を現出、しばしば東ローマ帝国に侵入したが、同世紀末から衰え、ニハーヴァンドの戦いでイスラム帝国に敗れて崩壊、まもなく名実ともに滅んだ。ペルシア固有の華やかな技法にギリシア、インド的要素を加えた銀器・青銅器・ガラス器・連珠紋模様の絹織物などのササン朝美術はシルクロードを通じて当方に伝えられた。

ササン朝の特徴の第一は上述されている中の1つ「ゾロアスター教の国教化」であろう。ゾロアスター教については既にこのブログの中でアケメネス朝の王族が信仰していたことを述べた。ダレイオス大王はゾロアスター教の神・アフラマズダが我を王位に就けたと宣言している。ササン朝になると、更にその傾向は強くなり、ササン朝時代のレリーフには「王権神授」を表す絵柄が多くみられる。

上の写真はNaqshe-Rajabにあるレリーフである。アルデシール1世の王権神授の図である。下の写真はターゲ・ボースタンにあるレリーフである。これはホスロー2世がアナヒータ神とアフラマズダ神から光輪を授けられている図である。

ターゲ・ボースタンにはこのほかにも美しいレリーフがある。次の写真は天使あるいはアナヒータ神でしょうか。非常に美しいと思いました。(写真は筆者が撮ったものである)

第二の特徴は、ササン朝では諸文明を融合した高度な文化が生まれたことである。優れた様式や技術は、ササン朝を滅ぼしたイスラム世界にも継承されるとともに広く東西各地へ伝播し、その地方の文化に影響を与えた。わが日本にもその影響が奈良に残っている。法隆寺の「獅子狩紋錦(ししがりもんきん)」には日本に生息しない獅子(ライオン)を描かれている。ササン朝ペルシアの「帝王獅子狩文銀皿」の獅子をモデルにしたという説がある。山川出版のヒストリカには次の図でササン朝文化の伝播が説明されている。

奈良正倉院にある漆胡瓶(しっこへい)がササン朝の影響を受けたものであり、同様に他地域でも同じように影響を受けた瓶が存在するという説明である。ササン朝の洗練された文化が銀器・青銅器・ガラス器などの優れた工芸品を生み出した。そして、それらの品はシルクロードを経て各地へ伝わった。東方へのシルクロードの中国の起点(終点)は長安であった。そして、当時の日本へと伝わったのである。奈良正倉院には西方から伝わった工芸品が多数保存されていることを読者はご存知の通りである。今回はここまでにしておきましょう。

ササン朝ペルシアの台頭

アレクサンドロス大王の死後、彼の帝国は大きく分けると3つに分裂していった。プトレマイオス朝のエジプト、アンティゴノス朝のマケドニア、そしてセレウコス朝シリアであった。西ではローマが地中海世界を征服し発展していた。その当時の勢力図を山川出版社『世界史図録ヒストリア』では次のように描いている。

上段はBC270年頃でアレクサンドロスの帝国の領土を引き継いだセレウコス朝が広大な領土を有しているが、下段のBC200年頃の図ではセレウコス朝の東部にバクトリアとパルティアが勢力を拡大していることがわかる。更に、帝国書院『最新世界史図説タペストリー』の次の図ではパルティアがさらに拡大している。そして、その下の図になればササン朝ペルシアがペルティアにとって代わっている。この間の歴史の流れについては割愛するが、アケメネス朝ペルシアが滅亡したあと、再びササン朝ペルシアが台頭したのである。

西暦224年アルデシール1世がパルティア(中国名安息)を倒して首都クテシオン(現在のイラク領内)を占領し、ササン朝を建国した(226年)。ササン朝の詳しいことは次回以後に。