ノーベル平和賞がイラン人女性に!

ノーベル平和賞がモハンマディさんに授与されました。イランの民主化、女性解放のために活動している女性です。同じく平和賞を2003年に授与されたエバディさんが率いる「人権擁護センター」の副代表である。モハンマディさんは現在刑務所に収監されている。イランで「自由、命、女性」というスローガンを掲げて立ち上がった人々のリーダーである。受賞当日彼女は「この日は刑務所での最も輝かしい最高の1日だった」と家族が投稿するインスタグラムで伝えられた。
喜ばしいニュースではある。私自身もインスタグラムに「おめでとう」と投稿した。そして「これが彼女にとって良かれとなるか否や?少し心配である。」と付け加えた。私の思いはノーベル賞が授与されることによってイランの現状が変わるかという疑問である。2003年のエバディさんの受賞によってイランは変わったか?いや変わってはいない。いまも継続して活動中であるので今後変わることを期待したいのであるが、ノーベル賞によって飛躍的に事が改善するとは思えないのである。活動が勢いづいて再び政府の圧力が増すことがないように祈りたい。

断食明けとイエメン

前回の投稿は断食月の最中であったので、断食のことを書きました。そして、断食明けは盛大なお祝いの日だと書きました。今回のラマダン明けは21日ということでした。そこでタイトルに挙げたイエメンでは85人の死亡者がでるような惨事が起こったことが報道されました。イランとサウジアラビアが国交正常化に向けて歩き出した一環の流れの中でイエメンの内戦も終結に向けて動きが進んでいる中での今回の事件というか事故だったので、私はとっさに和平への動きに反発する騒動かと思ったのでした。が、そうではなかったようです。事故のあらすじは以下のようでした。

ラマダン明けのお祝いのために富裕層が一人当たり5千イエメン・リアル(約1070円)を配っていたとのこと。そこに大勢の人が殺到して建物の入り口周辺で転倒して事故になったそうである。世界で最も貧しい国の一つに挙げられるイエメンでは5千リアルというのはかなりの金額なのであろう。少なくとも死者が85人、320人以上が負傷したとのことである。ラマダン明けのお祝いがこのようなことになったのは残念である。報道ではこの配布イベントを主催した実業家3名をフーシー派が逮捕したとのことである。ここが現在のイエメンの状況なのである。本来ならイエメンの正式な政府の支配の下での警察が逮捕するのであろうが、そうではなくてフーシーが事実上の支配者であることを示している。今後、イランとサウジの和解により、イエメンでのこの状況が変わろうとしている筈であるが、そうなるであろうか・・・・注目すべきことである。

 

今、イスラム社会では断食月(ラマダン)の最中です

イスラム社会には1ヵ月に亘る断食の月があることは有名ですから、皆さんもご存知ですよね。今が丁度、その時に当たります。今年のラマダンは3月22日の夕方に始まりました。終わるのは4月21日金曜日の夕方になります。夕方というのはイスラムでは1日の始まり=終わりだからです。その間、ムスリム(イスラム教徒)は日の出前から日没までの間、飲食を断つわけです。名古屋でいうと日の出は5時半頃で、日没は6時半頃でしょうか。そうするとほぼ13時間の間飲食を断つわけです。これが夏の季節だと日の出はもっと早く、日没ももっと遅くなるわけですから、例えば4時から19時とすれば、15時間となるわけです。逆に真冬であれば、7時から17時とすれば10時間ですね。真夏と真冬では5時間位の差が出てしまいます。このように断食の月は毎年時期が違うのです。それはイスラム暦が太陰暦だからです。月は満ち欠けがあります。新月から次の新月までの間がイスラムのひと月になります。ほぼ30日間です。イスラム暦の1年は30日の月が6回、29日の月が6回で合計354日となります(閏年の時は355日)。つまり私たちの太陽暦の365日より11日少ないわけですから。毎年我々の暦でいえば前に来るわけです。来年のラマダンは今年よりも11日早く始まります。そういう理由で断食月の季節が常に一定ではないのです。

私はムスリムではありませんので断食をしたことはありません。しかし、イランに滞在中にその時期を何度も体験しました。そのころは王様の時代でしたから、脱イスラム的な方向に向いていたので、断食をやらない人もいましたし、敬虔な信者はきちんとしていました。レストランの入り口は締まっているように布や紙で覆っていても中では営業していることもありました。イラン革命後の時代には旅行中に昼食にありつけず、夕方まで空腹を我慢したこともありました。断食はやはり大変なことです。断食後に最初に摂る食事をイフタールと言いますが、最初はデーツを食べると言います。いきなり胃に沢山放り込むのではなく、胃に優しい食べ方を勧めているようです。日本でもデーツは健康に良いということでスーパーなどにも並ぶようになりました。私の近くのスーパーには「王様のデーツ」が売っています。ここに写真をアップしようと思いましたが、みんな食べてしまって残っていませんでした(残念)。東京にあるモスク(東京ジャーミ)の売店にも箱入のデーツが売っていたのでお土産に買ったことを思い出しました。

トルコのイスタンブールに立ち寄ったとき、ちょうど断食明けの日でした。人々が町に繰り出して、どこも満員で混雑状態でした。地下鉄とバスに乗ったのですが、無料でした。私の友達は断食の終りの方になると心が神経が研ぎ澄まされるような感じになると言ってました。普段当たり前のように摂っている食事がありがたいものであるとも。

ところでタイトルに断食のことをラマダンとカタカナで書きました。でもイランではラマザンと言っていたのです。ですから私はいつもラマザン、あるいはラマザーンと言っているのですが、大部分のイスラム社会ではラマダンなんですね。つまりアラビア語ではラマダンだということでした。アラビア語もペルシア語も  رمضان このように書きます。つまり文字は同じです。5文字でなっている単語なのですが、真ん中の文字 ض この文字の音訳がアラビア語では d であり、ペルシア語では z なのです。ですからイランではラマザンとなっていることが分かりました。そろそろお腹が空いてきたので食事の準備をすることにしましょう。ムスリムならあと30分ほどは食事ができないのですが。

 

 

 

想い出の中東イスラム世界:Sizdah Be-dar (سیزده‌بدر) 祝日 سیزده‌بدر

今日は3月31日です。そろそろイランではFarvardin月の13日になるでしょうか。3月21日の春分の日がイラン暦の元旦でしたから、4月の2日頃が13日になるでしょう。この日はタイトルに書いたように、シーズダアベダルという祝日になります。イスラムの行事ではありません。ペルシアの伝統的な祭事です。春が近づいた春分の日を年の初めの元旦とし、更に2週間ほど経つと草木の芽が一斉に吹きだします。このときイランの人々はお昼の食事を抱えて外に飛び出すのです。英語ではピクニックデイと訳されていたりします。この日でなくともイランの人々は外で食事をするのが大好きです。次の写真はある年の9月に通りがかった公園で写した風景です。家族そろって昼食をしている所でした。

普段でもこのように食事を広げて、楽しくひと時を過ごす姿があちこちで見られるのです。私たちが傍を通ると「ベファルマイ!(どうぞ)」と言って誘ってくれるのです。「メルシー(ありがとう)」と言って通り抜けようとすると「タアロフナコン(えんりょしないで)」と更にしつこく誘ってくれるのです。彼らはすごく社交的で開放的な人々でした。彼らは「自分たちはメフマンドゥーストなんだ」と言います。メフマンは客人のことで、ドゥーストは好きという意味。つまりお客好きの民だというわけです。そうです日本でいう「おもてなし」好きということです。

話を戻しましょう。イランの現体制は厳格なイスラムによって統治されています。イスラムにおいての祝祭日は当然イスラムに関する日に限られています。例えばラマダン明けの日というように。でも、イランは厳格なイスラム体制ですが、アケメネス朝ペルシアのようなイスラム以前の誇り高き歴史があります。その当時の宗教はゾロアスター教が有名です。先ほどの春分の日の元旦やここで紹介しているシーズダアベダルの風習はゾロアスター教に由来するものです。従って、イスラム暦の新年とは異なるノウルーズというお正月をお祝いする風習があるのです。お正月の飾りにも頭文字がSの付くハフト・シン(七つのS)を飾ったりします。ついでに言うならば「お年玉」も子供たちが楽しみにするものです。イランでは「エイディ」というのですが、日本と同じような風習です。

いま日本中が桜の花に酔いしれています。今年はコロナ以前のように花見をすることができるようになったところが増えましたね。コロナが治まって、イランの核合意が好転して制裁が緩和されたりすれば、是非ともイランを訪れたいと思います。そのためにも、ペルシア語を忘れないように勉強をしておきたいなと思うのです。

サウジアラビアとイランの国交正常化合意のその後

前回、中国の仲介によりイランとサウジアラビアが国交正常化への合意をしたことを取り上げた。私の考えはどこの国が仲介しようと和解⇒和平⇒平和になるなら歓迎であると述べた。しかしながら、イエメンの問題など難しい問題が残っているとも述べた。早速ではあるが、イエメン問題についても和解へのステップが始まったようだ。私の読みが狂ったとしても、いい方向への流れであるから歓迎である。明らかになった合意のポイントを中日新聞が共同通信によるものとして伝えている。
5項目が示されているが、イエメンに関するもの以外は大したことではない。イランの核合意の立て直しはアメリカ次第である。サウジが米に働きかけたとしても、中国の仲介によることが米の機嫌を損なっている以上、簡単ではない。イランの反政府メディア支援を停止するという項目は訳が分からない。サウジが支援していたと認めているのだろうか。もはやイランの反政府運動は若者たちの間で根強く広まっており、サウジの影響を受けているものではない。やはりこの合意で注目すべき動きはイエメンの問題であろう。具体的に終結を目指す動きがでるならば、これが一番大きな成果であろう。

 

サウジアラビアとイランの国交正常化への動き


この画像は2016年にイランとサウジアラビアが国交を断絶した当時のものである。サウジアラビアや周辺の湾岸諸国、つまり王政の国々が1979年のイラン革命の後、自国への革命の伝播を恐れ、何かとイランと対立していたのであった。評論家は中東における覇権争いであるとか、シーア派とスンニー派の対立であると論じてきた。現代ではイエメンの内戦を取り上げて、反政府派のフーシーをイランが、政府をサウジが支援し合い、事実上はイランとサウジの戦いであるとも言われている。いずれにせよ、両国の対立は根深いものがある。

今回、中国の仲介で両国が国交を正常化に戻すことに合意した。既にお互いの大使館を開くことも具体的に進んでいる。昨日はイラン側が大統領に対してサウジから招待状が届いたと発表した。サウジは公には認めていない。外相同士の会談も準備中であると報道されている。両国の接近は世界中で概ね歓迎されている。しかしながら、この和解への道が中国による仲介であることから、「中国の思惑はどこにあるのか?」と、論説するメディアもある。でもそれはどうでもいいことではないだろうか。脱化石燃料と叫ばれるようになったのは最近のことで、過去の長い間、中東は世界のエネルギーの重要な供給者であった(いまもそうではあるが、化石燃料に対する重要性は減少している)。本来なら、中東のエネルギーに依存する比率の高かった日本が中東の安定のために、中東の紛争を解決すべく積極的に動くべきだった。パレスチナ問題がその最も代表的なものであるが、フセインのイラク、シリア問題、イラン・サウジの対立などの解決にもっと関わるべきであった。何もしないできた日本が、また西側の大国も今更中国による仲介に文句を言う資格はないだろう。中東が平和になるなら誰が仲介してもいい。イラン・サウジ関係がが正常化してもそれは中東の一部の問題解決にしかならないのは分かっている。また、それすら実際にどこまで進展するかはまだまだ未知である。

話は飛ぶが、いま習近平がロシアを訪問している。ロシアとウクライナの戦争終結のために提案するとかも言っているみたいである。それに対してまた「中国の思惑は?」と世界中が言う。私は中国がどういう思惑であろうと、この戦争は一日でも早く終わらすべきだと思っている。中国がロシアに武器を提供することを西側が批判するなら、西側もウクライナに武器を供与しないで欲しい。武器製造企業は莫大な利益を挙げているのだ。彼らは戦争は終わらせたくないのである。今日、岸田総理がウクライナを電撃訪問したと昼のニュースで報じられていた。どうせ行くならロシアに行って、「戦争を止めろ」と説得してもらいたい。北朝鮮に拉致された人々を取り戻すためには、北朝鮮に行って、「彼らを返せ」と連れて帰ってもらいたい。

奈良のお水取りとペルシアの関係

 

前回(2月22日)、このブログに肩のMRI検査をすると書きましたが、その結果は「肩の腱板断裂」でした。かなりひどい断裂とのことでして、手術を勧められました。❶は切れた腱板を引っ張って肩に接合する方法ですが、腱板がかなり傷んでいるので劣化したゴムを伸ばしたら切れてしまうのと同じで、術後にまた切れる可能性が大きいとのこと。❷は人工関節を埋める方法。2014年に認可された現在最も進んだ手術方法で諸条件があるが私には適応できる方法。手術しなければ長い時間をかけて自然修復的な改善もあるが腱がきれているので腕を高く上げることができるようにはならないそうです。手術は全身麻酔で入院が1-2週間。その後1カ月は装具をつけて養生とのこと。中々大変な手術のようなので考え中ということです。来週、診察時に相談することにしています。心配してくれている読者がいるので、経過報告させていただきました。さて、めっきり春めいてきましたね。3月3日です。冒頭の画像は今朝の中日新聞に掲載された画像です。奈良東大寺のお水取りの儀式の前に若狭から御香水を送る儀式を紹介しています。このお水取りがペルシアと関係があることをご存知でしょうか。


若狭地方に春を告げる神事「お水送り」が3月2日、福井県小浜市の神宮寺近くを流れる遠敷川の河原で営まれた。古い伝説で、若狭と奈良は地下でつながっており、遠敷川に注がれた「香水」が東大寺二月堂の井戸に湧くとされる。ほら貝が響く中、白装束の僧侶が竹筒から香水を注ぐと、観光客らが幻想的な光景に見入った。(中日新聞サイトより引用)QRコードからは動画も見ることができます。

ペルシアとの関係がどこにあるのか?説明が難しいので既存のサイトの資料を引用させていただくことにします。サライのサイトからです。https://serai.jp/tour/44963

「お水取り」は旧暦2月に行なわれる、奈良に春の到来を告げる仏教行事。1年間の「悔過(けか)」、つまり罪・穢れを懺悔(ざんげ)し、洗い清め、かつ国民・国家の安泰を祈るのが目的である。二月堂本尊の十一面観音に祈願するので「修二会(しゅにえ)の十一面悔過法要」というのが正式名称である。
この行を始めたのは実忠(じっちゅう)という僧侶だ。東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正の弟子とされる。不思議な話だが、これほど大規模な仏教行事を創始した人なのに、生まれた年はもちろんのこと、亡くなった年もわかっていない。
実忠とはどんな人物だったのか--。実忠はイラン人であると唱えた学者がいる。浄土真宗の僧侶で、古代インドのサンスクリット語やイラン語の権威だった言語学者の伊藤義教(いとうぎきょう、1909~1996)である。
彼は「お水取り」のルーツが中国や朝鮮半島にまったく見られないことに疑問をもった。そこで『日本書紀』など、古代の資料を調べてみると、インドを始め中東のペルシア一帯から多くの文化人や宗教家が来日していることがわかった。例えば天平勝宝4年(752)に東大寺大仏開眼供養の導師を務めた僧侶、菩提僊那(ぼだいせんな)はインド人である。
伊藤義教は得意のイラン語を駆使して古代ペルシアの宗教を検証し、実忠という名前は古代ペルシャ語の「ジュド(異なる)」と「チフル(種族)」、つまり「異邦人」を意味し、ペルシアで栄えたゾロアスター教の教えや儀式を元にお水取りを構成したのだという大胆な説を立てた。実忠は、もしかしたら中国を経由せずに海路で日本へやってきたのかも知れない。
お水取りは2月20日から2月末まで別火(べっか)という準備期間と、3月1日から14日までの本行(ほんぎょう)からなる。この行事を担当する僧侶を練行衆(れんぎょうしゅう)という。練行衆は毎年11人が選ばれ、彼らは一旦行に入ると家族の不幸などがない限り、途中で抜け出すことはできない。
本行は昼の12時から夜中まで、6回に分けて行なわれる。基本的には同じ内容の繰り返しだが、途中ちょっと変わった特別行事がいくつも入ってくる。それがどのような意味を持つのか、じつのところ、すべてがはっきりしているわけではない。
その典型が、3月12日の深夜に始まる「お水取り」という行事である。
大きな咒師松明(しゅしたいまつ)を先頭に閼伽井屋へ向う練行衆。仏教行事というより神事といったほうがふさわしい。

大きな咒師松明(しゅしたいまつ)を先頭に、閼伽井屋へ向う練行衆。仏教行事というより神事といったほうがふさわしい。
深夜1時過ぎ、5人の練行衆が供を従え、二月堂下にある「閼伽井屋(あかいや)」という堂へ向かう。堂内には若狭井(わかさい)という井戸があり、そこから本尊の観音様にお供えする香水(こうずい)を汲み取る。闇の中での無言の行で、誰も現場を見ることができない。あまりにも神秘的な行事なので、この香水を汲み取る行がとりわけ有名になり、ついには「お水取り」が修二会全体の名称になってしまったというわけだ。閼伽井屋から汲み上げた香水を参拝者にふるまう。身体につけるとご利益があるとされる。

さて、その若狭井の香水だが、若狭国(福井県)にある遠敷(おにゅう)という所から地下を通って二月堂下の2つの穴から湧き出すとされている。なぜ若狭からなのか。古代の大陸文化の多くは日本海側から琵琶湖を経て奈良にやってきたからという説がある。しかし、先の伊藤義教によると、それは後世につけられた理由だという。そう語る伊藤が注目したのは、イランやアフガニスタンで造られている「カナート」という地下水路である。雨の少ない砂漠地帯では貴重な水を蒸発させないために、山間部から地下に直線の水路を造り、オアシスに水を供給した。若狭から東大寺までおよそ90km。もちろん、そんなに長い地下水路は存在しないが、貴重な水を遠くから運ぶことの意義がお水取りの神事に隠されていると伊藤は断言する。

中東と古代日本は、1000年以上前に太いパイプで結ばれていた。当時の人たちのほうが、現代人より世界を見る目がはるかに広かったのかもしれない。お水取りの期間中、練行衆は二月堂周辺の神社にもお参りする。神も仏も崇拝する日本的信仰といえる。文/田中昭三

ペルシアとの関係は以上の説明でお分かりでしょうか。こじつけで信憑性が疑問と思われる方も多いでしょう。でも、遠い若狭の国から地下を通って奈良にまで水を届ける物語。その由来は若狭の神様が奈良での集まりに遅刻したことを詫びて御香水を届けたとか。その周辺の物語はチムドンドンするのです。また、ここで紹介されている伊藤義教先生は私自身が学生時代に1年間講義を受けた思入れのある先生なのです。楔形文字の話などを思い出します。そして、イランのベヒストゥーンのダリウス大王の碑文(3つの言語で書かれている)には誤訳があるとおっしゃっていたことも覚えています。そんな影響を受けて私はベヒストゥーンの碑文を2011年に訪れたのでした。立ち入り禁止の地上70m以上の絶壁にあるのですが、世界遺産管理事務所と交渉して案内してもらったのでした。碑文の解読に成功したローリンソンが自分の名前を刻んでいるのを発見しました。そのことはずっと以前にこのブログに書いているのでご覧ください。

 

ペルシア語講座35:役に立つ表現「あなたが居なくて寂しかった」

久しぶりの「ペルシア語講座」です。最近は使う機会が全くありません。一番最近では10月にアラビア書道作品展の会場にいたイラン人と少し喋っただけです。その前となるといつだったかは思い出せません。フェイスブックやインスタグラムやメールなどで使うことはありますが、対面での会話は中々機会がありません。忘れないように、このコーナーを続けるようにしましょう。さて、今日の表現は次の一文です。
جای شما خالی بود
意味は、タイトルに書いているように「あなたが居なくて寂しかった」です。例えば、私が旅行に行ってきました。その後であった人との会話です、「旅行楽しかった?」と聞かれます。「うん、楽しかったよ」と答えた後に「あなたが居なくて寂しかった」と続けるような場合の表現です。文字通りの意味は「あなたの場所が空っぽだった」となります。そして「あなたが居なくて寂しかった」という文字通りの意味よりもう少し感情が入っており「あなたが居たならもっと楽しかったのに」という程度のニュアンスを持っていると思うのです。私の好きな表現だし、相手から言われた場合も嬉しくなります。「今度は一緒に行きたいね」と会話が弾みます。単語と発音を覚えましょう。

جای   ja-e  ジャーエ と読みます。جا   ジャーの次にエザフェの ی が付いています。ジャーは「場所」という意味で、エ が付くので、その後ろの単語の「場所」となります。
後ろの単語は  شما shoma  ショマー です。「あなた」といういみです。従って、ジャーエ ショマー で「あなたの場所」という意味になります。これが主語になりますね。
次の単語は  خالی khali  kハーリーです。ハのまえにkを付けたのは、日本語のハではなく、喉の奥をこするように出すハにして下さい。「空っぽ」「カラ」「空間」の意味です。これが補語ですね。
そして最後が  بود bud  ブッド です。ブッドは英語のbe動詞の過去形三人称です。英語ならwasになります。これが述語ですか。これで全部の意味がわかりました。「あなたの場所が空っぽでした」
ジャーエ ショマー kハーリー ブッド
Ja-e shoma- khali- bud

この表現は「寂しい」と思ったのは私です。しかし、私が主語になるのではなく、主語はあなたの場所でしたね。ペルシア語にはこのように私に代わって他の語句を主語にする表現が多くあります。今回の上の会話の中で「旅行は楽しかった?」という会話がありました。Did you enjoy? と表現するのではなく「旅行はあなたを楽しくした?」というような言い方です。ほかでは「私は忘れちゃった」というような場合は勿論私を主語にする表現はありますが「私の記憶(覚え)が行っちゃった(飛んじゃった)」というような表現をするのです。これについては次回にお話ししましょう。いずれにせよ、ペルシア語は表現豊かな美しい言葉です。

キャビアの想い出

 

世界三大珍味といえば、フォアグラ、トリュフ、キャビアである。長くイランに居たことがある小生にとってキャビアには懐かしい想い出がある。今日はキャビアについて書いてみよう。
キャビアはチョウザメの卵の塩漬けである。カスピ海以外ではアムール川でも採れることが知られているが、カスピ海産のキャビアが世界で一番評価が高いだろう。カスピ海産といってもロシア側のものよりイランで採れるものの方が高級?高品質と言われていた。今は日本でもチョウザメを養殖してキャビアを生産しようとしているところがある(例えば愛知県の山村)。チョウザメは成長してキャビアができるまでには10年はかかるとかである。話をイランのキャビアに戻そう。
キャビアの品質はチョウザメの種類によっても異なる。最も大きなチョウザメのベルーガ (Beluga) は体調 3m から4m、体重300kgを超えるものがある。キャビアの粒も大粒で黒より灰色に近い。産卵まで20年以上かかり、体重の15%程度のキャビアを採ることができる。体調2m程度のがオシュトラ(Astra) である。キャビアは中粒で茶色気味の黒褐色、時には金色に変化するものもあり、ゴールデンキャビアといって珍重される。私はカスピ海沿岸のラシュトの町に2年ほど滞在したことがあるが、その時に何度かお目にかかることができた。最も小さいチョウザメがセヴルーガ(Sevruga)である。体長1~1.5mで体重も25㎏以下であるため、キャビアも小粒である。色は暗灰色で黒に近い。日本でキャビアというと殆どこのキャビアであるが、他の大きなチョウザメのキャビアの味の方が数倍上である。

上の表は私が随分前にキャビアの生産量を調べた時のものである。イラン暦の年で書いているので1365年元旦=1986年3月であるから、以下、1991年、1996年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年である。ご覧の通りキャビアの生産量は年々減少している。試験場では1970年頃から養殖を行っていたが簡単ではないようだ。チョウザメの肉の量も示されているが、1379年からはキャビもその数値に含まれている。ちなみにチョウザメの肉の味は淡白で嫌みのない美味しいものであった。塩味で炙る(キャバーブ)エスタージョンキャバーブをホテルのレストランで何度も食べた。いつも醤油を持って行ってちょっと付けるととても美味しかった。チョウザメのことをペルシア語ではماهیان خاویاریという。キャビアの魚という意味である。英語はSturgeonである。ホテルのボーイは「エスタージョンキャバーブ」と大きな声で私たちに勧めてくれたものだった。

私の勤めていた会社の社長は日本からイランに来るときにはいつも高級なマグロの塊?山?を沢山買い占めて持参してきた。それを大使館やら商社の支店長など、現地の有力者たちへのお土産にしたのだ。そして日本に帰るときにはキャビアを買い占めて日本へのお土産にしたのだった。私がテヘランにいるときはキャビアを買いに行くのが私の役目になっていた。キャビアは専売品なので専売公社のオフィスへ買いにいった。一度に沢山は売ってくれないから苦労したものである。ある程度通って顔なじみにもなってきたので苦労はなくなったが、その都度、手土産を持参したものである。彼らが一番喜んだのは日本や外国の少しセクシーな写真の多い雑誌類であった。

キャビアの産地であるラシュトに住んでいるときに、キャビアを買いに行く役目はなかったが、自分のために買う機会が増えた。売りに来るのである。専売品なので横流しの物なのかもしれないが、日本人なら買ってくれると思って家に来るのである。しかもそれがゴールデンキャビアなのである。ゴールデンキャビアは市場には出ていないので最高の珍味であるが、味は特にうまいわけではない。キャビアだって好きでないという人は沢山いる。私は酒の肴にして食べたが美味かった。何しろ日本に比べて格安なのだからガバッと食べることができた。若かったから飲んだ後、ちょっとご飯を食べるが、ご飯の上にキャビアをドンとのせて掻き込むのである。最高の贅沢であった。ケチ臭くチビリチビリ日にちをかけて食べているうちに、傷んでいることに気づかず酷い目に遭った日本人を医者に連れて行ったこともある。キャビアで当たると怖いのである。

冒頭の画像はアマゾンで販売しているキャビアの一部である。もう長い間、キャビアを食べたことがない。

ペルシア語通訳の想い出:大臣の通訳から犯罪者の通訳まで

春爛漫の季節になりましたね。桜は満開です。上の写真は家のすぐそばの公園の桜です。遠くに行かなくてもこんな奇麗な桜が見ることができることは嬉しいことです。2枚目は我が家の庭のアーモンドの木の花です。桜より10日ほど早く満開になって、花の期間も桜よりは長いのがアーモンドの良いところです。花は桜に似ています。そのアーモンドに写っている小鳥はシジュウカラのの雌です。軒下に掛けておいた巣箱にせっせと苔を運び入れているのです。ここ2~3日は巣作りの仕上げとして犬の白い毛を集めて運び込んでいます。もうすぐ産卵、そして可愛いヒナが現れることでしょう。

このブログに中東・イスラム関係以外のことを書いたことはありませんが、この春の陽気につられて、たまには日常のことに触れることがあってもいいかなと思いました。これからも季節に合わせて、私生活の記事も書いていくかも知れません。その方が人間らしくて良いような気がします。

さて、今日から4月です。この年になると新年度だと言っても何も変わることはありません。孫たちの新学期や入学の季節程度です。一昨日、ある筋からペルシア語の通訳についての問い合わせがありました。今回はお断りしたのですが、ペルシア語の通訳という想い出について今日は書かせていただきましょう。

私のペルシア語は外国語大学の4年間が基礎になっています。企業に就職し、海外要員(といっても勿論ペルシア語の現場イランですが)育成のために2年間の期間がありました。イランの砂漠を緑にするという水資源開発計画に関わる会社だったのです。技術中心の会社です。ですから、私自身も名古屋大学の工学部の授業を受けに行かされたりしました。例えば土木計画学、土木施工学、建設機械学、などなどです。本職はコーディネーターですから、技術は関係ないのですが、やはり少しぐらい技術者たちのやっていることを知っておくようにとの会社の方針ですが。イランで革命が起こる前の8年ほど駐在していましたので、その間にペルシア語は鍛えられました。そこで通訳の想い出です。

このブログの中にも「幻のイラン新幹線」という記事を書いていますが、このプロジェクトのために日本の当時の国鉄の錚々たるメンバーがイラン入りして現地調査をしました。私はずっと同行してフォローしました。調査そのものが楽しいものでした。専用の特別車両を使って在来線を何日もかけて辿ったのです。食事はシェフが乗り込んでいてダイニング車両で食べるのです。途中の町ではライオンズクラブのメンバーがランチ会に招待してくれたりするわけです。すべて私が通訳しなければなりません。会議室の車両ではイラン国鉄の技術者と日本の技術者とのやり取りがあり、ずっと通訳しました。フィージビリティスタディが終わり、マスタープランが作成されて、分厚い報告書が完成しました。日本から当時の国鉄副技師長が報告書を持参して、深夜のメフラバード飛行場に着きました。そして、その日の午後に運輸大臣にプレゼンテーションする計画でした。私は当然、大使館の方が通訳すると思っていたのですが、副技師長が私にやってくれて言われたのです。調査中、ずっと一緒にやって来たので彼は私を信頼してくれていたのです。嬉しかったですが、大変な通訳でした。今から考えると、よくできたもんだと思うのです。この会議はその後もありました。

とにかく日本から誰かが来ると、駆り出されることが多かったです。有名な作家、有名な写真家、芸能人、有名な考古学者、ODAのメンバーなどなどは通訳というより、同行して案内してあげるというようなことでした。

さて、日本に帰ってからですが、日本では殆どペルシア語の需要はありませんでした。いまでも余りないでしょう。でも何処で調べて来るのでしょうか。弁護士さんから電話がかかりまして、留置所のイラン人との通訳を頼まれるようになったのです。昼間は会社勤務があるので、その後の7時ごろの夜でした。かなりの回数出かけました。一度引き受けると、ほかの弁護士さんからも依頼がありました。余談ですが容疑者の言うことを信じて、それを証明しようとして一生懸命事実関係を調べる弁護士さんがいました。また別のケースでは、事実関係はどうでもいいから、罪を認めなさいと、容疑者にいう弁護士もいました。彼が言うには、早く罪を認めた方が、結局は自分のためには一番良いんだということでしが。この弁護士さんは腕利きのように思ったものです。色々勉強させてもらいました。その後、裁判での通訳も依頼されたのですが、昼間の勤務を口実にお断りして、日本語の達者なイラン人を紹介して、その方が引き受けてくれました。でもそのうちに、自分の国の人の裁判には関わりたくない。悲しくなるということで、辞めることにしました。

長々と書いてしまいましたが、そんなことがあったのだと振り返ってみました。今私の実力は非常に落ちています。語彙もどんどん忘れているでしょう。ただ、今はペルシア語の詩を読むのが楽しみです。詩は少し難しいですが、理解して、それをアラビア書道(ペルシア書道)の作品にするのがライフワークになっています。私の作品はこのブログに何度か紹介している通りです。そういえば春分の日はイランのノウルーズ(新年)でした。今が一番美しい季節です。そして、元旦から13日目の日はsizdah bedarといってお弁当を持って外に出かけるピクニックデーなのです。そのような場所を通りかかると、ベファルマイ、ベファルマイと言って無理やりごちそうしようとするのです。メフマンドゥースト=おもてなしの国なのです。