イスラエル軍、ガザ空爆:前回の追記

前回、日本のメディアは報道しないと書いたが、7日の中日新聞朝刊には次の記事がでていたので、紹介しておきます。空爆で炎が上がっている画像は前回のものと同じのようだ。

イスラエル軍、ガザ空爆:2022年8月6日共同通信発

昨日、ガザ地区に関する記事を書きましたが、今現在のガザのニュースが入ってきています。日本のテレビでは何も報道していません。BSのNHKではカタールのアルジャジーラの局がこのことを報じていました。インターネットで共同通信社のサイトから紹介しましょう。2022/8/6 09:45 (JST)の発信です。

【カイロ共同】イスラエル軍は5日、パレスチナ自治区ガザで、過激派「イスラム聖戦」を標的に攻撃を実施したと発表した。ガザ保健当局によると、空爆により5歳の女児を含む10人が死亡、75人が負傷した。イスラム聖戦は司令官が死亡したと明らかにし、反撃すると表明。ガザからイスラエルに多数のロケット弾が発射された。イスラエル軍は対空防衛システム「アイアンドーム」で撃墜するなどし、イスラエル側の人的被害は伝えられていない。大規模な戦闘に発展することが懸念される。イスラエル軍が1日、占領するヨルダン川西岸北部ジェニンでイスラム聖戦幹部を拘束し、緊張が高まっていた。
日本の新聞では記事になっていないが、世界中で緊張が高まっている毎日です。

パレスチナ問題の復習❸:ユダヤ人のガザからの撤退(2005年8月)

ウィキペディアから拝借

ユダヤ人のガザからの撤退(2005年8月)
前回の記述のとおり、1967年の第三次中東戦争で勝利したイスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区を占領した。イスラエルは占領した地区をイスラエル領とするための既成事実化を進めようとして、1970年にガザに最初の入植地を積極的に建設し国民を入植させた。2005年時点で、ガザの25%を占める地区にある21の入植地に約8千人が居住するようになっていた。ガザの残り75%には130万から140万人のパレスチナ人が劣悪な環境で住んでいた。両者間ではつねに戦いが止むことなく、イスラエル政府はこの8千人の国民を保護するために多額の費用を支払っていたのである。2005年8月15日、イスラエルはガザ地区の入植者に撤退を命じ、入植地の撤去作業を始めた。入植地ではユダヤ教の教会であるシナゴーグに篭っている入植者をイスラエル軍兵士らが引きずり出して連行する様子がテレビニュースで報道された。焼身自殺をはかった女性がいたことも新聞は報道した。入植者たちはこぞって、かつては入植政策を推し進めながら、ガザ撤退を命じたシャロン首相を批判した。撤退後の入植跡地は更地に整備してパレスチナ側に引き渡されることになっていた。
このガザ撤退に至る推移を当時の日本経済新聞の記事で箇条書きにすると次の通りである。
2003年
12月 シャロン・イスラエル首相が一部入植地の撤収方針を表明

2004年
2月 首相、ガザ全入植地の撤収を表明

月 与党リクードの投票で計画否決
   イスラエル軍がガザ南部侵攻、60人以上死亡
9~10月 イスラエル軍がガザ北部侵攻、80人以上死亡
10月 イスラエル国会で計画を承認
11月 アラファト・パレスチナ自治政府議長死去
2005年
1月 自治政府議長にアッバス就任
2月 イスラエル・パレスチナ首脳会談、相互停戦を宣言
5月 計画実行を7月から8月に延期
8月15日 ガザ入植者に撤収命令
8月17日 強制撤去開始へ
12月 シャロン首相倒れるが大事に至らず退院する
この撤去がイスラエル側でもすんなりと決まったものでないことがわかるであろう。占領地の入植者はヨルダン川西岸にも20余万人おり、そちらの入植者の数が圧倒的に多い。パレスチナ側はガザの次はヨルダン川西岸の撤去も当然と要求する。イスラエル側は和平へのひとつの道筋としながらも、ガザの撤去で譲歩してヨルダン川西岸の入植地を維持したいという思惑も抱いていたのであろう。ユダヤ人居住区の周りには防護壁が次々と建設されていた。パレスチナ人にとってもガザにはさしたる産業があるわけでなく、商業都市として機能するには治安の回復と安定が不可欠である。イスラム原理主義組織ハマスは武装解除に応じずに和平への道は見えていなかった。

 

パレスチナ問題の復習❷:イスラエル建国と中東戦争

イスラエル建国と中東戦争
 イギリス軍の撤退を前にユダヤ側とアラブ側との間で土地の奪い合いが拡大していった。1948年5月14日にイギリス軍の撤退が完了したが、その日に、ユダヤ側はベングリオン(初代首相に就任)がイスラエルの建国を宣言した。アラブ側(レバノン、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク)は、即戦闘態勢にはいり第一次中東戦争が始まった。この戦争はイスラエルが勝利しパレスチナ全土の75%を支配下に置いた。アラブ側が大幅に国土を失った(前回の図1-B参照)が、エルサレムは東西に分割され東の旧市街はかろうじてヨルダン軍が確保した。イスラエルの支配下に陥った土地のアラブ人たち約75万人がヨルダン川西岸、ガザあるいは周辺のレバノン、シリア、ヨルダンなどに流出し難民となっていった。

 中東戦争はその後も第二次、第三次、第四次と繰り返すことになる。第二次中東戦争はスエズ運河の国有化に端を発した。アメリカからアスワン・ハイダムの建設資金援助の中止を宣言されたエジプト大統領ナセルはダムの建設資金を調達するために1956年にスエズ運河の国有化を宣言した。イギリスとフランスは先ずイスラエル軍をシナイ半島に侵入させておき、エジプトとイスラエル間の戦争からスエズ運河を守るという口実でポートサイドに上陸し、運河地帯を占領した。しかしながら、アメリカとソ連がイスラエル、イギリス、フランスに撤退を迫り、撤退を余儀なくさせられた。これ以後、中東地域の国々に影響力を行使できるように米ソが互いに競い合うことになり、両国は中東政策を強化していった。一方、エジプトのナセル大統領は1958年にエジプトとシリアでアラブ連合共和国を結成したのである。
 第三次中東戦争は別名を「六日間戦争」という。1967年、エジプト軍がアカバ湾を封鎖した。アカバ湾を封鎖するということはイスラエルの紅海への出口を塞ぐということである。イスラエルは戦線布告とみなし、エジプト、ヨルダン、シリアを攻撃し、この戦争は六日間で終止符を打った。イスラエルの圧勝であった。この戦争に至る期間にはシリアがイスラエルの水源であるガリラヤ湖の水を断つというような戦術も展開された。アラブ側にもエジプトとヨルダン関係の亀裂など複雑な様相が多く噴出していた期間である。第三次中東戦争により、イスラエルはスエズ運河までのシナイ半島、ヨルダン川西岸のパレスチナ、それにシリアのゴラン高原をも支配下に置いたのである。イスラエルは占領地にユダヤ人を入植させていった。この入植政策を積極的に推進したのが、その後首相にもなったシャロンであった。ユダヤ人にとってパレスチナの地は神から与えられた「約束の地」であり、そこに帰ることは入植者にとって当然のことだとの想いであった。
 第四次中東戦争は1973年10月6日に始まった。ユダヤ教徒にとっての最大の祝日であるヨムキプルの日にエジプト軍がスエズ運河を越えて奇襲をかけた。奇襲にあわてたイスラエル軍ではあったが、イスラエル軍の逆襲が成功し、イスラエル軍が有利な状況で小康状態に入った。その後は、エジプト大統領サダトがアメリカに仲介を委ね、キッシンジャー長官が東奔西走し停戦に至った。停戦交渉によりエジプトはシナイ半島を取り戻した。しかし、シリアはゴラン高原の奪回に成功することなく終わったため、アサド大統領はこれ以後サダトを裏切り者として恨んだ。さらに、1977年11月にはサダトがエルサレムを訪問した。1978年9月、サダト大統領とイスラエルのベギン首相が米国カーター大統領のキャンプデービッドの山荘で会談した結果、合意文書が調印された。この第四次中東戦争ではアラブ側がイスラエル寄りの国々に対して石油禁輸措置を発動したため、第一次石油危機が生じた。原油価格が約4倍に高騰し、先進国では省エネルギー対策に真剣に取組み始めることとなる。
 パレスチナ問題の歴史的な経緯を簡単に述べてきたが、最も重要なことは、そこに生きている人々のこと、いわゆるパレスチナ難民問題である。パレスチナ難民とは1948年にイスラエルが建国したことにより住んでいた土地を追われ、周辺地域に逃れた人と、その子孫のことである。当初、75万人程度であった難民に子孫が増えた。ヨルダン、シリア、レバノン、ヨルダン川西岸、ガザ地区に流出した難民の悲惨な生活が始まったのである。国連パレスチナ難民救済機関(UNPWA)が発表した2005年3月31日の難民数は425万人であった。今は2022年であるから、2005年からは既に17年も経過している。果たして難民の数はどのくらいになっていると思いますか?答えは冒頭の画像が示す通りです。2021年時点の難民数は約640万人であります。当初の75万人時代に適切な措置をしていたならここまで膨れ上がることはなかったことでしょう。そして、この数は今後も増え続けることになるのでしょう。戦争は一過性のものではないのです。その余波は未来永劫に続くということです。ウクライナからの難民が同じような道をたどらないことを祈るばかりです。