アフガニスタンの民話:ムルグイとミロス

こんにちは。肩の調子は相変わらずですが、急に春めいて毎日20度以上の天気が続いています。このように暖かいと気持ちも晴れるような気がします。今日は2週間ぶりに整形外科に行ってきました。自分では手術の覚悟をしたので具体的に相談してきました。結論は私が選んだ人工関節の手術は今すぐ出来るのではなく、もう少し経過観察の後でないとできないということです。そういうガイドラインがあるそうです。それまで自然治癒的な回復をチェックすることになりました。もう既に二カ月経過するので、もう少し様子見です。今すぐに手術ということにはならなくて実はホッとしています。

それはそれとして、少し前にアフガニスタンのことを書きました。読んで下さった読者の方からメールを頂きました。「長い間探していたムルグイとミロスの本が手に入った」ということでした。私は、この本のことを知りませんでしたが、アフガニスタンの作品は珍しいので読みたいと思って調べてみました。そしてネット経由で古書店から入手することができました。次の画像がその表紙です。

「アフガニスタン民話集」です。この中に30の短編が掲載されていて、最初の作品が「ムルグイとミロス」でした。早速読んでみました。一人の青年の話ですが、結婚をして子供もいるけど、色々ややこしい経過の後で、村を出て、そこで出会った女性に恋い焦がれ、ややこしい経緯を経て、皆死んでいくというような物語でした。

私の関心を惹いたのは❶ラザル族という単語。注を見るとパシュトゥン族の一部、ユスフザイ族グループに属する。とあったことです。パシュトゥン族とは現在のアフガニスタンでも中心部族です。作品に部族の名前が出て来るところが、アフガニスタンが部族中心の社会であることが分かります。❷ところどころに「イスラム」が出て来ることです。例えば「おじのタウス・ハンがコーランを片手に立ち上がった」とか、「こうなるのがきっと神のみ心なのでしょう」とか「アラーの神は偉大なるかな」という語句もありました。
アフガニスタンの民話ですから、当然のことなのですが、これらのことから「確かにアフガニスタンの民話」だと、アフガニスタンらしいものだと感じたのです。

他にもまだ29の民話があるので、もう少し読んでから感想を述べようと思います。短いものは次の画像のようにわずか1頁の物もありました。

「シルクロード文庫」開設へ

1月3日付の中日新聞は上の記事を掲載していた。昨年亡くなった前田耕作和光大学名誉教授の遺志に基づいて「シルクロード文庫」という図書館を作るということである。新聞によると、前田先生はユネスコのアフガニスタン文化遺産保護国際調整委員などを歴任。自ら設立した「アフガニスタン文化研究所」の所長を務めた。2001年にタリバン政権が大仏とともに破壊した仏教画の修復に関わり、21年のタリバンの復興後は各国の専門家とともに現地の文化財の保護に努めた。図書館は今年の3月に開館するが、前田さんたち研究者が集めた貴重な本1万数千冊を収蔵するという。

丁度いまこのブログでアフガニスタンを扱い始めたところであったので、まさにタイムリーな記事だと思い、そのことをここに紹介した。多民族が交差したシルクロードの平和な交流の歴史が、紛争に明け暮れる今の世界に蘇ることを祈りたいものである。

実は私自身不勉強で前述の経歴の前田耕作先生のことは知らなかった。しかし、どこかで聞いたことがある名前だなと思い書棚をみていたら、次の文庫本が見つかったのである。
書名は「宗祖ゾロアスター」である。著者前田耕作とある。2003年発行であるから、ちょうど20年前の発行である。文庫本になる前に単行本ででたのが1997年なので、25年前の著作ということになる。私はペルシアに関する研究者なのでゾロアスターは当然専門領域なのでこの書も所有していたのである。ゾロアスター教やゾロアスターという人物に関する研究書は少ないので前田先生の功績は大なのである。人との繋がりがというものは意外と多いということを感じた正月だった。

アフガニスタンとラピスラズリ(続き)

 

昨日(前回)、ヒンドゥークシュで採れるものとはいったい何でしょうか、という所で終わったのでしたね。でも、後から気が付きました。タイトルが「アフガニスタンとラピスラズリ」となっていました。答えはラピスラズリということでした。ということで今回も更に適宜抜粋し編集しながら引用を続けます。

ツタンカーメンは、今から3300年余り前の紀元前14世紀頃、古代エジプト王、ファラオとして短い生涯を送った。彼の墓が1922年に見つかり、そこの埋葬品の「黄金のマスク」の目の部分に、ラピスラズリがはめ込まれていたのである。その周辺で見つかった140個ほどのスカラベという昆虫の彫り物は全てラピスラズリであったという。エジプトでラピスラズリが使われていたということは当時も発見された当時も重要視されるような特別なことではなかったという。だが、それらのラピスラズリはアフガンのヒンドゥークシュで採掘されて運ばれたものであるという点が、このブログでは重要な点なのである。

一方、日本との関係はどうなるのだろうか。六世紀に日本に伝えられた仏教では、宇宙には東西南北に四つの「仏の世界」、いわゆる「仏国土」が存在するとの考えから東に薬師如来、西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒菩薩が存在するとした。その中の一つ薬師如来は東方浄土を治めるだけでなく、現世で苦しむ人々を助ける力を持つとされ、これが「薬師」という名前の由来である。この薬師如来の正式な名前は「薬師瑠璃光如来」というのである。瑠璃というのはラピスラズリの日本語訳である。なぜ瑠璃という言葉が薬師如来につけられたのだろうか。かの著者は3つの説明しているが、その三つ目の説明とは「仏教徒が瑠璃の粉末を薬や顔料として珍重していた点である。実際、瑠璃に含まれる成分が精神の安定をはかるとして、中世ヨーロッパでも使用されてきた。薬師如来は、まさに医師であり、薬剤師であり、心の闇を取り払うカウンセラーでもあった。・・・・・インドへの旅を成し遂げて多くの仏典を持ち帰った玄奘三蔵が翻訳した経典に「薬師瑠璃光如来本願功徳教」があった。・・・アフガンに誕生した瑠璃は、経典の名前だけでなく、いくつかの経文の一節にも使われ、六世紀以後次々と日本に渡ってきた。これまで仏教の伝来といえば、インド、中国、日本の関係だけが注目されてきた。その中にアフガンを加える人は少数である。しかし、薬師如来像を眺める時、私たちは瑠璃の光が放ち続けて来た「アフガンの存在」を忘れてはならないだろう。

ということで、アフガニスタンはかつては西のエジプトへ、あるいは東の日本に影響を与えた一拠点であったということである。ラピスラズリという貴重な石(貴石)、日本では七宝に一つに数えられる貴い石として珍重に取り扱われたラピスラズリがアフガンからの到来物であったのである。瑠璃の美しい青さ、サファイアだと思われていたものが実はラピスラズリであったという話なども聞く。私はバードウォッチャーであるが、美しい鳥にも瑠璃が付いているものが多い。例えばオオルリ、ルリビタキ、ルリカケス等々である。冒頭の写真は私が写したルリビタキである。今日はこの辺で終わりにしましょう。

 

 

アフガニスタンとラピスラズリ

前回、引用させていただいた『アフガニスタン・戦乱の現代史』には私の関心を引き付けた部分がある。その部分を今回も引用させていただこう。

文化の伝達といえば、ギリシャのヘレニズム文化が、インド、中国を経由して日本に伝わった事実はよく知られている。この場合、ギリシャは情報の発信地であり、日本は最終的な情報の受信地であった。つまりアフガンは中継地にしか過ぎなかったということになる。しかし、これから紹介する例は、アフガンがまさに情報の発信地であり、エジプトと日本がともに最終的な受信地であったことを示している。アフガンからエジプトに伝わったのは「ツタンカーメン王」に関する事象であり、日本に伝わったのは「薬師如来」に関する事象であった。それはアフガンの大自然が、人類の歴史をはるかに超える長い年月をかけて、ヒンドゥークシュの山岳に醸成した珍しい物質であった。では、アフガンが発信したものとは、いったい何だったのか。

以上が、引用部分である。さて、皆さんはその物質とは何だとお思いですか?今日は元旦ですので、これまでにしておきましょう。次回の新規投稿までに物質が何か考えておいて下さいね。

アフガニスタンについて

中村哲さんがアフガニスタンで殺害されてから、3年が経過した先日にはメディアが彼の亡き後の現地を取材して放映していた。そこでは中村さんの遺志を継いだ人々が治水工事に取り組んでいる姿があった。中村さんは医師であった。現地の人々を病から救うために赴任したのであったが、病に対する対処以前に彼らの生活基盤を整えることが必要だと感じ、安定して農作物を手に入れることができるように、灌漑施設の工事などに取り組んだのであった。
私は1971年に初めてイランに駐在員として赴いた。水資源開発コンサルタンツ会社の一員としてであった。社の仕事はイラン政府との契約業務でイランの水資源開発計画を推進することであった。従って、イランの首都テヘランの事務所には日本からの技術者が沢山駐在していた。イランの計画を推進する一方で、アフガニスタンでの水資源開発計画の可能性も探っていた。そして、何人かのスタッフがプロジェクトファインディングという名目でアフガニスタンを行き来していたのであった。その現場はジャララバードだった。
カーブルの東方にジャララバードが在る。北にはヒンドゥークシュ山脈があるので、この山脈から流れて来る水を利用しようとした。ヒンドゥークシュとはヒンドゥーがインド(人)、クシュの元は殺すという動詞コシュタンであるから、インド人殺しの山脈ということ。つまり、非常に険しい山脈ということだろう。当時、現地の人々は剣や鉄砲を手にしていたので怖かったという話も聞いた。治安が良くなくて開発計画を進めるような状況ではなかったということだ。もし、我々が思っていたような開発ができていたなら、中村さんのような不幸な事件も起こらなかったかもしれない。アフガニスタンはその後ソ連の侵攻などもあり、虐げられた歴史を辿ってきた。私がこのブログで扱う中東地域とは少し外れるのであるが、今後、少し、アフガニスタンの歴史について紹介してみようかと思っている。