ペルシャ語講座33:有用?な単語・・چشم chashm/cheshm 目/眼

いろいろな色の目のイラスト(黒)

今回はペルシャ語講座ですが、一つの単語を紹介しましょう。それはタイトルのチャシュム、チェシュムです。目という意味です。辞書を引くと名詞・①目、眼 ②邪視、凶視 とあります。その次に間投詞として「喜んで」「承知しました」と記されています。私が紹介したかったのは、この部分です。わざわざ紹介しなくとも、現地へ行ったならば直ぐに分かることなのですが、最初は「へえ!」と思ったものです。でも便利な言葉です。例えば、使用人に「どこどこに行って、何々を買ってきてください」と言うと、彼は軽く手のひらを胸に当てて「チャッシュ!」と言うのです。私は「かしこまりました」という意味だと解釈しました。そして、私には「チャッシュ」と聞こえましたので、それが目の意味の「チャシュム」だとは、しばらくの間、気が付きませんでした。目の意味だと気づいたときに、「言葉って面白いなあ」と感じたものでした。

いろいろな色の目のイラスト(黒)

ついでにチャシュムを使った表現を辞書からピックアップしておきましょう。
چشم شما روشن  chashme shoma roushan おめでとう!

چشم و چراغ chashm va cheraq 最愛の人
چشمانداز chashm andaaz 展望、見通し、
چشمبند cheshm-band 手品師、奇術師
چشم پوشی cheshm-pushi 黙認、見逃し
چشمچرانی cheshm-charan 色目を使う
چشم روشنی cheshm-roushani 贈り物、お祝いの贈り物
چشمگیر cheshm-gir 目立った、顕著な

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サウジアラビアとワッハーブ派

前回はタリバンを取り上げた.。タリバンは厳格なイスラムなどと評されるわけであるが、前回述べたように、私は決して正統派の厳格なイスラムであるとは思わない。本来のイスラム精神を厳格に守るという意味ならば、代表的なのはサウジアラビアであろう。今回はサウジアラビアのイスラム=ワッハーブ派について少しだけ紹介する。

サウジアラビアではイスラム・ワッハーブ派が国教である。ワッハーブ派とはどういうものか、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』では以下のように説明している。

アブド・ル・ワッハーブ(1703~87)が18世紀なかばに創始した。『クルアーン』とスンナに帰れとする純粋主義の運動。極端に復古主義的なかたちでイスラームの純化を主張するスンニー派ムスリムの運動で、彼らは自らをムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。法学上はハンバリー派に属し、この派の神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を強く受けた。ヒジュラ暦三世紀以降にもち込まれた一切のビドア(新風・新説)を排除し、正統四法学派の権威と、正統六ハディースのみを認める。スーフィズムを厳しく糾弾し、聖者崇拝や聖者廟詣でを禁じた。信徒には徹底したピューリタン的生活態度が要求される。18世紀後半この運動は、ナジュドのイブン・サウード家の勢力と結びつきアラビア半島に拡大した。ワッハーブの死後、サウード家の長が教主の地位を継承し、政教両権の保持者となる。

サウード家の正確な出自はよく分かっていないが、15世紀頃サウジアラビア東部のオアシスからリヤドの北ワディ・ハニーファのダルイーヤに移り定住したという。1720年より少し前にサウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムグリンの記録がある。その息子のサウード・イブン・ムハンマドが通常サウード家の始祖とされている。といってもそれはアラビア半島に数多くいた部族の一人の長であったにすぎない。それが、のちにサウジアラビアを統一するほどの権力者になることができたのは、ワッハーブとの同盟であったのだ。

アラビア半島に数多くの部族があった中で、有力だったのがラシード家であった。文芸新書・岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』によれば、ラシード家というのは、リヤドの北西シャンマル山地のシャンマル諸支族を支持基盤とするベドウィーンである。1870年代にはオスマン帝国と同盟し、補助金や武器の供給を受け、1884年には半島中心部のカスィーム地区を支配下に収めていた。ナジドの諸部族は、当時兄弟同士の内輪もめを続けていたサウード家に愛想を尽かし、日の出の勢いだったラシード家に傾いていた。その結果、サウード家は衰退したのであるが、その後、クウェートの有力部族サバーハ家がサウード家の一族を保護支援した。サウード家はここで一息つくことができた。

20世紀に入り、ラシード家がオスマン帝国とドイツと関係を強化し、クウェートへ食指を動かす。一方で、イギリスはクウェートとともにサウジアラビアへ勢力を拡大しようとする。サウード家のアブドゥルアジーズはこの時21歳であり、クウェートで保護されていた。そして、1902年1月15日にリヤド城を奇襲し攻略した。その後、アラビア全土を支配下に収める戦闘を続け、1924年にヒジャーズ地方を攻め、メッカを抑え、続いてジェッダとメディナも支配下に入れた。アブドゥルアジーズがヒジャーズ地方を制圧できたのはワッハーブ派の協力によるところが大きかった。つまり、ワッハーブ派とサウード家はお互いに協力し合って勢力を拡大することができたのである。

サウジアラビアはワッハーブ派の国である。我々の世界での政教分離などという考え方は通用しないのである。

 

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アフガニスタンのタリバンについて

アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。

「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。

「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。

次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。

  • 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
  • 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
  • 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
  • 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
  • 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
  • 1973年ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
  • 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
  • 1979年ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。

アフガニスタン内戦

1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻

1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。

代表的な反政府組織:

ラッバーニ率いるタジク人主体の                                   イスラム協会

ドスタム率いるウズベク人主体の                                  イスラム民族運動

ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の          イスラム党

ハザラ人主体のシーア派勢力                                        イスラム統一党

これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定

1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。

長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。

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ペルシャ語講座32:名詞の複数形

前にも触れたことがありますが、名詞の複数形について再度まとめてみます。
名詞の単数形語尾に ها ha を付けるのが基本です。鉛筆なら مداد  مدادها となります。簡単ですね。英語の複数形でsを付けるのと同様です。

もし、名詞の示すものが人間の場合、単数形語尾に ان an を付けることもあります。例えば、婦人=zan زن の場合に、zanan زنان となります。先ほどのように ha を付けても間違いではありません。
単数名詞の最後の文字がアレフの場合、an の前に yをいれて yan となります。

例えば、乞食 gada گدا は gadayan گدایان となります。
同じように最後の文字が u و の場合も yan を付けることになります。例えば、誠実な人=rastgu رستگو —- رستگویان rastguyan となります。
名詞の最後が h ه で終わる場合、an の前にg が付くこともあります。例えば、子供=bacche بچه  は bacchegan بچهگان となります。これもバッチェのあとに続けて書かずにバッチェ・ハーという人もいますし、例えば窓はパンジャレhと最後がhで終わりますが、普通はパンジャレハーというでしょう。

一応の基本的なルールがあるけど、例外もあるわけです。でもその例外も基本形を使う限りにおいては許容されるという感じですね。完全に形を変える複数形もありますが、それらはまた改めて紹介しましょう。

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イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

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イスラムの美 ①:タイル

2021年も早や9月になりましたね。コロナは一向に静まる気配がありません。本来ならば行楽の秋、芸術の秋ということで何処も賑わいを増す季節になるのでしょうが、今年はそうもいかないようです。せめて、ここではイスラムの美を楽しむことにしましょう。今回はタイルです。イスラム世界を旅するとモスクの美しさに強烈な印象を覚えるのではないでしょうか。勿論絢爛豪華なモスクばかりではありませんが、豪華でないモスクでもそれなりの美しさを感じるような気がします。

モスクを美しいと感じるとき、それは色彩からかもしれません。あるいは花や唐草をあしらった模様、いわゆるアラベスク模様かもしれません。私たちのアラビア書道の仲間には、モスクを見た時の文字の美しさに魅せられてアラビア書道を始めたという方が大勢おられます。色彩であれ、模様であれ、文字であれ、それらはモスクの外壁を覆っているタイルの美しさなのです。今回はヴィクトリア・アンド・アルバート美術館発行の「Palace and Mosque – Islamic art from the Victoria and Albert Museum 」の中のタイルを紹介させていただきます。つまり、これらはこの美術館に所蔵されているものです。

メッカ・カーバ神殿図解のタイルである。トルコ、おそらくイズニクでの17世紀の作であろう。縦が61センチ。

押型ラスター彩青釉文字唐草文小型ミフラーブ。イランおそらくカーシャーン、14世紀初期。高さ62センチ。

ラスター彩草花文十字・星形タイル。イランおそらくカーシャーン。1261ー62年の年代銘記。

ラスター彩釉文字文方形タイル。イランおそらくカーシャーン。1307ー08年頃。高さ35.8センチ。

白地多彩花文組タイル。トルコおそらくイズニク。17世紀。高さ188.6センチ。

白地多彩野宴図組タイル。イラン、エスファハーン。17世紀。幅221.5センチ。

白地多彩文字タイル。トルコ。1727年。主調となるのは書道文字装飾で、神の名、預言者ムハンマド、さらにアブー・バクル、ウマル、ウスマーン及びアリーの最初の歴代カリフ4名の名が様式化されてあしらわれている。この組み合わせはシーア派がアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの正統性を拒絶していることから、スンナ派イスラムへの帰依を表す。高さ29センチ。

押型ラスター彩青釉タイル。バフラーム・グール図。イラン、タフト・イ・スレイマーン。13世紀末。高さ31.5センチ。

白地多彩チンターマニ(変形宝珠)文タイル貼暖炉。トルコおそらくイスタンブル。1731年。高さ365センチ。

それぞれの画像には詳しい説明もあるのですが、ここではこれらのタイルの美しさを楽しんでいただければと思います。

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