新シリーズ「オスマン帝国」:⑦オスマン帝国の重要事項(重要語句)

1月12日には「1444年:メフメト2世(征服者)在位1444年~46が即位して、1453年にコンスタンティノープルを攻略した」ところで終わった。今回はオスマン帝国に関する重要事項を整理してみようと思う。

デヴシルメ:
オスマン帝国拡大の原動力となった一つがデヴシルメである。支配下にあったキリスト教徒(アルバニア、ギリシア、ブルガリア、セルビア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、ハンガリーなど、つまりバルカン半島の非ムスリムの諸宗教団体の教徒の少年を対象とした制度であった。7~17歳、時には18歳までの身体強健、眉目秀麗、頭脳明晰な者を徴収し、強制的にイスラムに改宗させた。少年たちは」赤い衣装(クズル・アパ)をまとい、先端の尖った円錐型の帽子を被り、イスタンブールに送られた。そこでそれぞれの適正に応じて訓練を受けて各種の任務に使用された。例えば、眉目秀麗、容易淡麗、知的な少年は選ばれて宮廷役務に服する道へと進み、将来は宮廷官僚の役職が約束された。残りの身体強健な者はトルコ語習得のためにトルコ人の下に預けられ、その後、軍人としての道を歩んだ。この制度で行われた徴用の最後は1703年であった。

イェニチェリ:
1354年以後オスマン帝国の領土が拡大すると、新たな戦力が必要となり、それを補給するために設けられた新しい兵士軍のことである。スルタン直属の歩兵軍団である。戦争捕虜の一部をトルコ人農家に預けてトルコ語を習得させ、ムスリムに改宗させたうえで軍人とした。これによって徴収された者の殆どがイニチェリとなった。イニチェリ軍団は16世紀頃まで精鋭部隊として規律正しく帝国の発展に寄与した。17世紀頃からはしばしば暴動を起こすこともあった。

スルタン:
前項でスルタンという語がでたので、説明すると、「スルタンとはイスラム法の施行・維持・正統派信仰の擁護する世俗の君主」である(帝国書院『世界史図説「タペストリー」』による)。平凡社『新イスラム事典』では「11世紀以後、主としてスンナ派イスラム王朝の君主が用いた称号・・・」とある。更に「オスマン朝におけるスルタン位は、1396年のニコポリスの戦の後、バヤジット1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けれたことに始まり、オスマン王家によって世襲された。」と記されている。要は君主、王様である。

ディーワーン:
イスラム国家の行政機関のことであるので、イスラム世界で広く存在するものであるが、帝国書院の世界史図説ではオスマン帝国では御前会議と括弧書きしており、「ディーワーンと呼ばれる御前会議では、軍事や行政、財政などの問題が扱われた。」とあり、その場の絵が載っており、そこには大宰相、宰相、国璽尚書(こくじしょうしょ)、財務長官などが描かれている。スルタンはその場には居なくて、窓から様子を伺っている。

ティマール制
建国から16世紀末にいたるオスマン帝国の国家と社会とを規定した軍事封土制。オスマン帝国の軍事力の中心をなしたシパーヒーと呼ばれる騎兵は封土から生じる租税の徴収・取得権を認められる代償として、平時には治安の維持、農業生産の管理、戦時には封土の多寡に応じた数の従士を従えて出征した。(平凡社『新イスラム事典』)要は騎兵に土地を割り当てる代わりに軍役を義務づけたわけである。

ペルシャ語講座24の答え

ペルシャ語講座24で示した平易な文の日本語訳です:
این منزل ماست これは私たちの家です。
منزل ما است がمنزل ماستと短縮されています。
آن باغ مال کیست あの庭は誰のものですか。
آن باغ مال من است あの庭は私のものです。
پدر این بچه کجاست この子供の父親はどこにいますか。
این اطاق پنجره دارد この部屋には窓があります。
کتاب شما روی میز اسب あなたの本は机の上にあります。
مردی بمنزل ما آمد 男の人が我々の家に来ました。
پسر او بیرون اسب 彼(彼女)の息子は外にいます。
دختر من گربه دارد 私の娘は猫を持っています(抱いています)
آنهارا در باغ دید 彼ら(彼女ら)を私は見ました。
این زن کتابی بمن داد この女性は私に一冊の本を与えました。
کجا رفت 彼はどこに行きましたか。
بشهر رفت 町に行きました。
کتاب و مداد روی میز است 本と鉛筆が机の上にあります。
مادر شما بمنزل ما آمد あなたのお母さんが私たちの家に来ました。
اسب او توی باغ است 彼の馬が庭の中にいます。
این منزل مال ماست この家は私たちのものです。

いかがでしたか。 مال は「誰々のもの」というときの「もの」に相当します。マーレ・マンで私のもの。マーレショマーであなたのもの。あの家は私のものですのように使います。

小川亮作とサーデク・ヘダーヤト

前(2020/12/25)に投稿した小川亮作訳のルバイヤートの冒頭で小川訳とサーデク・ヘダーヤト編集のものが同じように八つのパートに分けられていることに気づいたと記した。そのあと、関連資料を読んでいると、それは当然のことであった。つまり、小川亮作氏はサーデク・ヘダーヤトが編集したルバイヤートを訳したということであった。小川氏が訳した元の版を調べておけばこのような初歩的なミスはなかったはずで、お恥ずかしい。

私の勝手な思い込みで、小川良作さんはかなり昔の人であり、ヘダーヤトは私たちと同世代の作家と思っていたのだ。というのは、私が1970年代にテヘランに住んでいたころ、会社の寮のようなフラットに居たり、ペンションに移ったり、はたまたフランス人夫人の家に下宿したことがあったのだが、そのフランス人がヘダーヤトと知り合いだったと話したことがあったのである。私が25-26歳ころである。ヘダーヤトの名前は知っていたが、フランスで自殺したことぐらいしか知らなかった。彼の作品も読んだことがなかった。だからそんなに前の時代の人だとは思ってもいなかったのである。この際、きちんと調べとこうと思う。

サーデク・ヘダーヤト (Sadeq Hedayat) صادق هدایت :
彼は1903年生まれとあるから、明治36年生まれということになる。私の父親が明治37年生まれであったから、父親とほぼ同じ齢ということだから、それほど昔の人ではない(笑)。では、小川亮作氏はどうであろうか。

小川亮作:
1910年生まれ。つまり明治43年生まれである。私の母が明治44年生まれであったから、私の母とほぼ同じ齢である。ロシア語を勉強して外交官になり、ペルシャに赴任した。テヘランに3年間滞在したあと1935年(昭和10年)に帰国した。滞在中にルバイヤートに魅せられて翻訳することとなったのである。岩波文庫の出版が1949年(昭和24年)である。1910年生まれであるから39歳での出版となる。私が生まれたのが昭和22年であるから、既に翻訳はされていたことになる。また、ヘダーヤト版のルバイヤートをペルシャにおいて愛読していたことも、納得がいくのである。

二人の関連が分かったところで、ついでと言ってはなんであるが、ヘダーヤトの作品を少し紹介してみたい。

まず日本語で読める作品を挙げるなら、やはり彼の代表作の一つである『盲目の梟』であろう。調べてみると1983/1/1発行で、白水社から「白水社世界の文学」として出版されていることがわかった。訳者は 中村公則である。絶版になっておりアマゾンの古書では1万円とか21,558円とかで出品されている。愛知県図書館には所蔵されていることがわかった。ということで簡単にはお目にかかることのできないのが実情である。私は英語版とペルシャ語版を持っている。次の画像はその表紙である。
アマゾンでは新刊は手に入らないが購入者のレビューが載っているので参考になるだろう。また、アマゾンで入手できる翻訳本は『が生埋め―ある狂人の手記より 』があるが、よく見るとこれも一時的に品切れとなっている。入手できるのは『サーデグ・ヘダーヤト短編集』2007年慧文社 発行がある。定価3000円(税別)。内容は「20世紀イランを代表する大作家サーデグ・ヘダーヤトが、第二次大戦前後の激動のイランにあって、時代の波に翻弄されつつ、ときにリアルに、ときには表現主義的に、ときには風刺的に、またときには内省的、哲学的に時代の諸相を描いた珠玉の選訳十篇。」と書かれており、作家の紹介は「1903年テヘラン生まれ。国費留学生としてベルギー、フランスへ留学。1930年に短篇集『生埋め』を上梓し、本格的に作家としてデビュー。1936年からの滞印中に執筆した前衛的小説『盲目の梟』は、のちにアンドレ・ブルトンらも賞賛するところとなる。ペルシア語による斬新な小説執筆に旺盛な創作力を示す一方で、イラン固有のフォークロアなどにも強い興味を示し民俗誌的傑作を多く残したほか、欧州の文学作品のペルシア語への翻訳にも優れた業績を残した。1951年4月逗留先のパリで自らの手で命を絶ち逝去」と書かれている。この短編集は私も読んだが、読んだ後「良かった」というような感情は湧かないのが殆どだ。人それぞれに受け止め方が異なるものだろうから、それ以上私情を述べるのは止めておこう。

もっと彼のことを知ろうとするなら、ウィキペディアでも詳しく知ることができる。また彼の作品について知りたければアマゾンUSA やBook Depository で彼の名前で検索すれば数多くの書籍がでてくるので参考にされたい。Book Depository での購入は世界中どこでも送料無料なので大変ありがたいのだ。

ペルシャ語講座24:基本単語と平易な文

またまた久しぶりのペルシャ語講座です。今日は基本的な単語と平易な文章です。
先ずは基本単語です。

مرد mard man 男、男性
زن zan woman 女、女性
پسر pesar boy, son 息子、少年
دختر doghtar daughter 娘、少女
پدر pedar father
مادر ma-dar mother
برادر bara-dar brother 兄弟
خواهر kha-har sister 姉妹
بچه bacche child 子供
کار ka-r work 仕事
اطاق otaq room 部屋
منزل manzel house
باغ ba-gh garden
گدا geda- beggar 乞食
شهر shahr city, town 市、町
بازو ba-zu forearm
راستگو ra-stgu truthful person 正直者
ایرانی i-ra-ni- Iranian イラン人
اسب asb horse
سگ sag dog
گربه gorbe cat
گاو ga-v ox, cow

基本的な前置詞を挙げておきましょう。

بیرون biiru-n out, outside 外に
در dar in 中に
تو tu in, inside
رو ru on 上に

続いて簡単な文章です。上の基本単語を利用して次の文章を日本語にしてください。先ずは自力でやってみて下さい。数日したら解答をアップいたします。
این منزل ماست
آن باغ مال کیست
آن باغ مال من است
پدر این بچه کجاست
این اطاق پنجره دارد
کتاب شما روی میز اسب
مردی بمنزل ما آمد
پسر او بیرون اسب
دختر من گربه دارد
آنهارا در باغ دید
این زن کتابی بمن داد
کجا رفت
بشهر رفت
کتاب و مداد روی میز است
مادر شما بمنزل ما آمد
اسب او توی باغ است
این منزل مال ماست

新シリーズ「オスマン帝国」:⑥ オスマン一世からメフメト2世まで

14世紀、アナトリアで勢力を拡大してきていたオスマン侯国の軍勢はビザンツ帝国の目の前に姿を現した。そして、サカリヤ川流域からビザンツ領に侵入し、略奪を始め、ブルサの町を包囲した。軍勢を率いていたオスマンはここで没したという。後を継いだ息子のオルハンが1326年にブルサを陥落させた。そして、その後、1329年のペレカノンの戦いでオスマン軍が勝利すると、1331年にニカイヤを、1337年にニコメディアを征服した。

オスマン帝国500年の平和から引用

こうして、オスマン侯国はバルカン半島に進出を始めた。そして、14世紀末までにバルカン半島の大半を征服した。1453年にはコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしたのであった。ここまでの経緯を時系列で改めて列記すると以下の通りである。

1299年:オスマン一世、オスマン帝国建設
1326年:オルハンがビザンツ帝国領ブルサを征服し、都とする
1329年:ペレカノンの戦いで勝利
1331年:ニカイヤを征服
1337年:ニコメディア(イズミト)を征服
1361年:アドリアノープルを攻略
1362年:オルハン没
1366年:マケドニア、ブルガリア征服
1389年:コソヴォの戦でバルカン同盟軍を撃破(コソヴォの戦とは、ムラト1世のオスマン帝国軍が、セルビアのコソヴォで、セルビア・ボスニア・ブルガリア・ハンガリーなどのキリスト教連合軍を破った戦い。バルカン半島は長いオスマン帝国による支配下におかれることとなった)

ムラト1世の次にバヤジット1世(雷電王)在位1389~1402の時代となり、
1396年:ニコポリスの戦でハンガリー王ジギスムントを破る
1402年:アンカラ(アンゴラ)の戦でティムールに敗れ、オスマン帝国混乱続く(~1413)
1413年:メフメト1世(在位1413~21)が即位し、国の混乱を収め再統一。その後、ムラト2世の治世を経て、
1444年:メフメト2世(征服者)(在位1444年~46、1451~81年)が即位して、1453年のコンスタンティノープル攻略に至るのである。丁度区切りの良いところになったので、」今回はここまでとしよう。