中村哲さんがアフガニスタンで殺害されてから、3年が経過した先日にはメディアが彼の亡き後の現地を取材して放映していた。そこでは中村さんの遺志を継いだ人々が治水工事に取り組んでいる姿があった。中村さんは医師であった。現地の人々を病から救うために赴任したのであったが、病に対する対処以前に彼らの生活基盤を整えることが必要だと感じ、安定して農作物を手に入れることができるように、灌漑施設の工事などに取り組んだのであった。
私は1971年に初めてイランに駐在員として赴いた。水資源開発コンサルタンツ会社の一員としてであった。社の仕事はイラン政府との契約業務でイランの水資源開発計画を推進することであった。従って、イランの首都テヘランの事務所には日本からの技術者が沢山駐在していた。イランの計画を推進する一方で、アフガニスタンでの水資源開発計画の可能性も探っていた。そして、何人かのスタッフがプロジェクトファインディングという名目でアフガニスタンを行き来していたのであった。その現場はジャララバードだった。
カーブルの東方にジャララバードが在る。北にはヒンドゥークシュ山脈があるので、この山脈から流れて来る水を利用しようとした。ヒンドゥークシュとはヒンドゥーがインド(人)、クシュの元は殺すという動詞コシュタンであるから、インド人殺しの山脈ということ。つまり、非常に険しい山脈ということだろう。当時、現地の人々は剣や鉄砲を手にしていたので怖かったという話も聞いた。治安が良くなくて開発計画を進めるような状況ではなかったということだ。もし、我々が思っていたような開発ができていたなら、中村さんのような不幸な事件も起こらなかったかもしれない。アフガニスタンはその後ソ連の侵攻などもあり、虐げられた歴史を辿ってきた。私がこのブログで扱う中東地域とは少し外れるのであるが、今後、少し、アフガニスタンの歴史について紹介してみようかと思っている。