ちょっとお休み

先週、山歩き中に滑って手を故障したので、数日間、ブログを休みます。片手で入力は大変。

イランの反政府運動の行方

先週、中日新聞は2日にわたり「ヒジャブの下から・女性が変えるイラン」という特集記事を掲載した。
イランでは昨年秋頃から政府に対する抗議でもが、激化していた。きっかけはクルド人女性がヘジャブの着用が不適切だとして風紀警察に拘束された末に死亡したことに対する抗議だった。その抗議デモが各地に拡大して、反政府の大きなうねりとなってきたのである。鎮圧に乗り出した政府はデモの参加者の多くを拘束したが、衝突の過程で多くの死者がでている。また拘束された者で何人かは死刑を執行されたという。見せしめのための死刑執行であるが、それ以後、大規模のデモは姿を消しているが、国民の政府に対する控えめな抗議は続いている。

記事では、初めはクルド人女性の拘束後の死に対するものであったが、反政府運動にまで拡大したのは現在の経済悪化の状況に対する政府への反感であるとしている。米国の経済生活により経済は悪化し、ウクライナ問題のせいもあり物価はさらに上昇し、国民の生活は困窮しているのだ。

私はインスタグラムを利用している。そこでイランの人とも接点があるのだが、インターネットが常時つながる状態ではないと彼らは言う。また、この記事にも「女性・命・自由」というスローガンもインスタ上では飛び交っている。原語では زن  زندگی آزاد である。記事では真ん中の言葉を「命」としているが、命といういみでも間違いではないが、英語でいうと Life である。生活、人生の色合いが強いと思う。自分たちの生活が無茶苦茶だという意思表示であろう。風紀警察の車が姿を消したともあるが、一時的なものであろう。1979年の革命後にイスラム回帰した時代でも風委委員会が国中を席巻した。彼らはトヨタのピックアップを多く利用していた。その車の後ろ側にはTOYOTAの文字が浮き彫りされていた。当時はTOYOTAの車が怖いイメージを与えていたのだった。

アフガニスタン:国家の成立から共和国まで

前に紹介した渡辺光一著『アフガニスタン 戦乱の現代史』岩波新書にはアフガニスタンでの国家の形成について、以下のように記している。つまりはアフガン人達は周辺の強国に挟まれた地域に居住しており、これらの国に支配されてきたのであった。アフガン人が自分たちの国を形成できたのは18世紀になってからということである。

多民族に長い間支配されてきたアフガンに初めてアフガン人の王朝が成立したのは18世紀になってからである。18世紀初頭までのアフガンは三つの強力なイスラム帝国の支配下にあった。三つとはアフガン以北に展開してきたトルコ系民族のアストラハン朝、アフガン以西のペルシャに展開してきたサファヴィー朝、そしてアフガン以東のインドに展開してきたムガル朝である。これらの大きな国が勢力を競い、アフガニスタンはそれらの境界地域にあって支配されてきたのだった。18世紀になると、アストラハン朝とサファヴィー朝が衰退し始め、ムガル朝もイギリスの進出などにより国運が傾き始めていた。こんな中で急速に勢力を伸ばしたのが、カンダハールを地盤とするギルザイ族と呼ばれるパシュトゥーン人であった。1722年、ギルザイ族がペルシャの都イスファハンに進攻し、その壮麗さと富の大きさから「世界の半分」と呼ばれた都はあっけなく陥落したのだった。一方でアフガン南西部には部族の異なるアブダリ族が急速に勢力を伸ばし、1747年にはギルザイ族を倒すまでになった。彼らはパシュトゥーン人の伝統に従って、部族長の一人アフマド・シャーが王に選出された。彼は都をカンダハールに定めドゥッラーニー朝を創設した。そして、25年の短い治世の大半を領土拡大に励んだという(1772年、50歳で死亡)。息子のティムール・シャーが王を継承し、都をカーブルに移した。
これ以後を年表形式で列記する:
1747年 ドゥッラーニー朝成立
1826年 ドースト・ムハンマド・カーンが政権を握り、ムハンマドザイ朝成立
1839~42 第一次アフガン戦争
1878~80 第二次アフガン戦争
1880 アブドゥル・ラーマン・カーン即位
1885年 ロシアがアフガンに進出
1887年 英露、アフガン国境協定
1893年 英領インドとの間にデュランド・ライン確定
1914年 第一次世界大戦勃発
1919年 第三次アフガン戦争、アフガン独立
1929年 タジク朝成立
ナディル・シャー即位(~33年暗殺)
1933年 ザヒル・シャー即位(~73年)  1939~45年第二次世界大戦
1953年 ムハンマド・ダウド首相就任
1963年 ザヒル・シャー、ダウド首相を更迭
1964年 第三次憲法施行
1965年 初の総選挙。人民民主党結成。
1969年 第二回総選挙
1973年 軍事クーデターで元首相ダウドが大統領に。ザヒル・シャーが伊に亡命。
王制廃止。アフガニスタン共和国成立。

 

 

「シルクロード文庫」開設へ

1月3日付の中日新聞は上の記事を掲載していた。昨年亡くなった前田耕作和光大学名誉教授の遺志に基づいて「シルクロード文庫」という図書館を作るということである。新聞によると、前田先生はユネスコのアフガニスタン文化遺産保護国際調整委員などを歴任。自ら設立した「アフガニスタン文化研究所」の所長を務めた。2001年にタリバン政権が大仏とともに破壊した仏教画の修復に関わり、21年のタリバンの復興後は各国の専門家とともに現地の文化財の保護に努めた。図書館は今年の3月に開館するが、前田さんたち研究者が集めた貴重な本1万数千冊を収蔵するという。

丁度いまこのブログでアフガニスタンを扱い始めたところであったので、まさにタイムリーな記事だと思い、そのことをここに紹介した。多民族が交差したシルクロードの平和な交流の歴史が、紛争に明け暮れる今の世界に蘇ることを祈りたいものである。

実は私自身不勉強で前述の経歴の前田耕作先生のことは知らなかった。しかし、どこかで聞いたことがある名前だなと思い書棚をみていたら、次の文庫本が見つかったのである。
書名は「宗祖ゾロアスター」である。著者前田耕作とある。2003年発行であるから、ちょうど20年前の発行である。文庫本になる前に単行本ででたのが1997年なので、25年前の著作ということになる。私はペルシアに関する研究者なのでゾロアスターは当然専門領域なのでこの書も所有していたのである。ゾロアスター教やゾロアスターという人物に関する研究書は少ないので前田先生の功績は大なのである。人との繋がりがというものは意外と多いということを感じた正月だった。

アフガニスタンとラピスラズリ(続き)

 

昨日(前回)、ヒンドゥークシュで採れるものとはいったい何でしょうか、という所で終わったのでしたね。でも、後から気が付きました。タイトルが「アフガニスタンとラピスラズリ」となっていました。答えはラピスラズリということでした。ということで今回も更に適宜抜粋し編集しながら引用を続けます。

ツタンカーメンは、今から3300年余り前の紀元前14世紀頃、古代エジプト王、ファラオとして短い生涯を送った。彼の墓が1922年に見つかり、そこの埋葬品の「黄金のマスク」の目の部分に、ラピスラズリがはめ込まれていたのである。その周辺で見つかった140個ほどのスカラベという昆虫の彫り物は全てラピスラズリであったという。エジプトでラピスラズリが使われていたということは当時も発見された当時も重要視されるような特別なことではなかったという。だが、それらのラピスラズリはアフガンのヒンドゥークシュで採掘されて運ばれたものであるという点が、このブログでは重要な点なのである。

一方、日本との関係はどうなるのだろうか。六世紀に日本に伝えられた仏教では、宇宙には東西南北に四つの「仏の世界」、いわゆる「仏国土」が存在するとの考えから東に薬師如来、西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒菩薩が存在するとした。その中の一つ薬師如来は東方浄土を治めるだけでなく、現世で苦しむ人々を助ける力を持つとされ、これが「薬師」という名前の由来である。この薬師如来の正式な名前は「薬師瑠璃光如来」というのである。瑠璃というのはラピスラズリの日本語訳である。なぜ瑠璃という言葉が薬師如来につけられたのだろうか。かの著者は3つの説明しているが、その三つ目の説明とは「仏教徒が瑠璃の粉末を薬や顔料として珍重していた点である。実際、瑠璃に含まれる成分が精神の安定をはかるとして、中世ヨーロッパでも使用されてきた。薬師如来は、まさに医師であり、薬剤師であり、心の闇を取り払うカウンセラーでもあった。・・・・・インドへの旅を成し遂げて多くの仏典を持ち帰った玄奘三蔵が翻訳した経典に「薬師瑠璃光如来本願功徳教」があった。・・・アフガンに誕生した瑠璃は、経典の名前だけでなく、いくつかの経文の一節にも使われ、六世紀以後次々と日本に渡ってきた。これまで仏教の伝来といえば、インド、中国、日本の関係だけが注目されてきた。その中にアフガンを加える人は少数である。しかし、薬師如来像を眺める時、私たちは瑠璃の光が放ち続けて来た「アフガンの存在」を忘れてはならないだろう。

ということで、アフガニスタンはかつては西のエジプトへ、あるいは東の日本に影響を与えた一拠点であったということである。ラピスラズリという貴重な石(貴石)、日本では七宝に一つに数えられる貴い石として珍重に取り扱われたラピスラズリがアフガンからの到来物であったのである。瑠璃の美しい青さ、サファイアだと思われていたものが実はラピスラズリであったという話なども聞く。私はバードウォッチャーであるが、美しい鳥にも瑠璃が付いているものが多い。例えばオオルリ、ルリビタキ、ルリカケス等々である。冒頭の写真は私が写したルリビタキである。今日はこの辺で終わりにしましょう。

 

 

アフガニスタンとラピスラズリ

前回、引用させていただいた『アフガニスタン・戦乱の現代史』には私の関心を引き付けた部分がある。その部分を今回も引用させていただこう。

文化の伝達といえば、ギリシャのヘレニズム文化が、インド、中国を経由して日本に伝わった事実はよく知られている。この場合、ギリシャは情報の発信地であり、日本は最終的な情報の受信地であった。つまりアフガンは中継地にしか過ぎなかったということになる。しかし、これから紹介する例は、アフガンがまさに情報の発信地であり、エジプトと日本がともに最終的な受信地であったことを示している。アフガンからエジプトに伝わったのは「ツタンカーメン王」に関する事象であり、日本に伝わったのは「薬師如来」に関する事象であった。それはアフガンの大自然が、人類の歴史をはるかに超える長い年月をかけて、ヒンドゥークシュの山岳に醸成した珍しい物質であった。では、アフガンが発信したものとは、いったい何だったのか。

以上が、引用部分である。さて、皆さんはその物質とは何だとお思いですか?今日は元旦ですので、これまでにしておきましょう。次回の新規投稿までに物質が何か考えておいて下さいね。