前回、アラビア書道の京都作品展のために、ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの詩を書いているとお知らせしました。作品展は9月30日からですので、それまでにオマル・ハイヤームについて紹介しておきましょう。彼の代表作は『ルバイヤート』ですが、それは「四行詩」という詩の形式を意味しています。数多くの詩人が四行詩を作っていますが、彼のルバイヤートがあまりにも有名になったので『ルバイヤート』といえばオマル・ハイヤームの詩集を意味するようになったのです。勿論、他の詩人の四行詩もルバーヤートに違いないのですが。彼の詩はイギリスの詩人のEdward FitzGeraldの英語への翻訳で有名になり、現在でも彼の英語への訳詩が最も有名で愛されています。日本でも彼の英語訳から日本語に訳されたものもあり、元のペルシア語から訳されたものもあります。もっとも有名なのは小川亮作によるものでしょう。訳者小川亮作は岩波版の解説で、ペルシアのレオナルド・ダ・ヴィンチと評しています。ただ、彼が詩人としての名声を得たのは世界中で訳本が読まれるようになって以後のことなのです。それまでの彼は詩人としてではなく、科学者として有名な人物だったのです。それでは冒頭の画像の翻訳者黒柳恒男先生の解説文を抜粋して彼を紹介することにしましょう。
中世のペルシア語文化圏に輩出した幾多の優れたペルシア詩人の中で世界的に最も有名なのはオマル・ハイヤームとその作品ルバイヤート(四行詩集)である。彼は1048年にイラン東北部のニシャプールに生まれ、同地で1131年に没した。郷里で教育を終えた彼は中央アジアの都市サマルカンドに赴き、大法官アブー・ターヒルの保護の下で代数学に関する論文を執筆し、その後に推挙されてカラハン朝のシャムスル・ムルク・ナスル王(在位1068~80)の側近となった。
1074年にセルジューク朝のマリク・シャー(在位1072~92)がカラハン朝のナスル王と和を結んだが、これを契機に彼はマリク・シャーに使えるようになった。当時26歳であった。13世紀のアラブの台歴史家イブヌル・アスィールの『完史』の記述によると、ハイヤームはマリク・シャーの命により一流の天文学者らと協力してイスファハンに天文台を建設し新たの暦制定のために天文表の作製に従事した。この時に作られた暦は王の名にちなんでマリキー歴(あるいはジャラーリー歴)と命名された。ハイヤームは偉大な天文学者・数学者としてイスラム世界に広く知られるようになった。
つまり彼は科学者、数学者、天文学者として有名な人物であったのです。