サヘル・ローズさんの『あなたと、わたし』

誰もがサヘル・ローズさんのことを知っていますよね。私、そして妻も彼女の大ファンです。幼いときにイランで戦争にあって、大変な苦労をした経験をお持ちです。そして、幼少期に日本に来られてからも・・・・。テレビで見る彼女はそのような過去を彷彿させない素晴らしい笑顔に目頭が熱くなるのです。

私はイランが好きです。イランも好きですが、ペルシアがもっと好きです。同じ国ですが、ペルシアというと、シルクロードを経由して日本に伝えられた優れた、洗練されたササン朝の文化を想うのです。奈良の正倉院にはその時代の波斯(ペルシア)の文化財が保存されています。日本とイランは古くから深いつながりがある国同士なのです。たまたま、私自身が1971年から1978年の革命の前年まで長期間滞在していたこともあって、イランが好きになりました。このブログでも、イランに関連する記事が自然に多くなっていると思います。そんな事情もあって、イラン出身のサヘルさんを初めて知った時から、ファンになったのでした。いまではメイ・ジェイさんのファンでもあります。

前置きが長くなりましたが、先日サヘルさんの詩集『あなたと、わたし』を購入して読みました。フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが中東・アフリカ・東南アジアほかで撮影した写真とのコラボ作品です。子供たちの少し寂しげな姿が印象的です。サヘルさんの詩も心に響きます。優しい人柄を感じさせます。同時に、ご自分の苦労された経験も詩の中に溢れているように感じました。

中でも一番好きな詩が次のものです。

皆さんも是非一度読んでみてください。まもなく新し年になります。
世界中の子供たちが泣くことのないような世界になりますように。

本の紹介をしておきます。
株式会社日本写真企画、2018年12月発行。
著者:サヘル・ローズ。写真:安田菜津紀
ISBN 978-4-86562-084-9
定価:1500円

世界史学習:古代オリエント

世界史学習の今回は古代オリエントです。

作業1の答:肥沃な三日月地帯
作業2の A=小アジア B=メソポタミア C=パレスチナ
作業3の答:ハットゥシャ(ボアズキョイ)

都市名 A=メンフィス B=アマルナ(アケトアテン) C=テーベ
問題の答:ヒクソス

ABの都市名:A=エルサレム B=バビロン
事件の名称:バビロン捕囚

A=アケメネス朝ペルシア B=ギリシアの勢力圏 C=フェニキアの勢力圏

いかがでしたか?
少しあやふやな点があったかもしれませんね。それではまた次回に。

 

世界史学習:オリエント世界 / 地中海世界

さて、このブログも始めてから随分経過しました。気の向くままに少々まとまりもなく続いてきた感があります。今日からはしばらく原点に帰って、世界史の復習をしていこうと思います。帝国書院発行の『世界史図説・タペストリー』の付録白地図作成帳の中から中東・イスラムに関連する部分を利用させていただきます。

オリジナルのサイズでは小さくて見えにくいので以下に拡大してみました。
番号の部分の名称を表に書き込む形になっています。答えは後日記入しますので、確認してみてください。

二日ほど経ちましたので答を記入しました。
簡単でしたね。しいて言えば、ティグリス川とユーフラテス川がどちらかなという点かもしれません。そんなときは、上がティグリス、下がユーフラテスと覚えれば忘れません。

❶ ドナウ川 ❷ イタリア半島 ❸ 地中海
❹ エーゲ海 ❺ 黒海 ❻ アナトリア高原
❼ ナイル川 ❽ 紅海 ❾ アラビア半島
❿ ティグリス川 ⓫ ユーフラテス川 ⓬ イラン高原

中東の食べ物?: デーツ(ナツメヤシ)

スーパーマーケットでデーツが売られているのを見つけました。懐かしくて、とっさにショッピング・バスケットに入れました。甘くて美味しいのです。最近では健康に良いということで人気があるようですね。日本ではナツメヤシとも呼ばれています。ウィキペディアではどう説明されているのかと、覗いて見ると次のように書かれていました。内容は全てが信頼できるものとは限りませんが、あくまでも参考としてのことです。

ナツメヤシは非常に古くから栽培されているため、本来の分布がどうであったかは定かではない。北アフリカか西南アジアのペルシャ湾沿岸が原産と考えられている。

耐寒性は低いものの、乾燥には比較的強い。雌雄異株。樹高は15 mから25 mで、単独で生長することもあるが、場合によっては同じ根から数本の幹が生え群生する。葉は羽状で、長い葉柄は3 mに達する。葉柄には棘が存在し、長さ30 cm、幅2 cmほどの小葉が150枚ほど付く。実生5年目くらいから実をつけ始める。樹の寿命は約100年程が普通であるものの、場合によっては樹齢200年に達することもある。

メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6千年紀にはすでにナツメヤシの栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前4千年紀に栽培されていたことを示す考古学的証拠も存在する。例えば、ウルの遺跡(紀元前4500年代−紀元前400年代)からは、ナツメヤシの種が出土している。シュメールでは農民の木とも呼ばれ、ハンムラビ法典にもナツメヤシの果樹園に関する条文がある。アッシリアの王宮建築の石材に刻まれたレリーフに、ナツメヤシの人工授粉と考えられる場面が刻まれていることはよく知られている。

ナツメヤシはギルガメシュ叙事詩やクルアーンにも頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであると言われる。クルアーン第19章「マルヤム」には、 マルヤム(聖母マリア)がナツメヤシの木の下でイーサー(イエス)を産み落としたという記述がある。アラブ人の伝承では大天使ジブリール(ガブリエル)が楽園でアダムに「汝と同じ物質より創造されたこの木の実を食べよ」と教えたとされる。またムスリムの間では、ナツメヤシの実は預言者ムハンマドが好んだ食べ物の1つであると広く信じられている。

ということで、古くから中東地域で栽培されていたことが分かります。また、今でもデーツは中東諸国の農産物として大量に栽培されているのです。2008年に農林水産省から「GCC諸国の農業・貿易政策」という調査報告書を作成するように委託されたことがあり、一生懸命調べた想い出があります。その際にデーツが湾岸諸国の農産物の中でデーツが大きなウエィトを占めている農産であることを実感したのでした。

先ほど、デーツは健康に良いということでしたが、栄養価はどの程度なのか、今度は「上野アメ横。小島屋」のホームページの助けを借りましょう。次のように書かれています。

・ 便通を整える『食物繊維』
食物繊維には、腸内環境を整え、消化吸収を良くしたり便通を改善させる効果があります。また同時に、悪玉菌や有害物質を減らして腸内環境を整える効果もあり、生活習慣病をや感染症などの病気の予防や健康維持にも重要な成分です。
デーツには、ごぼうと比較すると1.3倍もの食物繊維が含まれており、中でも不溶性食物繊維が豊富です。不溶性食物繊維は、腸の中で水を含んで腸を刺激し、便通を整える働きがあります。また有害物質を減らすため、大腸がん予防に効果があるとして期待されています。

・ 貧血予防だけじゃない『銅』
デーツは様々なミネラルも豊富に含んでいます。ミネラルとは、体内で酵素などとして働き多様な作用に関わる重要な栄養成分で、銅はその1種です。銅は、ヘモグロビン合成や免疫細胞のエネルギー代謝に関わり、また活性酸素を除去する働きを助けます。デーツは、ドライフルーツの中でもトップレベルの銅含有量を誇っており、貧血予防や免疫力アップに嬉しい果物なのです。

・ 味覚を保つ『亜鉛』
亜鉛とは、タンパク質・DNAの合成や免疫機能の維持、味覚の維持など多くの役割を持っているミネラルです。舌にある味細胞は日々作り変えられていますが、亜鉛はこのような細胞の生まれ変わりをサポートするのに欠かせないミネラルなのです。

さらに次のような項目を挙げて、デーツの良さを説明しています。
以下は見出しだけにしておきます。興味ある方は「小島屋」のホームページを直接ご覧ください。

・ 縁の下の力持ち『マグネシウム』
・ 抗酸化力を持つ『βカロテン』
・ 二日酔いに効く!『ナイアシン』
・ 多機能ビタミン『パントテン酸』
・ デーツの健康&美容効果4つ
・ ①貧血の予防に
・ ②酸化を防いでアンチエイジング
・ ③ストレス対策にも
・ ④ダイエット効果も注目!カロリーは控えめ?!
・ デーツの健康・美容効果を高める食べ方

本当に体に良い食品であることが分かりました。栄養機能食品などの通販カタログにもデーツは出ています。しかし、結構いい値段しているように思います。この度買ったものは300円で小さな袋ですので、買いやすい値段でした。チュニジア産で種を抜いていたので食べやすく美味しかったです。以前、東京ジャーミー(モスク)に行ったときに、売店で一箱一杯入ったものが500円で買った覚えがあります。イスラムでは断食の日の日没後や断食明けの際に一番最初に口にするのがデーツです。中東・イスラム社会では必需品なのであります。皆様も是非とも食して見てください。日本の干し柿にちょっと近い感じがしますが、どうでしょうか?

ペルシャ語講座33:有用?な単語・・چشم chashm/cheshm 目/眼

いろいろな色の目のイラスト(黒)

今回はペルシャ語講座ですが、一つの単語を紹介しましょう。それはタイトルのチャシュム、チェシュムです。目という意味です。辞書を引くと名詞・①目、眼 ②邪視、凶視 とあります。その次に間投詞として「喜んで」「承知しました」と記されています。私が紹介したかったのは、この部分です。わざわざ紹介しなくとも、現地へ行ったならば直ぐに分かることなのですが、最初は「へえ!」と思ったものです。でも便利な言葉です。例えば、使用人に「どこどこに行って、何々を買ってきてください」と言うと、彼は軽く手のひらを胸に当てて「チャッシュ!」と言うのです。私は「かしこまりました」という意味だと解釈しました。そして、私には「チャッシュ」と聞こえましたので、それが目の意味の「チャシュム」だとは、しばらくの間、気が付きませんでした。目の意味だと気づいたときに、「言葉って面白いなあ」と感じたものでした。

いろいろな色の目のイラスト(黒)

ついでにチャシュムを使った表現を辞書からピックアップしておきましょう。
چشم شما روشن  chashme shoma roushan おめでとう!

چشم و چراغ chashm va cheraq 最愛の人
چشمانداز chashm andaaz 展望、見通し、
چشمبند cheshm-band 手品師、奇術師
چشم پوشی cheshm-pushi 黙認、見逃し
چشمچرانی cheshm-charan 色目を使う
چشم روشنی cheshm-roushani 贈り物、お祝いの贈り物
چشمگیر cheshm-gir 目立った、顕著な

サウジアラビアとワッハーブ派

前回はタリバンを取り上げた.。タリバンは厳格なイスラムなどと評されるわけであるが、前回述べたように、私は決して正統派の厳格なイスラムであるとは思わない。本来のイスラム精神を厳格に守るという意味ならば、代表的なのはサウジアラビアであろう。今回はサウジアラビアのイスラム=ワッハーブ派について少しだけ紹介する。

サウジアラビアではイスラム・ワッハーブ派が国教である。ワッハーブ派とはどういうものか、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』では以下のように説明している。

アブド・ル・ワッハーブ(1703~87)が18世紀なかばに創始した。『クルアーン』とスンナに帰れとする純粋主義の運動。極端に復古主義的なかたちでイスラームの純化を主張するスンニー派ムスリムの運動で、彼らは自らをムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。法学上はハンバリー派に属し、この派の神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を強く受けた。ヒジュラ暦三世紀以降にもち込まれた一切のビドア(新風・新説)を排除し、正統四法学派の権威と、正統六ハディースのみを認める。スーフィズムを厳しく糾弾し、聖者崇拝や聖者廟詣でを禁じた。信徒には徹底したピューリタン的生活態度が要求される。18世紀後半この運動は、ナジュドのイブン・サウード家の勢力と結びつきアラビア半島に拡大した。ワッハーブの死後、サウード家の長が教主の地位を継承し、政教両権の保持者となる。

サウード家の正確な出自はよく分かっていないが、15世紀頃サウジアラビア東部のオアシスからリヤドの北ワディ・ハニーファのダルイーヤに移り定住したという。1720年より少し前にサウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムグリンの記録がある。その息子のサウード・イブン・ムハンマドが通常サウード家の始祖とされている。といってもそれはアラビア半島に数多くいた部族の一人の長であったにすぎない。それが、のちにサウジアラビアを統一するほどの権力者になることができたのは、ワッハーブとの同盟であったのだ。

アラビア半島に数多くの部族があった中で、有力だったのがラシード家であった。文芸新書・岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』によれば、ラシード家というのは、リヤドの北西シャンマル山地のシャンマル諸支族を支持基盤とするベドウィーンである。1870年代にはオスマン帝国と同盟し、補助金や武器の供給を受け、1884年には半島中心部のカスィーム地区を支配下に収めていた。ナジドの諸部族は、当時兄弟同士の内輪もめを続けていたサウード家に愛想を尽かし、日の出の勢いだったラシード家に傾いていた。その結果、サウード家は衰退したのであるが、その後、クウェートの有力部族サバーハ家がサウード家の一族を保護支援した。サウード家はここで一息つくことができた。

20世紀に入り、ラシード家がオスマン帝国とドイツと関係を強化し、クウェートへ食指を動かす。一方で、イギリスはクウェートとともにサウジアラビアへ勢力を拡大しようとする。サウード家のアブドゥルアジーズはこの時21歳であり、クウェートで保護されていた。そして、1902年1月15日にリヤド城を奇襲し攻略した。その後、アラビア全土を支配下に収める戦闘を続け、1924年にヒジャーズ地方を攻め、メッカを抑え、続いてジェッダとメディナも支配下に入れた。アブドゥルアジーズがヒジャーズ地方を制圧できたのはワッハーブ派の協力によるところが大きかった。つまり、ワッハーブ派とサウード家はお互いに協力し合って勢力を拡大することができたのである。

サウジアラビアはワッハーブ派の国である。我々の世界での政教分離などという考え方は通用しないのである。

 

ペルシャ語講座32:名詞の複数形

前にも触れたことがありますが、名詞の複数形について再度まとめてみます。
名詞の単数形語尾に ها ha を付けるのが基本です。鉛筆なら مداد  مدادها となります。簡単ですね。英語の複数形でsを付けるのと同様です。

もし、名詞の示すものが人間の場合、単数形語尾に ان an を付けることもあります。例えば、婦人=zan زن の場合に、zanan زنان となります。先ほどのように ha を付けても間違いではありません。
単数名詞の最後の文字がアレフの場合、an の前に yをいれて yan となります。

例えば、乞食 gada گدا は gadayan گدایان となります。
同じように最後の文字が u و の場合も yan を付けることになります。例えば、誠実な人=rastgu رستگو —- رستگویان rastguyan となります。
名詞の最後が h ه で終わる場合、an の前にg が付くこともあります。例えば、子供=bacche بچه  は bacchegan بچهگان となります。これもバッチェのあとに続けて書かずにバッチェ・ハーという人もいますし、例えば窓はパンジャレhと最後がhで終わりますが、普通はパンジャレハーというでしょう。

一応の基本的なルールがあるけど、例外もあるわけです。でもその例外も基本形を使う限りにおいては許容されるという感じですね。完全に形を変える複数形もありますが、それらはまた改めて紹介しましょう。

日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(2)

前回は日本書紀の中にトカラ人が日本にやってきた記述の一部を紹介した。そして、その一行の中に舎衛という女性がいたが、舎衛とはどういう意味なのかという点で学者間に議論があって、どうやらそれは地名であるということになっている。ひとつはネパールの地名であるとし、ひとつはトカーレスターンの地名であると。そしてまた、トカラ人の名前に「乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)」というのがあった。波斯というのはペルシャの意味なので、トカラというのはペルシャのことなのだろうかも思うわけである。今回はその先に進めて行こう。

トカラを表記するのに私はここまでカタカナで記したが、書記には勿論感じで記されている。吐火羅、覩貨邏、覩カ羅(この部分のカは入力できなかったのでカタカナにした。貝の右に化の文字。つまりは貨と配置が異なった文字)などと表記されているのであるが、いずれも同じ地域をさすもので、伝統的にはトカーレスターン(トハーレスターン)とされてきたそうである。これはアフガニスタン北部から隣接する当時のソ連領域の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、パルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域である。サマルカンドやボハーラーというと現在はウズベキスタンの都市である。ところが、井上光貞博士や竹内理三博士によってトカラを東南アジアに求める説も提唱されたとある。それによるとトカラとは驃国のことで、ピュー族がビルマのイラワジ川の中流域に建設したもので、首都はプロムであるという。彼らは突羅成と自称し『新唐書』によれば、およそ18の属国があって、その中に舎衛が含まれているという。中央アジアではなくてもっと日本に近い東南アジアのほうが来日の可能性がより高いと思うが、それに対して実際にトカーレスターンのバルフから長安にやってきた宣教師などの事例を挙げて論争があったようである。

さて、先を急ごう、ペルシャ文化渡来考の著者、伊藤義教先生の説に移ろう。結論を先にいうと舎衛は地名ではないというのである。舎衛の女というのはトカラ人とは異なる舎衛人の女ではなく、同じトカラ人であるという。理由は一緒に行動していたことや、書記の記述をすなおに読めばそうなるという。そして、難題であるとする舎衛という意味を読み解くのである。以下、伊藤先生の説である。

舎衛は中世ペルシャ語シャーフ(shah) で王の対音とみるほかはない。従って舎衛女とは「舎衛の娘」として「王の娘・王女」以外のなにものでもない。ここまで詰めてくれば、書紀のトカラは、伝統に従って、トカーレスターンに同定するほかはない。トカラ人の漂着者たちの中に王女が一人いたことになり、それゆえに大和朝廷に迎え入れられた理由なのである。

7世紀にトカラ人が日本に漂着した。その中の一人が王女であって、大和朝廷に迎えられていた。トカラとはトカーレスターンであり、その地は今のウズベキスタン辺りである。ブハーラーやサマルカンドはかつてはペルシャ帝国に組み入れられたこともある地域である。つまり、日本書紀に登場する渡来人の招待はペルシャの王女とたちであったというわけである。とここまでくると、私の想像が駆け巡る。王女となるとペルシャの王女。となると、それはササン朝の王女であろう。ササン朝はイスラムによって滅びたわけであるが、その王朝の一部がシルクロードを経て長安へ、さらに日本へ来たということも可能性はあろう。そうなると、話はさらに続いていかねばなるまい。その話のネタは次の画像の書に託したい。

 

日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(1)

正倉院の宝物には西域から伝来したものが沢山あることは皆さん承知のことでしょう。シルクロードを通じて西域の文化が中国を経由して日本に伝わってきています。中でも、ササン朝ペルシャの洗練された器物が有名です。でも、ササン朝ペルシャの時代よりももっと前の時代に西域の人々が渡来してきていることが、日本書紀には記録されているのです。今回はそのような渡来人について述べて見たいと思います。タイトルを「日本書紀にみるゾロアスター教徒の来日」としたのですが、正確にはゾロアスター教徒ではなく、ペルシャ人と言った方が良いかもしれません。

654年4月「トカラ国の男二人、女二人、舎衛の女一人が嵐に遭って日向に漂着した」
657年7月3日「トカラ国の男二人、女四人が筑紫に漂泊し、わたしどもは、はじめ奄美島に漂泊しましたと言った。そこで早馬をもって大和に迎え入れた。
657年7月15日「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭盆会、暮饗覩貨邏人。」「すみ山の像を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭盆会を営み、夕方にトカラ人を饗応した。」
660年3月10日「トカラ人が妻なる舎衛婦人といっしょに朝廷に伺候した」
660年7月16日「また、トカラ人乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)が本国に帰りたくて、送使を出してほしいと願い出て、『のちにまた大和朝廷にお仕えした。そこで、妻を残してそのしるしにします』と言った。そして彼は送使数十人(とをあまりのひと)といっしょに、西海に向けて旅立った。」

ここまでを整理してみよう。5つの日時での記述がなされている。最初の654年は孝徳天皇の御世(御代)であり、後の四つは斉明天皇の時代である。トカラ人の男二人と女二人、それに舎衛の女一人が九州に漂着したという記録である。舎衛の女というのが、トカラ人ではなくて舎衛人の女という意味なのか、トカラ人ではあるが、何らかの意味をもつ舎衛の女かはこの時点では分からない。漂着したところが、日向なのか筑紫なのか、奄美島なのか私には分からないが、その後、大和朝廷に迎えられたということのようだ。その後、乾豆波斯達阿が帰国したいと申し出て、妻の舎衛を残して旅立ったとある。達阿というのは名前らしい。またその前の波斯はハシと読むがペルシャの意味である。とすると、トカラ人というのはペルシャ人のことなのだろうか?

私自身は日本書紀を所有していないし、していても読むことはできないだろう。そこでここまで述べてきたことは上の画像の文庫本を参考にして書いている。というか、読みながら書いている。というのは読んでいるだけではすんなりと頭に入ってこないのである。数ページ読んでみて、その部分を整理して、ここに書いてみて、ああそういうことなんだなと理解しているのだ。私が持っている知識を披露しているのではなく、私自身が理解するために書いているのである、皆さんはそれに付き合って下さっているという状況です。さて時代は天武天皇の御世になる。

676年1月1日「大学寮諸学生陰陽寮外薬寮及舎衛女堕羅女百済王善光新羅仕丁等捧薬及珍異等物進」⇒「大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮や舎衛女・堕羅女・百済王善光・新羅の仕丁たちが薬や珍異等物(めずらしきものども)を奉献した」
つまり新年元旦に天皇に珍しいものを献上したという記録である。注目するのは、ここにも舎衛女が出てきているのである。伊藤義教先生によると、殆どの学者が舎衛国の女としているそうである。舎衛国あるいは舎衛城は梵語名をシュラーヴァスティー(在ネパール)であり、北コーサラ国の首都で、その郊外には有名な祇園精舎があったという。このシュラーヴァスティー説に異を唱えたのは僅か一人だけ井本英一先生であるそうな。井本先生というのは私が大学で4年間教えを受けた主任教授である。つまりゼミ担任である。私たちはそんなことは何も知らずに教えを受けていたのであるが。
それでは井本先生が唱えた説は「舎衛はトカーレスターンの地名Shaweghar または Sawe 」と同定されたそうである。伊藤義教先生はまた異なる説をお持ちのようである。この伊藤先生にも私は学生時代に講義を受けたのであった。そのころ先生は京都大学の教授であったが、非常勤講師として私たちに「古代文字の解読」の講義をされた。この場合の古代文字とは楔型文字つまり古代ペルシャ語の楔型文字のことである。我々にとっては現代ペルシャ語自体も初心者であるのに、そのようなものが理解できるはずはなかった。その先生が語られたダレイオス碑文を60歳代半ばにしてビストゥーンで直にお目にかかるとは、当時は想像だにしなかった。

新たにトカーレスターンとは何処なのかという興味も湧いてきた。何か謎解きのようになってきた。ここまで書いてきた行数はそれほど多くはないが、読んでは整理しながら書くもんだから、結構時間がかかった。久しぶりに快晴となり外は猛暑が再来した。少々疲れたので今日はここまでにして、続きは後日としよう。

ペルシャ語講座28:有用表現 あなたがいなくて寂しかった جای شما خالی بود

今日も簡単な表現をひとつ紹介しましょう。それは جای شما خالی بودد です。読み方は、 「ジャーエ ショマー ハーリー ブッド」です。ジャーは「場所」、ショマーは「あなた」、「あなた」と「場所」をくっつける場合は エ を使うので「ジャーエ ショマー」ですね。ハーリーは空っぽという形容詞。ブッドは三人称単数の過去形のbe動詞(was)ですから、「空っぽでした」。全体で「あなたの場所は空っぽでした」という直訳になります。「私たちこんなに楽しかったんだよ。でも、そこにあなたが居なくて寂しくてとても残念だったわ」というようなニュアンスです。会話ではよく使います。アルファベットでも表記しておきますね。jaa-e-shomaa khaalii bud です。アーやリー の伸ばす部分はaaのように二つ書きました。ハーリーは haarii ではなくてkhaalii ですから、ハはhではなくてkh ですから、喉の奥をこすって音を出して下さい。リーの音は英語のエルです。ペルシャ語の場合発音でむつかしいのはこのkh位ですが、すぐに慣れますし、相手も理解してくれるので神経質になる必要はありません。

ついでに「私、寂しくなっちゃった」は دلم تنگ شد   delam tang shod デラム タング ショッド です。دلم   は دل من ということです。心という意味のデルdelと私のマンmanをくっつけています。タングはさみしいですから「私の心がさみしかった」「私寂しかったよ」です。ショッドは英語のbecomeの過去形です。今さびしいよと現在形がいいならショッドの部分をbe動詞現在のastでいいです。日本語では私が寂しいなら主語は私になりますが、この場合のペルシャ語の主語は「私」ではなく「私の心」ですから、三人称になります。

最後にもう一つ 「私の心は燃えている」ならデラム ミスゼ