アラブ人、アラブ民族とは?(続き):旧約聖書から

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「ユダヤ人とは?」を書く前に、「アラブ人、アラブ民族とは?」の続きを書いてみたいと思いました。それは旧約聖書を思い出したからなのです。

私の手元には旧約聖書が2冊あります。一つは妻が中学時代に使ったもの。もう1冊は娘が同じ中学時代に使ったものです。二人は同じキリスト系の学校だったので、聖書は必須だったそうです。私は中東のことを研究する上でイスラムだけではなくて、ユダヤ教やキリスト教、聖書などにも興味があります。そこで二人の聖書を譲ってもらい大事にしながら時々読んでいました。そこでアラブの祖のことが書いてあったことを思い出したのです。

創世記第25章7節~(アブラハムの死と埋葬)
7アブラハムの生涯は百七十五年であった。 8アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。 9息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、 10その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。

創世記第25章12節~(イシュマエルの子孫)
12サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。 13イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、 14ミシュマ、ドマ、マサ、 15ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。 16以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。 17イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。 18イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。

アブラハムと女奴隷であったエジプト人のハガルとの間にできた息子がイシュマエルであった。そして、その子孫たちがエジプトの近くで住むようになったと記されている。このイシュマエルがアラブ人の祖になっているのである。
一方で、アブラハムと妻のサラとの間に生まれたのがイサクである。創世記25章19節からは「アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。と始まり、イサクの子供たちが生まれる過程を記しています。双子の息子でした。エサウとヤコブです。イサクの一族がユダヤ人の祖となるのです。

アラブ人の祖も、ユダヤ人の祖もアブラハムから生まれた異母兄弟であるということなのです。

私が今回言いたいことは、聖書に書かれていることを物語として読むことは非常に面白いということをお伝えしたかったのです。いかがですか?聖書に興味を湧いてきませんでしょうか?聖書を読んでいると他にも興味深いことがあります。ユダヤ人がバビロン捕囚から解放したペルシャのキュロス大王が、旧約聖書では英雄になっています。当然のことでしょう。このユダヤとペルシャが現代世界ではイスラエルとイランという形で激しく敵対しているのです。キュロス大王のユダヤ人解放は歴史上の事実です。聖書には伝説と事実が入り混じっている点も謎めいて面白い点でしょう。例えばノアの方舟は空想物語なのでしょうか或いは大洪水という歴史的な災害に基づいた事実なのでしょうか?????

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ビストゥーンの磨崖碑(3)動画とスライドショーを追加

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このブログを始めた最初の頃、2019年1月11日に「ダレイオス1世とビストゥーンの磨崖碑」、12日に「ビストゥーンの磨崖碑」、翌13日に「ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!」という記事を書いています。このブログを書き始めて約1年半が経ったことになります。ワードプレスを使うのも初めてのことで、戸惑いながら記事を書いたものでした。アクセスも殆どない状態が続いたが、最近になって閲覧数が少しずつ増えてきているのは嬉しいことです。そして、どの記事が閲覧されているかというと、意外と古いところ、つまり歴史の古い部分が見られているということも分かりました。つまり、このヒストゥーンの碑文辺りが見られているということです。ということで、ビストゥーンの碑文秘話を過去の記事に加えてちょっと詳しく書いてみました。そして、私が訪れた時に移した写真を動画にしたものを最後に添付することにしましたので、ご覧いただければ嬉しく思います。

ここを訪れたのはもう8年ほど前のことになります。その頃私は、名古屋の南山大学のエクステンション・カレッジで「中東世界を読み解く」という講義をしていました。そして、私がイランへ行くというと、80代の男性と、30代の女性が一緒についてきたのでした。この時の目的はビストゥーンの碑文を見るということだったのです。それで早速ケルマンシャーから現地へ行ったのでした。以前行ったときに買ったガイドブックには修復中であるので、見ることができないと書いていたのですが、今回の新版のガイドブックにはそう書いてはいなかったのです。ところが行ってみると、維持管理のために、修復時の時のまま、碑文の前に木造のプラットフォームのような広い場所が作られていました。つまり、崖の下からは全然見えない状態だったのでした。次の写真の通りでした。私は望遠レンズも持参したのですが、無理でした。

私は土産物屋のおじさんに管理事務所を教えてもらって行きました。職員が何人かいたので、その一人に「私は日本から碑文を見るために来たのです。上に登って見せていただきたい。これを見ないでは日本に帰れません」とお願いしたのです。あまり熱心に聞いてくれたようには感じなかったのですが「分かった。でも今は大勢の人たちが来ているので、貴方だけに見せるのは難しい。もう少ししたらお昼になるので皆ランチでちょっと人が少なくなるだろう。その時に案内しよう。」と言ってくれたのでした。私は先ほどの土産物店に戻り、お昼になるのを待ちました。でも、一向に事務所の人が来る気配はありませんでした。それで再度事務所に出かけることにしました。そして、中に入っていって、ちょっと偉そうな(管理者的な人)の近くにいって、話しかけようとすると、彼の方から「〇〇君、連れて行ってやれ!」と若い男性に向かって言ったのでした。現場に戻って鉄格子で閉鎖していた扉を開けて、仮設の階段を登り上に行ったのですが、なかなか険しいところでした。碑文の前に着くとそこは少し広いスペースができていました。私は感動で頭の中が真っ白になりました。眼前にあの歴史的なレリーフがあるのです。ローリンソンが解読しようと大変な苦労をして大偉業を成し遂げたレリーフがあるのです。しばらく感動に浸ったのでした。同行の二人も私の説明を聞いてそのすごさを知って感動していました。こんなことを体験させてもらえて「先生ってすごいなあ」ということでした。

管理事務所の案内してくれた男性が次の写真の左から二人目の背の高い青年です。左端の男性は、現地で雇ったタクシーの運転手です。一緒に連れて行ってあげました。

正確にいうと、事務所というのは世界遺産管理事務所です。そして、案内者が言うには「世界中から研究者などが見学許可を求めてきています。が、私たちは許可してはいないんです。危険ということもありますし、大体この碑文については研究もしつくされていますしね。でも、あなたのように突然きて、見るまで帰れないというわけですから、上司もOKしたんですね。特にあなたがペルシャ語でお願いしたのが好印象だったようです。」と言ってくれたのでした。

ここに写真を動画にしたものをアップしようとしたのですが、容量が大きすぎると出てしまいました。仕方がないのでユーチューブにアップしたものにリンクさせることにしました。ご覧ください。動画とスライドショーの二つです。再生時は画面を最大にしてご覧ください。

 

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想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

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2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

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アッバース朝(3)イスラム帝国の分裂

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繰り返しになるけれども復習の意味も兼ねて、イスラム誕生からアッバース朝までを図示してみた。

イスラム誕生からウマイヤ朝に至る歴史を上の図一枚で表すことができた。次にウマイヤ朝は領土を広げたが、アッバース軍との戦いで敗れたのでしたね。この時、アッバース軍はウマイヤ朝の本拠であったシリアで、ウマイヤ家の者たちを見つけしだい殺していった。戦争や革命とはいつの時代もこのような残酷なもの。しかしながら、この時にかろうじて逃げることができた者がいた。アブドゥル・ラーマンという男である。彼はお付きのもの一人を連れて、エジプトから北アフリカを転々として、やがてイベリア半島にたどり着いたのである。彼はそこで支持者を得ることができて、そこでウマイヤ朝を再興することができたのであった。東のアッバース朝に対して西に後ウマイヤ朝が勃興したのであった(756年)。さて、下の図を見ると、アッバース朝と後ウマイヤ朝の間にファーティマ朝というのがある。これは成立が909年であるから、もう少し先のことなのではあるが、この王朝の始祖ウバイドゥッラーがカリフを宣言して、アッバース朝の権威を否定したのである。アッバース朝が滅んだのではなく、同時代に3人のカリフの国が存在するというイスラム世界にとっては異常な分裂状態になったということである。

ファーティマ朝について補足すると、この王朝はシーア派である。シーア派の主流は十二イマーム派であると前に述べたことがあるが、それではなく七イマーム派である。シーア派であるから初代がアリーであることには変わりないが、その後、枝分かれした一派なのである。後日、この王朝が大活躍する歴史上の事件がおきるので、覚えておいて欲しい。

後ウマイヤ朝が立ち上がったとしても、アッバース朝が後ウマイヤ朝を征服するにはあまりにも遠く、それほどの強力な軍勢があるわけでもなかった。イスラム世界はあまりにも広くなりすぎていた。それを中央集権的に治めるのは難しくなっていた。また、イスラムは非アラブ民族にも深く浸透してきており、非アラブ民族のイスラム世界も拡大していた。

 

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ゾロアスター教(2)現代に生きているゾロアスター教

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前回、ゾロアスター教について簡単に紹介しました。ユダヤ教やキリスト教以前に誕生した古い中東の宗教です。ゾロアスター教はアケメネス朝で王族の信仰の対象となり、ペルシアを中心に普及していきました。ササン朝ペルシアでは国教となるのでした。しかしながら、ササン朝がイスラム勢力の台頭によって滅びた後、ゾロアスター教は衰退してしまったわけです。現代でもゾロアスター教徒はいます。イランではヤズドという町に多くの信者がいます。またパキスタンやインドに渡った人々の中にも多くいるようです。彼らはパールシー教徒などと呼ばれているようです。

ゾロアスター教が今日の社会に生きている名残りの代表的なものはノウルーズでしょう。3月の春分の日がノウルーズです。ノウは新=英語のnew, ルーズは日です。新しい日=新しい年の意味になります。つまり新年です。イランはイスラムの国です。当然のことですが、イスラム暦を使用しています。が、イランではもう一つの暦がごく普通に使われています。イラン暦というものです。この暦はイスラム暦と同じように西暦622年のヒジュラを紀元とした暦です。イスラム暦はそこから太陰暦でスタートしていますが、イラン暦は太陽暦です。従って、イラン暦の新年は毎年3月の春分の日に始まるのです。ノウルーズはイランだけでなく中東の他の地区、中央アジアの一部の地域でもお祝いするところがあります。イランのノウルーズは日本の正月飾りと同じように定番の飾り物があります。それはハフト・シン(Haft sin)と呼ばれます、ハフトは7で、シンはペルシア語のSです。Sの頭文字のものを7つ揃えるのです。ニンニクやリンゴ、日本のおせちのようにそれぞれに意味があるのです。ユーチューブでもハフト・シンの動画を見ることができます。イスラム世界では新年を祝うということはありませんが、イランではノウルーズの新年を盛大にお祝いするのです。この太陽中心の暦がゾロアスター教の名残なのです。

ノウルーズに子供たちはお年玉をもらいます。エイディというものですが、ちょうど日本のお年玉と一緒です。ノウルーズが近づく年末最後の水曜日にはチャハールシャンベ・スーリーという行事があります。家の近くの広場や路上で枯れ木を燃やして、その上を子供たちがピョンピョン飛び跳ねる行事です。男も女も一緒になって飛び跳ねます。日本でも火の上を歩く行事がありますね。それと同じような年末の行事です。チャハールシャンベというのは水曜日、スーリとは火の炎という意味です。水曜日の行事なのですが、行われるのは火曜日の夜になります。なぜでしょうか。イスラム世界では一日は日没から始まるのです。ですから火曜日の夜はすでに水曜日になっているのです。面白いですね。もっともっとお話ししたいことはありますが、今日はこの辺でさようなら。

 

 

 

 

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ゾロアスター教について

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ビストゥーンの磨崖碑のところでアフラマズダのシンボルが描かれていた。ダレイオス大王はアフラマズダ神が我を王位を授けたという意味を述べていた。そこでアフラマズダを神と崇めるゾロアスター教について触れておくことにしよう。

アフラマズダはゾロアスター教の神である。ゾロアスター教とは日本では拝火教、中国では祆教(けんきょう)と呼ばれた宗教であり、拝火教という名が意味するとおり、「火を崇める宗教」である。祭壇には途絶えることなく火が灯されているという。松本清張氏は著書『ペルセポリスから飛鳥へ』のなかで「ゾロアスターの教義」として書いている部分があることを以下に紹介しよう。

ゾロアスター教は西アジアに紀元前1000年ころからある土俗信仰のミトラ神(太陽信仰)を理論化し組織化したものだが、太陽たる「善」のほかに「悪」の存在を認め、これを暗黒にあらわして二元的な世界観にした。暗黒を「悪」としてあらわしたのは、夜が急激に冷え込むイラン高原や砂漠地方の自然条件のもとに住む人間の実感から出ている。岩山の断層がゆがみ、斜面や頂上が崩壊し、亀裂が生じ、岩屑が落ちるのも、前に触れたように昼間の太陽熱による膨張と夜の寒冷による収縮の繰り返しからである。光明の善神アフラマズダと暗黒の悪神アングロマイニュ(インドの『ヴェーダ』ではアシュラにあたる)との闘争は長く、アングロマニュアの率いる軍隊によってアフラマズダの軍隊が敗北し、世界にはしばしば終末がおとずれようとする。だが、終局的にはアフラマズダの軍隊が勝利し、ここに世界の救済がなるというものである。このことがユダヤ教に影響を与え、それまでは唯一神ヤーハウェのみであったが、悪魔の存在を認めて二元論とした。また仏教に影響を与え、終末思想つまり末世思想となる。・・・・・・だが、終末期には救世主が現れる。ゾロアスター教ではそれがゾロアスターの預言者であり、仏教においては弥勒であり、ユダヤ教ではダビデであり、キリスト教ではキリスト自身である。・・・

引用部分の終わりの方は少々????と思うところもあるが、松本清張さんはゾロアスター教に思い入れが強く、飛鳥の石造物とゾロアスター教の関係を強く訴えている自称考古学者なのである。ゾロアスターについてはちくま学芸文庫から前田耕作氏の『宗祖ゾロアスター』が発刊されている。定価千円(税別)。非常に面白い著書である。

ゾロアスター教の宗祖がゾロアスターである。この人物は謎の多い人である。日本では馴染みが薄いのであるが、西欧社会には想像以上に影響力をもっていたのである。

「アテナイの学堂」はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。・・・これはウィキペディアの文章を引用したのであるが、このアテナイの学堂という絵の中に地球儀を抱えたゾロアスターが占星術師として描かれているのである。興味ある人はインターネットでご覧いただきたい。

さらに、ニーチェの作品『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだことはなくとも、題名は知っている人が多いだろう。このツァラトゥストラという人物が実はゾロアスターなのである。ペルシア語の呼称をドイツ語読みにしたものである。

そうそう、思い出しました。そういえば自動車メーカーのマツダというのはイランではMAZDAと車体に書かれている。たしかマツダの社名の由来が、アフラ・マズダにあるということを聞いたことがある。本当かな?(笑)

今日はこの辺でおわりとするが、ゾロアスター教と奈良東大寺のお水取りの行事が関係あるとする学者さんもいるのである。代表的なのが故伊藤義教先生である。小生は昔、この先生からビストゥーンの碑文の楔型文字について講義を受けたことがある。そのような過去が私を中東世界に引き込んでいった一つの要因かもしれない。

 

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オリエント世界 (4) ユダヤ人の解放

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上の図は帝国書院発行の『最新世界史図説・タペストリー』から拝借したものであるが、アッシリアが崩壊したあとの四王国時代が描かれている。そして、その後のオリエントを再び統一したのはメディアの支配下から立ち上がったペルシア人のアケメネス一族である。アケメネス一族はアステュアゲス治下のメディアを陥落させたあと、クロイソス治下のリュディアを、ナポニドス治下の新バビロニアを征服していった。そしてアケメネス朝ペルシアが誕生した。王位に就いたのはキュロス大王であり、スサに最初の都を築いた。彼が新バビロニア王国を打ち破ったあとに最初に行ったことは、バビロニア捕囚、つまりユダヤ人たちの解放であった。ユダヤ人たちはパレスチナに戻ることができ(戻らなかった人もいる)、破壊された神殿を再建したのであった。ユダヤ人の歴史はこのあとハスモン朝の建設、ローマの支配下、ローマとの闘いなどと続くのであるが、それはまた別の機会に譲ろう。ここでは、ユダヤ人たちがバビロン捕囚の身から解放してくれたのがペルシアのキュロス大王であったということを強調したいのである。現在、ペルシア人のイランとユダヤ人のイスラエルは犬猿の仲であるが、古代の歴史を振り返れば、ユダヤ人たちはペルシア人たちに大きな借りがあるということになる。旧約聖書のエズラ記の冒頭は「ペルシアの王キュロスの布告」である。キュロス大王がユダヤ人たちにエルサレムへの帰還を許し、神殿を再建することを許すということが布告されたと記されているのである。ユダヤ人にとってキュロス大王は英雄だったのである。

 

 

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オリエント世界 (3) バビロニア捕囚

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前回、ヘブライ王国やバビロン捕囚の語句がでたので、それに関連して書いてみよう。旧約聖書ではユダヤ人はアブラハムに率いられて古代メソポタミアのウルから西に向かい、カナンの地に入植した。そこは乳と密の流れる地であり、ここがパレスチナであった。ここでユダヤ人達はペレシテ人の地に初めて入植したことになる。しかし、その後、飢饉などのせいでユダヤ人たちはエジプトに移住していった。エジプトでは奴隷のような扱いをうけて苦難の日々を送っていたことから、再びエジプトを脱出することになる。それを率いたのがモーセ(モーゼ)である。旧約聖書の「出エジプト記」にはそのことが記されている。モーセに率いられた一行はエジプト軍に追いかけられ進路がなくなった時に海が割れて道ができるなどの奇跡が起きる中、十戒を授けられるが、それを守り、ついにカナンの土地に戻ることができたのである。しばらくの間、ユダヤ人たちの世界は繁栄し自分たちの国・ヘブライ王国を持つことができた。都エルサレムには神殿が建設された。この神殿は今では残っていないが、ユダヤ教徒が聖地としているのはこの神殿跡である。神殿の壁の一部が残っており、それが「嘆きの壁」である。知恵者で有名なソロモン王はこの国の第三代目の王であった。しかしながら、この王国は紀元前926年頃に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国はその後アッシリアによって滅ぼされた。ユダヤ王国はもう少し長く続いたが、新バビロニアにより征服され、ユダヤ人たちは捕らえられてバビロンに連れていかれてしまう。歴史でいうところの「バビロニア捕囚(バビロンの捕囚)」である。時は紀元前586年~538年頃のことである。

旧約聖書の詩編137には次のような詩がある。この中のシオンというのはエルサレム神殿のあった丘のことであり、ユダヤ人たちがシオンの丘に国家を造って戻ろうという運動がシオニズム運動と呼ばれたのであった。

キーワード:オリエント世界、バビロニア王国、ヘブライ王国、ユダ王国、イスラエル王国、モーセ、旧約聖書、アッシリア、出エジプト記、バビロン、シオニズム、シオンの丘、詩篇

 

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オリエント世界 (2) アッシリアのオリエント統一

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歴史とは栄枯盛衰そのものである。国が滅ぼされ、新たな国が興り、それがまた滅びゆく。メソポタミアの歴史もそうであった。ヒッタイトのほか、地中海貿易で活躍したフェニキア人たち、内陸貿易で手腕を発揮したアラム人たちがいた。ユダヤ人はダヴィデやソロモンという名君を得て繁栄した。ヘブライ王国が栄華を極めた。それもつかの間のことだった。ヘブライ王国はユダ王国とイスラエル王国に分裂する。その辺の流れを図示してみると次のようになった。

図の中ほどから下の部分に横たわっている部分が今日の重要事項である。前7世紀前半のアッシリアのオリエント統一である。北メソポタミアから興ったのがアッシリアであった。アッシリアが発展したカギとなったのは強力な常備軍だった。アッシリアは軍事遠征を繰り返して巨大帝国を維持しようとした。統一後も征服した地域を圧力をもって治めた。アッシリアの圧政は支配される人々の反感をかいアッシリアの命運は尽きた。アッシリアを直接討ったのはメディアであるが、あっしり滅亡後のオリエント世界にはメディアのほかにリディアがあり、バビロニアが新バビロニアとして復活し、群雄割拠のありさまとなった。図で分かるように、二つに分かれたユダヤ人の国・ユダ王国が滅びずにいたのであるが、新バビロニアによって滅ぼされた。そして、ユダヤ人たちが捕囚となってバビロンに連れていかれたのである。

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オリエント世界 (1) メソポタミア文明からバビロン第一王朝

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中東世界について2回書いたのであるが、アラブやトルコ、イランという前の中東世界があった。中国、インドとともに世界の四大文明であるメソポタミア文明とエジプト文明が中東地域で誕生した。現代世界において、政治・社会面で不安定な地域ではあるが、その昔、この地域は文明の開けた世界の中で最も発展していた地域であった。やがてこの地域はヨーロッパ世界からオリエントと呼ばれるようになる。その時代を大雑把に下図のように描いてみた。

メソポタミア文明を築いた中心はシュメール人であった。ウル、ウルク、ラガシュといった有力な都市が互いに競い合って発展していった。だが、シュメール人がどのような人々だったかは、いまだに謎とされている。

メソポタミアは世界で最も早く文字が発明された場所でもある。彼らの文字は絵文字の起源となり、やがて楔形文字に発展していった。文字は商業、経済、政治、文学といった多くの場面で使用された。メソポタミア周辺で発見された粘土板文書は50万枚にも達すると言われている。粘土板に記された有名な物語が『ギルガメシュ叙事詩』である。神と人間が入り混じった主人公ギルガメシュの物語で粘土板に書かれている。「ノアの方舟」の元と思われる洪水伝説が語られている。矢島文夫さんが訳出したものがちくま学芸文庫から出版されている(900円税別)。

図に記されたアツカド文明は紀元前2330年頃から約1世紀の間、シュメール時代に割り込むように栄えた。アツカド人はアラビア半島にルーツをもつセム系言語(アラビア語もセム系)を話す民族だったとされている。その次がバビロニアである。前2000年頃~前9世紀頃まで、中部イラクのバビロンを中心に栄えた。ハンムラビ王はメソポタミアを統一して帝国を築こうとしたが、多様な民族を統合するために制定したのが「ハンムラビ法典」であった。そのバビロニア王国もヒッタイトの攻撃により滅びた。

 

 

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