オリエント世界の風土

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前回の世界史学習の答を記入しておきましたので、確認してください。ネタ本となっているタペストリーの該当部分をちょっと取り上げておきましょう。

四角い枠の中の文字が小さいので、以下に書いておきましょう。
「エジプトはナイルの賜物」
ヘロドトスはエジプトの豊かさを、定期的に氾濫を繰り返して沃土をもたらすナイル川のめぐみとしてこうよんだ。

「塩害に悩む」
この地域では早くから灌漑農業が行われ、穀物の収量も増えた。一方で、灌漑用水に含まれる塩基物によって、土壌中の塩分も増加していった。そのため流域は最古の農業地帯でありながら、徐々に農業は衰退していったと考えられる。また水量が豊かで、ときに大洪水を引き起こした。

「肥沃な三日月地帯」
9000年前、人類が最初に農耕を始めた地域の一つ。平原と高原の境にあたる、森林の多様な植物と開墾しやすい平原が出会う地。

「ギルガメッシュ叙事詩」
古代メソポタミアの英雄でウルクの王とされているギルガメッシュの伝説的叙事詩。「旧約聖書」の「ノアの箱舟」の原型だとされる洪水説話が記載されている。

「ベヒストゥーン碑文」
ラガシュ周辺の「王の道」に面した岩壁に刻まれた碑文。ダレイオス1世の業績が彫られている。

「遊牧民の地」
アラブとは遊牧民を意味し、アラビアとは彼らが住んでいる地、すなわち砂漠を意味する。半島中央には246万㎢(日本の約6.5倍)の砂漠がある。

最後の項目の中の「アラブ」についての説明の部分は少し違和感があります。アラブとはアラビア語を母語とする人々の集団と言った方がいいでしょう。

更にユーフラテス川について次のような図と説明があります。

こちらは、このままでも読めますね。
先日紹介したナツメヤシ(デーツ)がメソポタミア原産であり、年二回の収穫ができ、食料として以外の用途にも幅広く利用されてきたことが紹介されています。
さらに、メソポタミア文明を支えたのは粘土とアシであると説明しています。
粘土と葦というのが興味深いです。私はアシがペンに使われたことはよく知っていました。一見ひ弱いと思う葦が船材、建築材に使われたのですね。葦のペンのことですが、実は私はそれを沢山持っているのです。

アラビア書道を始めた時に、買い求めたのです。アラブでは葦ペンを使って文字を書いていたのですから、アラビア書道も葦ペンを使うわけです。しかしながら、葦ペンは弱いです。葦にも色々あるでしょうから、固めのものを使うでしょう。でも、日本なら竹があるので、いま私たちは竹を利用しています。中東の人たちも今は竹を手に入れることができるので竹を利用することが多いと思います。話がアラビア書道のペンにまで及びました。それではまた。

 

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メソポタミアの民族について

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5月1日に「メソポタミア」の記事を書いた。そこでは、シュメール人やアムル人、カッシートなどという民族が登場している。メソポタミアから地中海東岸にかけての地域の古代歴史には多くの民族が現れては消えている。またアムル人、エラム人、アラム人などとよく似た名前の民族なので、頭が混乱することも多々である。今回は頭を整理する意味で、この当時の民族を整理しておこうと思ったのである。いつものように、「世界史の窓」を利用させて戴いた。謝謝。

ヒッタイト地図

シュメール人:
民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部(ティグリス・ユーフラテス川下流)で都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。紀元前4000年紀(前3000年代)の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行いながら村落を形成し、前2700年ごろまでにウル、ウルク、ラガシュ、キシュなどの最初の都市国家が生み出されていった。シュメール人の民族系統は不明であるが、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられている。

アッカド人/アッカド王国/アッカド語:
アッカド人はセム語系に属する民族で、前2300年、メソポタミア全域の都市国家を最初に統一し、領域国家を建設した。アッカドはメソポタミア南部のユーフラテス下流でバビロニアといわれた地方の北よりの地域名で、現在のイラクの中部に当たる。
サルゴン1世;アッカド人は次第に南部のシュメール人と抗争するようになり、前2300年頃、サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王国(前2334~2154年)(アッカド王朝とも言う)を成立させた。サルゴン1世は交易路を抑え、メソポタミア全域におよぶ中央集権的な領土国家の最初の支配者となった。彼は「戦いの王」とか、「四海の王」と称したと言われているが、伝説的な内容も多い。
ナラム=シン王;アッカド時代の遺品としては、スサで発見された「ナラム=シン王の石碑」(ルーブル博物館蔵)が有名。ナラム=シンはサルゴン1世の孫で、征服地を西はアルメニア、東はエラム(イラン西部)にまで広げ、アッカド王国の全盛期を出現させた。アラムの中心であったスサで発見されたナラム=シン王の石碑はその戦勝記念碑のひとつであった。
シュメール人の復興;アッカド王朝は11代約180年続いたが次第に衰退し、前2150年頃、バビロニアの東北から興ったグティ人の侵略を受けて滅亡した。グティ人は約125年間、アッカドの地を支配したが、やがてメソポタミアではシュメール人が独立を回復、ウルを拠点にウル第3王朝が出現する。

アムル人:
セム語族遊牧民でアモリ人ともいう。前2000年紀前半のメソポタミアに、シリア砂漠から侵入しその中・下流域であるバビロニアを支配して、イシン、バビロン、ラルサなどの都市を形成し、シュメール人のウル第3王朝にかわって次第に有力となり、紀元前1900年頃、バビロンを都にバビロン第1王朝を築いてメソポタミアを支配した。その全盛期の王がハンムラビ王である。

ヒッタイト人:
ヒッタイトはインド=ヨーロッパ語族に属する一民族で、前1900年頃、西アジアに起こった広範囲な民族移動の動きの一つとして東方から小アジア(アナトリア=現在のトルコ)に移住し、既にその地で始まっていた鉄器製造技術を身につけ、有力になったと考えられている。ヒッタイト人はハッティともいわれ、前1650~1200年頃にかけてその地を支配し、さらに西アジアのメソポタミア地方にも進出した。
前1680年には、ヒッタイト王ハットゥシリ1世はハットゥシャシュ(現在のボガズキョイ)を首都として王国を建設、さらに前1595年にはバビロンを攻撃、バビロン第1王朝を滅ぼした。

エジプト新王国などとの抗争
前16世紀から前15世紀にかけて、西アジアにはヒッタイトの他、カッシートやミタンニ、アッシリアなどが登場し、ヒッタイトもふくめてこれらの国々の間で国際関係が展開された。  前13世紀にはシリアに進出したエジプト新王国と争い、前1286年頃にはラメセス2世とシリアのカデシュの戦いで対決した後、講和条約を締結した(最初の国家間の講和条約と言われる)。
しかし、前1200年頃、「海の民」の侵入を受けて滅亡したと思われるが、その事情はわからない点が多い。ヒッタイトが滅亡したことによって、独占していた鉄器製造技術が、西アジアから東地中海一帯へ拡散され、文明段階の青銅器時代から鉄器時代へと移行したと考えられている。

カッシート人:
カッシート(カッシュートともいう)の民族系統はインド=ヨーロッパ語族であるとわれたこともあったが、現在は否定されており、非セム系である以外は正確には不明である。ヒッタイトが支配していた小アジアの東部から北部メソポタミアにかけての一帯に自立したカッシート人は、前1595年にバビロン第一王朝がヒッタイトによって滅ぼされた後のバビロニアに入り、前1550年頃、バビロンを都に国を建て、36代約350年間にわたりバビロニアを支配した。

エラム人:
エラム人 Elam は、前22世紀ごろ、イラン高原の南西部、後のアケメネス朝の都スサを中心とした一帯で起こった民族。その系統は不明であるが、インドヨーロッパ語族のアーリア人が侵入する以前のイラン高原に、最初に居住していた民族の一つである。前12世紀中頃の前1155年にバビロニアのカッシートを滅ぼし、最盛期となった。その後も長く存続し、オリエント諸国と交易し、東方のインダス文明圏とも交渉があった。やがて前7世紀に、メソポタミア北部に興ったアッシリア帝国によって滅ぼされた(前639年頃)。
なお、山川出版世界史用語集では、エラム人についての記述は新課程用2004年版に登場したが、現行の2014年版では姿を消した。

アラム人:
フェニキア人、ヘブライ人と並ぶ、セム語族の民族で、前1200年頃から西アジアのシリアのあたりに定住し、内陸部の陸上交易に活躍した。彼らの使用したアラム語と、彼らが造りだしたアラム文字は、ユーラシア大陸の内部まで交易活動とともに伝えられ、広がっていく。後にイスラーム帝国のウマイヤ朝の都となるダマスクスはアラム人が建設した都市とされる。
彼らは統一国家を作ることなく、都市での交易活動を行っていたが、前8世紀にアッシリアのサルゴン2世に征服され、アッシリア帝国に含まれることとなった。しかし、アッシリア帝国ではアラム人の用いていたアラム語と、それを表記するアルファベットの一種であるアラム文字が、楔形文字で書かれるアッカド語とともに用いられ、後世に大きな影響を及ぼした。楔形文字とアラム文字の併用という状態は、アケメネス朝ペルシア帝国でも続いた。

 

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メソポタミア

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このブログを始めてから2年と4か月ほどが経過した。時々、最初の頃の記事を見返すのであるが、最初の頃の記事は短くて、要点のみを記しているようである。だらだらと長く書くよりもいい点があるかもしれないが、今読んでみると、少々舌足らずというか、充実していないと反省をする部分も多い。そういうことを感じながら、過去の記事とは重複する部分もあるだろうが、自分の興味関心の強い部分を改めて書いていくことにしよう。幸いにも新しい読者も増えつつあるので、なおさらのことである。そんな言い訳を前置きしておいて、今回は上の図のバビロン第一王朝について書いてみる。

いつものように世界史の窓では次のように書かれている。
バビロン第一王朝:
セム系遊牧民アムル人が西方からティグリス・ユーフラテス川中下流域のバビロニアに侵入し、紀元前1900年頃、バビロンを都に建設し、メソポタミア文明を発展させ、前18世紀のハンムラビ王の時に全盛期となった王朝。バビロニアはメソポタミア中部地域をさす。王朝名としては、後の新バビロニアと区別して「古バビロニア王国」ともいう。アムル人はシュメール人(ウル第3王朝)を征服したが、楔形文字などその文化を取り入れ、メソポタミア文明の最盛期を生み出した。
その全盛期の前18世紀ごろの王がハンムラビ王で、彼は周辺の諸国を征服してメソポタミアの統一を回復し、交通網を整備、さらにハンムラビ法典をつくったことで有名である。
バビロン第1王朝はハンムラビ王の死後急速に衰え、カッシートなどに圧迫され、最終的にはヒッタイトによって前1595年に滅ぼされた。ここまでを「古バビロニア時代」ともいい、メソポタミア地域だけの時代が終わり、オリエントの統一という世界国家の段階にはいる。

非常に分かり易く説明されている。メソポタミア文明を生み出したのはシュメール人であった。ウルやウルクの都市国家を発展させた。このシュメール人の都市国家を征服したのがアムル人であり、バビロンを都として建国したのがバビロン第一王朝(バビロニア王国)というわけである。彼らはシュメール人が築いた文化をさらに発展させた。そして、その最盛期が紀元前18世紀のことで、その当時の王が6代目のハンムラビであったわけだ。ハンムラビ法典で有名な王である。

ウルやウルクの位置、バビロンの位置を上図で確かめられたい。メソポタミアとは、古代のギリシャ語で二つの大河に挟まれた土地を意味する。二つの大河とは、チグリス川とユーフラテス川である。イラクの首都バグダードの位置も示されている。バグダードはバビロンのすぐ近くであり、メソポタミア文明が栄えた地域に建設された都市である。バグダードが建設されたのはアッバース朝であるから、時代はもっと新しいわけではあるが。

私たちが子供の頃は、ハンムラビ法典は世界最古の法典と習ったような気がするが、現在ではそうではなく、ウィキペディアでは「ハンムラビ法典は、完全な形で残る、世界で2番目に古い法典である」と記されている。つまり、ハンムラビ法典はシュメール人たちが作った法典を基にして作成されたということのようだ。「紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典。アッカド語が使用され、楔形文字で記されている。」とも記されている。社会の教科書などで、ハンムラビ法典が刻まれた石を見たことがある人も多いのではないだろうか。岡山オリエント美術館のツィッターのサイトには次のような図がアップされていた。高さはどれほどでしょうか?というクイズである。
岡山市立オリエント美術館【改修工事で休館中】 on Twitter: "【オリエン太クイズ】ハンムラビ法典 楔形文字でたくさんの決まりごとがしるされている。 上部分にいるのはハンムラビ王と太陽の神シャマシュ。 右と左、どっちがハンムラビ王かな?そして、 ハンムラビ法典の ...【こたえ🍬】
左側に立っているのがハンムラビ王。右側に座っているのが太陽の神シャマシュ。王権の象徴を受け取っている様子を表しているよ。そして、ハンムラビ法典の高さは225センチメートルあるんだ!
ということである。2m25cm.

ハンムラビ法典といえば「目には目を、歯には歯を」という復讐法で有名であるが、その内容はともかくとして、そのような法律が、紀元前1800年というような大昔の時代に作られていたことは驚きである。前出の世界史の窓には次のように書かれている。
社会正義の確立と維持が作成意図
ハンムラビ王はこの法典の作成意図を、その前文で「そのとき、アヌムとエンリルは、ハンムラビ、……わたしを、国土に正義を顕すために、悪しきもの邪なるもの滅ぼすために、強き者が弱き者を虐げることがないために、太陽のごとく人々の上に輝き出て国土を照らすために、人々の膚(の色つや)を良くするために、召し出された」と明確に述べている。また、後書きでは「強者が弱者を損なうことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、……、虐げられた者に正義を回復するために、わたしはわたしの貴重な言葉を私の碑に書き記し……」と述べている。
このような、王権の責務の一つが社会正義の確立と維持であり、その実現のために裁判を行い、法を定めるという思想は、メソポタミア文明のなかでウル第3王朝のシュメール法典であるウルナンム法典にさかのぼることが出来る。ハンムラビ王がこの法典を作成したのは、周辺諸国を征服し、メソポタミアの統一を再建した治世37年(前1755年)以降のことと考えられ、領域国家を統治する王権の正当性をこの碑文で示したのであろう。

このハンムラビ法典が刻まれた石の現物は1901年にイランのスーサで発見されたのである。足跡をたどれば、紀元前12世紀にエラムの王により奪われたものである。そして、エラムは紀元前540年、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世に占領されて滅んだという。従って、アケメネス朝の王都で発見されたことは道理に適っている。そして、現在はパリのルーヴル美術館が所蔵している。レプリカは岡山のオリエント美術館で見ることができるそうである。

今回はここまでとしておこう。
2021年のゴールデンウイークが始まったが、コロナのせいで昨年に続いて、外出自粛の日々を送らねばならない。こんな時は、ゆっくり読書したり、机に向かってみるのもいいことかもしれない。

 

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アラブ人、アラブ民族とは?(続き):旧約聖書から

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「ユダヤ人とは?」を書く前に、「アラブ人、アラブ民族とは?」の続きを書いてみたいと思いました。それは旧約聖書を思い出したからなのです。

私の手元には旧約聖書が2冊あります。一つは妻が中学時代に使ったもの。もう1冊は娘が同じ中学時代に使ったものです。二人は同じキリスト系の学校だったので、聖書は必須だったそうです。私は中東のことを研究する上でイスラムだけではなくて、ユダヤ教やキリスト教、聖書などにも興味があります。そこで二人の聖書を譲ってもらい大事にしながら時々読んでいました。そこでアラブの祖のことが書いてあったことを思い出したのです。

創世記第25章7節~(アブラハムの死と埋葬)
7アブラハムの生涯は百七十五年であった。 8アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。 9息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、 10その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた。

創世記第25章12節~(イシュマエルの子孫)
12サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである。 13イシュマエルの息子たちの名前は、生まれた順に挙げれば、長男がネバヨト、次はケダル、アドベエル、ミブサム、 14ミシュマ、ドマ、マサ、 15ハダド、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。 16以上がイシュマエルの息子たちで、村落や宿営地に従って付けられた名前である。彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。 17イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた。 18イシュマエルの子孫は、エジプトに近いシュルに接したハビラからアシュル方面に向かう道筋に沿って宿営し、互いに敵対しつつ生活していた。

アブラハムと女奴隷であったエジプト人のハガルとの間にできた息子がイシュマエルであった。そして、その子孫たちがエジプトの近くで住むようになったと記されている。このイシュマエルがアラブ人の祖になっているのである。
一方で、アブラハムと妻のサラとの間に生まれたのがイサクである。創世記25章19節からは「アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。と始まり、イサクの子供たちが生まれる過程を記しています。双子の息子でした。エサウとヤコブです。イサクの一族がユダヤ人の祖となるのです。

アラブ人の祖も、ユダヤ人の祖もアブラハムから生まれた異母兄弟であるということなのです。

私が今回言いたいことは、聖書に書かれていることを物語として読むことは非常に面白いということをお伝えしたかったのです。いかがですか?聖書に興味を湧いてきませんでしょうか?聖書を読んでいると他にも興味深いことがあります。ユダヤ人がバビロン捕囚から解放したペルシャのキュロス大王が、旧約聖書では英雄になっています。当然のことでしょう。このユダヤとペルシャが現代世界ではイスラエルとイランという形で激しく敵対しているのです。キュロス大王のユダヤ人解放は歴史上の事実です。聖書には伝説と事実が入り混じっている点も謎めいて面白い点でしょう。例えばノアの方舟は空想物語なのでしょうか或いは大洪水という歴史的な災害に基づいた事実なのでしょうか?????

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ビストゥーンの磨崖碑(3)動画とスライドショーを追加

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このブログを始めた最初の頃、2019年1月11日に「ダレイオス1世とビストゥーンの磨崖碑」、12日に「ビストゥーンの磨崖碑」、翌13日に「ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!」という記事を書いています。このブログを書き始めて約1年半が経ったことになります。ワードプレスを使うのも初めてのことで、戸惑いながら記事を書いたものでした。アクセスも殆どない状態が続いたが、最近になって閲覧数が少しずつ増えてきているのは嬉しいことです。そして、どの記事が閲覧されているかというと、意外と古いところ、つまり歴史の古い部分が見られているということも分かりました。つまり、このヒストゥーンの碑文辺りが見られているということです。ということで、ビストゥーンの碑文秘話を過去の記事に加えてちょっと詳しく書いてみました。そして、私が訪れた時に移した写真を動画にしたものを最後に添付することにしましたので、ご覧いただければ嬉しく思います。

ここを訪れたのはもう8年ほど前のことになります。その頃私は、名古屋の南山大学のエクステンション・カレッジで「中東世界を読み解く」という講義をしていました。そして、私がイランへ行くというと、80代の男性と、30代の女性が一緒についてきたのでした。この時の目的はビストゥーンの碑文を見るということだったのです。それで早速ケルマンシャーから現地へ行ったのでした。以前行ったときに買ったガイドブックには修復中であるので、見ることができないと書いていたのですが、今回の新版のガイドブックにはそう書いてはいなかったのです。ところが行ってみると、維持管理のために、修復時の時のまま、碑文の前に木造のプラットフォームのような広い場所が作られていました。つまり、崖の下からは全然見えない状態だったのでした。次の写真の通りでした。私は望遠レンズも持参したのですが、無理でした。

私は土産物屋のおじさんに管理事務所を教えてもらって行きました。職員が何人かいたので、その一人に「私は日本から碑文を見るために来たのです。上に登って見せていただきたい。これを見ないでは日本に帰れません」とお願いしたのです。あまり熱心に聞いてくれたようには感じなかったのですが「分かった。でも今は大勢の人たちが来ているので、貴方だけに見せるのは難しい。もう少ししたらお昼になるので皆ランチでちょっと人が少なくなるだろう。その時に案内しよう。」と言ってくれたのでした。私は先ほどの土産物店に戻り、お昼になるのを待ちました。でも、一向に事務所の人が来る気配はありませんでした。それで再度事務所に出かけることにしました。そして、中に入っていって、ちょっと偉そうな(管理者的な人)の近くにいって、話しかけようとすると、彼の方から「〇〇君、連れて行ってやれ!」と若い男性に向かって言ったのでした。現場に戻って鉄格子で閉鎖していた扉を開けて、仮設の階段を登り上に行ったのですが、なかなか険しいところでした。碑文の前に着くとそこは少し広いスペースができていました。私は感動で頭の中が真っ白になりました。眼前にあの歴史的なレリーフがあるのです。ローリンソンが解読しようと大変な苦労をして大偉業を成し遂げたレリーフがあるのです。しばらく感動に浸ったのでした。同行の二人も私の説明を聞いてそのすごさを知って感動していました。こんなことを体験させてもらえて「先生ってすごいなあ」ということでした。

管理事務所の案内してくれた男性が次の写真の左から二人目の背の高い青年です。左端の男性は、現地で雇ったタクシーの運転手です。一緒に連れて行ってあげました。

正確にいうと、事務所というのは世界遺産管理事務所です。そして、案内者が言うには「世界中から研究者などが見学許可を求めてきています。が、私たちは許可してはいないんです。危険ということもありますし、大体この碑文については研究もしつくされていますしね。でも、あなたのように突然きて、見るまで帰れないというわけですから、上司もOKしたんですね。特にあなたがペルシャ語でお願いしたのが好印象だったようです。」と言ってくれたのでした。

ここに写真を動画にしたものをアップしようとしたのですが、容量が大きすぎると出てしまいました。仕方がないのでユーチューブにアップしたものにリンクさせることにしました。ご覧ください。動画とスライドショーの二つです。再生時は画面を最大にしてご覧ください。

 

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想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

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2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

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アッバース朝(3)イスラム帝国の分裂

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繰り返しになるけれども復習の意味も兼ねて、イスラム誕生からアッバース朝までを図示してみた。

イスラム誕生からウマイヤ朝に至る歴史を上の図一枚で表すことができた。次にウマイヤ朝は領土を広げたが、アッバース軍との戦いで敗れたのでしたね。この時、アッバース軍はウマイヤ朝の本拠であったシリアで、ウマイヤ家の者たちを見つけしだい殺していった。戦争や革命とはいつの時代もこのような残酷なもの。しかしながら、この時にかろうじて逃げることができた者がいた。アブドゥル・ラーマンという男である。彼はお付きのもの一人を連れて、エジプトから北アフリカを転々として、やがてイベリア半島にたどり着いたのである。彼はそこで支持者を得ることができて、そこでウマイヤ朝を再興することができたのであった。東のアッバース朝に対して西に後ウマイヤ朝が勃興したのであった(756年)。さて、下の図を見ると、アッバース朝と後ウマイヤ朝の間にファーティマ朝というのがある。これは成立が909年であるから、もう少し先のことなのではあるが、この王朝の始祖ウバイドゥッラーがカリフを宣言して、アッバース朝の権威を否定したのである。アッバース朝が滅んだのではなく、同時代に3人のカリフの国が存在するというイスラム世界にとっては異常な分裂状態になったということである。

ファーティマ朝について補足すると、この王朝はシーア派である。シーア派の主流は十二イマーム派であると前に述べたことがあるが、それではなく七イマーム派である。シーア派であるから初代がアリーであることには変わりないが、その後、枝分かれした一派なのである。後日、この王朝が大活躍する歴史上の事件がおきるので、覚えておいて欲しい。

後ウマイヤ朝が立ち上がったとしても、アッバース朝が後ウマイヤ朝を征服するにはあまりにも遠く、それほどの強力な軍勢があるわけでもなかった。イスラム世界はあまりにも広くなりすぎていた。それを中央集権的に治めるのは難しくなっていた。また、イスラムは非アラブ民族にも深く浸透してきており、非アラブ民族のイスラム世界も拡大していた。

 

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ゾロアスター教(2)現代に生きているゾロアスター教

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前回、ゾロアスター教について簡単に紹介しました。ユダヤ教やキリスト教以前に誕生した古い中東の宗教です。ゾロアスター教はアケメネス朝で王族の信仰の対象となり、ペルシアを中心に普及していきました。ササン朝ペルシアでは国教となるのでした。しかしながら、ササン朝がイスラム勢力の台頭によって滅びた後、ゾロアスター教は衰退してしまったわけです。現代でもゾロアスター教徒はいます。イランではヤズドという町に多くの信者がいます。またパキスタンやインドに渡った人々の中にも多くいるようです。彼らはパールシー教徒などと呼ばれているようです。

ゾロアスター教が今日の社会に生きている名残りの代表的なものはノウルーズでしょう。3月の春分の日がノウルーズです。ノウは新=英語のnew, ルーズは日です。新しい日=新しい年の意味になります。つまり新年です。イランはイスラムの国です。当然のことですが、イスラム暦を使用しています。が、イランではもう一つの暦がごく普通に使われています。イラン暦というものです。この暦はイスラム暦と同じように西暦622年のヒジュラを紀元とした暦です。イスラム暦はそこから太陰暦でスタートしていますが、イラン暦は太陽暦です。従って、イラン暦の新年は毎年3月の春分の日に始まるのです。ノウルーズはイランだけでなく中東の他の地区、中央アジアの一部の地域でもお祝いするところがあります。イランのノウルーズは日本の正月飾りと同じように定番の飾り物があります。それはハフト・シン(Haft sin)と呼ばれます、ハフトは7で、シンはペルシア語のSです。Sの頭文字のものを7つ揃えるのです。ニンニクやリンゴ、日本のおせちのようにそれぞれに意味があるのです。ユーチューブでもハフト・シンの動画を見ることができます。イスラム世界では新年を祝うということはありませんが、イランではノウルーズの新年を盛大にお祝いするのです。この太陽中心の暦がゾロアスター教の名残なのです。

ノウルーズに子供たちはお年玉をもらいます。エイディというものですが、ちょうど日本のお年玉と一緒です。ノウルーズが近づく年末最後の水曜日にはチャハールシャンベ・スーリーという行事があります。家の近くの広場や路上で枯れ木を燃やして、その上を子供たちがピョンピョン飛び跳ねる行事です。男も女も一緒になって飛び跳ねます。日本でも火の上を歩く行事がありますね。それと同じような年末の行事です。チャハールシャンベというのは水曜日、スーリとは火の炎という意味です。水曜日の行事なのですが、行われるのは火曜日の夜になります。なぜでしょうか。イスラム世界では一日は日没から始まるのです。ですから火曜日の夜はすでに水曜日になっているのです。面白いですね。もっともっとお話ししたいことはありますが、今日はこの辺でさようなら。

 

 

 

 

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ゾロアスター教について

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ビストゥーンの磨崖碑のところでアフラマズダのシンボルが描かれていた。ダレイオス大王はアフラマズダ神が我を王位を授けたという意味を述べていた。そこでアフラマズダを神と崇めるゾロアスター教について触れておくことにしよう。

アフラマズダはゾロアスター教の神である。ゾロアスター教とは日本では拝火教、中国では祆教(けんきょう)と呼ばれた宗教であり、拝火教という名が意味するとおり、「火を崇める宗教」である。祭壇には途絶えることなく火が灯されているという。松本清張氏は著書『ペルセポリスから飛鳥へ』のなかで「ゾロアスターの教義」として書いている部分があることを以下に紹介しよう。

ゾロアスター教は西アジアに紀元前1000年ころからある土俗信仰のミトラ神(太陽信仰)を理論化し組織化したものだが、太陽たる「善」のほかに「悪」の存在を認め、これを暗黒にあらわして二元的な世界観にした。暗黒を「悪」としてあらわしたのは、夜が急激に冷え込むイラン高原や砂漠地方の自然条件のもとに住む人間の実感から出ている。岩山の断層がゆがみ、斜面や頂上が崩壊し、亀裂が生じ、岩屑が落ちるのも、前に触れたように昼間の太陽熱による膨張と夜の寒冷による収縮の繰り返しからである。光明の善神アフラマズダと暗黒の悪神アングロマイニュ(インドの『ヴェーダ』ではアシュラにあたる)との闘争は長く、アングロマニュアの率いる軍隊によってアフラマズダの軍隊が敗北し、世界にはしばしば終末がおとずれようとする。だが、終局的にはアフラマズダの軍隊が勝利し、ここに世界の救済がなるというものである。このことがユダヤ教に影響を与え、それまでは唯一神ヤーハウェのみであったが、悪魔の存在を認めて二元論とした。また仏教に影響を与え、終末思想つまり末世思想となる。・・・・・・だが、終末期には救世主が現れる。ゾロアスター教ではそれがゾロアスターの預言者であり、仏教においては弥勒であり、ユダヤ教ではダビデであり、キリスト教ではキリスト自身である。・・・

引用部分の終わりの方は少々????と思うところもあるが、松本清張さんはゾロアスター教に思い入れが強く、飛鳥の石造物とゾロアスター教の関係を強く訴えている自称考古学者なのである。ゾロアスターについてはちくま学芸文庫から前田耕作氏の『宗祖ゾロアスター』が発刊されている。定価千円(税別)。非常に面白い著書である。

ゾロアスター教の宗祖がゾロアスターである。この人物は謎の多い人である。日本では馴染みが薄いのであるが、西欧社会には想像以上に影響力をもっていたのである。

「アテナイの学堂」はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。・・・これはウィキペディアの文章を引用したのであるが、このアテナイの学堂という絵の中に地球儀を抱えたゾロアスターが占星術師として描かれているのである。興味ある人はインターネットでご覧いただきたい。

さらに、ニーチェの作品『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだことはなくとも、題名は知っている人が多いだろう。このツァラトゥストラという人物が実はゾロアスターなのである。ペルシア語の呼称をドイツ語読みにしたものである。

そうそう、思い出しました。そういえば自動車メーカーのマツダというのはイランではMAZDAと車体に書かれている。たしかマツダの社名の由来が、アフラ・マズダにあるということを聞いたことがある。本当かな?(笑)

今日はこの辺でおわりとするが、ゾロアスター教と奈良東大寺のお水取りの行事が関係あるとする学者さんもいるのである。代表的なのが故伊藤義教先生である。小生は昔、この先生からビストゥーンの碑文の楔型文字について講義を受けたことがある。そのような過去が私を中東世界に引き込んでいった一つの要因かもしれない。

 

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オリエント世界 (4) ユダヤ人の解放

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上の図は帝国書院発行の『最新世界史図説・タペストリー』から拝借したものであるが、アッシリアが崩壊したあとの四王国時代が描かれている。そして、その後のオリエントを再び統一したのはメディアの支配下から立ち上がったペルシア人のアケメネス一族である。アケメネス一族はアステュアゲス治下のメディアを陥落させたあと、クロイソス治下のリュディアを、ナポニドス治下の新バビロニアを征服していった。そしてアケメネス朝ペルシアが誕生した。王位に就いたのはキュロス大王であり、スサに最初の都を築いた。彼が新バビロニア王国を打ち破ったあとに最初に行ったことは、バビロニア捕囚、つまりユダヤ人たちの解放であった。ユダヤ人たちはパレスチナに戻ることができ(戻らなかった人もいる)、破壊された神殿を再建したのであった。ユダヤ人の歴史はこのあとハスモン朝の建設、ローマの支配下、ローマとの闘いなどと続くのであるが、それはまた別の機会に譲ろう。ここでは、ユダヤ人たちがバビロン捕囚の身から解放してくれたのがペルシアのキュロス大王であったということを強調したいのである。現在、ペルシア人のイランとユダヤ人のイスラエルは犬猿の仲であるが、古代の歴史を振り返れば、ユダヤ人たちはペルシア人たちに大きな借りがあるということになる。旧約聖書のエズラ記の冒頭は「ペルシアの王キュロスの布告」である。キュロス大王がユダヤ人たちにエルサレムへの帰還を許し、神殿を再建することを許すということが布告されたと記されているのである。ユダヤ人にとってキュロス大王は英雄だったのである。

 

 

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