キャビアの想い出

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世界三大珍味といえば、フォアグラ、トリュフ、キャビアである。長くイランに居たことがある小生にとってキャビアには懐かしい想い出がある。今日はキャビアについて書いてみよう。
キャビアはチョウザメの卵の塩漬けである。カスピ海以外ではアムール川でも採れることが知られているが、カスピ海産のキャビアが世界で一番評価が高いだろう。カスピ海産といってもロシア側のものよりイランで採れるものの方が高級?高品質と言われていた。今は日本でもチョウザメを養殖してキャビアを生産しようとしているところがある(例えば愛知県の山村)。チョウザメは成長してキャビアができるまでには10年はかかるとかである。話をイランのキャビアに戻そう。
キャビアの品質はチョウザメの種類によっても異なる。最も大きなチョウザメのベルーガ (Beluga) は体調 3m から4m、体重300kgを超えるものがある。キャビアの粒も大粒で黒より灰色に近い。産卵まで20年以上かかり、体重の15%程度のキャビアを採ることができる。体調2m程度のがオシュトラ(Astra) である。キャビアは中粒で茶色気味の黒褐色、時には金色に変化するものもあり、ゴールデンキャビアといって珍重される。私はカスピ海沿岸のラシュトの町に2年ほど滞在したことがあるが、その時に何度かお目にかかることができた。最も小さいチョウザメがセヴルーガ(Sevruga)である。体長1~1.5mで体重も25㎏以下であるため、キャビアも小粒である。色は暗灰色で黒に近い。日本でキャビアというと殆どこのキャビアであるが、他の大きなチョウザメのキャビアの味の方が数倍上である。

上の表は私が随分前にキャビアの生産量を調べた時のものである。イラン暦の年で書いているので1365年元旦=1986年3月であるから、以下、1991年、1996年、2000年、2001年、2002年、2003年、2004年である。ご覧の通りキャビアの生産量は年々減少している。試験場では1970年頃から養殖を行っていたが簡単ではないようだ。チョウザメの肉の量も示されているが、1379年からはキャビもその数値に含まれている。ちなみにチョウザメの肉の味は淡白で嫌みのない美味しいものであった。塩味で炙る(キャバーブ)エスタージョンキャバーブをホテルのレストランで何度も食べた。いつも醤油を持って行ってちょっと付けるととても美味しかった。チョウザメのことをペルシア語ではماهیان خاویاریという。キャビアの魚という意味である。英語はSturgeonである。ホテルのボーイは「エスタージョンキャバーブ」と大きな声で私たちに勧めてくれたものだった。

私の勤めていた会社の社長は日本からイランに来るときにはいつも高級なマグロの塊?山?を沢山買い占めて持参してきた。それを大使館やら商社の支店長など、現地の有力者たちへのお土産にしたのだ。そして日本に帰るときにはキャビアを買い占めて日本へのお土産にしたのだった。私がテヘランにいるときはキャビアを買いに行くのが私の役目になっていた。キャビアは専売品なので専売公社のオフィスへ買いにいった。一度に沢山は売ってくれないから苦労したものである。ある程度通って顔なじみにもなってきたので苦労はなくなったが、その都度、手土産を持参したものである。彼らが一番喜んだのは日本や外国の少しセクシーな写真の多い雑誌類であった。

キャビアの産地であるラシュトに住んでいるときに、キャビアを買いに行く役目はなかったが、自分のために買う機会が増えた。売りに来るのである。専売品なので横流しの物なのかもしれないが、日本人なら買ってくれると思って家に来るのである。しかもそれがゴールデンキャビアなのである。ゴールデンキャビアは市場には出ていないので最高の珍味であるが、味は特にうまいわけではない。キャビアだって好きでないという人は沢山いる。私は酒の肴にして食べたが美味かった。何しろ日本に比べて格安なのだからガバッと食べることができた。若かったから飲んだ後、ちょっとご飯を食べるが、ご飯の上にキャビアをドンとのせて掻き込むのである。最高の贅沢であった。ケチ臭くチビリチビリ日にちをかけて食べているうちに、傷んでいることに気づかず酷い目に遭った日本人を医者に連れて行ったこともある。キャビアで当たると怖いのである。

冒頭の画像はアマゾンで販売しているキャビアの一部である。もう長い間、キャビアを食べたことがない。

ペルシア語通訳の想い出:大臣の通訳から犯罪者の通訳まで

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春爛漫の季節になりましたね。桜は満開です。上の写真は家のすぐそばの公園の桜です。遠くに行かなくてもこんな奇麗な桜が見ることができることは嬉しいことです。2枚目は我が家の庭のアーモンドの木の花です。桜より10日ほど早く満開になって、花の期間も桜よりは長いのがアーモンドの良いところです。花は桜に似ています。そのアーモンドに写っている小鳥はシジュウカラのの雌です。軒下に掛けておいた巣箱にせっせと苔を運び入れているのです。ここ2~3日は巣作りの仕上げとして犬の白い毛を集めて運び込んでいます。もうすぐ産卵、そして可愛いヒナが現れることでしょう。

このブログに中東・イスラム関係以外のことを書いたことはありませんが、この春の陽気につられて、たまには日常のことに触れることがあってもいいかなと思いました。これからも季節に合わせて、私生活の記事も書いていくかも知れません。その方が人間らしくて良いような気がします。

さて、今日から4月です。この年になると新年度だと言っても何も変わることはありません。孫たちの新学期や入学の季節程度です。一昨日、ある筋からペルシア語の通訳についての問い合わせがありました。今回はお断りしたのですが、ペルシア語の通訳という想い出について今日は書かせていただきましょう。

私のペルシア語は外国語大学の4年間が基礎になっています。企業に就職し、海外要員(といっても勿論ペルシア語の現場イランですが)育成のために2年間の期間がありました。イランの砂漠を緑にするという水資源開発計画に関わる会社だったのです。技術中心の会社です。ですから、私自身も名古屋大学の工学部の授業を受けに行かされたりしました。例えば土木計画学、土木施工学、建設機械学、などなどです。本職はコーディネーターですから、技術は関係ないのですが、やはり少しぐらい技術者たちのやっていることを知っておくようにとの会社の方針ですが。イランで革命が起こる前の8年ほど駐在していましたので、その間にペルシア語は鍛えられました。そこで通訳の想い出です。

このブログの中にも「幻のイラン新幹線」という記事を書いていますが、このプロジェクトのために日本の当時の国鉄の錚々たるメンバーがイラン入りして現地調査をしました。私はずっと同行してフォローしました。調査そのものが楽しいものでした。専用の特別車両を使って在来線を何日もかけて辿ったのです。食事はシェフが乗り込んでいてダイニング車両で食べるのです。途中の町ではライオンズクラブのメンバーがランチ会に招待してくれたりするわけです。すべて私が通訳しなければなりません。会議室の車両ではイラン国鉄の技術者と日本の技術者とのやり取りがあり、ずっと通訳しました。フィージビリティスタディが終わり、マスタープランが作成されて、分厚い報告書が完成しました。日本から当時の国鉄副技師長が報告書を持参して、深夜のメフラバード飛行場に着きました。そして、その日の午後に運輸大臣にプレゼンテーションする計画でした。私は当然、大使館の方が通訳すると思っていたのですが、副技師長が私にやってくれて言われたのです。調査中、ずっと一緒にやって来たので彼は私を信頼してくれていたのです。嬉しかったですが、大変な通訳でした。今から考えると、よくできたもんだと思うのです。この会議はその後もありました。

とにかく日本から誰かが来ると、駆り出されることが多かったです。有名な作家、有名な写真家、芸能人、有名な考古学者、ODAのメンバーなどなどは通訳というより、同行して案内してあげるというようなことでした。

さて、日本に帰ってからですが、日本では殆どペルシア語の需要はありませんでした。いまでも余りないでしょう。でも何処で調べて来るのでしょうか。弁護士さんから電話がかかりまして、留置所のイラン人との通訳を頼まれるようになったのです。昼間は会社勤務があるので、その後の7時ごろの夜でした。かなりの回数出かけました。一度引き受けると、ほかの弁護士さんからも依頼がありました。余談ですが容疑者の言うことを信じて、それを証明しようとして一生懸命事実関係を調べる弁護士さんがいました。また別のケースでは、事実関係はどうでもいいから、罪を認めなさいと、容疑者にいう弁護士もいました。彼が言うには、早く罪を認めた方が、結局は自分のためには一番良いんだということでしが。この弁護士さんは腕利きのように思ったものです。色々勉強させてもらいました。その後、裁判での通訳も依頼されたのですが、昼間の勤務を口実にお断りして、日本語の達者なイラン人を紹介して、その方が引き受けてくれました。でもそのうちに、自分の国の人の裁判には関わりたくない。悲しくなるということで、辞めることにしました。

長々と書いてしまいましたが、そんなことがあったのだと振り返ってみました。今私の実力は非常に落ちています。語彙もどんどん忘れているでしょう。ただ、今はペルシア語の詩を読むのが楽しみです。詩は少し難しいですが、理解して、それをアラビア書道(ペルシア書道)の作品にするのがライフワークになっています。私の作品はこのブログに何度か紹介している通りです。そういえば春分の日はイランのノウルーズ(新年)でした。今が一番美しい季節です。そして、元旦から13日目の日はsizdah bedarといってお弁当を持って外に出かけるピクニックデーなのです。そのような場所を通りかかると、ベファルマイ、ベファルマイと言って無理やりごちそうしようとするのです。メフマンドゥースト=おもてなしの国なのです。

 

想い出の中東・イスラム世界:パーラヴィー国王の切手

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前回はロシアとウクライナの戦争にこじつけて、無理やり中東の金貨に結びつけたのでした。金貨に描かれていたのはイランのパーラヴィー国王でした。今回は、パーラヴィー国王つながりで、世界最大級の切手を紹介いたしましょう。1979年の革命までの1970年代は彼の全盛期でした。この切手の大きさにもそれが伺われるのではないでしょうか。子供時代に切手収集に夢中になっていた私が買ったのは言うまでもありません。沢山買いました。そして、日本の色々な人に書いた手紙に貼り付けました。当時の通信手段は手紙だったのです。

会社の事務的な通信はテレックスでした。電話回線を通じて文章を印字するタイプライターのような機器がありました。国際電話(国際通信)料が時間で加算されるので、事前に原稿をタイプしてテープに穴をあけて(さん孔というのかな)、電話回線が通じたらそれを一気に流すというものでした。緊急の場合は国際電話ですね。プライベートな場合の通信となると、国際電話はやはり高くつくので、もっぱら手紙になるわけです。今のようにメールがあれば随分違ったでしょうね。また、孫の様子を日本の祖父母たちに見せることは今ではラインやスカイプで世界中どこでも簡単ですが、70年代はそんなものはありません。我々は8mmフィルムで撮影して、フィルムを送ったのでした。親たちはそのフィルムを現像して映写機で映して見たわけです。今考えると隔世の感がしますが、その当時は最先端だったのです。

この国王の切手は1枚だけ記念にとってあります。これを貼って家族に送った手紙もとってあります。次の画像がそうです。封筒の幅いっぱいに貼った切手の大きさがお判りでしょう。私も若かったころの思い出の一枚です。

想い出の中東・イスラム世界:労働許可証

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前々回に手書きの預金通帳をアップした時に、昔の労働許可証や居住許可証と一緒に机の中から出てきたと書いていたので、今回もまた想い出深い労働許可証を紹介してみることにする。次の画像は第一頁で顔写真のほかにパスポート番号や職業(コンサルティングエンジニア)、企業名、居住場所などが手書きされている。何事も手書きの時代であった。

次の頁(右側)には最初の労働許可期間が記されている。1971年12月27日~1972年6月26日である。私がイランに入国したのが11月初めであったから、1カ月以上を経た時点でこの期間の労働許可が下りたということだ。先ずは6カ月間の労働が認められた。そして、左の頁では6カ月後にまた、次の6カ月間が認められている。入国した時にはビザは不要であったが、3カ月の滞在しか認められていなかった。そして、長期に滞在するにはこのような許可が必要であった。認められなければ、例えばクウェートのような近くの国に一度出国して、再入国することにより、滞在期間を延ばす日本人が多かった。

次の画像の右側の頁が、その次の6カ月間である。そして、左の頁が1973年6月26日~1974年6月25日とあるように、やっと1年間の期間が認められた。1973年といえば、第一次石油危機の時、第四次中東戦争の時であった。日本では石油が高騰し、トイレットペーパーがなくなると長蛇の列ができた時代である。イランでは余りある石油のおかげで夜中の町も明かりが煌々と点いていた。

次の2頁の画像も1年ずつの期間が認められた。こうしてここまでで、4年半の滞在となった。最初の入国が25歳の少し前だったが、この時1976年6月には28歳になっていた。

そして次は右側が1976年~1977年で、左側が1977年6月~1978年6月である。この許可証の最後の頁である。私の年齢は31になっていた。もうどっぷりイランに漬かっていた。このままではイランのことしか知らないイランバカになることを恐れた。そこでしばらくは日本国内の勤務を申し出たところ受け入れられたのだった。1978年前半という時代は、1979年1月の革命の半年前の時代である。もうすでに各地で騒動が起きていた時代であった。でも、まだ我々外国人のところには正確な情報が届いていなかった。私が帰国したあとから、反国王、反政府運動が激しくなって、残された同僚たちは帰国するにもままならないという大変な困難に巻き込まれたのだった。私は家財道具を全て船便で出すこともできた最後の日本人だったろう。

革命が成就し、その後は出張という形で何度もイランを訪れた。革命後のイランは変わった。80年代に入るとイラクとの戦争も始まった。81年当時に訪問したときは、戦死者を弔う様子があちこちで見られた。この労働許可証の裏には私のイランにおける歴史が刻まれているのである。

想い出の中東・イスラム世界:手書きの預金通帳

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机の中を整理していたら、昔のパスポートやイランの労働許可証、居住許可証などとともに、銀行の預金通帳がでてきました。1970年代のものです。最初に8500リアル預け入れて、何回か引き出して最後に9000リアル引き出して残高が1000リアルになっています。そのころのリアルの日本円との換算は1リアル=4円程度でした。ですから、最初の85000リアルは30万円程度になるわけで大金のようですが、実際には8万5千円位の感覚でしかありませんでした。いまリアルは非常に安いので遠い昔話のようです。今日のレートでは1米ドル=42,000リアルと出ていますから、先ほどの通帳の最初の85000リアルは今では2ドルちょっとでしかないわけです。

それともう一つ面白いのは金額の記載が手書きであることです。右端に担当者のサインがありますが、このようなもので良かった時代でした。古き良き時代の想い出です。

新シリーズ「オスマン帝国」:⑨トプカプ宮殿 (Topkapi Sarayi)の想い出

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前回のメフメト2世の治世であった15世紀後半に皇帝の新しい宮殿が建設された。場所はイスタンブールのボスポラス海峡を望む高台である。スルタンの居城、宮廷としての機能だけでなく、御前会議(ディヴァーン)が開かれるなど政治の中心舞台として存在してきたし、様々な事件もここを舞台に起きたところである。この宮殿が現在のトプカプ宮殿である。

私が訪れたのは2000年の12月であった。大学の冬休みを利用してイランへ行く際にトルコエアーを利用してトルコ経由にした時であった。ゼミ生の一人が一緒に行きたいとついてきたので同行させた。下の画像はその時のトプカプ宮殿の入場券だ。入場料が4,000,000トルコリラとなっているように、トルコリラの価値がどんどん低下している時だった。レストランで食事をして支払いの段になって数千万リラなどという時代であった。でもわずか20年ほど前のことにしか過ぎない。

その時に写したトプカプ宮殿の写真を以下にアップしておこう。多分ハーレムの部分だと思う。

これはトプカプ宮殿の敷地内のボスポラス海峡を見下ろせる広場である。宮殿内を一日中歩いて休憩しているときである。前回の記事でアヤソフィアのことが出ていたので、アヤソフィアの印象的なモザイク画も以下にアップしておきたい。

今日のタイトルを「想い出」としたので、若干想い出らしいものを書き加えておこう。トルコは主目的のイランへ行くための経由地であったと先に述べた。このトルコ観光はイラン旅行後である。その際にイスファハンでの宿を我々は1人5ドルの安宿に泊ったのだった。その流れもあってイスタンブールでの最初の宿を1人10ドルの宿にしたのだった。それは失敗だった。イランの宿は安くても湿気がない国であるから不潔感が全然なく快適であったが、トルコのここは違った、黴臭くて湿気臭い。さらに早朝大音響のアザーンの声にたたき起こされたのだった。次の日も止まる予定をキャンセルして新たな宿を探したのであった。泊るところも行き当たりばったりの旅行ができたあの頃が懐かしい年齢になりました。

 

想い出の中東・イスラム世界:シーラーズのおばちゃん達

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久しぶりの投稿です。9月になっても暑い日が続いていましたね。6,7日と超大型の台風10号が九州の西を通過して被害がでました。遠く離れた愛知県でも非常に強い風、そして時々ゲリラ豪雨のように降る大雨に怖い思いをしました。今日8日の午前中は少し過ごしやすいかなと感じていますが、湿度が高いのでクーラーを点けるのは時間の問題でしょう。

さて今日は、冒頭にタイトルを示しましたが「イスラムのおばちゃん達」の動画を紹介いたします。「想い出の中東・イスラム世界」のシリーズです。私が2011年の9月にイランに行った時の様子です。

日本人の多くの人々は、イスラムの女性について、どちらかというと開放的ではなくて閉鎖的、派手ではなくて地味系、社交的ではないなどのイメージを持っている方が多いのではないでしょうか(私の偏見ならごめんなさい)。でも私の知っているイランのイスラム女性に関して言えば決してそうではありません。大学への進学者の女性の比率も50%を超えたというニュースをもう10年以上前に聞いたこともあります(今はどうか、後で調べてみます)。この動画を撮影した2011年の時にイラン国内の航空券を買うためにケルマンシャー市のイランエアに行ったとき窓口には男性も女性もいましたが、私は躊躇することなく女性の窓口に行きました。その彼女はイスラハンやシーラーズ、ラシトなどに行くチケットの空席をテキパキと調べて、スケジュールを組んでくれました。隣の窓口の男性はお客を前にしていても、新しい客が入ってくると、大きな声で挨拶の言葉を交わし(それは良いことかもしれませんが)、それだけでなく世間話を始めたのでした。その窓口のお客はその間放っておかれているわけです。銀行の窓口などはあまり女性を見かけなかったのですが、一番後ろの列の方は女性がいて、全体を監督しているような雰囲気でした。ケルマンシャーでは町で出会ったイラン人が家に招待してくれたのですが、子供や奥さんも我々(3人)の前にきて、一緒に楽しいひと時を与えてくれました。

もっと昔のことを話せば、1970年代のことになりますが、当時の女性は日本というか西洋の女性となんら変わらぬ人たちでした。王政の政策でもありましたが、チャドールは被らない。被ったとしても綺麗な花柄のものでおしゃれに着こなしたりしたものです。ツイッギーのようにミニスカートも流行りました。車を運転して通勤するので、何度か便乗させてもらったこともあります。それらは1979年の革命前のことですから、それ以後一変したわけですが、彼女たちの女性としての本質は世界中同じなのではないでしょうか。勿論、私の会社の同僚の女性(当時お互いに20代でした)は私の知っている日本の女性と変わりはありませんでしたが、敬虔なイスラム教徒で、日に5回のお祈りもしていました。ラマザンの月には断食をしていました。でも、普段は何ら日本人と同じ女性、普通に一緒にレストランなどに行っていました。

前置きが長くなりましたが、想い出の動画を次にアップしておきましょう。シーラーズの町でバザールを回った時のことです。バザールから出たところにちょっとした庭があり、ドリンクや軽食が取れるところがありました。庭の周りは個別の桟敷席のようになっており、その一つで女性たちがワイワイ大声でお喋りしているグループがあったのです。日本から一緒に行った二人の日本人が現地の人との触れ合うためにもと思い、声を掛けました。その時の様子の一部を同行者が撮影したものです。「大阪のおばちゃん」と同じように思いませんか?(結局動画のファイルが大きいので直接ここに載せられなかったので、ユーチューブにリンクしてご覧いただきます。

想い出の中東・イスラム世界:たまには考古学者の気分

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2020年5月11日の夕方です。コロナの感染者増加が若干緩やかになってきたようです。ここ東海地方の愛知、三重、岐阜でも新たな感染者がゼロという日が複数回でるようになりました。また、今日の東京は先ほど午後4時ごろの発表では15人ということでしたので、少しホッとしました。そこで、想いで話をひとつアップしましょう。

上の画像が想い出の品です。1975年頃のことです。私は仕事でイランのラシトという町に駐在していました。妻とゼロ歳の娘も一緒でした。その時の子育ての思い出は、すでにこの思い出のカテゴリーにアップしています。娘を連れて散歩する家の周りには羊がいた画像をアップしています。そのラシトでのことです。

ラシトはイランの北部ギーラーン州の中心です。北部ということはカスピ海沿岸ということです。南の方のペルセポリスなどの古代遺跡とは遠く離れた地域ですが、紀元前に造られた土器などが沢山発見されているアムラッシュという村があるのもこの地域です。そういう知識を少しもっていました。

想い出の品は、古い土器です。休みの日にバザールを歩いたり、町を歩いたりしている時に、家具の店がありました。そのお店のショーウィンドーの片隅にこの土器が置かれていたのでした。アムラッシュのことを知っていたので、きっと古いものなんだろうなと思いました。そして、中に入って「この土器はいくら?」と尋ねたのですが、「それは売り物ではありません」との答えでした。飾りというか、家具との組み合わせでインテリア的に置いているようなことでした。売り物ではないとのことでしたが、「売ってくれませんか?」というと、両手を広げて困ったジェスチャー。そして「どうぞ、持って行ってください。」というので、「おいくらお支払えばいいですか」。「どうぞ、持って行ってください。日本人のあなたは我々のお客さんです。どうぞ(ベファルマイイ)」というのです。私は日本円で2千円相当程を手渡して持ち帰ったのでした。

あれから45年。私はこの土器を大切にしていました。紀元前の古い土器なんだから。日本へも持ち帰ったのでした。決して美しいものではないので、飾ることはしないで、段ボールの箱にいれて納戸の奥にしまっていました。

昨年のことです。この土器のことを思い出して、取り出しました。そして、正確にはこの土器はいつ頃のものなのだろうかと気になり始めたのでした。そこで、写真を撮って、ある美術館に問い合わせをして見たのです。オリエントが専門の美術館で、何度も訪れたことがある美術館ですが、近くではないのでメールで画像を添付したのでした。数日して返事をいただくことができたのでした。

結果の要点は以下の通りでした。
イラン鉄器時代III期~パルティア時代初期くらいの土器だと思われる。実年代では、紀元前7~紀元前3世紀、あるいは紀元前後といったところでしょうか。この時代のギーラーンの土器は在地性がきわめて高く、比較検討が難しく、年代幅も大きくなります。
ギーラーンは北と東に開け、西と南に閉じています。
唯一、セフィードルードだけがイラン高原からの人とモノの移動ルートなのです。この地では、青銅器時代以前の人類の痕跡はほとんどしられていません。
ところが、鉄器時代以降、急速に人口と富が集積し、多数の副葬品を伴う墓が営まれます。
写真の土器もそうした中の一つで、墓の副葬品です。

1950年代末からこの地域の盗掘が盛んとなり、大量の古物が市場に流出しました。
当館で管理する資料の4分の一くらいがこれらに当たります。

ということで、珍しいものではないのですが、少なくとも紀元前の土器であるということが判明したのです。考古学的、また、骨董品や美術品的な価値はないようですが2千年余前の物であることに、気分がワクワクするのです。どんな人が作ったのだろうか、使ったのだろうか? ロマンを感じるではありませんか!

想い出の中東・イスラム:幻のイラン新幹線計画

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東海道新幹線が開業したのは昭和39年(1964年)10月1日であった。東京オリンピック開催の直前だった。私は高校3年生で大学受験前であった。あれからもう55年になるのだ。私が大学を卒業して、社会人になったのが昭和44年(1969年)。そして、2年後の1971年にイラン駐在員となった。その後、現地で2年ほど経過したときだった。パーラヴィー国王時代であったが、イラン政府が日本の新幹線をイランに走らせたいという意向を私たちの会社に伝えてきた。日本の新幹線をイランに走らせるという新たな計画が突然現実化し始めたのであった。

当時の日本はまだ「国鉄」の時代だった。昔のことなので詳しいことは忘れたが、国鉄と直接ではなくJARTSという国鉄の関連組織が窓口となって、プロジェクトの調査計画を始めたと記憶している。イランはテヘランとペルシャ湾の港コラムシャーとを結ぶ既存の「南線」を電化複線化にすることのほかに、テヘランと聖地マシャドを結ぶ既存の路線を新幹線にすることが希望であった。マシャド線はフランスの技術協力で完成したターボトレイン車が快適な列車の旅を提供していた。下の写真のように車内には飛行機のキャビンアテンダントのような若い女性がいて乗客のケアをしていた。しかし、国王は国威発揚的な意味で新幹線を走らせたいという意向であったようだ。従って、このプロジェクトのメインは新幹線計画であった。

とんとんと話が進み、日本国鉄の技術者たちがイランに入ってきた。当時の滝山技師長、呉副技師長他が来イした。副技師長は現地の中心メンバーとして長期に滞在していた。テヘランからマシャド間の調査のためにイラン国鉄は列車を提供してくれた。列車には寝台車と食堂車がついており、調査中の食事はそこで摂ることができた。イラン料理は美味しかった。次の写真はその時のものである。私はずーと同行して、現地の人の聞き取りなどに活躍(笑)した。

数日間かけて路線の周辺を調査しながらマシャドに到着した。マシャドはシーア派イラン国内で重要な聖地である。817年、8代目イマーム・レザーがこの場所で殉教した地である。モンゴルの攻撃を受けたり、ティームールの息子ミーラーン・シャーによって壊滅的な打撃を受けた町である。しかし、16世紀になりサファヴィー朝の時代に復活したのである。

我々の調査はマスタープラン作成後のフィージビリティ・スタディ(可能性調査)を経て、実施設計へとはいり、その設計も完了したのだった。分厚い報告者が日本から持参されて、すぐさまそれは道路大臣にプレゼンされた。そして、計画に係るすべての成果品を引き渡したのであった。

イランに革命(1979年)が起こらなかったなら、80年代に日本の新幹線がイランに走ったはずだった。けれども革命、その後のイラクとの戦争でイランは混乱状態になっていった。前政権(王政時代)のプロジェクトは殆どが否定されてしまった。ペルシャ湾では三井グループが推進していたIJPCプロジェクト(イラン・日本石油化学プロジェクト)が完成前に頓挫してしまった。私たちの会社が手掛けていた他のいくつかのプロジェクトも継続が不可能となっていった。

この新幹線計画がなされていた時、私は結婚直後であった。南線の方の調査に行ったときは、妻を一人テヘランに残すのが偲びないので、一緒に連れていくことが許されるという粋な計らいを会社はしてくれた。途中、イスファハンなどの名所は国鉄のスタッフと一緒に観光するということもできた。それは私たちの新婚旅行でもあった。

また、この時に日本の新幹線を語るときに欠かせない人物「島秀雄」さんにお会いすることができた。当時はすでに十河総裁とともに国鉄を去っており、宇宙開発事業団の初代理事長であったが、イランの新幹線計画ということでアドバイスにお出でいただいたのであった。滞在中にケアさせていただいたわけだが、同じ島という姓同士で色々話が弾んだことを覚えている。その時に戴いた宇宙開発公団のグッズ(ネクタイピン)は今も大事にとってある。その時は、正直言うと、新幹線計画になくてはならない人物という、そんなに偉い人とは知らなかったのである。でも新幹線と島三代の関りのテレビ番組などを見て、今は詳しく知っている。

長々と書いたが、日本の新幹線技術の最初の海外輸出が幻に終わったという苦い思い出である。

(注) マシャドという地名について。日本ではマシュハドと書かれているのが殆どであるが、それでは現地で通じない。現地語ではمشهدであり、m-sh-h-dの4文字である。3音目のhは子音のhであり、haではない。従って発音は「マシャhド」と書くのが一番近いと思う。地球の歩き方を読むとローマ字表記がMashhadとなっているので、カタカナではマシュハドとなっているようだ。余談ではあるが、旅行に行く人のために一言付記しました。

 

キーワード:イラン新幹線、テヘラン、マシャド、

 

 

想い出の中東・イスラム世界:カスピ海沿岸での子育て

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平成から令和へと時代が変わった。新天皇即位のお祝いや十連休という初体験を多くの日本人が満喫したようだ。私事では娘一家の4人が帰ってきてくれたので、近くの行楽地に泊りがけでいくこともできて、二人の孫たちと楽しく過ごすことができた。孫の年齢は7歳と3歳である。孫たちは私の持つスマホを開いては、旅行中に写した写真や動画を見ている。3歳の孫ですら、自由自在に操作している。私たちの子供の時代(孫の親達)には想像もできなかったことである。

私の娘が生まれるころ、我々夫婦はイランのカスピ海沿岸のラシト(Rasht)という町に住んでいた。出産のために妻が帰国して、3ヵ月経った頃に子供とともに再びラシトに戻ってきた。今から40年ほど前のイランの田舎町である。スーパーマーケットがあるわけでもない。鶏の肉を料理したければ、鶏を買ってくるのだった。鶏をバラすことからやるのだった。もちろん、日本人の若い妻にはできないから、メイドさんがすべてやってくれるのであった。現地の料理も時々作ってくれた。その時は我々二人が食べる何倍もの量を大きな鍋で作ってくれた。彼女の家族の分も計算して作るのだ。我々はそんな生活を面白がって楽しんでいた。天井裏に蝙蝠が巣を作って、日が暮れだすとそこから蝙蝠が一斉に飛び出していく姿には驚いた。蝙蝠の赤ちゃんが落ちてくることもあった。そんな時にはメイドさんの旦那が天井裏に入っていって、蝙蝠を追い出して奇麗にしてくれた。楽しい思い出ばかりが浮かんでくる。

さて、生後3か月の赤ちゃんをメイドさんは可愛がってくれた。彼女の名はソラー(Sorah)。昼間は妻と二人で漫才のような会話をしながらの子育てだった。私は仕事から帰った後とか休みの日に子供を連れて散歩にでるのが常だった。イランの人が寄ってきては「ナーゼ、ナーゼ(可愛い、可愛い)」と言ってくれた。そして「ペサル?(男の子?)」と念を押すのだった。実は娘ので「ドクタル アスト(娘だよ)」と言うと、あわてて再び「ナーゼ、ナーゼ」と強調してくれた。確かに男の子のようであったことは確かなのだが。

時々おもちゃなどを日本から届けてもらうこともあった。でも、日本と同じようにはできない。その辺にあるものがなんでも玩具である。ある時はカボチャに目鼻を書いて遊び相手にした。

散歩に連れて行くのは家の周辺である。でも、周りの風景は日本ではない。でも、イランの風景というと砂漠や木のない山であるが、カスピ海沿岸は日本と同じような緑の多い風景である。生活様式も日本と似ている点が多い。働き者の女性が多く、彼女たちはチャドール(身体を隠すベール)を腰に巻き付けて作業する土地柄だ。話がそれたが、家のすぐ裏にいけば羊がいた。子供は羊たちをみて育ったと言えるかもしれない。イランでは犬は飼わない。犬を嫌う。「ペダレ サッグ」という言葉があるが、「くそ野郎」というような意味で相手を罵倒するときに使う。ペダルは父(親父)、サッグは犬である。最近ではペットに買う人もいるとは聞いているが。

夏は日本同様にこの地域は湿気が多い。蒸し暑い。でも乾燥したイランではそれが良いのである。カスピ海沿岸はショマール(北)という風に呼ばれており、イラン全土からリゾートへ来るという感覚なのである。私たちもカスピ海で泳いだ。もちろん赤子の娘も。次の写真がそうである。夏だから娘も8カ月ほどになっている時であろう。

カスピ海で泳いだ日本人の最年少かもしれない。最後は我が家である。平屋のゆったりした(悪く言えばだだっ広い)家であった。噴水の池があり、子供は何度も落ちかけた。これが40年余前である。

2011年にこの町を再訪したときに行ってみたら、そのまま残っていた。周辺はすっかり様変わりしていたが、我が家だけは残っていた(次の写真2枚)。この地はラムサールへ向かうため、早朝6時ごろに訪ねたので、インターフォンを押して住んでる人に会うことは断念したが、懐かしい思い出の場所である。もし、住人に会っていたら「どうぞ、どうぞ。中に入って下さい」となり、おもてなししてくれて出発が大幅に遅れてしまったことであろう。

キーワード:ラシト、Rasht、カスピ海