アラビア書道について

これまで何度かアラビア書道の記事を書きました。いずれも作品展に提出したものをアップして、その内容などを簡単に紹介するものでした。今回は少しまとめてアラビア書道とはどのようなものかと紹介してみようと思います。一人でも興味・関心を持っていただいて、トライしてみようという方がおられたら嬉しいのですが。

アラビア書道とは、日本の書道とは少々異なるのは勿論です。当然ながらアラビア語を書くわけです。アラビア語はアラビア文字を使いますから、アラビア書道はアラビア文字を書くことになります。が、アラビア文字を使用するのはアラビア語だけではありません。ペルシャ語やウルドー語でも使いますので、アラビア書道はアラビア語だけのものではありません。もちろんペルシャ語のアラビア書道はペルシャ書道ということになるのでしょうが、アラビア語で書くアラビア書道の中に、ナスタアリーク書体(ペルシャ書体)という書体もあるのです。

アラビア書道の主な書体
書体の話になりましたので、書体について説明しましょう。日本の書道でも楷書、草書、行書、隷書、篆書などとあるように、アラビア書道にもあります。
上の画像は私たちが最初に習うナスヒー書体のテキストの冒頭にある書体の紹介です。上からナスヒー書体、ルクア書体、ディーワーニー書体、シャリー・ディーワーニー書体、スルス書体、ナスタアリーク書体(ペルシャ書体)、クーフィー書体と順番に習っていくわけです。各書体の説明が右側にあるのですが、小さくて読めないかもしれませんね。アラブ人が手書きで文字を書く時の書体がルクア書体です。コーランやモスクの壁に書かれているのはスルス書体です。ディーワーニー書体はオスマン帝国の政庁で開発されたもので、スルタンが発布する勅書などに使われた書体です。

アラビア書道の道具類
書道ですから、筆と墨と紙があればいいわけです。

筆は普通は細い葦、あるいは竹を使います。基本的には自分で削って作ります。日本では竹の方が入手しやすいので私たちはもっぱら竹を使います。葦の筆も使ったことがありますが、竹の方が耐久性があって使い勝手がいいです。


墨(インク)は日本の書道用の墨汁を使っています。百均ショップので十分です。黒色です。でもアラビア書道の作品集などを見ると黒以外に緑や青なども使われています。私も、たまには青で書くことがありますが、これは粉インクです。ペルシャ雑貨の店で売っているのですが粉を瓶に詰めて売っています。次の画像の上は墨汁の黒色で、下が粉インクの青です。

用紙・紙
竹の固い筆を使うので、紙は少し厚めで表面がツルツルした滑りのいい紙を使います。私たちは教室の先生からアート紙という用紙を分けてもらっています。普通の紙に書く場合は昔は卵白を刷毛で塗って、その上を擦ってすべすべにしたそうです。現代的な方法としては画材店で売っているグロス・ポリマー・メジウムという液体を水で薄めて何回か塗り重ねた後乾かして使うそうです。次に画像を上げましたが、真ん中の白い紙が練習用で、作品展に出すときなど清書するときは両サイドのような周りに装飾が施された用紙などを利用しています。

そこに書いてみると次の画像のようになります。左は先生に書いていただいたお手本です。右がいま練習している途中のものです。もう少し練習しなければなりません。

テキスト・教本
筆と墨と用紙が揃ったら、アラビア書道を開始することができます。私たちは先生から日本語のテキストを入手することができますので不自由はありません。今私が使っているテキストの一部をちょっと覗いて見てください。
1枚目の画像の左側はペルシャ雑貨店で入手した現地の教本です。

ついでに現地のテキストの中もお見せしておきましょう。

教室など
さて、アラビア書道をやってみたいと思われませんか?そうした場合にはアラビア書道協会の教室を訪ねてみてください。検索すれば、ホームページがすぐにでてきます。東京周辺は勿論、名古屋、大阪、京都、神戸、大阪にも教室がありますので、ホームページで確認してください。

2021年アラビア書道作品展の準備

コロナ禍の中で昨年来アラビア書道の教室(名古屋)も休講が多く、先生の指導を受ける機会も非常に少なくなっています。そんな中でも、昨年も川崎市において作品展が開催されて全国から数多くの作品が寄せられました。私の作品もここに掲載したのでありますが、今年も9月に開催が予定されています。今年は川崎のほかに久しぶりに京都でも開催予定です。次回教室が開かれるのは6月30日ですが、緊急事態宣言のために今年になってからは殆ど開かれていません。30日は非常事態宣言が解除されていれば久しぶりに出席することになります。

そんなわけで、今年の作品をどうするかということです。もうそれほど時間があるわけではありません。そこで私は今年もオマル・ハイヤームのルバイヤートの中の一つの四行詩を選びました。そして、お手本をメールで先生に依頼しました。それが5月の下旬でしたので、このところそれを練習しております。まだまだハードルが高いのですが、挑戦です。先生から頂いたお手本が次の画像です。

アラビア書道の世界では世界のトップであられる本田先生が書いて下さったものです。先生の作品は大英博物館にも常設の部屋があって展示されているほどの有名な先生です。恐れ多いとは思いながら、練習に励んでいます。9月初めには完成させて、皆様に披露できるように頑張ります。

さて、詩の内容ですが。次の通りです。私の訳です。

ああ、青春の書(ふみ)は閉じ、

人生の春も過ぎ去ってしまった。

青春という名の歓喜の鳥は、

いつ来て、いつ飛び去ったのだろう? 

英語訳でもっとも有名なFitsGeraldは次のように訳しています。
Alas, that Spring should vanish with the Rose!
That Youth’s sweet-scented Manuscript should close!
The Nightingale that in the Branches sang,
Ah, whence, and whither flown again, who knows!

彼の英訳は元の詩の気持ちを訳していると定評があるのですが、英語のニュアンスまで理解できない私にはよく分かりません。というか、この訳はそれほど元の詩とかけ離れた訳ではありませんが、いったいどの詩を訳したのかと思うようなものもあります(失礼ですが)。

原文のペルシャ語の調べを味わってもらいたいために、ペルシャ語の読み方を次に記しておきました。口ずさんでみてはいかがでしょうか。

افسوس که نامه جوانی طی شد

Afsuus keh naameh-ye javaani tey shod

وآن تازه بهارزندگانی دی شد

Van(va aan) taazeh bahaar-e-zendegaani dey shod

آن مرغ طرب که نام او بود شباب

Aan morgh-e tarab keh naam-e uu bud shabaab

افسوس ندانم که کی آمد کی شد

Afsuus, nadaanam keh kei  oomad key shod

                 

新シリーズ「オスマン帝国」:⑩スルタンのトゥグラ(花押)

この画像は何かおわかりでしょうか。今回のテーマとしたスルタンの「トゥグラ」である。トゥグラというのは日本の花押のようなものである。今でいえば印鑑というか、外国ではサイン、署名に相当するものです。

私がアラビア書道を習っていることは、このブログでも何度かお話ししていますが、このトゥグラはアラビア文字をデザインしているのです。日本の花押と同じようにその人を区別するために他人とは同じではないように作っています。冒頭のものはスルタン・マフムード・ハーンのものです。年表を見ると在位1730~54のスルタンのようです。インターネットでトゥグラの語句で検索すると数多くのスルタンのものが出てきます。無断でここに引用するのは良くないので興味ある方はそちらでご覧いただければと思います。

アラビア書道をやっていると、最終的にはデザインに行きつきます。ナスヒー書体から始め、次にルクア書体を学び、次にディワーニーやスルスなどなどを経てナスタアリークへと続くのです(日本の書道の

楷書から行書、草書などと同じです)が、単にその書体で上手に書くだけでなく、それをどのような形にデザインするかということになるのです。その意味でスルタンのドゥグルはアラビア書道で最後に辿り着くゴールのように自分には感じるのです。

例えば、コーランの開端章の冒頭の語句(そして、全ての章の冒頭にもかかれている)は活字体で書くと以下のようになります。
بسمالله الله الرحمزالرحیم
これをアラビア書道のナスヒー体では次のようになります。二つとも同じ書体ですが、二つ目には伸ばした長い線があるのと左の方に湾曲したラインが描かれています。

そして、先ほどのトゥグラのようにデザインしたものが次の画像です。冒頭のスルタンのトゥグラとそっくりですね。

他にも三つほど次に紹介しておきましょう。いずれも先ほどの語句、通称バスマラと呼ばれるムスリム(イスラム教徒)にとって聖なる言葉です。

引用させていただいた資料は次の『図説・アラビア文字事典』です。ありがとうございました。

 

アラビア書道作品展に出品しました。

7月22日に「アラビア書道でルバイヤート」という記事を書きました。そのときにルバイヤートの中のひとつの四行詩を作品展用に作成するために本田先生に書いていただいたお手本の画像をアップしたのでした。あれから4ヵ月以上が経過しています。私の作品はどうなったのでしょうか?作品展は11月12日から17日まで、京都市国際交流会館にて開かれました。予定通りと言いたいのですが、開催日直前になってやっとできあがりました。まだまだ満足できるものではありませんが、キリがないので不満足ながらも出品しました。また来年に向けて頑張ろうと思います。作品を以下にアップいたします。

用紙はイランで売られているA4サイズの書道用紙がありましたので、普段使っているA3サイズの用紙に拡大コピーしたものを利用しました。一応カラーコピーになります。最初は近所のコンビニにA3サイズの用紙を持参して、拡大コピーをしたのですが、周りの模様が濃い部分と薄い部分ができたり、色が飛んで白い部分ができたりしたのです。そこで、キンコーズに出かけて、コンビニの話もして相談した結果、奇麗な用紙が出来上がったのでした。あとは額縁も必要です、今回が5回目になりますが、いつもは妻が押し花の作品作りを30年位やっていて、額も沢山持っているので、それを借りていました。でも今回は作品展後もそのまま残しておきたいので画材屋さんにいって買ってきました。安いのから高いのまで色々一杯ありました。作品に合うような色や縁取りでそう高くなくて、京都に送るので軽いものをと探したものが画像の額です。作品ができたあと、文字周りの空間が真っ白ではちょっと寂しいので、バステルを削って粉にして指で擦りつけて薄く色付けしました。作品を書くことのほかにこのようなことを色々して、何とか格好がついてきました。そういうことがまた楽しくもありました。来年はもっともっと良いものをと思っています(毎年のことですが(笑))。

キーワード:アラビア書道、ルバイヤート、京都市国際交流会館、

アラビア書道でルバイヤート

アラビア書道をやっていることはまだこのブログには書いてなかったかもしれません。習いだしてからかれこれ5年にはなるでしょう。ナスヒー書体、ルクア書体を終えて、今はナスタアリーク書体(ペルシア書体)を練習しています。そして、今年の作品展の日程が11月に決まりました。まだまだ力不足なのですが、ペルシア書体で四行詩に挑戦しようとおもいます。それで先日、教室の先生に好きな詩のお手本を依頼しました。そして、書いてくださったのが上の写真です。なんと教室の先生ではなくて、本田先生が書いてくださったのでした。

本田先生は日本のアラビア書道界の第一人者というのは勿論ですが、世界のアラビア書道界の第一人者なのです。先生の作品は大英博物館にも所蔵・展示されているのです。マレーシアのイスラムアート美術館でも多数展示されているそうです。インターネットで調べると、素晴らしい先生の作品を見ることができます。もう文字というよりはまさに芸術的な絵画のような宇宙の世界です。頂いたお手本はまさに書道ですが、もったいないのでお手本はコピーを使うことにして、大事に取っておくことにしました。自分でこのように上手に書けることができる日が来るようにせっせと練習しようと思います。

この書について説明しましょう。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの四行詩ルバイヤートの中の一つです。岩波文庫の『ルバイヤート』の表紙には次のように書かれています。「生への懐疑を出発点として、人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを、短い四行詩(ルバイヤート)で歌ったハイヤームは、11世紀ペルシアの詩人である。詩形式の簡潔な美しさとそこに盛られた内容の豊かさは、19世紀以後、フィッツジェラルドの英訳本によって多くの人々に知られ、広く愛読された。日本最初の原典訳」そして、小川亮作の和訳が次の通りです。

  • 今日こそわが青春はめぐってきた!
  • 酒を飲もうよ、それがこの身の幸せだ。
  • たとえ苦くても、君、とがめるな。
  • 苦いのが道理、それが自分の命だ。  

また、ペルシア文学の研究者・岡田恵美子さんは次のように訳している。

  • いざ、青春のめぐりくる日、
  • 酒を飲もう、酒こそわが喜び。
  • その酒が苦くとも、とがめるな、
  • わたしの生命だから苦いのだ。

そして、小生は次のように訳してみました。

  • さあ、いま私は青春の真っただ中、
  • 酒を飲む、それがわが喜び。
  • その酒が苦くても良し、
  • 苦いのは我が人生だから。

キーワード:アラビア書道、四行詩、ルバイヤート、オマル・ハイヤーム、小川亮作、岡田恵美子、

ムハンマドの登場:イスラム誕生

イスラムが誕生したのは7世紀のことである。ユダヤ教やキリスト教に較べると、ずっと新しいのである。7世紀、アラビア半島のメッカで一人の男が神の啓示を受けたということからイスラムは始まった。この男とはムハンマドである。イスラムの創始者といえば、今ではムハンマドというのが定着しているが、以前の日本ではムハンマドのことをマホメットと呼んでいた。それはなせだろうか?アラビア半島はアラビア語の世界である。アラビア語でムハンマドと書いた場合、そのスペルは m h m d と書く。子音ばかりで母音がない。マホメットという呼び方も、そのような母音を記さないことに原因があるのであろう。冒頭の文字は筆者が書いたムハンマドというアラビア文字である。

ムハンマドの生い立ちから始めることにしよう。彼は571年にメッカに生まれた。当時のアラビア半島は部族社会であった。ムハンマドの一家はクライシュ族の支族であるハーシム家に属していた。彼が生まれる前に父は死去しており、6歳のときに母親も他界したため、叔父に養育されたという。この時に叔父の息子アリー(ムハンマドとは従兄弟である)と兄弟のように育ったのであるが、このことを読者には覚えておいてもらいたい。25歳のときに15歳年上の未亡人で女商人のハディージャと結婚し、その後二人の間に二男二女を授かったが、男子二人は成人前に早逝した。

610年ころ(40歳ころ)にメッカ郊外のヒラー山で瞑想に耽るようになり、天使ジブリール(ガブリエル)が現れて神の啓示を受けたとされている。その後何度か啓示を受けた後、妻のハディージャに支えられて、預言者の自覚をもって、イスラムの布教活動を始めた。布教を始めたといっても簡単なものではなかった。ムハンマドは当時のメッカの社会の状態を憂いていたのである。大商人たちが富を独占していること、彼らの利益追求の姿勢、飲酒や賭博の蔓延などなどを批判して、社会の変革を訴えようとしたのだった。全ての人々は平等であると訴えた。彼の布教活動を理解しめしたのは第一に妻のハディージャ、次に従兄弟で兄弟のように育ったアリー、そして友人アブー・バルクたちであった。布教活動が進むにつれてムハンマドには商人たちから圧力がかけられた。抵抗するも多勢に無勢であったろう。ムハンマドはメッカの人々から迫害をうけてメッカを去った。行った先はメディナである。この移動をイスラムでは「ヒジュラ(ヘジラ)」日本語では「聖遷」といって、イスラムの歴史の重要な出来事である。イスラムの人々は我々とは異なる暦を使っている。イスラム暦である。

イスラム暦の紀元はこの事件が起きた西暦622年である。