イラクの歴史

参考文献

第一次世界大戦のところまでの歴史を綴ってきていたが、「第一次世界大戦後の中東:イギリスの三枚舌外交」という記事が昨年の4月であった。それ以来、歴史から少々横道にそれていたようだ。2020年も始まったことだし、この辺で再び歴史に戻ってみることにしようか。

とにもかくにも、オスマン帝国の領土のあとに英仏の委任統治領という形が出来上がった。

  • フランスの委任統治領
  • シリア
  • レバノン
  • イギリスの委任統治領
  • パレスチナ ➡ アラブとユダヤの対立激化
  • トランスヨルダン ➡ トランスヨルダン王国
  • メソポタミア   ➡ イラク王国(1921) ➡ 独立(1932)

イギリス委任統治領メソポタミアを成立させた英国は1921年8月23日に、大戦中のアラブの指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。彼はフサイン・マクマホン書簡のフサインの息子である。クウェートはイラク王国から切り離されたままとなった。その後、イラク王国は1932年に独立を達成した。つまりイラクという国はイギリスの思いのままに造られた国であったということである。その後の歴史を簡単に箇条書き程度で書き記していこう。

1958年7月:クーデター発生。王政に不満を抱く「自由将校団」ガクーデターを起こす。ファイサル二世とアブドゥッラー皇太子が暗殺された。共和政となりカーセム将軍が権力を掌握。

1963年2月:アラブ民族主義者系の将校団がカーセムを殺害して、新政権を樹立。同年11月にクーデターにより、アラブ民族主義者であるアブドゥル・サラーム・アリフが全権掌握し、バース党を排除する。彼が1966年に事故死すると、兄が後継者となったが、1968年7月にバース党がクーデターを起こして政権を転覆させ、バース党の指導者であるアフマド・ハサン・アル・バクルが大統領に就いた。

このバース党政権下で台頭してきたのが、あのサダム・フセインである。1969年に革命指導評議会副議長に就任。実質的なナンバー2となった。

1979年7月、フセインが大統領、革命指導評議会議長に就任。1979年というとイランでは革命が起った年である。また、ソ連のアフガニスタン侵攻の年でもあった。イラクからイラン、アフガニスタンにかけての帯が変動の時代であった。

さて、サダム・フセインが登場したので、時代は今にかなり近づいたわけだ。ところで先ほどからバース党が出てきているので、バース党とはどういう党かインターネットの「世界史の窓」から引用しておこう。

バース党( حزب البعث‎):バース党(バアス党とも表記)は、シリアおよび、イラクなどで活動するアラブ民族主義政党。バースとは「復興」という意味で、正式な政党名はアラブ社会主義復興党といい、「大西洋からペルシア湾に及ぶアラブ語民族完全な統合」を第一目標とし、さらに社会主義経済の建設を目指すというが、社会主義といっても私有財産制は認めるのでマルクス主義ではなく、主たる敵は欧米の資本主義とユダヤ人のシオニズム(及びそれによって成立したイスラエル)であると主張する。
その起源は古く、1947年にシリアのダマスクスで二人の青年によって始められ、レバノン、イラク、ヨルダンに広がり、各国にバース党支部ができあがった。シリアでは1963年に、イラクでは68年にクーデターによって権力を握った。シリアでは1970年からバース党のアサドが大統領として独裁的な権力を握った。イラクでは1979年からサダム=フセイン大統領を出し、独裁権力を握った。<藤村信『中東現代史』岩波新書 1997 および 酒井啓子『イラクとアメリカ』岩波新書 2002>

バース党はシリアにもあるわけであるが、イラクのバース党とシリアのバース党が良好な関係にあるわけではない。フセイン大統領時代のイラクは体制維持のために独裁色を強め、権力の集中に熱心であった。そして対外的にはイランとの戦争を始めた。イランとの国境問題やイランのフーゼスタンの領土的野心を主張したが、宮田律先生は、それは表面的動機であり、根底には大衆動員による国家の掌握、政権維持の狙いがあったと記している(『中東・迷走の百年史』新潮新書)。

イランとの戦争、いわゆるイライラ戦争であったが、イラン革命後のアメリカ大使館人質事件などもあり、アメリカとイランの関係は悪化していた(現在に至っているが)。従って、アメリカはイラクを支援することになる。敵の敵は味方である。イラン・イラク戦争は1980年に始まり、1988年に国連の決議を受け入れて停戦に至ったのであったが、8年間にわたる戦争に両者は疲弊した。余談になるが、1981年当時に私自身もイランに2ヵ月ほど滞在したことがある。テヘランだけでなく地方の町でも戦死者の弔いを数多く目にしたものである。町の大きな道路の交差点はローターリーになっているところが多く、その周辺に戦死者の胸から上位の顔を描いた大きな写真ポスターが貼られていた。

この後、サダム・フセインはクゥートに侵攻に始まる、湾岸戦争を引き起こしていくのであるが、今回は委任統治下のイラクがフセイン大統領の時代に至る経緯を簡単にまとめたところで終わっておこう。それ以後についても改めて詳述することにしよう。また、イラクというとここにもアラビアのロレンスではないが、それに匹敵するガートルード・ベルというイギリス女性がいたこともブログ材料としては放っておけないものなのであるが、それらもまた改めて触れることにしたい。

キーワード:イギリス、フランス、委任統治、イラク、バース党、バアス党、イラン・イラク戦争、クゥエート侵攻、ガートルード・ベル

 

第一次世界大戦とアラビアのロレンス

このブログで紹介しているように、現在月に一回程度で「中東・イスラム学習会」、通称「南山会」を開いています。開催日やテーマは、このブログの「学習会の案内」から見ることができます。8月の例会は31日の土曜日に開催しました。テーマは「第一次世界大戦とアラビアのロレンス」でした。その内容をこのブログ(中東を見る視線)用にちょっと整理して、ここにアップしておきましょう。

第一次大戦は1914年に始まったが、その前からオスマン帝国周辺は不安定な状況が続いていた。オスマン帝国は1877年~78年のロシアとの戦争で大敗しており、ヨーロッパの領土の大半を失っていた。バルカン半島のスラブ系民族もオスマンから独立しようとしていた。そのような動きに対してロシアは汎スラブ主義を唱え、オーストリア、ドイツは汎ゲルマン主義を掲げて支援するような情勢であった。1912年の第一次バルカン戦争では、オスマン帝国に対してセルビア、ギリシア、ブルガリア、モンテネグロが戦った。そして、1913年に起きた第二次バルカン戦争は第一次バルカン戦争の戦後処理に不満を抱いたブルガリアがセルビア、ギリシア、ルーマニア、そしてオスマンと戦ったのである。昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵状態の混沌とした情勢であった。そんな折の1914年6月28日にオーストリア皇太子がサラエボにて、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起こった(サラエボ事件)。これがきっかけとなって第一次大戦が引き起こされた。

簡単にいうと以上の通りであるが、第一次大戦は三国同盟側のドイツ、オーストリアなどと、三国協商のイギリス、フランス、ロシアなどとの戦争となった。そしてオスマン帝国はドイツ側に参加したわけであった。イギリスとフランスは戦争後にオスマン帝国領土を分割して自国の支配下に置こうと画策しており、そのために次のような協定や条約などを結んだ。

  • フセイン・マクマホン協定(1915年):メッカの太守フセイン(フサイン)と英国の駐エジプト高等弁務官マクマホンとの間で複数の書簡が交わされたが、その中で、オスマン帝国とたたかって勝利した後に、アラブ人の国家独立を支持すると約束した。
  • サイクス・ピコ条約(1916年5月16日):英仏の間で取り交わした秘密協定。内容は戦後にオスマン帝国領の中東を英仏で分割支配するものであった。前項のフセインと約束したアラブの国家建設予定地などが英仏の支配下になるというもので、アラブとの約束に反するものであった。
  • バルフォア宣言(1917年11月):イギリスの外務大臣バルフォアがユダヤ人に資金援助を求める対価に戦後処理のなかでユダヤ人の国家建設を支援するというもの。正確には国家とは言ってなくて「ホームランド」という表現であるが、これが現在のパレスチナ問題にまで発展している原因である。

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このような状況の中でロレンスが登場するのである。トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズで生まれた。大学はオックスフォードでジーザス・カレッジに入学し、歴史や考古学を学んだ。1907年と1908年には長期にわたってフランスを旅して中世の城を見て回り、1909年にはレバノンを訪れて十字軍の調査をした。その後もメソポタミアの調査団に加わった。アラビア語にも堪能であったという。ロレンスは歴史学者、考古学者への道を辿っていたようである。

ロレンスは第一次大戦勃発後に陸軍省作戦部第四課(=地図班)で地図を作成する仕事に携わることになる。そして同年1914年12月にはカイロに赴任することになる。1916年10月までがカイロ駐在期であり、その後アラブの反乱に身を投じることになるのである。カイロの陸軍でのロレンスはどちらかというとつまはじきにされていたようである。また、軍がアラブの反乱に積極的に関わろうとする様子でもないことを感じる。そしてまた、サイクス・ピコ条約のことなどを知って、ここは自分の居場所ではないと思い、転任してもらえるように計画した。そして、外務省の直接命令下にある「アラビア局」の所属となったのである。そうしてロレンスはファイサルに会いに行く。ファイサルとはフセイン・マクマホン協定の当事者であるフセインの長男である。ロレンスはファイサルに会う前に弟のアブドゥッラーに会い、ファイサルのところまで案内される。ファイサルとの話し合いのあと、ロレンスが40名ほどのアラブ軍を率いてアカバを攻めることになるのであるが、その辺りの物語が冒頭に画像で示した映画「アラビアのロレンス」のストーリーである。アカバのオスマン軍の拠点は海から接近するであろう敵に対して大砲を海に向けて設置していた。ロレンスは敵の裏をかいて背後から攻めようとしたのである。それには過酷な自然条件のネフド砂漠を横断しなければならなかった。ファイサルたちはそれは無理だと言ったのであるが、ロレンスはアカバを攻略するにはその方法しかないと主張して決行した。映画のストーリーは実際のロレンスの行動をそのまま物語化したものではないが、大筋で合っている。面白い映画であった。私は大学生時代に始めて見たのであるが、その後何度かテレビで放映されたので、その都度みた。そして今はDVD化されたものを持っている。今回の学習会のためにもう一度見直してみた。

アカバを攻略したあと、ロレンスは英雄となる。そして、アラブ軍はヒジャーズ鉄道を破壊してオスマン軍に打撃を与えた。ヒジャーズ鉄道というのはダマスカスから南へ紅海沿いにメッカ迄建設しようとしたものであるが、メディナで終わった約1300kmの鉄道である。その後、アラブ軍はダマスカスに入城して、ダマスカスを陥落させる。

ファイサルは、大戦後の1919年に大シリア国民会議を招集して、大シリア立憲王国を建設しようとした。一方イギリスとフランスはシリアなどを分割支配しようとした。フランスはシリアの北半分を保護下におくことを主張して、武力でファイサルをダマスカスから追い払った。結局フランスは、新たにできた国際連盟から委託されたという形式をとって、シリアの北半分を、レバノンとシリアに分けて統治することになった。イギリスは、シリアの南半分を、ヨルダン渓谷の東(トランス・ヨルダン)とパレスチナに分けて統治し、またイラクも委任統治にした。アラブとの約束を守らずにイギリスはフランスと領土を分割してしまった。アラブ側の不満が収まることはなかった。そこでイギリスは不満を抑えるために、トランス・ヨルダンの国王にアブドゥッラーを、イラクの国王にファイサルを据えることにしたのであった。アラブ地域は結局イラク、シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、パレスチナという五つの地域に分割されて、今現在あるような国境ができたのである。

最後にロレンスが描いていた戦後はどのようなものであったのか。彼はこのように言っている。

  • 今日でいうイラクの領域について「クルド人とアラブ人を分割した政府を設立すべきだ」、またシリアにおいては「アルメニア人をアラブ人と切り離して自主独立させるべき」であると。
  • 「自主独立はアラブ人の手で」
  • 「英国軍兵士は全員撤退させよ」「それまで英国人は単純に『英国流儀の英語で統治する政府』を設立してきたが、その代わりにアラブでは、アラビア語の政権を樹立しアラブ人の義勇兵軍隊を修練して、英国兵士は彼の地から撤退させるべきだ」

ロレンスの主張に耳を傾ける必要があったのではないだろうか。

 

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書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1

書評としたいところだが、それはおこがましい。ちょっとした感想程度を述べるだけだし、「このような本があるよ」というだけなので、書籍紹介とした。これからもそうしようと思う。

画像は岩波文庫の表紙であり、そこにアブー・ヌワースについて書かれているのが読めるだろうか。重複するが読みやすいように以下に書き留めてみる。「アブー・ヌワースは8世紀から9世紀にかけてアッバース朝イスラム帝国の最盛期に活躍し、酒の詩人として知られる。現世の最高の快楽としてこよなく酒を愛した詩人は酒のすべてを詩によみこんだ。その詩は平明で機知と諧謔に富み今もアラブ世界で広く愛誦されている。残された1000余の詩篇から飲酒詩を中心に62編を選訳。」

8世紀の人である。アッバース朝(750~1258年)の人である。アッバース朝といえば、このブログでも紹介した王朝である。バグダードに立派な円形都市を建設し繁栄した王朝である。第5代のカリフ、ハールーン・アッラシードが最盛期を築いたのであった。彼の在位が786~809年であるから、アブー・ヌワースは丁度その時代に生きた人物である。彼が生まれたのはアフワズ(現在はイラン領内)で747年から762年あたりと言われ、757年頃というのが有力な説であるとのこと(本書の解説による)。

早速であるが、先ずは彼の詩を紹介しよう。前述のとおり彼の詩は「酒」が主人公である。イスラム社会において酒は飲んでいいの?という疑問は後回しにしよう。

タイトルは「ユダヤ女」とある。ユダヤ女の処で飲む酒は、楽しさも倍増すると言っている。彼女は瞳がきれいで、月のように美しい。手のひらはしっとりと、ナツメヤシの木の芯のよう。まずはユダヤ女である。ユダヤ女が周囲にいて、酒場にいけばユダヤ女がいて、飲み交わすことのできる世界であったということがわかる。当時はアラブとユダヤ人が仲良くしていた時代であったようだ。アラブ人とは異なる目鼻立ちのユダヤ女を美しいと思い、その美しさは「月のようである」と詠っている。女性の美を月に例えるのがアラブだということもわかった。もっともアブー・ヌワースは純粋なアラブ人ではないようだ。生誕地がアフワズであり、両親はペルシア人であった可能性が高い。イスラム帝国がササン朝ペルシアを滅ぼしたあと、ササン朝の優秀な人材はその後のイスラム支配下の社会でも能力を発揮するように扱われたという。現代人が想像するほど民族や宗教の摩擦は少なかったことが一つの詩からもわかるのである。

アラブ人がユダヤ人と酒場で仲良くしていると書いたが、次の詩はどうだろうか。「ユダヤ人の酒家」という題である。

2節目「主人がイスラム教徒でないことが腰帯で分かったとき、我々はそれを喜び、彼は我々を恐れた」とある。ユダヤ人である彼はイスラム教徒の我々を恐れ、我々は上から目線の態度である。やはり両者の間には壁があるのであるが、客として軽口を叩ける社会のようだ。酒を禁じられているイスラム教徒にとってユダヤ人の店は逃避できる場であったのかも知れない。この詩はまだ続く、そして次の頁の最後の一節を見てほしい。

「礼拝の時が近づくと、急いで酒を注がせ、酔いどれて礼拝をやり過ごすのを君は見る」 

本書の解説によると、アッバース朝の最盛期には文化は爛熟し、生活が奢侈になった。そうなると、道徳の退廃も見られた。イスラムの下では、本来飲酒は禁じられているにもかかわらず、酒は半ば公然と飲まれたという。この詩で見るように礼拝に行かずに済むように酒を飲むということもあったのであろう。礼拝に行くべき時だということはわきまえているのである。でも、酒を食らうことにのって、礼拝に行かない理由付けをしているように感じた。「礼拝など糞くらえだ!酒持ってこい!」という気持ちではなく「礼拝に行こうと思ったのに、俺、酒飲んじゃったよ。」という心境ではないだろうか。

上の詩はどうだろうか。イスラム社会では普段でも酒が禁じられている。断食の月(ラマダン月)になると、なおさら酒はダメでしょう。でもこの詩人は「だが、我々はやってのける、人にはできないことを。」と詠う。「夜から朝まで飲み明かすのだ、大人も子供もみんなして。」「我々は歌うのだ、好きな詩を大声で。」「私に酒を注いでくれ、鶏がろばに見えるまで。」と。酒を飲み明かすのは大人だけではない。子供もみんなとは少々行きすぎだろうが。

この文庫本には62篇の詩が収められている。飲酒の詩をいくつか紹介したが、飲酒詩が38篇と半数以上を占めているのは、彼が酒の詩人と言われるからには当然のことである。が、残りの詩は恋愛詩が10篇、称賛詩2篇、中傷詩が4篇、哀悼詩1、たしなめの詩2、禁欲詩5の合計62篇である。称賛詩のひとつは5代カリフであるハールーン・アッラシードを讃える詩である。アブー・ヌワースとカリフは同時代の人であるが、それだけでなく実際に接点があったのである。その辺のことも興味深いことであるし、飲酒詩以外の詩も、もっと紹介したいので、今回のテーマは、書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1としておこう。

キーワード:アラブ飲酒詩選、アブー・ヌワース、アッバース朝、バグダード、ハールーン・アッラシード、ユダヤ、アラブ、ラマダン、禁酒、

中東世界とは (2)

前回、数多くの少数民族がいると書いた。例えば、イランにはルール、バルチ、トルクメン、クルド、バクチヤーリなどがいる。アラブ人やトルコ人もアルメニア人もいる。でも中心をなすのはイラン人=ペルシア人=アーリア人であって、イランと言えばペルシア文化が基調の国である。

同様にトルコもそうである。中東問題のひとつでもあるクルド問題のクルド人達は少数民族ではない。しかしながら、東ローマ帝国を滅ぼして築いたオスマン帝国の主役はトルコ人であり、そこに築いたのはトルコ文化である。このような意味合いで、私は上の図を描いたのである。中東にはアラブとペルシアとトルコの3つの文化があることを認識してもらいたい。

強調したいのは「中東には数多くの民族、そして彼らの文化があるので一つではない。しかし、中東の文化には3つの中心的な文化がある」ということである。多くの人々はイラク人とイラン人は同じ中東の隣の国で同じような民族・文化であると思っているのではないだろうか。イラクはアラブであり、イランはそうではない。特にイラン人は同一視されることを嫌悪する。それは西洋人が我々をみて「チャイニーズ?」「コーリアン?」と言われたときの感情以上のものがある。シルクロードを通じて中国や日本に洗練された文化を伝えたササン朝ペルシアは初期のイスラム帝国=アラブに滅ぼされたのだった。

 

中東世界とは

本ブログのサブ・タイトルは「中東・イスラム世界への招待」である。中東とはどの地域を指すのだろうか。上の地図はヨーロッパの人々が見慣れている世界地図である。我々日本人が見慣れている地図は日本が中心に描かれているが、この地図で日本は東の端に描かれている。つまり「極東」という言葉はこのような地図を利用している人々の世界観から生まれた概念である。ヨーロッパに近い東方が「近東」と呼ばれ、それは東北アフリカの辺りを指すことになり、「中東」とはその東となる。このブログではトルコ、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、オマーン、イェメン、そしてイスラエルの15ヵ国を中東諸国としておこう。

これらの国々を宗教で分類するとイスラム教が主流でない国家はイスラエルだけである。レバノンは元来キリスト教マロン派が中心勢力を占めていた地域であり、複雑な民族と宗教構造からなるイスラムとキリスト勢力の混合国家としておこう。残りの13ヵ国はすべてイスラムの国である(宗派に違いはあるものの)。

民族で分類するならば、イスラエルはユダヤ民族が建設した国家である。この国家建設がパレスチナ問題を引き起こしたのである。トルコ民族の国家がトルコであり、イラン民族(ペルシア人)の国家がイランである。残りの国々の主要構成民族はアラブ民族である。アラブ民族とはアラビア語を母語とする人々を指し、その人々は中東から北アフリカ一帯の広い世界に居住している。アラブはひとつというアラブ民族主義の質は時代とともに変遷してきた。トルコの公用語はトルコ語であり、イランの公用語はペルシア語である。というもののトルコやイランにはクルド語を話すクルド民族やキリスト教徒のアルメニア人も居住しているし、もっと数多くの少数民族も存在しているので、この国はこれこれであるとステレオスコープ的に決めつけることはできない。

キーワード:中東世界、中東、中東諸国、アラブ民族、トルコ民族、イラン民族、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語

2019年1月ブログ開始です。

中東・イスラム世界について名古屋から発信いたします。サイトの整備しながら進めてまいります。記事の掲載は最初は歴史から入っていきますが、合間合間に時事的な記事や、想いでの体験話などを取り混ぜていこうと思います。遅々たるものかもしれませんが、お付き合いの程を宜しくお願いいたします。