イスラム女性の服装

色々なメディアでアフガニスタンのテレビの女性キャスターが復帰したことを伝えていた。発信元は共同通信だ。中日新聞の6月7日にもその記事がでていた。

タリバン政府の勧善懲悪省が顔を覆わずに出演していたロマ・アディルさんを降板させるよう命令を出し、テレビ局もそれに従ったのであったが、本人の強い意志の下でテレビ局が彼女を復帰させたというのである。イスラム社会における女性の服装は国や地域により差がある。アフガニスタンではスカーフのように頭を隠すだけではなく、顔全体を覆うのが一般的である。今回の彼女の行為に対してアフガニスタンでは勧善懲悪省の命令を支持する声もあるし、彼女の行動を支持する声もある。国際社会では彼女を支持する声の方が多いだろう。タリバン政権が今後彼女に対してどのように手に出るのか国際社会は注目することになるでしょう。

昨年11月にこのブログではコーランの第4章「女性」を取り上げたことがあります。この章はかなり長い章であり、女性が相続する場合のことなどが事細かく書かれていましたね。そして、女性の章というのですが、服装については書かれていませんでした。そこで、イスラム女性の服装については、コーランでは何処の章にどのように書かれているのでしょうか?

答えは第24章第31節です。
「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、その他の美しい所は人見せぬよう。胸には蔽いを被せるよう。」このような記載があります。井筒俊彦先生の訳本からの引用ですが、外部というのはおもてとフリガナを打っています。顔の部分は外部になるので「仕方ない」部分になるのではないでしょうか。となると顔は隠さなくても良いという解釈が成り立ちそうです。問題は次の部分「その他の美しい所」です。女性の顔を美しいと感じる人は多いでしょう。男たちが虜になる美しいものだと言えるかもしれません。そうすると隠しておかなければなりません。でも、その程度の記述なので色々な解釈が国によって異なるのでしょうね。今度改めてイスラム女性の様々な服装について取り上げてみたいと思います。

 

書籍紹介:「アラブの春」の正体 / 欧米とメディアに踊らされた民主化革命

2010年にチュニジアで起きた民衆の行動が、反政府運動へと拡大し、政権が崩壊したのでした。その余波が中東各国に広がり、エジプトの政権も崩壊したのでしたね。反政府運動の波は長期独裁を続けて来た国々の指導者たちを怯えさせたものでした。その一連の流れをマスコミはすぐに「アラブの春」と名付けたのでした。それは、1968年春にチェコスロバキアで起きた民主化の動きを意味した「プラハの春」という言葉を捩ったものでした。このときにはソ連と東欧軍が介入したのですが、結局は民主化が勝利したのです。

マスコミがジャーナリストが「アラブの春」という言葉を連発する状況をみて私は「春などすぐに来るわけはない!」と思っていたので、この言葉を聞くたびにうんざりしたのでした。結果はその通りでした。一部の国では政権が交代したものの、そこに春が来てはいないのです。いまでは、死語となった「アラブの春」です。

そんな死語となった「アラブの春」を題材とした書物を、今日は紹介いたします。書物の紹介というよりは、書物の存在を紹介したいのです。タイトルは冒頭の通りです。2012年、角川書店発行の新書(角川oneテーマ21)で著者は重信メイです。彼女は「はじめに」の中で次のように語っています。「アラブで生まれ育ち、いまは日本に暮らしている私の目からみたアラブの春について書いています」と。そうです、彼女はアラブで生まれ育ったのです。新書の帯には「大手メディアが伝えない革命の真実」と書いています。アラブの春の運動の経緯や事実関係は知っていたのですが、私は彼女の目からはどう見えていたのだろうかと興味を持ったのでした。著者の名前に魅かれたのです。彼女の母親は「重信房子」です。重信房子とパレスチナ人男性との間に生まれたのが著者「重信メイ」なのです。当時読み終えて特に満足感も違和感もない感想でした。知らないことも沢山あったので、そうなんだと受け入れたものでした。一度読んだだけなので、汚れもなく新品同様を維持しています。ただ一カ所だけ最終章の「おわりに」の中でパレスチナ問題について語った部分に鉛筆で線が引いてあります。次の言葉が印象に残ったのでした。
パレスチナとイスラエルの問題は、宗教的な問題ではないということです。イスラム教とユダヤ教の対立ではありません。
イスラエルは確かにユダヤ教徒がつくった国ですが、彼らに土地を奪われたパレスチナ人はイスラム教徒だけではありません。キリスト教徒も無宗教の人たちもいます。そういう人たちがみんなでかつて自分たちやその親が住んでいた土地を取り戻すために、イスラエルの占領政策に抵抗しています。
弾圧、差別、自由がない・・・だから抵抗しているのです。宗教のためではなく、生活のために戦わざるをえない。そのことをまず知ってほしいと思っています。
私がこのあとがきでパレスチア問題を取り上げたのは、この問題とアラブの春は決して無関係ではないからです。
チュニジアやエジプトで人々が訴えたのは、まさに「人間的な問題」です。・・・・・・」
パレスチナ問題を宗教の問題ではないという辺りは全く同感です。私も以前から同じように考えていました。さらに言うならばイスラム同士での紛争ではすぐにスンナ派とシーア派の対立だと決めつけることが多いのですが、対立の真の原因はそんな単純なものではないと考えています。

さて、この本の紹介を今日行った意味にもう皆さんはお気づきですね。重信房子が近く刑期を終えて出所することになるのです。彼女の今については新聞各紙が書き始めているので、そちらをご覧ください。毎日、短歌を詠んで日々を送っているようです。歌集も出版されるようです。これまでの過去を踏まえた歌のようで、いくつかを読みましたが、興味というか、うーんそうなんだという思いが湧いてきました。テルアビブ、ハーグなどなど、様々な思いが浮かんでくるようです。

モスクを知る❺:トルコのモスク

 

今回はトルコ型のモスクとしたいのだが、私も含めて建築やモスクの専門家でない者にとっては、そんなに詳しいことは必要ないだろう。そこで、簡単にトルコのモスクと題したのであるが。

トルコの首都イスタンブールは元々はビザンツ帝国の首都であった。その名はコンスタンチノープルである。コンスタンチヌス帝の名前からきている。このブログの中でもビザンツ帝国がオスマン軍に攻略されて陥落したことは何度か述べたと思う。ビザンツ帝国の都には当時から素晴らしい建築物が存在していた。有名なのがキリスト教正教会の大聖堂(ハギア=ソフィア聖堂)である。これがイスラムのモスクとして転用されているアヤソフィアである。従って、アヤソフィアを見て、トルコのモスクはこうであるというのは間違っているだろう。というものの、それに匹敵するモスクを造ろうとしたのだから、トルコのモスクはこのようでいいということなのだろう。

ビザンツ帝国はオスマン軍に敗れて国は滅亡した。しかしながら、彼らは「国は敗れても、大聖堂を築くことのできる技術や文化をオスマンたちは手にすることはできないだろう」と言ったという。そして、このキリスト教正教会の大聖堂を見て、その技術の高さに驚き、あの大きなドームを自らの手で造りたいと発奮した男がいた。ミマール・シナンであった。

このシナンについて、「世界史の窓」では次のように記している。
シナンは、ギリシア系のキリスト教徒の家に生まれ、若くしてデウシルメによってイェニチェリとなり、スレイマンに従って各地を転戦しながら、架橋や陣地構築技術を身につけ、50歳を過ぎてから、スレイマン1世の悲願であったハギア=ソフィア聖堂を凌駕する規模のモスクの建築に取り組み、1557年に完成させた。そのほか、数多くのモスク建設や水道建設にあたり、オスマン帝国時代の技術水準の高さを示す建築を残している。そして更に次のような引用をしている。(引用)シナンの出自はギリシア系キリスト教徒であったといわれている。1494年から99年頃の間に、小アジアのカイセリの近くで生まれたらしい。当時のトルコでは、ギリシア系住民の子弟から特にすぐれた人材を登用し、イスラム教に改宗させて徴用する制度があった。その中核が、イェニチェリと呼ばれる、スルタン直属のエリート軍団であった。シナンはそのイェニチェリの中で、技術将校として才能を発揮し、スレイマン1世に認められ、宮廷の主任建築官にまでなった。百歳という長い寿命のなかで、81の大規模なモスク、50の小規模なモスク、55の学校、19の墳墓、32の宮殿、22の公衆浴場などを建てたといわれている。首都におけるシナンの代表作といえるモスクが、シュレイマニエ・ジャミイ(一般にスレイマン=モスク)である。1550年に着工、1557年に完成した。<浅野和生『イスタンブールの大聖堂』2003 中公新書 p.198>

彼自身がかつてはキリスト教徒であったこと。オスマン帝国には異教徒であるキリスト教徒を徴用して育てる制度があったことなども興味深いことである。イスタンブールに行けば彼の手掛けたモスクにも出会うことができるのである。また、少し離れるがエディルネという街にも彼が建てた有名なモスクがある。シナンがモスクを建てようとした土地はチューリップ畑であった。地主は土地を手放そうとはしないので、シナンは足繁く通った。結局、モスクにチューリップを残すことで話がついたのであった。このモスクの建物の中の一本の柱にチューリップが逆さに彫り込まれているという。一度訪れてみたいモスクである。モスクを訪れた人々がチューリップを触って、その物語を回想するのだそうで、チューリップはすり減ってしまった。今はガラスのカバーがつけられているそうだ。シナンの一生を描いているのが、夢枕獏さんの『ミマール・スィナン』である。文庫本2冊の大作であるが、面白いのであっという間に読めてしまう。

最後に神谷先生のサイトでのトルコ型モスクについての部分を一部だけ引用させていただこう。
・・・・・・一方、外部はというと、通常 広い敷地の中央に 整然としたプランで建つので、ペルシアよりは はるかに外観がある。しかし ドーム屋根は 近くで見ると 上部が蹴られて、実際の高さほどに 偉大には見えないし、常に黒っぽい鉛板で葺かれた姿は ややグルーミーでさえある。外観を誇示しようとはしなかった と言えるし、しかも どのモスクもよく似た外観をしているので、いささか退屈な感も なしとしない。あくまでも 内部空間の探求が主目的なのであって、外部の形は その結果にすぎなかったのだろう。
オスマン帝国は トルコばかりでなく エジプトから東欧まで支配したので、グレーのドーム屋根と鉛筆型のミナレットがセットになった トルコ型モスクを、津々浦々に建てた。その最高傑作が、トルコ史上最大の建築家(ミマル)シナンが設計した イスタンブルのスレイマニエ(スレイマン1世のモスク)と、エディルネの セリミエ(セリム2世のモスク)である。

トルコの素晴らしいモスクの写真はネットを見ればたくさん出て来るので、是非ともご覧いただきたい。

モスクを知る❹:ペルシア型のモスク

前回モスクにはアラブ型、ペルシア型などがあることを知ったので、その辺りについて考えてみよう。先ず、イスラムが生まれたのはアラブ社会の中である。そこで生まれた礼拝の場であるモスクは当然アラブ型といえるだろう。いま、ペルシア型のモスクというと何が違うのであろう。ペルシアはアラブとは異なる文化圏である。イスラムが7世紀に誕生して、イスラム世界を拡大し始めた時、北西にはビザンツ帝国が、北にはササン朝(226年 – 651年)という二つの帝国が存在していた。そのササン朝は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に敗れ、その後滅亡したのである。こうした歴史を経てペルシアはイスラム化していったのである。そこで造られたモスクがアラブ型のものとは異なっていても不思議ではない。ササン朝ペルシアといえば、シルクロードを経て中国へ、そして奈良へと洗練された文化を伝えた国である。その後のモスク建築にも独特の様式が取り入れられているのであろう。

先日紹介した神谷武夫氏のサイトでは次のような説明がある。
モスク建築の歴史に 画期的な変化をもたらしたのは、ペルシア(現在のイラン)が、ササン朝の遺産である「イーワーン」を モスクに もちこんだことである。初めはごく控えめに、中庭に面する礼拝室のアーケードの中央スパンを 他よりも幅広くし、アーチの高さも高くして、ミフラーブに向かう中央身廊を強調したのだった。この場所に イーワーンを設置すると、中庭が一気に活気づく。ササン朝宮殿のイーワーンは玉座や謁見室としての機能をもっていたのだが、この場合には そうした機能は不要なので、モスクを造形的に美化しようという意図のほうが強かった。

フィールーザーバードの アルダシール宮殿遺跡(イーワーンの元)


こうして中心軸が強調されると、中庭において このイーワーンと向き合う面にも その対応物が欲しくなる。そこで ここにもイーワーンを設けて向かいあわせると「ダブル・イーワーン型」のモスクとなる。列柱ホールが中庭を囲んでいただけの単調なモスク型は、こうして大いにメリハリのある建築となった。さらに、中庭を囲む他の2辺の中央にもイーワーンを設置すると、4基のイーワーンが 縦・横の中心軸上に向かいあう「四イーワーン型」のモスクとなって、飛躍的に造形効果が増大する。

ザワレの金曜モスク

 四イーワーン型の 最初の作例といわれるのは、12世紀の ザワレの金曜モスクである。地方都市なので 規模は小さく、中庭は約 16m角の正方形である。そこに 各辺の長さの 1/3ほどの幅をもつ イーワーンが 向かいあうのだから、アラブ型モスクとは まったく異なった中庭空間となった。4基のイーワーンに囲まれた中庭の求心性は強烈で、奥の礼拝室自体よりも シンボリックな空間となる。イスファハーンの金曜モスクでは、アッバース朝時代の 古典的な列柱ホール・モスクが、12世紀に 四イーワーン型モスクへと 劇的に変えられた。イーワーンのアーチの内側は 半ドームや半円筒形ヴォールトの天井とされ、しばしば華麗な ムカルナス装飾 がほどこされた。アラブ人よりも、見た目の美しさを重視する ペルシア人の 感性の発露だったと言える。

さて アラブ型からペルシア型への 変化部分は 、他にもあった。まず 屋根の不燃化である。アラブ型では シリア・ビザンティンの伝統に従って 木造の陸屋根が基本であったが、ペルシアでは 木材の欠如から、すべてをレンガ積みでつくろうとする。柱から柱へは すべてアーチを架け渡し、4つのアーチで囲まれた区画ごとに 小ドーム天井を架けたのである。それと同時に、ミフラーブの手前は 柱を取り除いて広い正方形の空間をつくり、ここに 大きなドーム屋根をかけた。この 天井の高い場所が主空間となり、均質的なアラブ型とはちがう、メリハリのある礼拝室となったのである。

以上で大体の違いがお分かりであろう。ペルシア型の最大の特長はイーワーンである。四角い壁のような入り口がアーチになっている面である。このイーワーンが四角い中庭を囲む対面の2カ所、あるいは4面に設けられているわけである。有名なイスファハンの「王のモスク(現在のイマーム・モスク)の図面は以下の通りである。

王の広場から入っていくと図の中庭にでるのであるが、中庭を囲む四面がイワーンであることがわかるであろう。王の広場から入っていくときに通る最初の門もイーワーンである。次の写真はそれを私が写したものである。

ドームと尖塔という取り合わせのアラブ型に対してペルシア型はイーワーンとタイルが特徴と言えるかもしれない。ペルシア型にも尖塔はある。前にも述べたことがあるが地方の素朴なモスクが好きである。私が写したそんなモスクのイーワーンも紹介しておこう。

モスクを知る❸:モスクの分類

前回、モスクの形というタイトルで書いたのであった。が、それは基本的なことだけであった。もっと総合的に言及しなければモスクを知ることにはならないだろうと思う。というのはモスクと言っても地域によってかなり違ったものがあるからである。それらをどうまとめればいいのだろうか。モスクを分類するとどうなるのだろうか?インターネットで「モスクの分類」と検索すると神谷武夫氏のサイトに出会った(http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/1_primer/types/types.htm)。
神谷さんは建築家である。世界各地を旅して、インドやイスラム、ロマネスクの建築文化を研究している方である。
彼によれば、モスク建築の分類法としては ① 材料別 ② 機能別 ③ 構成別 という方法が考えられるとしている。

①材料による分類:
やはり建築家らしいと思った。私はアラブの一般的なモスクとイランのモスクは正面から見た形が異なると思っていたので、分類となるとまずは外観だろうと考えていたのである。しかし、建築家は建築に使用する資材から分類している。地域によって、利用できる資材が異なるであろう。従って、モスクを建築するについても、現地で容易に手に入るものを利用するのだと。もっともな話だ。
の分類によれば『「土のモスク」、「レンガのモスク」、「木のモスク」、「石のモスク」に大別される。現代では 鉄筋コンクリートのモスク、鉄とガラスのモスク、空気膜構造の 布のモスク、さらには プラスチックのモスクさえも考えられるが、ここでは伝統的な材料のみを考えることにする。』とある。イスラム建築、イスラムのモスクというと第一にレンガ造りをイメージする。そして、雨の降らない地域では泥を固めた土壁など、土を利用するのもある。私自身は木のモスクをイメージしたことはないが、山岳地方で木材が採れる地域ではモスクも木で造られるのである。そのような説明とともに、それぞれのモスクの画像も紹介されている。是非とも上述した神谷氏のサイトにアクセスして読んでもらいたい。

②機能別:第2の「機能別」というのは、そこで行われる礼拝が 個人用なのか、集団礼拝用なのか、葬祭用なのか、年に2度の大祭用なのか といった、規模と目的による種類分けである。このように記されているのだが、私には少しピンと来ない。集団礼拝が行われる大きなモスクと、そうではない比較的小さなモスク程度にしておきたい。あちこちに「金曜日のモスク」と呼ばれるものがあるが、それらは前者になるのだろう。

③構成別:この項は、神谷氏のブログの説明をそのままお借りしてここに張り付けておく。第3の「構成別」というのは、プランおよび空間構成による「型」の分類である。単室型と中庭型の違いは すでに見たので、歴史上で広く行われたモスク形式の 典型を求めると、「アラブ型」、「ペルシア型」、「トルコ型」、「インド型」の4つがある。最初のアラブ型は、アラビア語と同じように イスラーム圏全体で行われた建築形式であり、モスクの基本形となった。
モスクの代表的な 4つのタイプ
 アッバース朝が弱体化すると、各地が政治的に独立するとともに イスラーム以前からの文明を受けついだ独自の建築文化を発展させる。とりわけ 近世(16~17世紀)に イスラーム圏を分割するかのごとくに鼎立した3つの大帝国は、それぞれに 特徴的なモスク形式を確立することになる。すなわち ペルシアのサファヴィー朝、トルコのオスマン朝、インドのムガル朝である。それぞれの帝国は大規模なモスクを各地に建てたし、近隣諸国にも そのスタイルを普及させたので、ペルシア型、トルコ型、インド型のモスクが、アラブ型と並ぶ モスク建築の典型になったのである。以下に、それぞれの特徴を 詳しく見ていくことにしよう。とあるのである。しかしながらその説明を全てここに張り付けることはエチケットに反すると思うので、皆さんが各自、そのサイトにアクセスして勉強してもらうことにしよう。そのうえで、後日、私の目で見たアラブ型とペルシア型の比較でもやることにしようと思う。

モスクを知る❷:モスクの形

イスファハンで写したモスク

前回に続いて「モスク」です。今回はモスクの形?をテーマにしましょう。多くの方はモスクのイメージを抱いていることでしょう。ドームの天井をもった建物があり、周囲にミナレットと呼ばれる尖塔がある。ドームと尖塔、これだけでモスクの画像が十分に浮かんできますね。大和書房発行・山内昌之監修『イスラーム基本練習帳』51頁の図を引用してみましょう。

言うまでもなく図は一例であって、全てのモスクがこのようではない。先ずはミナレットである。高い塔であり、人が登ってここから礼拝の呼びかけ(アザーン)をする場所である。モスクの近くの宿に泊まると、早朝にアザーンの大きな声に目が覚めることも多い。今では塔の上にスピーカーを備え付けて、大音量で流すところが多い。でも地方の田舎の風景のなかで遠くから聞こえるアザーンは何とも言えぬ心地いい気持ちになる。

図は次にミーダーア(清めの水場)を紹介している。形は様々である。小学校の水飲み場のように蛇口が複数個並んでいるものもあれば、大きな池があったりもする。祈りの前には必ず身を浄めなければならない。

一番重要なのが図の下の方の「ミフラーブ」である。イスラム教徒のお祈りは、モスク以外の外でも、あるいは世界中どこにいてもメッカの方角を向いて行わなければならない。その方角を「キブラ」という。ミフラーブはモスクの建物のなかのメッカの方角にあたる部分の壁にくぼみを造って、装飾している。その隣に「ミンバル(説教壇)」がある。人々はミフラーブに向い、その人々に向って導師がミンバルから語り掛けるのである。

日本人が観光ツアーでイスラム世界に行くと、モスクを訪れることもあるだろう。個人で行く場合も美しいモスクは是非とも見てもらいたい。トルコのアヤソフアやブルーモスクのように世界中から観光客が押よせるモスクも、それはそれで素晴らしいものではある。しかしながら、ガイドブックに載っていないような小さなモスクに出会ったなら、そんなモスクにも入って見てほしい。本来の静かな祈りの場である。地元の人々や子供がのんびり遊んでいる風景がある。癒される風景である。次の写真はイスファハンの中で見つけた質素なモスクで写したものである。お気に入りの一枚である。

 

モスクを知る:モスクとは

このブログを始めてから、丸3年が経過しました。最初は中東の歴史から始めました。時の流れに従って、当然、イスラムが誕生して拡大していった歴史なども書きましたね。その後、少々、散漫になり、あれこれ雑多な内容になったような気もします。「石油のこと」「イスラムを知る」「コーランについて」「オスマン帝国について」などは、まだまだ終わってはいません。そんな状態で今、今年は何を中心に書こうかなという思いでして、その結果「モスク」から始めることにしました。自分の知らないことが沢山あるので、調べながらボチボチ書き進めて行きますので、よろしくお願いします。
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❶モスクとは:
簡単に言うと「礼拝所」「礼拝堂」などと和訳されるとおり、イスラム教徒が礼拝を行う場です。日本ではモスクと訳されています。アラビア語ではマスジドです。ペルシア語のイランでは、私の耳にはマスジェッドと聞こえました。トルコ語では?思い、グーグル翻訳をみてみると cami でした。読み方はカミではなくて多分ジャミと言うんでしょう。思い出したのです。東京にあるモスクが東京ジャーミーと呼ばれていることを。それでは日本のモスクという言葉はどこから来たのでしょうか。それは英語です。英語のmosqueをそのままカタカナで使っています。では mosque はどこからかというと、次の通りです。イスラムがスペインに伝わった歴史がありますね。その時にアラビア語の masjid がスペイン語では mezquita メスキータになり、それが英語ではさらに変化して mosque となったのでした。

❷イスラム初期のモスク:
イスラムの創始者であるムハンマドが、ヒジュラ(聖遷)のあと、メディナで家を建てたが、その中庭がイスラム最初のモスクとされているそうです。そこは現在の「預言者のモスク」の場所なのです。
預言者のモスクの無料イラスト素材

イスラムが勢力を拡大していきました。正統カリフ時代のあとにウマイヤ朝 (601-750) が起こりました。ダマスクスでは聖ヨハネ教会の東半分が接収されてモスクになりました。706年にはワリード1世が西半分も買収してモスクが大きくなりました。これがウマイヤ・モスクです。これが現存する最古のモスクと言われているのです。画像をお見せしたいのですが、著作権があるので控えます。

モスクの外壁やアーケードを飾っている建物や樹木などの華麗なモザイクがこのモスクの名を高めているそうです。 

書籍紹介『イスラーム書物の歴史』

2021年も年末です。今年最後の買い物はこの本です。以前から欲しかったのですが、少々高いので躊躇していました。定価5,500円、税込み6,050円です。年末年始をアカデミックに過ごそうと入手しました。

まだ読み始めたばかりですが、イスラムの聖典コーランが今のような書物の形になった過程が詳しく書かれています。神から啓示を受けたムハンマドが読み書きができなかったことはよく知られています。だから、ムハンマド自身が啓示を文字で書きとめることはできなかったわけです。従って彼は神からの啓示を口伝えで周りに伝えていったわけです。伝達の過程で元の形から変化していくことは自明です。ムハンマドの死後、4人の後継者の時代(正統カリフ時代)に様々に誤解釈されつつある啓示内容を正しい形で統一しなければならないという思いに至ったわけです。そして、今あるコーランが完成してきたのです。

私が凄いと思ったのは、完成後にこれまで伝えられていたコーランの形になっていないもの、あるいはコーランのようにまとめられていたものら全てを破棄させたことです。そして、今後はこの完成した版の書物をもって正式なコーランとし、それを基に写本をしてきたのです。最初に完成したのは7部であったと言います。5部という説もあります。それらはメッカ、シリアのシャーム、イエメン、今のバーレーンではなくアラビア半島東部のバーレーン、メディナに送られたとあります。7部ならあと2カ所がどこか不明なので、5部と言う説が生まれたようです。コーランを送るにあたり、朗誦に秀でたものが随行して、行った先で朗誦の仕方まで教授したそうです。

もう1点、コーランが書物化されて、写本が流布していった背景の大きな要因は紙です。エジプトでのパピルスの時代から羊皮紙、鹿の皮などを含めて獣皮紙の時代を経てきました。製紙法がタラス河畔の戦いで唐から伝わったという有名な話があります。それはアッバース朝の時代になります。最初はぼろ布を材料にしたようなこともあったそうで、次第に今のような紙に近づいてきたわけです。

このようなことが詳しく書かれていて読者を引き込んでいくのです。どちらかというと学術的な内容ですが、そちらの専門でなくても興味深く読み応えのある書物です。目次をみるとまだまだ教務深い内容がありそうです。楽しみです。

コーランについて(12):第21章ーーー預言者たち(続き)

前回に続いて第21章です。今回登場する預言者は誰でしょうか。読み進めて行きましょう。

(70)~(75 ) 彼らは彼に悪だくみをしたが、逆に我らが彼らに大損させてやった。そして彼とルート(ロト)を救い出して、万民のために祝福の地ときめたところへ(連れて行って)やったのであった。我らは彼にイスハーク(イサク)を授け、なお、特別のおくりものとしてヤアクーブ(ヤコブ)をも授けた。そして三人とも義しい人間に仕立ててやった。さらに彼らをして、我らの命を奉じて(人々を)導く首領となした上、善行にはげみ、礼拝の務めを果たし、こころよく喜捨を出すことをお告げによって彼らに命じた。彼らもまたよく我らに仕えた。ルートには我ら叡智(預言者としての素質)と知識(預言者に必要な超越的知識)とを授けた。破廉恥な行いにふけっていたあの邑(ソドムを指す)から救い出してやりもした。まことに、あれは罪深い、邪悪な民であった。だが、彼(ロト)だけは、我らが慈悲の中に入れてやった。何しろ本当に義しい人間であったから。

ロトやイサクもヤコブも皆アッラーが創ったのだと。ロトは破廉恥な行為にふけっていたのを救ってやったと言っている。そして、ノアについては「ノアの方舟」と時のことを以下のように述べている。

(76) またヌーフ(ノア)も(同じこと)。これはさらに前のはなしになるが、あれが大声あげて(我ら)を喚んだ時のこと。我らは早速これに応じて、あれと、その一家を大災害から救ってやった。我らの神兆を嘘呼ばわりする者どもにたいして、彼の見方をしてやった。いや、それにしても、あれはまことに邪悪な民であった。だから、一思いに全部溺らせてしまった。

次にはソロモンとダビデにも叡智と知識を与えてやったと述べている。

(78)~ (79) それからダーウード(ダビデ)とスライマーン(ソロモン)も。ある畑に他人の羊が入りこんで来て、夜中に草を喰ってしまった事件を二人が裁いたことがあった(古註によると、その時ダビデはその羊群は畑の持主のものになると判決した。ソロモンは当時11歳だったが、この判決は少し酷に過ぎるとして、羊はその持主に返し、そのかわり、畑の損害の償として、畑がもと通りの状態になるまで乳と毛と仔羊とを畑の持主がもらうこと、という判決を下したと伝えられる。この説話は『聖書』にはない)。彼らの判決には、いつも我ら(アッラー)が立ち会っていた。
だいいち、スライマーンにああいうこと(賢明な判決のしかた)をわからせてやったのも我らであった。だが、どちらにも(ダビデにもソロモンにも)叡智と知識を授けておいた。また、特にダビデにあっては、我ら山々をも頤使してこれに(神の)賛美の歌をうたわせた。それから鳥たちも。これみな我らのしわざであった。・・・・

続いては、アイユーブ(ヨブ)、それからイスマーイールとイドリース、ズー・ル・キフルやザカリーヤ他の者のことに言及している。そして最後の締めくくりは次である。

(108)~(112) 言うがよい、「わしは、ただ、汝らの神は唯一なる神とだけお告げを戴いておる。さ、これでお前たちは帰依したてまつるか」と。それで、もし彼らがうしろ向いて知らぬ顔するなら、こう言ってやるがよい、「わしは、ともかくお前たちみんなに、わけへだてなく神託を伝えたぞ。お前たちに約束されていること(天地の終末と最後の審判)がすぐそこに迫っているか、それともまだずっと先か、そんなことわしは知らぬ。いずれにしてもアッラーは、大声で言われる言葉でも、お前たちがそっと胸にかくしていることでもよく御存知。(本当のことは)わしは知らないが、もしかしたらこれ(無信仰なのに、こうしてなかなか罰を喰わされないでいること)も何かお前たちへの試練で、要するにごく当座だけの楽しみなのかもしれないぞ。」彼(ムハンマドを指す)はこう言った「主よ、真実をもって裁き給え。我らの主はお情け深い御神。お前たち(邪宗教)の言う(悪口)にたいして、ひたすらそのお助けをお願いすべき(唯一の)御神」と。

コーランの文言を読んで、ここに打ち込んでいるわけであるが、そうすると次のように思うことがある。アッラーつまり神がムハンマドに言わしめている部分などは、逆に言えばムハンマドが信仰深くない人々(あるいは異教徒)に対して説得力を強めるために利用しているようにも思えるのである。・・・・・いずれにしても、昔若いときには全然読み続けられなかったコーランを少しは根気よく読むことができるようになったようだ。やはり歳のせいということかもしれない。

コーランについて(11):第21章ーーー預言者たち

久しぶりにコーランです。この章を取り上げた理由は特にありません。コーランを取り出して、パッと開いたところが、この章だったのです。いつものように訳文は岩波文庫・井筒先生のものです。

上の画像はコーランのこの章の冒頭の部分です。昔イランで買ったものです。コーランはご存知のようにアラビア語で書かれています。画像を見ると、コーランの文章の下に小さな文字が書かれているのが見えますね。これはアラビア語のコーランの意味をペルシャ語で書いているのです。イランの言葉はペルシャ語ですので、アラビア語のコーランは読めても意味が分からない人も大勢います。従って、こうしてペルシャ語で意味を併記しているのです。イスラム教徒にとってコーランはアラビア語で唱えるのが鉄則です。イラン人もみんなアラビア語で唱えているのは言うまでもありません。

さて、今回の第21章が預言者たちと題されるのは何故でしょう。この章では、ムーサー(モーセ)、ハールーン、イブラーヒーム、ルート、イスハーク、ヤアクーブ、ヌーフ(ノア)、ダーウード、スライマーン、アイユーブ・・・・・そのほかの預言者たちについて言及されていることから、この名が付いたようです。先ずはイブラーヒームについて言及している辺りを紹介しましょう。

(1) ~(3) 人々がうかうかよそ見しているうちに、総決算の時は刻々と近づいてきた。いくら次々に新しいお諭が下されても、みんなは遊び半分に聞き流すばかり。一向に気がはいらぬ。しかも、不義の徒輩、こちらに聞かせぬつもりのひそひそ話で、「なんだ、これは君たちとおなじただの人間ではないか。立派に目が見えておりながら、君たち、妖術にやられる法はあるまい」などと言っている。

冒頭でいきなり信心深くない人間のことを取り上げて、次のように嘆いている。

(4)~(6) 「神様は天と地のどこで言われていることでもすっかり御存知。まことに早耳で、何から何まで御存知におわします。」と彼(ムハンマド)が言えば、さらに彼らは言い返す。「なあに、愚にもつかない夢ごたまぜ。」「どうせあの男のでっち上げ。」「あの男は詩人だ(当時は、詩人は妖霊に憑りつかれた人と考えられていた)。」「昔の使徒のように、一つお徴(おしるし=奇蹟)でもやって見せたらいいに。」今までも、我ら(アッラー)が滅ぼした邑(まち)はどれもこれも信仰しなかったもの。それでもあくまで信仰しないつもりか。

しばらく後になると、次のように壮大な神の力を力説する。

(31)~(34)  信仰なき者どもには分からないのか、天と地はもと一枚つづきの縫い合わせであったのを、我らがほどいて二つに分けた上、水であらゆる生きものを作りだしてやったということが。これでも信仰しないのか。また我らは大地の揺れをとめるために山塊をどっかと据え、そこに峡谷を縦横にはしらせ道となした。これもみな、なんとかして人々を正道に導こうとてしたこと(天地自然の不思議をみて信仰にはいるようにとしたこと)。さらにまた、我らは大空をもって、がっしりとまった(落ちてこないようにしっかりとめられた)屋根となした。それでも、彼らは、こういう神兆に平気で顔をそむけるのか。彼(アッラー)こそは、夜と昼と太陽と月とを創造し給うたお方。みな大空の中を泳いでいる。

(52)~(59 ) その昔、我らはイブラーヒーム(アブラハム)に正しい行きかたを授けた。あの男のことは我らもはじめからよく知っていた。あれが父親とその一族に向って「そうやって貴方がたが崇めたてまつっているその彫像は、一体なんです」と言った時のこと。「わしらの御先祖様がたの崇めておられたものじゃ」と一同が答える。「それでは、みなさん確かに道を踏み違えておられたのですよ、御先祖様たちも、貴方がた御自身も」と言う。「これ、お前、本気でそんなこと言っているのか。それとも悪ふざけしているのか。」「とんでもない。みなさんの本当の主は、天と地を統べ給うお方、それを初めてお創りになったお方なのです。私はそれの証人の一人です。誓って申します。みなさんが私に背を向けてあちらへ行ってしまったあとで、必ず私があの偶像(でく)どもに一泡ふかせて見せましょう。」とそう言って、彼は(邪神の彫像をことごとく)ばらばらに叩きこわしてしまった。但し、たった一つ、大物だけ残しておいた。これは(あとで)みながこのもののところへやって来るように(わざと)そうしておいたのであった。

アブラハムが人々に偶像崇拝を咎めて、それらを壊したのであった。だけど、一つだけ残したのには理由がある。後日、みんながそこに集まってけしからんと騒ぐだろう。その折に再び説諭するというシナリオのようである。

(63) ~(69 ) 「これ、イブラーヒーム、お前か、我々の神様がたにこんなまねをしたのは」と一同が尋ねた。「いえいえ、ほら、この大物のしわざです。あの連中(こわされた神々を指す)にきいてごらんなさい、もし彼らに口がきけるものなら」と彼が言う。そこせ一同、額を集めて協議となり、「悪いのはこちら側だった(物も言えない偶像を神とあがめたりした我々の方が間違っていた)と言う。(しかし反省したのもつかの間)、たちまちひっくりかえって。「この方々(神々を指す)に口がきけないことはお前(アブラハム)初めから知っていたくせに。」「さ、そこです」と彼が言う。「それでは、みなさん、アッラーをよそにして、毒にも薬にもならないようなものを神と崇めていらっしゃるんですね。いやはy、なんとなさけないことか、アッラーをよそにして、あのようなものを崇めるとは。みなさん、わからないのですか。」「あれ(アブラハム)を火炙りにしてしまえ。どうせやるなら、君たち(俺たち)の神々がたにお味方申せ」とみなが叫んだ。そこで我ら(アッラー)は「これ、火よ、冷たくなれ。イブラーヒームに危害を加えるな」と命じたのであった。

信仰深きない人々を相手にアッラーの凄さをPRするかのように我とイブラーヒームの働きかけがまるでコントを見ているように映像が浮かびます。イスラムで偶像崇拝を禁じ、それを破壊した初期の状態が動画をみているように目に浮かんでくるようです。中々興味深い内容でした。この後、ほかの預言者にも言及するわけですが、今日のところはここまでにしておきましょう。